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春の章 魔法の使えぬ魔法使い
狙われた少女
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結局ソルエルたち三人は、春の週のほとんどすべてを森の中で過ごしていた。
時折襲ってくる下級仮想精獣の相手をしながら、森の中に自分たちも潜伏する日々。やっていること自体は決して難しいことではなかったが、いつ何時中級以上の仮想精獣に見つかり襲われるかわからないという恐怖は依然続いていたため、ずっと気を抜くことはできなかった。
緊張しっぱなしの毎日だったが、それでも時間だけはたっぷりとあった。
その暇なあいだに森から外を観察しては、目にした仮想精獣を書きとめ弱点を調べたり対策を練ったりして、夏以降の下準備を進めることに専念した。
そんなふうに実習初週をなんとかやり過ごして、ようやく春ステージの最終日を迎えていた。
夜になると、三人はランプに似た形状の魔灯照明具を取り囲み、わずかな灯りの中で、就寝前につかの間の談義を楽しんでいた。
あと一時間もすれば日付が変わって、いよいよ夏ステージの到来となる。心なしか気温も少しずつ上昇しているような気がして心が弾んでいた。
春のあいだはスタート地点からほとんど先に進むことができなかったため、事実上夏からがこの野外実習の本格的なスタートなのだと三人は考えていた。
魔灯照明具の火屋の中で妖しく光を放つ魔水晶を見つめながら、ルビが言った。
「長かったけどようやくこの辛い春ともおさらばだな。夏になったら思いっきり魔法ぶっ放してやる。一週間まるまる魔法使わなかったことなんて、徴が現れてから今まで一度もなかったしな。
おまけにずっと潜伏する毎日で、もう窮屈でいい加減死にそうだったぜ。毎日びくびくしながら縮こまって生きてるよりも、多少危険が伴ってもいいから、早く広い場所に行きてーよ。
なあ、今夜は景気づけに、日付変わるまでカウントダウンでもしようぜ」
いつになく子供のように浮かれ騒いでいるルビに、マイスはくすりと笑った。
「はしゃぎすぎだぞ。明日からが大変なのだから、夜更かしせず眠れるうちに寝ておいたほうがいい。――とはいえ、私も夏が待ち遠しくて仕方がないから、とやかく言えた義理ではないがな」
ルビだけでなくマイスもどうやら喜びを隠せないでいるらしく、男二人の心からの笑顔を久方ぶりに見たソルエルは、思わず顔を綻ばせていた。
「二人とも元気になって良かった。ずっと浮かない顔してたから心配だったんだよ」
「すまない。恥ずかしい限りだが、精神的にだいぶ追い詰められていたようだ。自分の心がこんなに弱いものだとは思わなかった。でももう大丈夫。スタートから出鼻をくじかれた春だったが、その分いろいろと気づかされたことも多かった。今後の課題が少し見えただけでも、この春ステージは有益なものだった。終わりが見えて、やっと前向きに考えられるようになったよ」
マイスの言葉にルビはため息をつく。
「マイスはいつでも真面目ちゃんだな。まあでも、今後の課題が見えてきたってのは俺も同じかも。魔法だけ鍛えりゃ良いってわけでもないんだな。もし敵の中に魔力を封じる能力のあるやつがいたら、それこそ今と同じ状況に陥るわけだし。魔法以外にも何か自分の強みを持っとかないとやばいってことはよくわかった」
「そうだな。気候の穏やかな春のうちに少しも動けなかったことは痛いが、それは他の班もみな同じ条件だろうし、明日から気を取り直して進むしかない」
「他の班のやつら、みんなどうしてるかな。俺たちも結局スタート地点から動けずにいるし、他のやつらも同じだって考えれば、偶然出会ったりする可能性は今の時点ではかなり低いのか」
他の班、と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、三人ともやはりE班のトゥーリだった。この一週間のあいだで、唯一鉢合わせた他班の生徒だ。
もはやトゥーリを話題に出すことは三人の中で禁句のような雰囲気になっていたが、避けようとするからこそ逆に頭から離れず、無意識下では三人ともずっと彼のことが気になっていた。
森のどこに行ってももうトゥーリと会うことはなかったので、おそらく彼はこの森を出たのだろう。
春でも魔法が使えていたトゥーリなら、強力な仮想精獣が多くはびこる外に出てもやっていけるのだろうかとも考えたが、しかし、そもそも彼は野外実習二日目でいきなりあんな重傷を負って倒れていたのだ。やはりどう考えても、この広すぎるテラ・フィールドをたった一人で攻略するのは無理があるに違いなかった。
三人の中でも特にトゥーリの話題を出すことを嫌っていたルビだが、いい加減そうすることにも飽きたのか、あえて自分から彼の話題を持ち出していた。
「あのいけすかない転校生、マジでどっかでのたれ死んでるかもな……」
やや後ろめたさを含んだルビの言葉に、ソルエルもマイスもすぐには返す言葉が見つからなかった。
少し考え込んだのちに、マイスがルビに抗弁していた。まるで自身の不安を払拭するかのように。
「応急処置は施したのだから、そのあとは自分で治癒魔法くらい使ってるだろう。治癒魔法も万能ではないから、しばらく無理はできないだろうが。あれだけの重傷を負うような痛い目に遭っているのだから、彼もそこまで無茶はしないだろう。
――だいたい本当に死にそうなら、バングルの非常呼び出しボタンを押せば、先生たちが駆けつけてくれる。私たちが傷だらけの彼に遭遇したあのときだって、彼にはそうする選択肢もあったんだ。本当に死にそうな状況なら、いくら向こう見ずな者でもそうするだろうさ」
「……そっか。俺たちにも手の施しようがないくらいのやばい状態だったら、あいつのバングルのボタンを俺たちが押してやるって選択もあったのか。あのときは気が動転してそんなこと考え付く余裕もなかったけど。ソルエルの魔吸石がなかったら、あいつ早くも留年決定してたかもしれないんだな」
「そうなってもおかしくなかったろうな。何にしても、ソルエルが魔吸石を用意してくれていたおかげで私たちはずいぶん助けられたよ。この礼は夏以降できっちり果たすつもりだ」
「ほんとそうだな。最初は俺たちがソルエルのことを守ってやるつもりでいたのに、蓋を開けたら最初から最後まで春はお前に守られっぱなしだった。その分夏からはマジで任せとけ。実習攻略と並行して、ソルエルの魔法修業も進めないとだしな。お前のこと退学になんて絶対させねーから、一緒にがんばろうな」
マイスとルビから感謝と激励の言葉を受けて、ソルエルは笑って頷いた。
しかし、その笑顔はすぐに陰りを見せて曇ってしまったのだった。
「あの、その魔吸石のことなんだけど……残念なお知らせがあります。護身用に持ってきてた魔吸石が、ついに底をついてしまいました。残すところ、あとは魔力をまだ吸い取らせていない新品があるのみで……」
「新品?」
ルビとマイスがいまいち事情をよく呑み込めないというように、目を瞬かせた。
「そう。もう新品の魔吸石しか残ってないの。その新品は私の実習期間中の火だまりを解消するために持ってきたもの――つまり、魔力をまだ吸い取らせていない空っぽ。
今はまだ春だし、私もみんなと同じように魔力が魔導源力貯蔵装置に吸収されてる。だから新たに護身用の魔吸石を作ることはできない。春ステージが終わるまでのあと一時間弱のあいだに仮想精獣に遭遇したら、正直かなりピンチだってこと」
「そ、そうか。なるほど……」
「ごめんなさい、うかつだった。あんなにたくさん持ってきてたのに。やっぱり一つ一つの威力が弱いから消費もその分早かった。ちゃんと考えて調整しながら使ってたつもりだったんだけど……」
「ああ、んー……。そ、そんな顔すんなって。その計算は大方合ってたと思うぞ。だってあともう少しすれば夏だろ? ってかもう夏になったってことで良くね? むしろここまでよくもたせてくれたよ。あと一時間くらいなんとかなるだろ。仮想精獣だって夜中は疲れて寝てるって。――な、なあ、マイス?」
ルビが若干顔を引きつらせながら助け船を求めてマイスに話を振ると、マイスも慌てつつ必死でルビに話を合わせていた。
「そ、その通りだ、何も心配いらない。それに考えてもみろ。他の班はそもそも、私たちのように魔吸石なんてアドバンテージがない状態で、この一週間を乗り切らなければならなかったはずだ。私たちも最後の最後まで、ソルエルにおんぶに抱っこというわけにはいかないだろう。あと少しのあいだくらい、私たちでなんとかしてみせるから」
マイスが目を泳がせながらも強くそう言い切ったときだった。
背後でかすかにだが、草木が揺れる音がした。
三人は思わず身体をびくつかせる。
「ひいっ」
「な、何だ……何かいるのか?」
マイスが音のした方向に魔灯照明具を掲げた。彼のこめかみから一筋の汗が垂れる。
男二人が、森で見つけたちょっとした武器になりそうな太い木の枝を構えながら、物音のほうを警戒した。それぞれの懐には短剣も忍ばせてある。
草木の中に隠れ潜んでいるかもしれないものの正体を突き止めようと、マイスとルビがじりじりと距離を詰めていく。
すると、再びがさりと草木を揺らす音がしたかと思うと、葉の陰から動物がひょっこり姿を現していた。狐だった。
狐はこちらに見つかるや否や、すぐにその場から逃げ去っていった。野生の狐は他の動物と比べても特に警戒心が強く、罠を仕掛けでもしない限りめったに姿を現すことのない夜行性の動物だ。
「な、なんだ、狐か……」
マイスが安堵の声を漏らしていた。
森には仮想精獣だけでなく、当然ながらもともとこの土地に棲んでいる野生動物もいた。今までで目にしたのは鳥やリス、野兎、ネズミなど人間にとってはほとんど脅威となりえないものばかりだったが、遭遇したときは毎回、仮想精獣ではないかと肝を冷やしたものだった。
この森で狐を見るのは初めてだったが、野兎やネズミが生息しているのだから、それを餌とする狐がいても何らおかしくはない。
マイスが安心しきって元いた場所に戻ろうとしたそのとき、突然ルビが声を張り上げた。
「マイス、ソルエルがいない!」
「え?」
驚いてマイスが辺りを見回した。ルビの言う通り、自分たちの後方に控えていたはずのソルエルの姿はどこにも見当たらなかった。音もなくいつの間にかいなくなってしまったのだ。彼女は何も告げず勝手に単独行動を取るようなタイプでは決してない。
ルビとマイスはすぐに緊急事態だと判断し、夜闇の中で必死に目を凝らしながらソルエルを探した。
気づかないうちに仮想精獣に襲われたのか。しかし、それにしてはやけに静かだった。静かすぎて怖いくらいだ。
夜に紛れて音もなく人に近づき襲うような、知能に長けた狡猾な仮想精獣なのか。
すると、ルビが突然大声で叫んだ。
「灯りが見える、あそこだ!」
マイスが慌てて振り返り、ルビの指さす方向を魔灯照明具で照らすと、一瞬だが、遠くのほうでいくつかの灯りとともに、何かが通り過ぎていくのが見えた。
遠目からで確証は得られなかったが、もしもソルエルが何者かに襲われ連れ去られたのだとしたら、あの灯りがそうなのかもしれない。もはやそれしか手掛かりはなかった。
ソルエルがいなくなってから、まだほんの少ししか時間は経過していない。空を飛んで連れ去りでもしない限り、そう遠くへ行けるはずがないのだ。
「待て!」
二人は全速力で遠くにかすかに見える灯りを追いかけた。灯りは追ってくる二人に気づいたように、逃げる速度が速くなる。やはり仮想精獣なのだろうか。
「なんだ、いったい何が起こっている。くそ、暗くて足元がよく見えないっ……」
「絶対見失うな、マイス! ちくしょう、ソルエル!」
灯りの逃げていく先を必死で追って全速力で森を駆け抜けていくうちに、ついに二人は森の外に出てしまっていた。
暗いながらも晴れ渡った夜空には、月明かりと併せて空を横切るように存在する雲状の光帯のような銀河の灯りがあり、もはや夜陰にすっかり慣れた目には、それだけでも十分周囲の地形やものを見渡すことができた。開けた草地からそう遠くない場所には湖が広がっている。それも大きな湖だ。
月と星明りに照らされた場所に出て初めて、ルビとマイスは自分たちが追っていたものの正体が、複数の人間の男たちだったということに気がついた。
彼らはみな夜の闇に紛れやすい黒い衣服を身にまとっている。もしかしたら、アカデミー関係者ではなく外部の人間なのかもしれない。こんな夜の実習真っただ中のテラ・フィールド内をうろつくような愚かな輩が、アカデミー関係者であるはずがないのだ。
外部の者は到底侵入不可能だとされていた場所だが、こうして入り込んでしまっているところを見ると、必ずしもそうではないということが立証されてしまった。
男たちのうちの一人、中でも一番体格が良く力もありそうな男が、ソルエルをがっしりと腕に抱え込んでいた。
男たちがようやく足を止めたことで、やっとそれを視認することができたのだ。
「ソルエル!」
ルビとマイスの二人が駆け寄ろうとしたそのとき、ソルエルを抱え込んでいた男が、彼女の喉元に短剣を突き付けた。
「動くんじゃねーぞ、ガキども。動けば女の命はない」
「二人とも、ごめんなさい……」
絞り出すような声でソルエルがそう言った。彼女は恐怖に怯えているというよりは、自分が人質になり足手まといとなってしまったことを、これ以上ないくらいに嫌忌しているようだった。
一見したところ、ソルエルに大きな外傷はなさそうだったが、背後からきつく男に抱きすくめられており、一切の身体の自由は制限されているようだった。
時折襲ってくる下級仮想精獣の相手をしながら、森の中に自分たちも潜伏する日々。やっていること自体は決して難しいことではなかったが、いつ何時中級以上の仮想精獣に見つかり襲われるかわからないという恐怖は依然続いていたため、ずっと気を抜くことはできなかった。
緊張しっぱなしの毎日だったが、それでも時間だけはたっぷりとあった。
その暇なあいだに森から外を観察しては、目にした仮想精獣を書きとめ弱点を調べたり対策を練ったりして、夏以降の下準備を進めることに専念した。
そんなふうに実習初週をなんとかやり過ごして、ようやく春ステージの最終日を迎えていた。
夜になると、三人はランプに似た形状の魔灯照明具を取り囲み、わずかな灯りの中で、就寝前につかの間の談義を楽しんでいた。
あと一時間もすれば日付が変わって、いよいよ夏ステージの到来となる。心なしか気温も少しずつ上昇しているような気がして心が弾んでいた。
春のあいだはスタート地点からほとんど先に進むことができなかったため、事実上夏からがこの野外実習の本格的なスタートなのだと三人は考えていた。
魔灯照明具の火屋の中で妖しく光を放つ魔水晶を見つめながら、ルビが言った。
「長かったけどようやくこの辛い春ともおさらばだな。夏になったら思いっきり魔法ぶっ放してやる。一週間まるまる魔法使わなかったことなんて、徴が現れてから今まで一度もなかったしな。
おまけにずっと潜伏する毎日で、もう窮屈でいい加減死にそうだったぜ。毎日びくびくしながら縮こまって生きてるよりも、多少危険が伴ってもいいから、早く広い場所に行きてーよ。
なあ、今夜は景気づけに、日付変わるまでカウントダウンでもしようぜ」
いつになく子供のように浮かれ騒いでいるルビに、マイスはくすりと笑った。
「はしゃぎすぎだぞ。明日からが大変なのだから、夜更かしせず眠れるうちに寝ておいたほうがいい。――とはいえ、私も夏が待ち遠しくて仕方がないから、とやかく言えた義理ではないがな」
ルビだけでなくマイスもどうやら喜びを隠せないでいるらしく、男二人の心からの笑顔を久方ぶりに見たソルエルは、思わず顔を綻ばせていた。
「二人とも元気になって良かった。ずっと浮かない顔してたから心配だったんだよ」
「すまない。恥ずかしい限りだが、精神的にだいぶ追い詰められていたようだ。自分の心がこんなに弱いものだとは思わなかった。でももう大丈夫。スタートから出鼻をくじかれた春だったが、その分いろいろと気づかされたことも多かった。今後の課題が少し見えただけでも、この春ステージは有益なものだった。終わりが見えて、やっと前向きに考えられるようになったよ」
マイスの言葉にルビはため息をつく。
「マイスはいつでも真面目ちゃんだな。まあでも、今後の課題が見えてきたってのは俺も同じかも。魔法だけ鍛えりゃ良いってわけでもないんだな。もし敵の中に魔力を封じる能力のあるやつがいたら、それこそ今と同じ状況に陥るわけだし。魔法以外にも何か自分の強みを持っとかないとやばいってことはよくわかった」
「そうだな。気候の穏やかな春のうちに少しも動けなかったことは痛いが、それは他の班もみな同じ条件だろうし、明日から気を取り直して進むしかない」
「他の班のやつら、みんなどうしてるかな。俺たちも結局スタート地点から動けずにいるし、他のやつらも同じだって考えれば、偶然出会ったりする可能性は今の時点ではかなり低いのか」
他の班、と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、三人ともやはりE班のトゥーリだった。この一週間のあいだで、唯一鉢合わせた他班の生徒だ。
もはやトゥーリを話題に出すことは三人の中で禁句のような雰囲気になっていたが、避けようとするからこそ逆に頭から離れず、無意識下では三人ともずっと彼のことが気になっていた。
森のどこに行ってももうトゥーリと会うことはなかったので、おそらく彼はこの森を出たのだろう。
春でも魔法が使えていたトゥーリなら、強力な仮想精獣が多くはびこる外に出てもやっていけるのだろうかとも考えたが、しかし、そもそも彼は野外実習二日目でいきなりあんな重傷を負って倒れていたのだ。やはりどう考えても、この広すぎるテラ・フィールドをたった一人で攻略するのは無理があるに違いなかった。
三人の中でも特にトゥーリの話題を出すことを嫌っていたルビだが、いい加減そうすることにも飽きたのか、あえて自分から彼の話題を持ち出していた。
「あのいけすかない転校生、マジでどっかでのたれ死んでるかもな……」
やや後ろめたさを含んだルビの言葉に、ソルエルもマイスもすぐには返す言葉が見つからなかった。
少し考え込んだのちに、マイスがルビに抗弁していた。まるで自身の不安を払拭するかのように。
「応急処置は施したのだから、そのあとは自分で治癒魔法くらい使ってるだろう。治癒魔法も万能ではないから、しばらく無理はできないだろうが。あれだけの重傷を負うような痛い目に遭っているのだから、彼もそこまで無茶はしないだろう。
――だいたい本当に死にそうなら、バングルの非常呼び出しボタンを押せば、先生たちが駆けつけてくれる。私たちが傷だらけの彼に遭遇したあのときだって、彼にはそうする選択肢もあったんだ。本当に死にそうな状況なら、いくら向こう見ずな者でもそうするだろうさ」
「……そっか。俺たちにも手の施しようがないくらいのやばい状態だったら、あいつのバングルのボタンを俺たちが押してやるって選択もあったのか。あのときは気が動転してそんなこと考え付く余裕もなかったけど。ソルエルの魔吸石がなかったら、あいつ早くも留年決定してたかもしれないんだな」
「そうなってもおかしくなかったろうな。何にしても、ソルエルが魔吸石を用意してくれていたおかげで私たちはずいぶん助けられたよ。この礼は夏以降できっちり果たすつもりだ」
「ほんとそうだな。最初は俺たちがソルエルのことを守ってやるつもりでいたのに、蓋を開けたら最初から最後まで春はお前に守られっぱなしだった。その分夏からはマジで任せとけ。実習攻略と並行して、ソルエルの魔法修業も進めないとだしな。お前のこと退学になんて絶対させねーから、一緒にがんばろうな」
マイスとルビから感謝と激励の言葉を受けて、ソルエルは笑って頷いた。
しかし、その笑顔はすぐに陰りを見せて曇ってしまったのだった。
「あの、その魔吸石のことなんだけど……残念なお知らせがあります。護身用に持ってきてた魔吸石が、ついに底をついてしまいました。残すところ、あとは魔力をまだ吸い取らせていない新品があるのみで……」
「新品?」
ルビとマイスがいまいち事情をよく呑み込めないというように、目を瞬かせた。
「そう。もう新品の魔吸石しか残ってないの。その新品は私の実習期間中の火だまりを解消するために持ってきたもの――つまり、魔力をまだ吸い取らせていない空っぽ。
今はまだ春だし、私もみんなと同じように魔力が魔導源力貯蔵装置に吸収されてる。だから新たに護身用の魔吸石を作ることはできない。春ステージが終わるまでのあと一時間弱のあいだに仮想精獣に遭遇したら、正直かなりピンチだってこと」
「そ、そうか。なるほど……」
「ごめんなさい、うかつだった。あんなにたくさん持ってきてたのに。やっぱり一つ一つの威力が弱いから消費もその分早かった。ちゃんと考えて調整しながら使ってたつもりだったんだけど……」
「ああ、んー……。そ、そんな顔すんなって。その計算は大方合ってたと思うぞ。だってあともう少しすれば夏だろ? ってかもう夏になったってことで良くね? むしろここまでよくもたせてくれたよ。あと一時間くらいなんとかなるだろ。仮想精獣だって夜中は疲れて寝てるって。――な、なあ、マイス?」
ルビが若干顔を引きつらせながら助け船を求めてマイスに話を振ると、マイスも慌てつつ必死でルビに話を合わせていた。
「そ、その通りだ、何も心配いらない。それに考えてもみろ。他の班はそもそも、私たちのように魔吸石なんてアドバンテージがない状態で、この一週間を乗り切らなければならなかったはずだ。私たちも最後の最後まで、ソルエルにおんぶに抱っこというわけにはいかないだろう。あと少しのあいだくらい、私たちでなんとかしてみせるから」
マイスが目を泳がせながらも強くそう言い切ったときだった。
背後でかすかにだが、草木が揺れる音がした。
三人は思わず身体をびくつかせる。
「ひいっ」
「な、何だ……何かいるのか?」
マイスが音のした方向に魔灯照明具を掲げた。彼のこめかみから一筋の汗が垂れる。
男二人が、森で見つけたちょっとした武器になりそうな太い木の枝を構えながら、物音のほうを警戒した。それぞれの懐には短剣も忍ばせてある。
草木の中に隠れ潜んでいるかもしれないものの正体を突き止めようと、マイスとルビがじりじりと距離を詰めていく。
すると、再びがさりと草木を揺らす音がしたかと思うと、葉の陰から動物がひょっこり姿を現していた。狐だった。
狐はこちらに見つかるや否や、すぐにその場から逃げ去っていった。野生の狐は他の動物と比べても特に警戒心が強く、罠を仕掛けでもしない限りめったに姿を現すことのない夜行性の動物だ。
「な、なんだ、狐か……」
マイスが安堵の声を漏らしていた。
森には仮想精獣だけでなく、当然ながらもともとこの土地に棲んでいる野生動物もいた。今までで目にしたのは鳥やリス、野兎、ネズミなど人間にとってはほとんど脅威となりえないものばかりだったが、遭遇したときは毎回、仮想精獣ではないかと肝を冷やしたものだった。
この森で狐を見るのは初めてだったが、野兎やネズミが生息しているのだから、それを餌とする狐がいても何らおかしくはない。
マイスが安心しきって元いた場所に戻ろうとしたそのとき、突然ルビが声を張り上げた。
「マイス、ソルエルがいない!」
「え?」
驚いてマイスが辺りを見回した。ルビの言う通り、自分たちの後方に控えていたはずのソルエルの姿はどこにも見当たらなかった。音もなくいつの間にかいなくなってしまったのだ。彼女は何も告げず勝手に単独行動を取るようなタイプでは決してない。
ルビとマイスはすぐに緊急事態だと判断し、夜闇の中で必死に目を凝らしながらソルエルを探した。
気づかないうちに仮想精獣に襲われたのか。しかし、それにしてはやけに静かだった。静かすぎて怖いくらいだ。
夜に紛れて音もなく人に近づき襲うような、知能に長けた狡猾な仮想精獣なのか。
すると、ルビが突然大声で叫んだ。
「灯りが見える、あそこだ!」
マイスが慌てて振り返り、ルビの指さす方向を魔灯照明具で照らすと、一瞬だが、遠くのほうでいくつかの灯りとともに、何かが通り過ぎていくのが見えた。
遠目からで確証は得られなかったが、もしもソルエルが何者かに襲われ連れ去られたのだとしたら、あの灯りがそうなのかもしれない。もはやそれしか手掛かりはなかった。
ソルエルがいなくなってから、まだほんの少ししか時間は経過していない。空を飛んで連れ去りでもしない限り、そう遠くへ行けるはずがないのだ。
「待て!」
二人は全速力で遠くにかすかに見える灯りを追いかけた。灯りは追ってくる二人に気づいたように、逃げる速度が速くなる。やはり仮想精獣なのだろうか。
「なんだ、いったい何が起こっている。くそ、暗くて足元がよく見えないっ……」
「絶対見失うな、マイス! ちくしょう、ソルエル!」
灯りの逃げていく先を必死で追って全速力で森を駆け抜けていくうちに、ついに二人は森の外に出てしまっていた。
暗いながらも晴れ渡った夜空には、月明かりと併せて空を横切るように存在する雲状の光帯のような銀河の灯りがあり、もはや夜陰にすっかり慣れた目には、それだけでも十分周囲の地形やものを見渡すことができた。開けた草地からそう遠くない場所には湖が広がっている。それも大きな湖だ。
月と星明りに照らされた場所に出て初めて、ルビとマイスは自分たちが追っていたものの正体が、複数の人間の男たちだったということに気がついた。
彼らはみな夜の闇に紛れやすい黒い衣服を身にまとっている。もしかしたら、アカデミー関係者ではなく外部の人間なのかもしれない。こんな夜の実習真っただ中のテラ・フィールド内をうろつくような愚かな輩が、アカデミー関係者であるはずがないのだ。
外部の者は到底侵入不可能だとされていた場所だが、こうして入り込んでしまっているところを見ると、必ずしもそうではないということが立証されてしまった。
男たちのうちの一人、中でも一番体格が良く力もありそうな男が、ソルエルをがっしりと腕に抱え込んでいた。
男たちがようやく足を止めたことで、やっとそれを視認することができたのだ。
「ソルエル!」
ルビとマイスの二人が駆け寄ろうとしたそのとき、ソルエルを抱え込んでいた男が、彼女の喉元に短剣を突き付けた。
「動くんじゃねーぞ、ガキども。動けば女の命はない」
「二人とも、ごめんなさい……」
絞り出すような声でソルエルがそう言った。彼女は恐怖に怯えているというよりは、自分が人質になり足手まといとなってしまったことを、これ以上ないくらいに嫌忌しているようだった。
一見したところ、ソルエルに大きな外傷はなさそうだったが、背後からきつく男に抱きすくめられており、一切の身体の自由は制限されているようだった。
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