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源義経汗物語

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目次
一、平泉の別れ
ニ、北の大地の決闘
三、黄金の鷲を追って大陸へ
四、狼群との闘い
五、源九郎義経ここにあり
六、万里の長城を突破せよ
七、三人の美女それぞれの戦い
八、西域に九琉の白旗が翻った
九、ロシア・カルカ河の決戦
十、われ故山に帰りたし

 
一、平泉の別れ
九郎は過ぎ去りし日々を回想しながら、川の流れを見つめていた。高館(たかだち)の住まいから眺めおろす平泉盆地は美しい。奥州の京、とよばれる風韻をもっているように思われる。人々の暮らしが豊かなせいであろう。盆地をかこむ、ゆるやかな丘陵地帯は、奥州北部の遠く、深い山岳地帯につらなっている。はるかに望む山々は、いまだ雪に覆われて、冬景色のままである。
奇跡的に命を長らえた逃避行を、九郎義経はぼんやりと思い出しながら、暮れなずむ、青から紫色に変わりゆく空をながめていた。雉のするどい鳴き声が、遠くに聞こえていた。
雪の吉野で、静御前とわかれて北陸道へでた。琵琶湖を船でわたり、北岸の海津に上陸し、愛発山(あらち)、敦賀、武生から比叡山の末寺である加賀の白山神社にたどり着く。大聖寺、金津、片山津をへて、安宅の関所へ。
三月はじめに倶梨伽羅峠をこえる。寺泊から能登の珠洲岬へむかい、佐渡にもわたり、やっとの思いで、念珠関に辿りついた。ここからは、鎌倉の力のおよばない、奥州の地であった。
それは、落魄の心をよせあう男ばかり二十人の集団であった。そして、雪ふかい裏日本の裏街道でもあった。吉野山で涙ながらに別れた静御前は、身重だった。頼朝は彼女を軟禁して、生まれてくる子供が、女子なら許すが、男子なら許さぬと宣言した。
そして、不幸なことに、その子が男の子であったために、取りあげられて、鎌倉の海に投げ込まれてしまった。静御前とその母親は、後に許されて京に戻ったといわれるが、九郎の耳には入っていない。
一ノ谷の戦功を頼朝が与えなかったので、時の最高権力者である後白河法皇は、左衛門少尉と、検非違使大夫慰の二つの位をあたえた。すなわち、皇宮警察の長官と、警視総監の二つを兼ねさせたのである。
そのため、一般には判官とよばれることになった。さらに従五位下に叙せられ、殿上人といわれ、れっきとした宮廷人の仲間に入れられた。壇ノ浦の戦いのあとでは、頼朝から伊予の守として伊予一国をあたえられ、位人身をきわめた。
そんな中で、九郎の女性関係は華麗そのものであった。壇ノ浦の戦勝直後に、八歳の幼帝を亡くしたばかりの建礼門院とまじわり、大納言平時忠の娘わらび姫を手に入れ、頼朝に押しつけられた形の正妻、河越太郎重頼の娘郷(さと)御前をちかくに住まわせ、自身は静御前と本宅である堀川館に住んだ。
それだけではおさまらず、二十五人とも言われる京の女たちに通いちらしたのである。この時代には、現代のような倫理観は皆無であったから、梶原景時らを除いて、一般的にそれを非難する声はなかった。
夢のような日日がすぎて、今、ふたたび平泉の地に舞いもどってきた。三代藤原秀衡(ひでひら)は慈父のような温顔をもって、落魄した身を迎えいれてくれた。
頼朝のやり方は、血をわけた兄とも思えぬほどの冷酷さであった。平家を平定した大功をみとめぬどころか、自らあたえた伊予の国をとりあげ、土佐ノ坊昌俊を団長とする八十数名の暗殺団をおくりこみ、それが失敗すると、平泉に逃げこむまで追いまわした。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦と三回の戦いで、平家を完膚なきまでに叩きのめして、凱旋してからわずか一年もたたないのに、鎌倉政権から敵として追われるおのれが身の不運を、じっとかみしめる毎日であった。
山伏という、この時代に隠然たる組織をもった集団がたすけてくれなければ、頼朝の大捜索網を突破することは、おそらく不可能であったろう。秀衡は山伏の集団に連絡をとり、莫大な恩賞を約束し、九郎一行をまもらせた。
一行が、ようやく奥州の国境まで辿りついたとき、秀衡は嫡男である泰衡(やすひら)に、百五十騎の郎党をつけて出迎えにゆかせた。秀衡は自分の館のすぐ隣、といってよいほど近くにある台地に、広大な屋敷をたてて九郎を歓迎した。
その名のとおり高館は、高い台地になっており、一望のもとに平野を見わたせるため、敵におそわれた場合を考えれば、最高の場所といえる。その上、北上川の支流である衣川が、堀のように崖をあらって流れていた。
秀衡は、十六歳の九郎を迎えてくれたときと、まったくかわらない姿勢で、三十歳になった彼をふたたび慈父のごとき温顔をもって、迎えてくれた。疲れきり、冷えきった羽をこうして休めていられることに感謝して、老父にあまえる幼子の心境で、九郎は日をおくっていた。
身籠っていた静御前は、ぶじに山をおりることが出来ただろうか。女人禁制の山や、寺に阻まれて、連れてくることができなかったことが、身を裂かれるほど辛いことだった。なぜこんな目に、遭わねばならないのだろうか。
梶原景時の讒言があったにせよ、自分の功労は万人がみとめるところで、鎌倉政権の総大将として、厚遇することが当然、と自分では思うのだが、なんの因縁もない追っ手どもに、命をねらわせる頼朝の腹のうちが、どうしても読めなかった。
一方、秀衡はすべてを見通していた。九郎の戦功があまりにも大きすぎるために、鎌倉と対抗して政権をうち立てようとする勢力が、九郎をおしたてる危険を心配するあまりに、頼朝が九郎を葬り去ろうとする心理を読んでいた。
頼朝が「大天狗」、と陰口をたたく後白河法皇が、もっとも危険であり、叔父の新宮十郎行家も、当然九郎をかつごうとするにちがいなかった。政治感覚に疎い九郎は、奸智にたけた彼らに利用されやすいことを、頼朝は見ぬいている。
それらの勢力に平泉が加担したら、鎌倉政権は、ひとたまりもなく潰されてしまうであろう。九郎の大功は、彼を妖怪に仕立て上げてしまう。頼朝という、この賢明な政治家はそれを見ぬいていることを、秀衡は承知しているのである。
しかし、彼はわざとそのことに触れようとせずに、ひたすら九郎の心身の回復を見守りつづけた。鎌倉からは、秀衡のもとに矢の催促がきていた。彼はその都度
「義経殿は、いまだ到着しておりません。到着しだい捕らえて、鎌倉へ差しだします」
と丁寧な返事をしたためていた。
「九郎におおきな屋敷まで建てて、匿っておきながら、まったく食えない爺さんだよ」
と、頼朝は苦笑するだけであった。彼にしてみれば、九郎が秀衡の翼の下に、逃げ込むことだけはさせたくなかった。なにがなんでも平泉の手前で、捕らえるべきであった。
平泉が九郎を擁して戦う気になったら、鎌倉はいったいどうなるのか。奥州十七万騎を九郎にあたえて、鎌倉と対決する気になったら、ひとたまりもあるまい。
九郎はいつも、自分の何倍もの敵をかるがると破ってきた。今、自分が三十万、いや四十万の兵を起こしたとしても、奥州十七万騎に対抗しうるであろうか。鎌倉は、三方を山にかこまれた要害の地ではある。 
しかし、一ノ谷のあの断崖絶壁をも恐れなかった九郎のことである。鎌倉の山々などは、かるがると突破してくるだろう。海は?海はかえっていけない。秀衡の実弟である安東秀栄が、日本海に面した十三湊に、強大な水軍を擁しているときく。
壇ノ浦の海戦に大勝した九郎が、総大将として鎌倉を海から攻めてくることになれば、周囲の水軍は勝ち組にのろうとして、先をあらそって九郎の下へ走るであろう。九郎には陸も海も勝てない。
関東の勇将たちも、九郎を敵にまわして戦うことになったら、戦意が半分以下に削がれるであろう。できることなら逃げたい、と思うはずである。積極的に寝返るものも、数多くでるであろう。
勝てない、と頼朝は絶望するおもいで、考えつづけている。秀衡はたたかう気になれば、当然大量の黄金をもって、朝廷工作をするであろうから、鎌倉が一方的に院宣をもらって、平泉を朝敵にしてしまうことは、おそらく難しいであろう。
後白河法皇の作戦はいつも、どちらか優勢なほうに、院宣をだすことに決まっているからである。秀衡をあまりつつきすぎて、戦わざるをえない羽目に追いこむことは、避けなければならない。
しかし、かといって、このまま放置することもできない。頼朝は定期的に、奥州へ使者を送りつけることだけは、続けることにした。秀衡はすでに高齢である。今までも奥州の独立をまもって、平家ともけっして争わない姿勢をつらぬいてきていたから、鎌倉ともあえて事をかまえようとは、考えなかった。
鎌倉からの使者に対しては、あいもかわらず丁寧な返事をくり返していた。九郎を擁していることは、鎌倉に対する無言の圧力であることを彼はよく承知している。平泉の財力も、威圧の強力な要素の一つである。
黄金を産する二百の金山をもち、なおかつ、実弟の秀栄と組んで大陸貿易をおこない、シベリアでの金山の開発も行っていたから、鎌倉など比較にもならないほどの、財力をもっていた。
仏教の経典を買い入れるために、黄金十万両をはたいた、とか京の大仏殿の修復に、鎌倉が五千両出したのに対して、三万両もの寄進をした、などはその一例にすぎない。
九郎と黄金、という二つの強力な武器をもった秀衡ほど恐ろしい存在は、日本全国に二人といない情勢となっていた。頼朝はいまさらのように、九郎を敵に回してしまった自分のやり方のまずさを後悔していた。
この時期の頼朝は、いても立ってもいられないほどの焦燥感に苛まれていたであろう。一方、九郎は若さの故もあって、心身ともに回復にむかっていた。鎌倉の厳戒の目をかいくぐって、京から河越氏の娘が平泉に送られてきた。
この娘は頼朝の仲人で、一方的に正妻として決められた女であったが、田舎育ちながら美人でおとなしかったので、九郎は気に入っていた。しかも、二歳半の娘お真とともにであった。
この幼い娘には、どれほど心をいやされたか知れなかった。この母子をむかえて、九郎の心身は一気に回復にむかった。今までの不幸をすべて忘れさるほど、しあわせな日々がすぎて、ふたたび九郎に不幸が重なっておとずれた。
妻が三歳のお真をのこして、病死してしまったこと、と秀衡の死である。高齢とはいえ、壮健をほこっていた秀衡も、きゅうな病には勝てなかった。気丈な彼も、ついに死を覚悟せざるを得ない状況になった。
病床にあって、彼は嫡男の泰衡(やすひら)と九郎に遺言をあたえ、泰衡には誓詞をださせた。遺言の要旨は下記のとおりである。
「秀衡が死んだならば、鎌倉からは義経を討て、という命令が下ろう。勲功の賞としては常陸の国をあたえる、というようなことも言おう。決してそのような甘言にのってはならぬ。自分には出羽・奥州さえ過分な領地である。親にまさるところもないお前たちに、これ以上他国をあたえられるはずはない。鎌倉から使者が下ったら、これを斬れ。念珠関・白川関をかため、義経を中心に結束したならば、平泉は安全であろう」
秀衡の没年については、文治四年十二月二十一日という説もあるが、ここでは、鎌倉幕府の公用日記である、『吾妻鏡』の説にしたがって、文治三年十月二十九日の説をとることにする。年齢も判然としない。七十歳くらいか。
秀衡の弔問に、十三湊からはるばるやってきた実弟の安東秀栄(ひでひさ)は、九郎とその側近をよんで話をした。九郎が、鎌倉との戦いに対して消極的であることは、充分に承知している。
「よくご承知とおもわれるが、国衡・泰衡・忠衡をはじめとして、兄弟たちはあまり仲がよくない。秀衡公なきあとは、さらに悪くなるであろう。国衡は長男であり、文武両道に秀でているにもかかわらず、アイヌの娘に生ませた子であるゆえ、世継ぎとなれないことを、子供のころから承知している。
それゆえに、性格が屈折している。泰衡は頭も性格もよいのだが、度胸がすわっていない。忠衡は、文武両道にくわえて性格もよく、秀衡公が一番愛していた子息ではあるが、三男ゆえに世継ぎとすることは、敵わなかった」
秀栄は言う。泰衡は、九郎を守り通すだけの腹がないだろう。それに、国衡は自分の武勇に自信があるから、九郎の下風にたつことを、潔しとはしないだろう。
国衡と泰衡がとことんまで話し合うことになれば、九郎が平泉を去ってくれることが望ましい、という結論に達するかもしれない、というのである。遺言のことも、泰衡の書いた誓詞のことも、充分に承知した秀栄の忠告であった。
九郎はむかし、秀栄の十三湊にある、福島城を訪れたことがあった。大陸との貿易をさかんにやって、平泉とはひんぱんに交通し、兄弟がもちつもたれつ、たがいに大いに栄えていることを知った経験がある。
当時奥州にはニ百ヶ所の金山があったが、平泉の途方もない栄華の元が、すべて奥州の金山からとれたものとは歴史上考えにくい。金の宝庫といわれるシベリアで、採掘していたことも充分考えられる。
当時の平泉には、ペルシャの絨毯も、インドの象牙も、西域のガラス器も、ごくあたりまえのように持ち込まれていたからである。
「九郎殿」
秀栄は九郎や弁慶、伊勢三郎などの顔をながめまわして、語をついだ。要は鎌倉だの、朝廷だの、讒言・讒訴だのと、この国は住みにくい。このせまい日本の中で兄弟喧嘩をしているより、ひろい大陸へ行ってみては、どうだろうかというのである。秀栄は、この当時日本最大の貿易商、といって過言ではない。大陸の情勢を九郎たちに、手にとるようにして話してきかせた。
「金国は、世界一の文明国であるから、いかに九郎殿といえども、これを斬りしたがえることは至難の業である。そこで、まずクルムセ国へ行ってはどうか、とわしは考えるのだが」
クルムセ国とは今のモンゴルである。馬や羊を追って、草原を移動して生活する遊牧民の国である、という。彼らは血縁関係を中心とした集団が分立していて、国家としての統一が未だできていないから、少数の兵をもってでも、彼らを斬りしたがえることは可能であろう、という。
遊牧民を一つに纏めることができれば、大集団となり、一つの国の形をとることができ、ウイグルや西夏をも併合できるかもしれない。そうなれば、最強国の金国でも手に入れる可能性ができてくる。金国はいま爛熟期に入って、一部腐敗し始めているという。      
秀栄は雄大な絵を描いてみせた。この当時、世界地図があったわけではない。文化、種族、習慣、飲食物からなにからなにまで、想像する以外にない時代であった。
「クルムセ国か・・・」
さすがの九郎もうめいた。秀栄が帰ったあと、郎党たちを前にして考え込んでいた。九郎より数才年の多い弁慶は。昔から思慮ぶかかったが、慎重に言葉をえらびながら言った。
「秀栄公が仰せのとおり、泰衡殿には、殿をお守りするだけのお腹は、ないかもしれませぬな」
三郎がそれをうけて語を継いだ。
「それと、国衡殿は武勇の面で、かなり自惚れておられるように、見受けられる」
「三郎、失礼なことを申すな!」
九郎はあわてて制した。
「いや、ここに居られないのでつい・・・、失礼つかまつった。しかし、国衡どのは一対一の戦いなら、おそらく、奥州随一の武将かもしれませぬが、戦いの大局をみて、戦略を立てることが、果たしてできるのかどうか、おそらく、殿のようには参りますまい」
「それに」
亀井六郎がさらに語を継いだ。
「念珠関と白河関をかためて戦え、との秀衡公のご遺言でござるが、殿の御戦法は守ることではなく、先手をとって攻めることに、その最大の強みがあるのでござる。陸と海の両方から鎌倉を攻めて、さらに東海の源氏を寝返らせて、西からも攻めてこそ、鎌倉を破る事ができるもの、と考えまする」
「さすがは亀井殿」
弁慶がうれしそうに身をのりだした。
「泰衡殿は、奥州十七万騎を殿にあずけて、お任せもうす、とは言われないであろう。しかも、国衡殿とわれらが殿とで、船頭が二人になっては、決してうまくは参らぬと存ずる」
「わしは兄者とは戦いたくない」
九郎は、ややうつむき加減につぶやいた。
「われら兄弟の争いに、奥州百万の民を巻き込むことは、許されるべきことではない、と思う。わしがここに居なくなれば、大恩ある藤原家に迷惑をかけずに、済むかもしれない」
一座はシーンとなった。だれも口を開こうとしない時間が、わずか十分ほどであったのに、一時間にも二時間にも感じられた。やがて、九郎が居ずまいを正して一座を見わたした。
「わしは大陸へ渡りたい、と思うが、皆のものの意見を聞きたい」
なにごとにも独断がすきな九郎にしては珍しく、一座のものに意見をもとめた。二十名の郎党はこの瞬間爆発した。
「行こうではないか」
「行くべきだ」
「こんな国に、小さくなって生きていたって、どうなるというのだ」
「われらが大地はクルムセだ」
「大陸へ行こう」
鎌倉方に追われ、追われて、ようやく安住の地にたどりついたものの、もはやここも出なければならない、と考え始めている彼らの鬱積した気分は、一気に爆発した。
秀栄は、この時代に長さ五十メートル、幅十五メートルの大船を建造する力をもっていた。人間三百人、馬三十頭、荷駄二十トンを同時につめる。この船の周囲を大小の軍船でかこみ、大規模な大陸貿易を展開していたのである。九郎のためにこの船を出してくれる、と言う。
「すべては、泰衡殿と相談してからのことだ。それまでは他言無用、よいな!」
一座をしずめて、九郎は念をおした。秀衡の四十九日の法要もすみ、あわただしい正月がすぎてから、九郎は国衡、泰衡、忠衡の三兄弟を前にして、大陸渡航の件をきりだした。 はじめはおどろき、制止しようとした泰衡の表情に、しだいに安堵の色がうかびはじめた。国衡は冷静に話をきいていたが、
「九郎殿、ようご決心なされた。それでこそ、わが国最高の大将であられる。九郎殿なれば、必ずやクルムセ国を統一されて、大をなされるであろう」
と誉めそやした。忠衡は叫び声にちかい鋭い声をあげた。
「九郎殿が居られなくとも、鎌倉はかならず攻めてくる。鎌倉にとって父上の居られない平泉は、格好の獲物でしかない。鎌倉殿がこわいのは九郎殿だけなのに、九郎殿が居られないことを知ったら、明日にでも攻め込んでくるであろう」
国衡は忠衡の顔を、睨みつけながら大声で言いかえした。
「九郎殿が居られなくとも、このわしが居る。鎌倉ごとき何ほどかある。攻めてきたときは平泉の強さを、目にものを見せてくれるまで。しかし、九郎殿が居られなくなれば、攻めてくるかどうかは五分と五分である。災いの元が、居なくなってくれるだけでも、幸いではないか」
「そうではありませぬ」
忠衡はふたたび叫んだ。
「鎌倉殿は、百年の間戦いをしていない平泉など、恐れはしないはずである。彼らは九郎殿だけを、恐れているのでござる。九郎殿が千年に一人の、軍事の天才であることは、日本中が認めているところではありませぬか。九郎殿がおられぬ平泉は、巻き狩りをする狩場のようなもの、としか鎌倉は考えぬにちがいない」
泰衡は、黙然と考えこんでいたが、ゆっくりと顔を上げた。
「九郎殿がいなくなれば、あるいは鎌倉は攻めてこないかもしれない。兄者の言われるとおり、五分と五分であろう。忠衡の申すようにかならず攻めてくる、というものでもあるまい。それと、このお申し出は九郎殿からのものであって、われらが追い出そうとするものではない。九郎殿は、兄弟の争いを好んでおられないし、奥州百万の民を私闘にまきこむことはできない、と申された。九郎殿はそのように優しいお方である。大陸へ渡られても、クルムセの民は、きっとなついて従うことであろう。必ずや大成なされることであろうから、このお申し出は、快くお受けしようではないか」

ニ、北の大地の決闘
文治四年四月、雪解けをまって、九郎一行は平泉をあとにした。盛大な見送りをうけて出立できる身分ではない。鎌倉方の間諜がこの平泉にも、何十人か入り込んでいることは、間違いないからである。泰衡は一計を按じて「剣舞い」を催すことにした。
剣舞いとは、三段に分かれ、第一段は薙刀で舞い、これを「高館」(たかやかた)と称した。第二段は扇子と薙刀で舞い、これを「城回し」と称し、第三段は剣をもって舞い、これを「庭なし」と称した。
春の一夜、篝火を焚き、武士から庶民にいたるまで、平泉中の男女をあつめて、盛大に催された。正面の幔幕の中には泰衡を中心に、左右に国衡、忠衡が居並び、忠衡のよこに九郎が座った。いや、正しくは、九郎の影武者が座ったのである。 
杉目太郎行信という家臣で、杉ノ目城の城主である。九郎によく似ている、と皆が認めたために彼の不幸が始まったのである。
大衆からは、ほの明かりで九郎の顔がよく見えない。その背後には、弁慶らしき僧形の大男が控えていたから、だれも疑いをもって見たものはいなかった。剣舞いは、三十名の武士が集団で舞う、勇壮な踊りであった。
各々、頭に鳥兜をいただき、平口の単衣にたすきをかけ、半襟に脚絆、京靴をはき、足を踏みならして活発に舞った。はやし方は笠をかぶり、たすきをかけて、野袴で演奏した。
楽器は太鼓、鐘、擦鉦(すりがね)などである。この剣舞いは、平泉においても、この夜はじめて行われ、その後盛岡藩に伝わったが、他の藩には伝わらなかった。太鼓の響きとかがり火が、次第に遠ざかってゆく。
「平泉にもどることは、もう二度とないだろう」
九郎は馬上からふり返って、闇の中の藤原家の人々と、金色堂に安置された秀衡の遺体に、無言のわかれを告げた。九郎の影武者は、明日から数日間は風邪と称して、館を一歩も出ないことになっている。
鎌倉方の間諜の目をくらますために、その後、泰衡は偽戦を計画し、九郎の館を二万騎の兵をもってとりかこみ、逃げられないと観念した九郎は経堂の中で、二十二歳の妻と四歳の娘を刺し殺し、館に火をはなち、みずからも腹を切って死んだ旨を鎌倉へ報告した。
鎌倉の追求があまりにもきびしく、「義経殿はいまだ到着しておりません」では通らなくなっていた。そこで、やむなく影武者杉目太郎行信の首を斬り、それを焼いて酒につけ、四十三日間かけて鎌倉へ運んだ。
普通、早馬であれば平泉から鎌倉まで、二十日足らずで行くところを、四十三日間もかけさせた。現代の暦で、到着したのが八月上旬であるから、いかな美酒につけてあっても、形はとっくにくずれて、本人かどうか分からなくなってしまっている。
それを鎌倉の腰越で受け取った和田義盛と梶原景時の二人の首実検役は、それを頼朝には見せずに、藤沢の白旗神社へ送って、すぐに埋葬させている。現代でも義経の墓は残っている。
義経が自刃を遂げるまで、と忠臣弁慶は経堂の入り口に仁王立ちして、矢を百本射立てられても倒れなかった、という噂がながれ、高館の館と弁慶のわら人形が焼かれた。二万騎の兵で囲んだのは、間諜の目をふさぐためであった、と考えられる。
江戸時代、副将軍水戸光圀公は、「大日本史」を編纂したさいに、義経の首は偽首である、と明記している。余談になるが、光圀公が諸国漫遊をした、というのは作り話である。
泰衡は、えりすぐりの精兵五十名と、駿馬五十頭、それに大量の黄金を餞別として九郎に贈った。
「大陸でのご成功を、心から祈念いたす」
国衡は一言だけ挨拶をした。忠衡は、九郎の手をとって涙を流した。九郎より三才年下の忠衡は、一番仲がよかった。まるで、生まれたときからの兄弟みたいだ、と秀衡が呆れるほどであった。秀衡は沢山の子供たちの中で、この忠衡をもっとも愛し、そして、九郎を実の子供以上に愛していた。
「九郎殿が、居られなくなられたことを知れば、鎌倉はかならず攻めてくるはず。そうすれば、平泉は、たぶん滅亡するほかあるまい。本当は、それがしも九郎殿と一緒に、大陸へ行きたいのは山々なれど、藤原家の人間として、逃げるわけにも行き申さぬ。もう生きてふたたび、お目にかかることもござるまい」
忠衡の涙は九郎の涙を誘った。
「もし、万一平泉が敗れるようなことがあったら、生を全うして、クルムセ国へおいでなされ、決して自刃などなされぬよう」
涙を光らせながらも、九郎は明るく笑ってみせた。十三湊への旅は全員騎馬であった。北上川に沿って北上し、不来方(盛岡)まで行き、そこから北上川を離れて、西北に進路をとる。後の津軽街道である。
左手に奥羽山脈がけわしい山容をみせるが、これをこえる必要はなく、米代川にそって西に進むと、秋田の日本海側にでる。ほとんど山坂はなく、道は平坦で、この街道は十三湊と平泉をむすぶ重要な道路として、古代から開けていた。
昔、九郎は忠衡らと弁慶と三郎等を連れて、十三湊を訪れたことがあった。秀栄の人物の大きさに感嘆し、大船の建造現場を見せられて、大陸への夢を抱いた思い出がある。石油を使って、武器にすることにも驚かされた。
遠くペルシャの船がやってくるのを見て、世界というものを認識した思い出もある。今、自分がその大陸へ行こうとすることに、感慨をあらたにすると同時に、身のひきしまるような興奮を覚えるのであった。
秀栄は家督を息子にゆずって自らは法体になっていたが、九郎一行を福島城に迎えて、大歓迎してくれた。歓迎の宴は深夜までつづいた。翌朝、一行が海を眺めているところへ、秀栄から呼び出しがあった。秀栄はにこやかに皆をむかえて、茶をすすめた。
「遊牧民の中に斬って入るのは、た易いことではあるが、それにもやりようがある。わしが考えた方法を申しのべよう」
秀栄が考えたこととは、一つは先遣隊をだすこと。二つ目は、本隊は蝦夷地へわたってアイヌの兵を集めること、というものであった。
先遣隊は、弁慶か、三郎のどちらかが、平泉の精兵五十名を率いて先に乗りこみ、地ならしをしておく必要がある、というのだ。
飲み水、食物、風俗習慣、そして各部族の力関係などをさぐる必要がある。それと、草原にあっては判官義経と名乗っても、だれも知らないから、遊牧民たちにつよい印象をあたえるような、劇的な出現をしなければならない。
先遣隊は九郎を神様だとか、仏様だとか宣伝をしておいて、迷信ぶかい遊牧民をその気にさせておく。そこへ九郎が、天から降りてきたようにふるまい、数百の兵をつれて現れるなら、彼らは、一斉になびいてくるであろう、というのが秀栄の策であった。
郎党たちは一斉に賛嘆の声をもらした。
「さすがは秀栄殿、われらには、とても思いつかぬことでござった。しかし、それがしが、神様か仏様になるというのは、ちと照れくさい話で・・・」
九郎は正直照れていた。
「なんの、九郎殿の平家に対するお働きは、神か仏でなければ、できない事でござった。クルムセの大地でも、神か仏のようなお働きをなさるであろう、とこの秀栄は信じており申す。なにも遠慮をなさることはござらぬ。どうであろうか、天神さまを名乗られては?」
「天神でござるか」
九郎はそういってため息をついたが、郎党たちはみな賛成した。
「ただいまから早速、天神様とお呼びすることにいたしますか」
三郎が軽口をたたいた。
「調子にのるでない。それだからおぬしは、盗賊あがりといわれるのじゃ」
弁慶が軽くたしなめた。
「なにを言うか、おぬしだとて、京で辻強盗をはたらいて居ったではないか」
「いや、あれは平家の、図にのぼせた公達どもを、懲らしめるためのことであって、わしは盗人ではないぞ」
「殿に斬りかかったのは、それじゃ、どういうわけだ」
「二人ともやめぬか、秀栄公の御前であるぞ」
九郎が二人をいさめた。秀栄はニコニコ笑って聞いていた。
「先遣隊と本隊に分かれることに、ご納得が行かれたならば、お二人のうちどちらが行かれるか、お決めになられよ」
そういわれて、九郎は、あらためて二人の顔を見比べた。まず弁慶が口を開いた。
「先遣隊は、それがしにお命じあれ。殿がお出ましになるまでに、遊牧民たちを斬りしたがえ、天神様の名を、広めておくように努めまする」
弁慶が言いおわると同時に、三郎が口を開いた。
「こういうお役目は、それがしの方が適任かとぞんじまする。なぜなれば、異国のことゆえ、飲食、風土が体に合うものかどうか、はなはだ難しいかと存ずる。その点弁慶殿は、熊野の別当湛増殿のお子で、お育ちがよすぎて体を壊すおそれがござる。
ところが、それがしは生まれたときから、捨て子であったし、物心ついたときは、泥棒の手下であり、口に入るものなら何でも食べて、飢えを凌いでまいったから、なにを飲み食いしても、腹が壊れぬようにできあがっており申す。したがって、このお役目はそれがしのほうが適任かと存じまする」
これにはさすがの弁慶も、返す言葉が見つからなかった。秀栄は、あらためて三郎の顔をじっと見つめた。捨て子で、泥棒の手下か。それにしては、なんと涼やかな容姿をもった男であろう。おそらくは、さる高名な貴人のご落胤かなにかであろうか、と考えていた。
「これは、義盛殿の勝ちでござるな」
秀栄は微笑しながら断を下した。
「義盛殿と五十人の精兵のために、早速船の用意をいたさせよう。それから、九郎殿の本隊が蝦夷地にわたってアイヌの兵を募ること、ご了承か」
「承知つかまつりました。アイヌをあつめて訓練をし、その中から優れたものだけを、連れて行きたいと存ずる」
「さようか。それならば、平取へ行かれるがよかろうと存ずる」
「ピラトリでござるか」
「ピラトリにアイヌの王がいる、と聞く。蝦夷地でも、北方のアイヌは気が荒くて、和人となじもうとせぬが、南方のアイヌは割合おだやかで、話のしようによっては、和解する可能性がある、と聞く。それと、ちかくの日高山脈から流れでる川では、砂金が取れるそうであるが、アイヌは砂金の使いようを知らぬゆえ、荒らされておらぬと考えられる」
「是非とも、ピラトリへ参りたく存ずる」
「さようか。それでは、蝦夷地へ行くべき船の手配を、いたさせよう」
当時は、平泉の郊外にも、アイヌ人がたくさん住んでいたから、九郎もアイヌというものが、どういう生活をしているか、をある程度は知っていた。言葉も片言くらいは知っている。
蝦夷地のアイヌは、短刀一本で牛ほどもある羆を倒すほど、勇猛であることも聞いていた。精兵を数百人ほしいと思った。クルムセからの便りは、十三湊へ送ってもらい、それを蝦夷地の九郎のもとへ届けてもらう。
相互に連絡をとりあって、一年後に、九郎が大陸へのりこむ計画を練った。鷲尾経春が、三郎に従って先遣隊としてゆくことを希望した。一ノ谷への道案内をした、十五歳の少年も今は二十歳の若者に成長していた。
猟師の子であったから、まずしい暮らしと肉食になれているため、草原の生活にはうってつけであった。彼は三郎に良くなついていたし、天性の運動能力が開花して、武勇の点で弁慶や三郎に、追いせまるほどの進歩をみせていた。
「よお言うた。経春、おぬしならこの困難な仕事も、きっとやり通せるであろう。三郎を助けてやり抜いてくれ。来春にはわしもクルムセに行こうぞ」
だまって頭をさげる経春を横目にみて、三郎がいった。
「経春は殿が名づけ親でありますから、遊牧民たちには天神様のお子である、と触れてまわりますかな」
三郎は頭の回転がはやい。こういうことになると、まったく抜け目がない。物事の交渉役をやらせると、彼の右に出るものは一人もいなかった。言葉は不自由でも、遊牧民たちをうまく手なずけて生きて行ってくれるだろう、と九郎はうれしく思った。
晴れ上がって波のおだやかな朝、三郎以下五十二名をのせた交易船が出港した。十三湊について六日目のことであった。全長五十メートルにも及ぶ、当時としては最大の巨船である。
人間のほかに馬五十頭と荷駄十五トンを積み、二本の帆に風をうけて、船は一路日本海を北へむかった。蝦夷地を右にみて、蝦夷海(間宮海峡)を通りぬけて、黒竜江(アムール河)へむかう予定である。
海のようなひろい川幅をもつ黒竜江を遡ってゆき、途中から馬で蒙古高原へむかうという。九郎にとって想像しようにも、なかなか想像できない風景であった。
二日後、本隊も出港した。安東水軍の交易船は、蝦夷地の場合は、日本海の寿都(すっつ)に往くことが普通であったが、秀栄の命令で、苫小牧に回航してもらえることになった。
津軽海峡を越えて、苫小牧に入港したのが四月の末である。雪はもうすっかり溶けて、寒気もゆるんでいた。苫小牧から馬で海岸沿いに東南方へ下ったところに、日高山脈から流れ出た沙流川が太平洋にそそいでいる。
アイヌの王が住むというピラトリは、沙流川を半日ほど遡上したところにあるという。ピラトリのアイヌは数千人の集落をなしている、と聞く。となると、兵の数も数百人はいるだろう。
友好的であればよいが、和人に対して反抗的であったなら、わずか二十名にすぎない一行をなめて、襲いかかってくることもありうる、と考えなければならない。
「全員でいきなり、アイヌ部落をたずねることは、上策ではないと考えまする」
弁慶は亀井六郎にも視線をむけながら、九郎に話しかけた。
「喜三太がアイヌ語をしゃべれるやに、聞いておりますゆえ、まずそこらのアイヌに接触させて、酋長の動向をさぐらせることが良いかと存ずる」
亀井が弁慶の言葉をうけて、そう答えた。喜三太はその昔、金売りの吉次の隊列に加わって、九郎がはじめて平泉に行ったときに、吉次の家来として、馬の世話をしていた男である。
いつの間にか、九郎の家来になってしまっていた。三十をいくつかすぎているが、気働きがとびぬけてよいことから、九郎が放さず、どこへ行くにも供をするようになっていた。呼ばれた喜三太は
「アイヌ語ができる、というほどのものではありませぬが、片言なら何とか」
という。九郎になにごとか言い含められて、喜三太は一人でアイヌ部落へむかった。やがてもどってきた彼の報告によると、ピラトリの酋長はペンケナイという名で、四十歳代の非常に猛々しい男である、という。
和人が嫌いだから、行けば殺されるかもしれない、と村の老人におどかされたという。九郎は笑ってきいていたが、弁慶と亀井が議論をはじめた。
「わしが行って、酋長と一騎打ちで組みあえば、戦いをせずにすむであろう」
と弁慶が主張した。
「アイヌといえども、源氏と平家のことを知らないはずはないであろうから、自分が行って、判官殿に従うように説得してみよう」
と、亀井は主張した。
「いや、わしが喜三太をつれて、一人で行こう」
そういって九郎が腰を上げた。
「殿お一人でなど、とんでもない。なにか事があったら、クルムセの三郎になぐられ申す。アイヌ部落へは、それがしが参ります故」
弁慶があわてて立ち上がった。
「問題はその顔よ。弁慶のその顔は、敵がこわがって、こわいから、敵は撃ちかかってくるであろう」
「これはしたり、それがしの顔は、そんなに恐ろしゅうござるか」
「自分だけは恐ろしゅうない、と思っておるようじゃが、見なれたわしでも、恐ろしいと思うわな」
九郎がまじめな顔をしていったので、周囲にいたものは、一斉に笑いだした。
「六郎もそばによると、斬られそうなするどい顔つきをしておる、敵はやはりこわがるであろう」
亀井六郎は、左手で両頬を交互になでて、するどさを確かめるようなしぐさをした。
「そこへ行くと、わしはちびで髭も薄いし、平べったい顔をしているから、敵はあまり警戒をしないであろう。それにすばしこいから、逃げることだけは、弁慶や六郎よりうまい」
だから、一人で行くといってきかない。やむなく、郎党たちは待つことにした。九郎は喜三太に馬のくつわをとらせて、物見遊山に行くようなのどかな表情で、ゆったりと出発した。
一方アイヌ部落は緊張していた。武装した二十人の倭人がやってきて、部落の様子をうかがっていることは、とっくに酋長の耳に入っていたから、武装した兵二百名を二列にならべて、部落の入り口から、酋長の家の前までをかためていた。
酋長ペンケナイは、家の前に立って待ちかまえていた。九郎がおそれげもなく、騎馬で入り口を入ってくると、アイヌの兵たちは九郎を取りかこむようにして、酋長のまえに誘導した。
酋長の十数メートル手前で、馬をおりた九郎は、喜三太をしたがえて、アイヌの隊列の中をゆっくりと歩いた。酋長のペンケナイは、四角い模様のついた厚手の着物を着て、長い刀を腰にさし、ひたいには黒っぽい色の鉢巻のようなものを巻いていた。
その四角ばった顔は威厳にみちて、分厚い胸板をささえるために両足を大きくひろげて、踏んばっているように見えた。九郎は、酋長の二間ほど手前で歩をとめると、ていねいに頭を下げた。
「それがしは、判官源九郎義経ともうす者。わけあって平泉よりまいった。当地にしばらく逗留させていただきたく、おねがいに参上つかまつりもうした。」
喜三太がそれを通訳すると、ペンケナイはするどい目つきで、九郎の顔をじっと見つめていたが、やがて軽くうなずいた。
「部下は何人か?」
「二十人である」
「二十人で全部か?」
「さよう」
「和人は信用ならない。二十人が入り込んできておいて、あとで、五百人が攻めてくることがある、と聞いている」
「心配なら、われらは離れたところで三日間野宿をするが、その間に周囲をしらべてみるがよい」
うなずく酋長に、用意した手土産をわたして、九郎はきびすをかえした。土産は南海の海でとれるという夜光貝をちりばめた、高価な鞍であった。平泉でしかつくれない独特のもので、らでん鞍と呼ばれる。酋長はその鞍にながい時間見とれていた。
三日後の朝、九郎は郎党を全員つれて、ふたたびアイヌ部落をおとずれた。ながい海岸線から、山の中まで徹底的にしらべて、一行が大勢でやってきた形跡がないことを確信した酋長は、自分の家のまえに木造りのテーブルと椅子をならべて、二十名全員をすわらせた。
テーブルの上には、酒が入っているとおもわれる壷と、つまみらしきものが出されていたが、どういう酒か、どういう食べ物か、見当がつかなかった。警戒しながらも、一応は歓迎してくれる様子がみられて、一同ホッとした頃、ペンケナイが酒を杯についで九郎にさしだした。  
九郎は型どおり杯をもったが、日本酒の何倍かつよい臭いをかいで、口にはこぶ真似だけをして見せた。九郎は下戸にちかい。隣にぴたりと寄りそった弁慶が、すばやくその杯を取りあげると、自分の口に持っていった。
はじめて飲む酒であったが、まずいとは思わなかった。のどがピリッとして、度数が日本酒の三、四倍つよいことがわかる。酋長は自分も同時に飲んだが、九郎が飲まないことに不満の表情をみせた。
喜三太が早口になにごとかを告げると、ペンケナイは口元に冷笑をうかべた。その笑いは、下戸の九郎をさげすんだ笑いのようであった。
弁慶はそれを見ると、ムッとした顔をつきだして、杯にお代わりをもとめた。自分が九郎にかわって飲む、という意思表示である。ペンケナイは弁慶を見て、また九郎を見て、両者を見くらべていたが、うなずいて部下をよんだ。
部下が大ぶりの茶碗を二つ持ってきた。一つを弁慶にもたせると、壷から酒をなみなみと注いだ。弁慶はそれを、一息に飲み干してみせた。
ペンケナイも、茶碗酒を一息に飲み干した。ふたたび弁慶に注ぎ、自分の茶碗も満たした。茶碗をもちあげて弁慶を見る。弁慶は、ペンケナイと同時に飲み干した。
それを見て、酋長はうれしそうに弁慶の肩をかるくたたいた。気に入ったという仕草のようである.二人が何杯目かを干したところで、酋長は大声でさけんだ。
一行を取りかこむように立っている兵士の中から、ひときわ大きな男が進みでて、酋長に礼をした。喜三太が弁慶にささやいた。
「あの男と、組討ちをするように言っておりますが、どういたしましょうか」
「よし、やろう」
「待て」
九郎がアイヌの大男をみながら制止した。
「弁慶は先ほどからつよい酒を飲まされているし、あの男は弁慶より、さらに大きな体格をしている、危ないのではないか」
「ご心配めさるな。弁慶は酒をすべて、力に変えてしまうことのできる男でござる。飲めば飲むほど、つよくなるのが弁慶でござる」
弁慶の顔には、少しも酔いがみられなかった。さすがの九郎も、あきれて口をつぐんだ。弁慶がテーブルをはなれて、兵士についてゆく後姿を見て、九郎は安心した。
少しも酔ってはいない。自分は臭いを嗅いだだけで、酔ってしまいそうなつよい酒を、数杯ものんで平然としている弁慶をみて、いまさらながら呆れていた。
二人の大男は、酋長と九郎が見えるように一方だけをあけて、周囲を兵士がとりかこんだ中で、ガッキと組みあった。アイヌの兵士は、大男の弁慶が、細身にみえるほど巨大な体つきをしていた。
二人は差し手をあらそっていたが、やがて、弁慶が下にもぐるような形になったとたん、大男の巨体が宙をとんだ。地響きをたてて腰からおちた大男は、腰をおさえて立ち上がれなかった。苦悶の表情をうかべる男をみて、仲間が駆けよって助けおこし、数名がかりで、家の中へ運び込んだ。
ペンケナイはふたたび大声で叫んだ。弁慶のつぎの相手を求めたようであったが、名乗り出るものは一人もいなかった。それを見るとペンケナイは、茶碗を地面にたたきつけて割った。 
九郎に刀を抜くようさけんで、自らも太刀を抜いた。弁慶はそれを見て、九郎のもとへ走った。亀井六郎が、九郎のまえに立ちはだかるほうが早かった。
「それがしがお相手いたす」
言うより早く、六郎は刀を抜いていた。
「六郎、太刀をおさめよ、この勝負はわしがやる」
「しかし、殿に万一のことがあっては・・・」
「六郎こそ、万一のことがあっては困る。酒も組打もだめだが、剣のことなら、わしに任せてもらおう」
九郎はそういって、まえに立ちはだかる六郎の肩に手をかけてうしろに下がらせた。ペンケナイは、九郎が立ちあがったのを見て、満足そうにうなずくと、あいた場所へそろそろと九郎を誘導した。ペンケナイは、家を背にして太刀を中段にかまえた。
九郎も太刀は抜いたが、目に殺気はなく、飄然と立っていた。間合いは二間。よほど酒が強いとみえて、ペンケナイの表情に酔いがみられなかった。本気で殺し合いをする気なのか、単に九郎の剣技をためすだけなのか、日焼けした彫りのふかい、中年男の表情はその本心を読ませない。
九郎の表情は、あいかわらず敵の殺気を吸いとってしまうような、静けさのままであった。ペンケナイは、殺気を感じさせない九郎に対して、すこし苛立ちを感じはじめていた。少しずつ間合いをつめて、中段の構えから上段にかまえなおした。
ピーンとはりつめた空気の中で、周囲のものは皆息をつめて見守った。ペンケナイは九郎のかまえに隙を見つけて、裂帛の気合と共に斬りこんだ。が、そこに九郎の姿はない。ハッとして、彼は、背後の平家の屋根の上を見あげた。そこには、九郎がふくみ笑いをして立っていた。酋長は大声でわめいた。
「おりて来い、にげるとは卑怯なり!」
逆上した様子が、九郎にはおかしかったが、笑みをけした。左手で太刀のさやを腰からぬきとると、それを下にいる酋長めがけて投げつけた。
黄金づくりの鞘は、くるくると円をえがいて、酋長の顔面に襲いかかった。酋長はそれを大太刀で、ガッキと受けとめた。九郎は自分の鞘より一瞬おくれて、ペンケナイの背後へとびおりた。
酋長は鞘をうけとめると同時に、背後の九郎に向きなおって、上段から斬りかかろうとしたが、ハッとして太刀の動きをとめた。九郎の太刀が、酋長の腹にぴたりと突きつけられていたのである。
酋長が大太刀を振りおろす前に、九郎の太刀は、敵の腹をズブリと刺しつらぬくであろう。酋長は敗北をみとめて、大太刀をガラリと投げだし、その場に落ちるように胡坐をかいた。 
九郎は鞘をひろって太刀をおさめると、ペンケナイの手をとって立ち上がらせた。酋長は首うなだれて、酋長の座をゆずる、といったが、九郎は仲良くしてもらえれば、ほかになんの望みもない、といって断った。
酋長は、一行を家のなかに招じいれて、大歓迎の宴をはってもてなした。今夜泊って行ってくれれば、妻に伽をさせる、とまで言いだしたが、九郎は断った。ペンケナイは、村はずれにある空き家を数軒かたづけさせ、一行が住めるようにし、生活に必要なものすべてを運ばせた。
翌日から、一行とアイヌ部落との交流が始まった。弁慶は組打ちや槍の使い方を指南し、亀井は剣技をおしえた。常陸坊海尊は粟や稗の作り方をおしえ、九郎は文字をおしえた。
九郎一行が大陸へ旅立ったのは、翌年の春であったが、後に火山の爆発で、食料の大部分をうしなって飢饉におちいったアイヌ人が、貯蔵してあった粟と稗を土中から掘りだして食べることができ、飢饉を免れることができた。 
彼らは、九郎が立ちさった後々まで、ホンカン(判官)様、ホンカンカムイと称して、神の部類にいれて敬った。アイヌ語には濁音がないので、ホウガンといえず、ホンカンになってしまうのである。
彼らが生身の人間を神として祭ったのは、最初にして最後のことであった。何度も建て替えられたが、今でも義経神社の跡が数ヶ所のこっている。
その間に、大陸の三郎から便りがあった。鷲尾と五十人の侍はみな元気で、病気一つしていない。冬の寒さはきびしいが、乾燥しているので平泉より過ごしやすいほどである。
雪はふるが、乾いている上に風がものすごく強いので、降りつもるということがない。そのおかげで、放牧してある馬や羊は、枯れ草を食べることができる。冬のあいだの貯蔵をしないで済むのである。水の質は良くないが、すぐに慣れた。
夏は鹿や兎がたくさんいるし、河で魚もとれるので、食料は充分である。冬は鶴、雁、白鳥などの大型の鳥がとれるので、食料には困らない。ただ寒さしのぎには、羊の油が一番である。馬の乳からつくる馬乳酒を飲み、動物の糞を燃料にして、冬をしのいでいる。
「さて戦のことでござる」
他の部族と十数回たたかって、一回だけ敗れたが、他はすべて勝った。ただ一回負けたときに、女房を奪われた。この女房はほかの部族から奪った女だから、文句は言えない。その後、またほかの部族から女をうばった。
遊牧民の間で戦うたびに、われらはテンジン様のお使いである、と宣伝をしてきたので、殿はテムジンという名で、有名になっている。迷信ぶかい遊牧民は、テンジン様にあこがれて、三々五々あつまってきていて、目下女子供までふくめて、百数十名の集団になっている。テンジン様が天からご降臨になれば、今の数倍の集団になるであろう。
遊牧民たちは、親分のことを“タイ”とよぶ習慣があって、自分はサブタイとよばれている(後の史書ではスブタイ、又はスブディ、又はスベイディ)。鷲尾は、シュウビとよばれているうちに、シュビとなった。(後の史書では、テムジンの長男ジュチ)
一刻もはやくクルムセにきて、殿のお力で遊牧民を平定していただきたい。三郎からの手紙の要旨は、ざっとこのような内容であった。

三、黄金の鷲を追って大陸へ
文治五年(一一八九年)春、九郎一行は雪解けをまって、三百名にのぼるアイヌの兵を引きつれて、陸路日本海側の寿都(スッツ)に向かった。当時の苫小牧港では、長さ五十メートル、幅十五メートルにも及ぶ大きい船を、横ずけすることが出来なかったからである。
後に鎖国政策をとったわが国に、これ以上の大船が出現するのは、数百年後のことである。ピラトリで徴募した兵は、約五百名にも上ったが、その中から三百名を厳選して、大陸へ連れて行くことにした。兵の戦意はさかんで、みな九郎に心服していた。アイヌの口伝に
「ホンカン様は黄金の鷲を追って、先祖の通った道を通って、大きな河のあるクルムセ国へ行った」
というのがある。黄金の鷲は、大志を抱いてという意味であろうか。大昔は、大陸とつながっていたことを、うかがわせる言い伝えである。その証拠に、北海道で、恐竜と象の骨が大量に出土している。
ピラトリから、沙流河にそって海へでて、海岸ぞいに西に進み、室蘭に達し、さらに海沿いを歩いて長万部にゆき、平野部を通って、日本海側の寿都に出る。  
六日間の旅であったが、大陸の生活のための、予備演習としての意味はあった。寿都へは弁慶と六郎が先行していた。十三湊から、回航してくる船を待つためであり、食料、衣料その他の調達のためであった。
墨染めの衣を着た弁慶が、毎日岬にのぼって、船をまつ姿が印象的で、のちに地元の人々が弁慶岬と名をつけ、今日までその名がのこっている。
十三湊は、一三四一年の日本海大津波で、福島城もろとも、海の藻屑ときえてしまい、安東水軍は四散してしまった。今は十三湊という名すらのこっていない。十三湖がその跡である。    
余談であるが、頼朝が死んで、頼家の代になったときに、和田義盛以下、六十名にものぼる武将の連名で、梶原景時の罷免を要求する運動がおこった。梶原の讒言によって、おとしめられた人々の恨みが、頂点に達していたのである。 
頼家も、やむなく梶原を伊豆へ配流することにしたが、その落ちてゆく途中で、待ちかまえていた武士の集団によって惨殺された。この二つの事件は、無論九郎の知らないところである。
船は蝦夷海を北上して、アムール河に達し、海と区別のつかないほどの広大な河口から入って、延々と南下をつづけ、途中から西へむかい、黒河についた。黒河から、陸路チチハルに向かうことになっている。
チチハルに通じる古道があり、チチハルは商都として栄えていて、金国はここに総督府を置いていた。ここには、シュビこと鷲尾経春が、十人の部下と替え馬五十頭を引きつれて、出迎えにきていた。一行は一年ぶりの再会をよろこびあった。
「伊勢殿のご発案で、それがし、殿のお子を名のらせていただいております。お名を汚していること、心苦しく存じておりまする」
鷲尾の真っ黒に日焼けした顔を、笑顔で見つめて、九郎はいった。
「わしがそなたの名ずけ親である以上、そなたがわしの子を名乗るのは当然である。なんの遠慮もいらぬ。それにここはもう大陸だ。源氏だ、平家だ、などはもう忘れようではないか、のうシュビ殿」
「ありがたき幸せ。それに、名前まで覚えていただけて・・・」
後は言葉にならなかった。
「伊勢殿が、お迎えにあがるのが筋目でございますが、うっかり留守をいたしますと、隣の部族が攻め込んでまいりますゆえ、失礼をいたしておりまする」
「事情はおおよそ察しておる、心配いたすな。わしも向こうへついたら、テムジンと名乗ることにいたす。天神とは面映いが、異国にあっては、それが上策とおもう」
その夜は、シュビが運んできた沢山のゲル(移動用のテント)をならべて、川ぞいの平野に宿泊をした。シベリア狼の遠吠えが遠く、近くで聞こえ、馬と食用に連れてきた羊を、ねらわれる恐れがあるため、夜通し薪を燃やしつづけた。
羊の肉を焼いて食べるということを、一行ははじめて経験した。塩をつけて食べる素朴な料理であったが、九郎にも弁慶たちにも案外好評であった。馬乳酒が出されたが、九郎は
「すっぱいな」
といって一口でやめた。弁慶は
「結構いける」
といって何杯もお替りをした。
「この馬乳酒はよわい酒ではござるが、慣れないうちは下痢をいたしますから、あまり沢山召し上がらないほうがよろしいか、と存知まする」
とシュビがとめたが、弁慶は笑って応じなかった。ゲルの中は予想外にあたたかく、また通気性もよかった。ゲルは羊毛のフェルトでできていて、手触りがなめらかで柔らかい。
木の枝を傘のようにならべて骨組みに使い、中央に柱を立てる。その上からフェルトをドーム状にかぶせて、麻糸でしばる。入り口は観音扉で木製である。
天井には煙りだしと、明りとりのための三角形の穴があいていて、星空がながめられた。室内のひろさは大小さまざまであるが、大体八畳から、十畳敷きくらいのひろさである。床はなく、草の上に獣皮などを敷いてすわる。
「これでは、夏はさぞ暑いであろう」
という弁慶に、
「それが湿気がほとんどないので、意外なほど涼しいのでござる」
とシュビが答えた。蒙古犬の大きさにも驚かされた。家畜をまもるために訓練されていたが、日本にいる犬の二倍から三倍の大きさである。獰猛でもあった。
「これでは、狼の大きさも、想像されるではないか。」
馬や羊をどう守っていくか、心配しはじめた弁慶が嘆息をもらした。
「虎や熊もたくさんいるそうな。虎というのは、どんな獣なのであろうか」
九郎が、好奇心にみちた目をむけた。
「一番大きなものは八十貫(三百二十キロ)を越しまする」
「どんな姿をしておるのじゃ」
「猫の化け物とお考えください」
「猫の化け物とな。人間の五倍もあるのでは、まるで化け猫じゃな。で、どうやって退治するのじゃ」
「火を恐れまするので、一人のときは火で追いはらいます。数名居れば、逆に追いかけて毛皮を取りまする」
「勇ましいのう。虎を相手に、一度巻き狩りをしてみたいものじゃのう」
馬乳酒は、アルコール分が三、四パーセントのうすい酒で、日本の清酒のように澄んでいる。らくだの乳からつくる地方もあるという。 
九郎は十六歳のとき、金売りの吉次につれられて、奥州平泉へくだる途中で、獣の肉を焼いて食べる経験をしていたし、アイヌ部落でも一年間経験してきたから、羊肉を焼いて食べることには驚かなかった。
常陸坊海尊は、弁慶と二人で夜おそくまで、馬乳酒を飲んでいたが、急に立ちあがって、ゲルの外へ出て行った。やがて戻ってきたときは、足元がふらついていた。彼は席にもどると、弁慶の顔をのぞきこんだ。
「弁慶はなんともないのか?」
「何が?」
「わしは全部出てしまった。この馬乳酒は、いくら飲んでも酔わないもんだから、ついつい飲みすぎて、明日の分まで全部出てしもうて、腹にさっぱり力が入らんわい」
「シュビが忠告してくれたのに、言うことをきかんからじゃ」
「そういうおぬしとて、シュビの言うことを聞かずに、飲んで居るではないか」
「わしの腹はサブタイと同じで、これしきのものでは、応えないようになっておる」
「そうであった、友は選らばねばならぬ。こんな化け物みたいな奴と、つき合ってはいかぬのであった」
「ワッハッハッ・・・、全部出てしまえばまた飲めるではないか」
「いや、もう良い。こんなときに敵に出会うたら、完全に負けてしまうわい」
海尊はそういいながら、その場に倒れこむように、寝そべってしまった。
「敵がやってきたら、おぬしを放り出して、逃げることにいたそう。後は狼が食ってくれるじゃろう。」
「ひどいことを言いやがる」
「もっとも、狼も酒くさくて、腹わただけは食いのこすかもしれんのう」
「勝手にしろ、わしはもう寝る」
海尊はふて寝をしていたが、まもなくいびきをかき始めた。弁慶はそれを横目に見ていたが、また馬乳酒を飲みはじめた。九郎以下全員が眠りについていた。弁慶は、ゲルの天井に空けてある三角形の明りとりから、星をながめて感慨にふけっていた。
「とうとう大陸へやって来てしまった。わしもそろそろ四十になろうというのに、居も定まらぬか。しかし、クルムセの女は日本の女と顔も体つきもそっくりだ、というから楽しみではあるが・・・」
平泉と京に残してきた女たちを思い出していた。無数の星を眺めているうちに、急にせつない別れが、胸をついて沸きおこってきた。弁慶は九郎におとらず多情で、数えきれないほどの女を愛してきた。
波乱に富んだ半生の中で、何十人の女と関わってきたであろうか。一人ひとりの顔を思い出しているうちに、やがて眠りについた。
朝の光に目をさますと、ゲルの外で九郎とシュビの話し声がきこえた。弁慶はあわてて外へとびだして、九郎に挨拶をして、寝坊のわびを言った。九郎は上機嫌で、そばに転がっている羊を指さした。
「弁慶見よ!シュビは大したものだぞ。羊の血を一滴もながさずに、はらわたと血を取りだしたのだ」
「ふーむ、そんなことができ申すのか」
シュビは軽くうなずいて、
「モンゴルでは食料がとぼしいので、血の一滴もむだにはでき申さぬ」
といって、やり方を説明した。シュビの説明によると、羊の腹に小さな切り口をつけて、そこから手をつっこんで、心臓をにぎりつぶして殺すのである。
内臓と血液は、別々に羊の皮でつくった袋に入れ、内臓は犬の餌にし、血液は固まらせて食べたり、馬乳酒に混ぜて飲んだりするのである。皮はゲルの素材であり、衣服や容器にもなり、糞は乾燥させて燃料にする。
家畜類の糞は乾燥させると、ふわふわとして、手にとってみてもほとんど臭わない。樹木というものがほとんど育たない草原の、生活法を垣間見るおもいで、九郎と弁慶はしきりに感心して、シュビの説明に聞き入った。
やがて、亀井六郎や海尊たちも起きてきたので、弁慶は、今シュビから聞いた話を受け売りで彼らに説明した。
「その羊の血を馬乳にまぜて飲む、というのは、わしにはどうにも無理のようだ」
痩せ型の亀井は、顔をしかめて横を向いた。
「なに、慣れれば塩気があって、うまいものでござる」
シュビは笑いながら言った。
「クルムセではなく、モンゴルという名に変わったのか?」
海尊が話題を変えた。
「古くはクルムセ、と称して居ったそうでござるが、今はモンゴルと称しており申す」
「幾多の攻防があり、民族の盛衰があったのであろう」
九郎は、遠くを見つめながらつぶやいた。
「たくさんの部族が草原に散らばっており申す。われらが辿り着いたのは、その中の一つで、モンゴル族でござった」
「ここから、何日くらいかかるのだ?」
弁慶が、シュビやサブタイの苦労に思いをはせながら、静かにいった。
「ゆっくり歩いて、十数日でござる。途中山越えがござるので、狼どもと戦いながらの旅になり申す」
「油断が出来ないのだな」
「狼どもが襲ってくるときは、犬どもが教えてくれるので、寝て居っても、心配はせずとも済むのでござる」
「なるほど、犬の鼻はたよりになるからのう」
「虎は襲ってはこぬのか?」
九郎が聞いた。
「虎というものはたいてい一頭で住んでおりますゆえ、こちらが大勢いる場合は、けっして襲っては来ないのでござる」
「人間の五倍もある大きな虎が、何十頭も群れをなして、襲ってこられたのでは、たまらぬからのう」
弁慶の大声に、みなが一様にうなずいた。
「さすがの弁慶も、虎だけは恐ろしいとみえるの」
九郎がからかった。
「いや、一頭なら別に恐ろしい、とは思いませぬが、群れをなして、囲まれたのでは、戦いはさぞ疲れるであろうと、思いまして」
弁慶の強がりに、みながどっと笑った。モンゴルに、今ものこる巻き狩りと、相撲、それに緑茶をのむ習慣は、九郎と弁慶たちが残したものである。山越えがあって楽な旅ではなかったが、サブタイの待つブルカン岳のふもとに着いたのは、二週間後のことであった。
「三郎!」
「殿!」
二人は、しばし見つめあった。三郎と弁慶は抱き合った。平泉の武士五十人は、みな無事であった。九郎は、その一人ひとりに声をかけ、労をねぎらった。そして、サブタイが部下としたクルムセの兵の一人ひとりにも、声をかけることを忘れなかった。
女たちや子供たちも、ぞろぞろと天神様を見にあつまってきた。遊牧民たちは家族と全財産を持って、サブタイの下に集まっていたのである。
顔つきといい、背丈といい、日本人とあまりかわらない遊牧民を見て、九郎は安堵の思いであった。この人々の中へ溶けこんで、遊牧民になりきろう、とあらためて決心をした。
バイカル湖の南東にブルカン岳が位置する。バイカル湖は三千万年の歴史を持ち、世界一透明度が高いといわれる。琵琶湖の四十七倍の大きさである。湖の東は草原がひろがり、その先は峩々たる山脈がつらなり、山脈からは急流が群れをなして集まり、アムール川の源流となる。
この急流の一つがオノン河であり、少し緩やかに流れる平地に、サブタイの本拠地があった。モンゴルを中心としてみると、バイカル湖に近い北方に、メルキト部族があり、東方にタタール部族、南方にケレイト部族、西方にナイマン部族が位置している。
民族的には北方の民はツングース族で、森林地帯にあって、漁師と猟師を兼ねていた。モンゴル族は馬や羊の牧畜をする遊牧民となり、西方のトルコ族は、牧畜と耕作にくわえて、製鉄をはやくから始めていた。
余談になるが、トルコ族は後に、オスマンという名の指導者に率いられて、現在のトルコ半島に流入する。そして、指導者の名をとって、オスマン・トルコという国を作る。現在のトルコ共和国の前身である。
モンゴル族にかぎらず、どの部族も家族、血縁関係で、小さな集団をつくり、離合集散をくりかえしていた。妻は他の部族から迎えることが、通例となっていたが、多くは略奪結婚であり、うまくお見合いがまとまった場合でも、略奪の形式をとることが、ならわしとなっていた。
「最初の女房は、いい女だったのですが、惜しいことに略奪されてしまいましてね。今の女房より、少し年をとっていましたが」
サブタイが、西の彼方にしずんでゆく夕日を見つめながら、しみじみとした口調で言った。
「苦労をかけたのう。しかし、わしが来たからには、もうそのような苦労はかけぬぞ」
九郎は、丸みを帯びたながい地平線を見つめながら、力強く宣言した。九郎一行が、サブタイの本拠地に到着したのは、初夏であった。初夏とはいっても。北国の、しかも平均千五百メートルの高原であるから、日本の本州のような、蒸し暑さを感じる気候ではない。
長い冬がおわって、春という言葉を実感できるのは、もう雪のふる心配のない、家畜の飼料の心配をしないですむ、心はずむ季節になったときである。
九郎は、草原に芳香がただよっていることに気がついていた。韮科の丈のみじかい草が、それぞれうす紫色の小さな花をつけて、蒙古高原をおおいつくしているが、この花が芳香を放っているのである。
「このようなよい香りのする土地は、日本中どこにもないであろう」
といった。弁慶もしきりに感心して
「こんなによい所とは知らなんだ」
と、最大級のほめ言葉が、口をついて出た。草花のじゅうたんを敷きつめた草原は、風のさわやかさに加えて、空が真っ青で、限りなく広がっていた。たなびく白雲までもが、香るような気がするほどであった。サブタイが
「これからの二、三ヶ月は良い季節でござるが、秋からはまた大変なのでござる」
と一年間の季節を説明しはじめた。夏は暑いとはいっても、空気が乾いているので、過ごしやすいが、あっという間に、このよい季節がおわって、秋はすぐに雪がふりはじめる。夏は家畜類はみなふとるが、秋からは徐々にやせてゆく。
草は枯れても栄養価はあるが、量がへってゆき、次第に雪の下にうずもれてゆく。地元の人々の話では、雪の量のとくに多い年は、家畜が全滅してしまうこともあるという。
何年かに一度くらいの割合で、大雪がふる年は、羊や牛を山の頂へ追いあげて、烈風のために雪が吹きとばされた場所で、露出している枯れ草を食べさせる。馬はひずめで雪を掻くことができるので、むしろ雪の少ない低地に連れてゆくが、牛や羊はそれができない。
しかし、山頂はそれだけ気温がひくいので、寒さが本当にひどいときは、牛の頭が割れたり尻尾が凍ってちぎれた、などという話があるほどだという。
「想像していたより、きびしい土地柄じゃのう。しかし、その冬をしのげば、また春になるのだから」
九郎はいまだ実感が湧かないらしく、のんきそうに言った。
「その春でござる。それがしも経験したばかりでござるが、冬の間に、すべてを食べつくしてしまって、枯れ草もなくなってしまうので、春先は家畜がやせ細ってしまい、病気にもかかりやすくなるので、辛いのでござる」
「そうか、わずかな期間しか楽ができないのだな」
九郎はさすがに考えこまざるを得なかった。気候のおだやかな日本とは、比較にならないきびしい風土を、認識せざるを得なかった。エゾ地での冬は経験したが、アイヌの生活が、漁労と狩猟にあけくれる生活であって、家畜の放牧ではなかったから、九郎の頭の中に、家畜の飼料の心配は入っていなかった。
「農耕は無理なのか?」
「この国は、丈のみじかい草しかはえない草原と、砂漠が大半で、砂漠の中のオアシス地帯は、農業が行えるのでござるが、あまり多くはありませぬ」
「しかし、あちこちを放浪して、遊牧をして居ったのでは、強い勢力を作りあげることが、難しいのではあるまいか」
弁慶が最大の関心事とばかりに、口をはさんだ。サブタイは考え深い顔つきで
「そこでござる」
と切り出した。
「それがしも冬の間中、思案をいたしておった。向こうに見える山が、ブルカン岳と呼ばれておりもうすが、あの山のふもとに川が流れていて、周辺にあまり広くはないながら、農耕ができる場所がござる。
あの辺の森林は野獣の住処になっており申すが、森林が育つということは、農作物もおおきく育つ、ということでござるから、あれを切りひらいて農耕を行い、あるいは家畜を育てて、遊牧をしなくても良いようにすることも一法か、と存ずる」
牧草も水があれば野草の二倍、三倍に成長する。オノン河、ケルレン河の流域を開拓すれば、穀物や野菜も作れるであろう。穀類や野菜を食べるようになれば、羊や牛を食料にする分がへり、これを交易にまわすことが可能になる。
遊牧から定住へ。これがなくては、富強な集団を作りあげることはできない。九郎はブルカン岳をながめながら、モンゴル統一を頭に描いていた。
「ブルカン岳には、狼がたくさん棲息しておると聞く。狼退治から始めるかな」
「殿は、狼の害までご存知で?」
「いや、出迎えのシュビから聞いたし、蝦夷地でも狼の害には、実際に出会うておる。冬は特にひどくなるから、家畜を低地につれてゆき、囲いの中で犬どもに守らせる。
刈りとった牧草を保存しておいて、与えることも考えようではないか。狼どもも平地におびき寄せれば、駆除することは造作もないことだから」
「牧草がたくさん作れれば、羊や牛馬もどんどん増えること、請け合いでござる。しかし、この国の人間は牧草を育てたり、農耕をしたりすることは、決していたしませぬ」
「明日はみなのものは休ませて、われわれだけで、ブルカン岳の麓へ行ってみようではないか」
「殿は長旅で、お疲れではござりませぬか」
「わしは大丈夫だ。弁慶はどうかな?」
「それがしの体は、疲れというものを覚えたことがござらぬ」
弁慶は不服そうに、二人に顔をむけた。
「今夜、馬乳酒をたっぷり飲めば、疲れなどふっとんでしまうわ」
サブタイは弁慶に笑いかけた。翌朝シュビを留守居役にして、九郎はサブタイと弁慶をしたがえて、集落を出発した。大陸性の気候は寒暖の差が大きいために、早朝は濃霧が発生する。
四、五メートル先しか見えないほど濃い霧であった。サブタイが先に立って馬を進める。九郎がつづき、弁慶があとに従った。一時間も進んだ頃、ようやく霧が晴れて、かなりつよい陽光に包まれた。
朝霧にぬれた草花は、生き生きとした緑の葉をひろげて、太陽をいっぱいに受けとめようとしていた。無数の家畜にふみかためられて、草原はでこぼこであったが、騎馬にとっては進みにくくはなかった。
そのとき、前方に巨大な虹があらわれた。この虹は空にかかるのではなく、地上から天に向かって垂直につっ立っていた。しかも、幅がひろく七色の色彩が鮮明で、キラキラと輝いていた。九郎は馬をとめて虹を指さした。
「虹というものは、空にかかるものと、思いこんでおったが、ここでは垂直に立ちあがるものなのか」
「空にかかるものもあり申すが、時たまこういうのも見られ申す」
サブタイが答えた。
「それにしても大きいな。こんなに大きい虹など想像もできないが・・・、弁慶、おぬしはこんなにはっきりして、大きいのを見たことがあるか?」
「いえ、とんでもない。こんなのは、日本には決してないものでござる」
弁慶も、口をあけて見とれていた。
「あ、あっちにも!」
弁慶が指さすまでもなく、左手のほうにも、巨大な虹が半円にかかった。しばらく進むと、地平線上に雲が垂直につっ立った、というより雲がまるで袴をはいて、地上に降り立ったような光景であった。
「神が、地上に降臨されたのであろうか?」
九郎の言葉に、サブタイも弁慶も返事を忘れてみとれた。思わず手を合わせたくなるような光景であった。
「それがしもこんな雲を見たのは、初めてでござる」
サブタイが、しばらくしてからつぶやいた。
「天神様が空から降臨される、と散々ホラを吹いてきましたが、この国の人々がそれを信じる意味が、今にしてよーくわかり申した。」
「わしはあの雲にのって、やってきたことになるのだな、おそれ多いことだ」
九郎は、ごく自然に手を合わせて、頭をたれた。弁慶もサブタイも、九郎に見習った。樹木が繁茂したブルカン岳はさして高い山ではなく、騎馬で踏破するのに手ごろに見えたが、狼だけでなく虎や熊や猪なども生息しているので、うかつに近づけないという。
「この国は、土地というものを、領有する習慣はないのか?」
九郎の問いに対して、サブタイは一瞬返答につまった。
「部族というものが、いくつにも分かれておりますゆえ、大雑把には領域というものはござりますが、その領域に踏み込んだからといって、争いになるような事もないようでござる」
弁慶は、それを聞いて大きくうなずいた。
「遊牧民というものは、大らかなものだな。自分の家畜とゲルだけで、土地というものは財産だとは考えないのか」
鎌倉の御家人たちは土地争いが日常茶飯事であり、それが紛争の最大のものであった。
「われわれがブルカン岳のふもとを開拓して、領有権を主張しても、だれも文句を言わないのだな」
九郎は、サブタイに念を押すように言った。
「その土地を奪おうとするものは、出てくるかもしれませぬが、それに対しては、武力で応える以外に道はありませぬ」
「それは面白い。それでこそこの国は魅力的なのだ。秀栄公の言われたとおり、順次各部族を平定してゆけばよいのじゃな」
九郎は自信にみちた表情でうなずいた。はるか昔にはモンゴルでも鉄や青銅を使って、武器や種々の器具をつくっていたが、この時代はすべて他国から輸入するようになっていた。
九郎は武器をこそ、自前で作るべきだと考えていたから、数すくない工匠をあつめて、早速製造に取りかからせている。二千年からはじまったジンギス汗の遺跡調査で、東京ドームの約十倍ほどの製鉄所跡が発掘されている。 
モンゴルの人々は羊肉ばかりを食べていたわけではなく、若干ではあったが穀類をたべる習慣はあった。自分ではつくらず、回教の商人から買いいれていた。交易は大部分が物々交換であったが、一部には貨幣もつかわれていた。ただ、貨幣は極端に少なかったので一般化しなかった。
遊牧だけでは貧しかったので、狩猟もおおきな部分をしめている。犬と鷲と鷹をつかって獣や鳥をとらえる生活は、農耕民族からみると自由で格好よく見えるものであったが、実際には貧しさから抜けでることはなかった。
九郎は遊牧と狩猟による経済の限界を、すばやく見抜いていた。農業と工業をおこし、交易をさかんにしなければ、貧困な弱小部族にすぎないことをよく理解していた。
さいわい蒙古高原は、西域と中国との通商ルートに当たっていたから、商人たちの安全を保障し、彼らを優遇してやれば、いずれ貧困からぬけだし、沢山の兵を養うことができるようになるであろう。
そして、現在の無秩序無政府状態をただし、小集団の遊牧民たちをまとめて、大集団をつくり、平和でゆたかな生活を作りだすことこそが、この蒙古高原を統一する基礎になると考えていた。この九郎の目のたしかさが、モンゴルに奇跡をうみだす素因になったのである。
「これからは遊牧と並行して、農業も交易も行うことだ。武器や衣服もつくろう。ばらばらに住んでいる集団を、まとめて大きな勢力をつくりだすのだ」
そばで弁慶が大きくうなずいた。
「ゆくゆくは、この大草原の部族をひとつにまとめて、モンゴル王国を作ることでござるな。鎌倉の思惑など気にせずに、殿を天下人とあおいで、のびのびと生きられるのでござるな」
「その通りだ。弁慶にもサブタイにも、鎌倉などという手かせ足かせもなしに、大いに働いてもらうぞ」
九郎の言葉に、二人は大きくうなずいた。黄金の鷲にのって、天から舞いおりたといわれるテムジンの降臨は、遊牧民の間を風のようなはやさで伝わった。迷信ぶかい遊牧民は天神様を一目みたいと願い、しかし恐れた。テムジンは女子供にもやさしく、心のひろやかな神様である、という風聞が風のはやさで広がると、幕下に入りたいという希望者が一群、また一群とあらわれた。
皆、ゲルをたたんで馬や羊の群れと家族をつれてやってくる。他部族の侵略から守ってほしいのである。三ヶ月のあいだに兵数が一千名をこし、家族をふくめると四千名ちかい集落になっていた。
サブタイの言うとおり、テムジンは一年の間に草原の有名人になっていたのである。九郎は考えた。日本では源氏の御曹司であり、判官で通ったが、この異国にあって、自分にはなにもないのである。
弁慶のように雄偉な体格をもち、立派な髭をはやしていれば問題はないのであるが、五尺そこそこの身長にくわえて、痩せ型で、しかも平べったい顔に髭がうすい。どう見ても、遊牧民たちを威圧できる風貌ではない。そのことは自分が一番よくわかっていた。そこでサブタイに相談すると、
「それでは、丈のたかくなる靴を作らせましょう。背丈の高くみえる帽子も、かぶっていただきます。肩当て、腹当ても用意させます。夏はあつくてお辛いことと存じますが、冬は暖かくていいはずです」
という返事であった。できあがった靴は三寸もたかく作ってあって、なれるのに一苦労であった。帽子は二尺もあって先がとがっている。腹当て、肩当てをつけると、ようやく、シュビと同じくらいの大きさに見えた。当時の遊牧民の平均身長は五尺一、二寸であったから、彼らの中で特に見劣りするようなことはなくなった。
「ようお似合いでござる」
と、弁慶はからかい半分で、笑顔を見せた。
「本当は似合わない、と思うておるのであろうが」
「いえいえ、とんでもない、それがしは嘘などけっして申しませぬ」
「ふ、ふ、ふ。ところで、弁慶の名はどうするかの」
「それがしは・・・、ベンケイでよろしいのでは」
「そうだのう、ベンタイでもケイタイでも、何か実感がわかぬのう、やはりベンケイが良いか」
弁慶は、ベンケイからベンケとなり、後年ジェンケ、ジェべと変化して伝えられる。テムジンと十歳しかちがわないシュビは、もちろん本当の子供とは思われず、名付け親という制度のない草原にあっては、どこかで貰ってきた子供であろうと、一般には見られていた。
それが後年、テムジンの女房がうばわれて、敵地で生んできた敵将の子供、というような逸話に変化して伝えられたのであろう。亀井六郎はサブタイにならってロクタイ(後にベルグタイ)と名のり、常陸坊海尊はカイソン(後にカサル)と名のった。
ほかの部族は、天神をおそれて攻めてこなかったので、一年間は平穏にすぎ、いつの間にかテムジンの兵は千数百名にふくれあがっていた。
平泉ではこの年、文治五年四月三十日に九郎は死んだことになっている。送られてきた首に対して頼朝は、もちろん信用しなかった。九郎館が、金色堂や泰衡の居所とあまりにも近い。
藤原家の二万人の大軍が集結するまで、九郎が家の中でぼんやりしていたなどは、とても信じられる話ではなかった。頼朝の諜者は、九郎が一年前から平泉を出奔してしまっていることを伝えてもいた。
頼朝はすぐに使者をおくって偽首のうたがいがある旨をつげさせ、平泉の戦力をそぐために、忠衡の首を要求している。彼は、国衡より忠衡をおそれていた。この要求がいれられないことを知ると、すぐに四十万人の大軍をひきいて平泉に向かった。頼朝が総大将となっている。 
一年前から九郎がいないことを、充分にたしかめた上での行動であった。平泉の総大将国衡は、連戦連敗して奥地へ逃げこんだ。泰衡は逃れる途中で、数名の部下におそわれて首をとられた。主の首をとって恩賞にありつこうとした部下たちは、頼朝に首を斬られた。 
頼朝は、泰衡の首を晒し首にするべく、額に釘を打ちこんで河原にさらした。しかし、泰衡の怨念をおそれたためであろうか、金色堂に安置されている父秀衡の棺の中に首をおさめて引きあげた。
昭和二十五年に、歴史家や文化人の立会いのもとに秀衡の棺が開棺されるまで、この首は三男忠衡の首であると考えられていたが、額の釘跡がきめ手となって、泰衡のものであることが判明した。
旧暦八月に平泉を征服した鎌倉軍は、九月に鎌倉へ凱旋した。総大将国衡の首はあがったが、どうやら影武者のものらしいという噂が立った。忠衡の首は、結局あがらずじまいであったが、平泉が完全に消滅したことに頼朝は満足していた。

翌文治六年(一一九0年)春、平泉の敗軍をあつめて、国衡と忠衡は約一千名の兵をつれて、蒙古の草原にあらわれた。とつぜんの来訪に九郎はおどろいた。二人から平泉の敗北と消滅をきかされて、九郎の涙は止まらなかった。翌日、泰衡の霊と九郎の影武者として首を斬られた、杉目太郎行信の霊をとむらう葬儀が行われた。
「九郎殿を、平泉にお引き止めしさえすれば、鎌倉軍などには決して負けはしなかったものを、と思うと悔しくて、悔しくて、なり申さぬ」
忠衡は、九郎と二人きりになったときに、はじめて涙を見せた。九郎は頭を下げた。
「それがしさえ居なければ、とそればかりを考えておったことが悔やまれる。わしは今、はじめて頼朝に対して、はげしい怒りを憶えるようになった。兄弟の情を信じ、いずれ分かってもらえる、とのみ信じて居ったわしが、うぶであった。
頼朝は、兄弟の情を踏みにじり、人の情をたちきって、鬼となってしまったのだ。そういう人間だと分かっていたなら、奥州十七万騎をもって、わしが鎌倉を陸と海から攻めて、完膚なきまでに叩きのめしたものを」
九郎の目から、涙がとめどなく流れた。
「国衡、泰衡二人の意見が絶えず分かれて、平泉の将士はどう動いてよいのか迷ったことが、完敗の原因であったと思われます。父のいない平泉は、まったく無力でありました」
「そうであったか。なれば、わしが居っても同じであったであろう。秀衡公の御下知によって動くのでなければ、わしも力を発揮できるものではない。しかし、秀衡公の恩情に、何一つ報いることができなかったことは、わしも口惜しゅうてならぬ」
「父と九郎殿の、お二人が居られたならば、鎌倉殿は決して、攻めて来はしなかったと思われまする。逆に、いつ鎌倉を攻められるか、戦々恐々としていたでありましょう」
「過去を振り返ってみれば、わしは、どこまでも甘い人間であった。兄者こそがわしの真の敵であることに、今の今まで気がつかなかったのだから。なんということだ。過ぎたこととはいえ、今すぐにでも日本へ戻って、兄者を斬り殺してしまいたい」
テムジンのゲルは、特別に広く作られてはあったが、入り口近くにひかえるベンケイにもサブタイにも、二人の会話は手にとるように聞こえる。
「ようやく殿は大人になられた。もっと早くから、本当の敵が頼朝殿であることに気がついてくだされば、奥州十七万騎を背景として、頼朝殿の上に立てたのだ。黄瀬川に参陣するときに、郎党がわれわれを含めて二十騎しかいなかったことから、この運命が決まっていたのだ」
弁慶はしみじみした口調で言った。
「殿は純粋なお人なのだ。おぬしのように、政治というものが分かるようには、生まれついておられない。ま、そこが殿の良いところで、われわれが命がけでついてきたのも、よく考えてみればそういうお方だったからなのだな」
サブタイも、珍しくしんみりした言い方をした。
「しかしサブタイよ、殿が政治というものに目ざめ、人の情におぼれなくなったら、無敵だと思わぬか」
「それはそうだ、テムジンに敵うものなんか、この地上には一人もいないさ」
「そうだろう。となれば、日本だの平泉だのは忘れて、このだたっぴろい大陸に、白旗を立て連ねようではないか」
「そうだ、この草原の果てはどこまでつながっているか知らぬが、往けるところまで、すべて白旗を立て並べてやろうぞ」
思わず大声になってしまったことに気がついて、二人は九郎にむかって頭を下げた。九郎は涙をぬぐって、二人の会話を聞いていた。
「ベンケイ、サブタイそのとおりだ。忠衡殿、ともに力を合わせて、この大陸にわれらの王国を作ろうではござらぬか。わしは今日かぎり、九郎義経であったことを忘れよう。本当の意味で草原のテムジンになりきろう。」
忠衡も涙をぬぐって、明るい目をあげた。国衡、忠衡と約一千名の兵士は約二ヶ月間テムジンの部落に滞在したが、やがて、ゲルを引き払って北方へ去った。北方とはいっても、さほど遠い場所でもなかったので、両者の友好関係はしばらくの間つづいた。国衡はジャムカと名乗った。賢者という意味のモンゴル語である。ジャムカは、周辺の部族をしたがえて勢威をはった。
南方のケレイト部族には、トオリル・カンの数千名の勢力があり、西方にはナイマン部族が強大な兵力を持っており、テムジン、ジャムカと共に蒙古高原を四分する勢力であったが、トオリル・カンは金国からワンカンの称号を与えられていて、草原の王者であることを自認していた。
表面的には四勢力は協調体制をとっていたが、ジャムカが水面下で、複雑な動きをし始めていて、協調関係がむずかしい様相になってきた。
ジャムカは、テムジンの勢威をねたんでトオリル・カンに接近した。しかし、彼はすでに六十歳を越し、若いテムジンを息子のように思っている一面もあったので、ジャムカの、テムジンを倒そうとする話には乗らなかった。
トオリル・カンに断られたジャムカは、まともに戦ったのではテムジンに勝てないことがわかっていたし、忠衡の反対もわかりきっていたので、密謀によって殺そうと考えた。それを知った忠衡は約百名の部下をつれて、ジャムカの宿営を脱走してテムジンの下へ走った。
「ようこそ教えて下された。国衡殿には心を許していたから、知らせて下さらねば、このテムジンも死体となっていたであろう」
九郎はそういって、忠衡に感謝した。忠衡の脱走を知ってジャムカは激怒したが、この怒りは、兵の心を彼から離れさせる結果になった。平泉からついてきた侍たちは、国衡より忠衡にしたがう気持ちが強かったし、九郎の人気も高かったから、次々と脱走するグループが出て、結局平泉の兵はほとんど脱走してきてしまった。
残ったのは、ジャムカが征服した遊牧民の兵だけで、五百人に満たなかった。これだけの勢力では、トオリル・カンか、ナイマン部族に踏みつぶされることは自明の理であるから、ジャムカは泣く泣くトオリル・カンの下に走り、その臣下とならざるを得なかった。忠衡はテムジンに申し出た。
「もうこれからは泉三郎忠衡ではなく、弁慶殿や伊勢殿のお仲間として、お扱いいただきたい。アイヌ語で仲間のことをウタリと申します。これからはウタリ、とお呼び捨て願いたい」
「ウタリか・・・、かたじけない。秀衡公の御三男を家来にすることなど、どうあってもできる相談ではないが、お申し出を多として、これからはウタリ殿と呼ばせていただく」
後年、ウタリはムカリとして史書にのこった。テムジンは妻ボルテをめとった。ボルテとの間に男子が生まれたが、のちにジンギス汗の後継者となったのは、二男のオコタイ(オゴタイ、ウグデイ、エゲディなどと変化して伝えられる)である。
オコ、すなわちお子であり、タイは敬称である。したがって、本当の名前は別にあるものと考えられるが伝わっていない。ボルテはフジンと呼ばれた。すなわち夫人である。 
オコタイが三男となっている史書は、名付け子のシュビ(後にジュチ)を、長男としているためである。長男チャプタイ、三男ツルイは第一夫人ボルテとの間の子供ではないため、生まれたときからオコタイは別格のあつかいを受けていた。テムジンは三人の男の子に差をつけようとせず、平等に育ててきたが、周囲の目がはじめから違うのである。
メルキト部族を平定した際に、この部族きっての美人といわれる娘をもった男が、娘を献上する旨を申しでてきた。テムジンは娘を差し出すよう命じた。しかし、娘はそれを知ると家をとびだして、どこかに隠れてしまった。
テムジンは兵をさしむけて探させた。十日ほどして発見された娘はテムジンの前に引き出された。娘は、頭から足の先まで泥だらけであったが、容姿が優れていることだけは隠しようがなかった。娘はクランと名乗った。
「十日間もどこに隠れていた?」
テムジンの詰問に対して、クランは自分が隠れていた部族名をいくつかあげた。
「どうして、一ケ所に止まっていなかったのだ?」
「どこへ行っても、部族の男どもが自分に襲いかかってきた。男という男は、みな野獣と変わりない」
戦いが終わったばかりである。男どもはみな殺気立っていたから、若い娘が独りでいれば、どういう結果になるかは、火を見るより明らかである。
テムジンは、自分に体をささげることを拒否して、かえってほかの部族の男どもの、慰み者にされてしまったこの娘に対して、怒りを隠さなかった。自分が征服した部族の女に、拒否されたことははじめての経験であった。
「お前も、お前を犯した男どもも、全部ひっとらえて処刑してくれる」
とテムジンは怒鳴った。するとクランは
「自分は、男どもに犯されてはいない。なんども死を覚悟して、男どもと戦って体を守ってきた」
と叫んだ。しかし、テムジンはクランの言うことを信用しなかった。そんなことができるとは、とても考えられなかった。クランは
「どうしても信用できないなら、自分の体を調べてみればわかる」
といった。クランは落ちついていた。死を覚悟している様子が見られた。テムジンはクランを民家の一室に閉じこめておくよう部下に言いつけて、その場を離れたが、この娘の容姿に強くひきつけられている自分に腹を立てていた。ニ、三日して、彼はクランの部屋を訪れた。彼女は、テムジンを見るとするどい叫び声をあげた。
「入らないで、この部屋に一歩でも入ったら、私は死にます」
「どうやって死ぬのだ?」
「舌を噛み切ります」
そういわれて、さすがのテムジンも動けなかった。この娘は、本当に舌を噛み切りそうだと思った。髪は金髪で、目は青く、彫りのふかい聡明そうな顔立ちは、ボルテよりはるかに美しいと思った。
テムジンはあきらめて帰ったが、翌日から毎日クランを訪れるようになった。敵の捕虜である女を、自由にできないもどかしさに怒り狂ったが、クランを処刑する気にはなれなかった。メルキト部族の平定のためにモンゴル軍は二ヶ月間とどまったが、故郷へ帰る前の日に、テムジンはクランを訪れて言った。
「わしは、お前のような女に出会ったことがない、お前と一緒に暮らしたい」
「それは、愛ということでしょうか?」
「そうだ」
「他のいかなる女より愛している、ということでしょうか?」
「そうだ」
「あなたの奥さんより、愛しているということですか?」
「どうもそうらしい」
「それが本当なら、私を抱くがいいでしょう。もしそれが偽りなら、私はいつでも舌を噛み切ります」
テムジンは勇気をふるって、クランを抱きしめた。意外なことに、彼女は処女であった。あの戦乱の中で十日間も逃げ回っていて、野獣の群れから身を守れたことは、奇跡であった。 クランの体には、打撲の跡が数えきれないほど残っていた。テムジンはあらためて、クランをいとおしく思うのであった。
クランは、敵からの略奪品を欲しがらなかった。珍しいものや、価値あるものの中から、好きなものを取らせると言っても
「奪われた人たちの恨みを買いたくないし、これらは、留守を守っているボルテに与えるべきです。私は何も要らない」
と言いはった。この姿勢は死ぬまで変わらなかった。そのかわり、出陣するときは必ず自分をつれて行くよう要求した。

四、狼群との闘い
遊牧民の子供たちの中に、ひときわ体が大きく、聡明な子供がいた。名をトガチャルという。モンゴルでは、昔から最近まで、姓をもたずに名だけの伝統があった。
トガチャルは、ふだん自分を強く主張したり、食べ物や衣服を兄弟や仲間と争って分け取りするようなことは、一度もしたことがなかった。にも拘らず、相撲や巻き狩りのときは、真っ先に飛びだしていって、見事な働きをしたので、テムジンは、彼に特別に目をかけていた。
テムジンの娘お真は、彼より五才下であったが、彼を兄のように慕っていたこともあって、大人になったら二人を一緒にさせても良い、と考えるほどの気の入れようであった。 
お真は平泉で母に死なれ、蝦夷地にわたるときは亀井六郎の背におぶさり、彼を親のように思って成長した。蒙古高原に足を踏み入れたのが四才であったから、言葉や生活習慣にはすぐになじんで、日本人であることをほとんど意識せずに育っていた。
お真は生まれつき気が強く、また俊敏であったから、女の子たちと遊ぶより、男の子たちの仲間に入って遊ぶほうが好きだった。それも男の子たちを子分にして、木登りや鬼ごっこや、ちゃんばらごっこをして育っていた。 
それでも、力のつよい男の子とあらそって痛い目に合わされると、トガチャルに助けを求め、トガチャルは、乱暴を働いた男の子に制裁を加えることもあったが、多くの場合は話をして聞かせて、乱暴をさせないようにしたから、腕白どもの信頼を得ていた。
お真は、十歳を過ぎた頃から父親に反発しはじめた。第一夫人ボルテのほかに、数十人の女を囲っていることに、気がついたことが一番の原因である。彼女はボルテに好意を持っていた。
おおらかな性格のボルテは、テムジンがほかの女に産ませた長男チャプタイと、自分が産んだオコタイを、表面的には同じように愛していたし、お真に対してもいつもやさしい態度で接していたから、お真も良くなついていた。
それだけに、父の好色に対してゆるせない気持ちが、余計強くなっていった。テムジンにしてみれば、京にいたときでも、二十五人もの女に通い散らしていたし、河越氏の娘という正妻がありながら、堀川館という公邸で静御前と暮らす、という無法ぶりであった。
したがって、この高原へきても、生活態度をかえる気はさらさらなかった。それどころか、戦いのたび毎に女の数はふえる一方であった。
お真は早熟であったから、この父の所業を不潔で、神仏をおそれぬ悪行だと感じていた。父と顔を合わせることがあっても、口をきこうともしない時期がしばらくつづいた。テムジンがそのことを弁慶に愚痴ると
「もうしばらくの辛抱でござる。おなごというものは、男に抱かれて女になると、父親のよさがわかりはじめるし、父親の権威が数多くの女を侍らせることを、理解するようになり申す」
といって、年上の貫禄をみせて慰めるのが常であった。父に反発するお真のなだめ役はトガチャルであった、
「大将は立派な人だと思う。部下の一人ひとりに対して優しいし、失敗した人をあまり責めたりしないもの。それに、お真に対してだって、優しいじゃないか」
テムジンを殿と呼ぶのは、昔からの郎党だけで、アイヌの兵士やモンゴルの人たちは、彼を大将、と呼ぶことが習慣になっていた。タイショウは、現代までつづいている。小矢部全一郎氏は、大正時代に、モンゴルを隈なく踏破して、現地の人々に確かめている。  
モンゴル人に、ジンギスカンの肖像画を見せて、「この人は誰か?」、ときくと、「タイシャア」、という返事が返ってきた、とその著書「成吉思汗は義経なり」の中で書いている。同じモンゴルでも、北方の人々は、ジンギス汗より、クロウの名をよく知っている、とも書かれている。
「優しければいい人だとは思わない。ボルテにだけ優しくすれば良いのに、女という女、みんなに優しいんだから」
口を尖らせるお真に、トガチャルは答える代わりに、肩を優しく抱いてやるのが常であった。そうされると、お真はふっと表情を変えて、父に対する苦情をやめた。
「トガチャルは、シュビと相撲をとって、勝ったそうじゃない?」
「一回だけ勝ったけど、あとは全部負けた。あれはわざと負けてくれたのだと思う」
「今にシュビより強くなるわよ」
「シュビはベンケイやサブタイと闘っても、互角に近くなってきているそうだから、とても、わしには勝てるわけがないよ」
「でも何回もやっていれば、そのうちに追いつくわよ」
「あの人たちのように強くなりたいな。ベンケイやサブタイは、素手で大猪を捕まえるという話を聞いたことがあるけど、本当にすごいなあ」
「すごいわね、あたしも強くなりたい」
「お真は弓矢もうまいし、剣の扱いもうまくなったよ。大将に頼んで、戦いに連れて行ってもらうといいよ。ところで、前から一度聞きたいと思っていたんだけど、大将はニロン族の出身だ、という噂を聞いたけど、本当なの?」
「そうよ。私が四歳のときに、日本からやってきたのよ」
「日本というのはどこにあるの?」
「海の向こうよ。蝦夷海(間宮海峡)を通ってきたのよ」
「そうか、道理で、大将の言葉遣いが変だと思った。日本という国から、船に乗ってやってきたんだね?」
「三百人の兵隊と馬を乗せて、やってきたのよ」
「大将は日本から来たから、米や粟を食べたり、緑色のお茶を飲んだりするんだね」
「クミス(馬乳)も飲むし、羊の肉も食べるけど、やっぱり、お米を煮て食べるのが好きのようね」
「海って、どんなものなんだろう?」
「私、小さい頃だったので、あんまり良く覚えていないけど、オノン河の何倍も、何十倍も広かったことだけは、覚えているの」
「きっと、すごく大きな船だったんだろうね。日本はモンゴルより、文明が進んでいるんだろうね」
「よくわからない」
「弁慶やサブタイは相撲が強いし、日本から来た人達は、みな弓矢や剣の使い方がうまいから、きっと文明が進んでいるんだろう」
「トガチャルも弓矢は上手ね」
「だけど、剣と相撲は、あの人たちには敵わない」
「父も相撲は強くないわね」
「でも、大将は剣が強くて、ベンケイやサブタイも、敵わないって聞いたよ」
「私も見たことはないんだけど、強いらしいわね」
「わしは相撲より、剣が強くなりたいんだ」
「トガチャルは、父のようになりたいと思っているの?」
「大将のようになれたら、そりゃあすごいけど」
「父のように、女をたくさん持ちたいの?」
「わしはそうは思わないけど、大将は権力者だもの、権力を持てば、女を沢山持つことが出来るのだから、仕方がないじゃないか」
「トガチャルも権力を持ったら、女をたくさん囲うの?」
「いや、わしはそんな気はないさ」
「うそ、権力を持って、父と同じことをしたいんでしょ?」
「わしは、お真さえ傍にいてくれれば、他に女は要らない」
「えつ、私と結婚したいの?」
「大将さえ許してくれるなら、お真と結婚したい」
それを聞くと、お真の顔が上気して桜色に染まった。彼女は何を思ったか、急に走り出して、傍につないであった馬に飛び乗ると、闇雲に走り出した。
お真のとっぴな行動にはなれているトガチャルも、呆然として見送っていたが、彼女の走り出した方向がブルカン岳の方角であることに気がついて、あわてて馬にかけよった。
日が西に傾いていた。森の中は、狼が徘徊し始める時間であった。ブルカン岳の森林の中には、狼の巣が何箇所かあるといわれている。虎も猪も住んでいて、兵隊が隊列を組んで通ることはあっても、女子供が単独で入っていくことは決してなかった。
トガチャルは必死になって森の中をかけまわった。お真が猛獣の危険を知らないはずはないのだが、突然の求婚に動転して、何も考えずに森の中へ駆け込んだとすれば、これ以上の危険はなかった。
お真は、トガチャルの言葉がうれしかった。しかし、まだ十五歳になったばかりの彼女にとって、求婚の言葉は重すぎて、まともに受け止めることが出来なかった。そのために、ブルカン岳の森の危険を忘れてしまっていた。
ハッ、と気がついて馬を止めたときは、正面に巨大なシベリア狼が、四肢を踏ん張り、黄色い牙をむき出して、低い唸り声を上げていた。群れのボスらしく、体重が百キロにもなろうという大きさで、頭部はお真の両腕で輪を作ったほどもある巨大な狼であった。
馬は狼を見ると、棹立ちになって悲鳴を上げた。お真は危うく落馬しそうになったが、身の軽さが幸いして、馬から飛び降りることが出来た。降りると同時に、腰から剣を抜き払い、正面に身構えた。
狼が一声叫び声をあげると、背後の藪が一斉に動いて、群れが姿を現わした。二十頭近くの狼群は、すばやくお真と馬をぐるりと取り囲んだ。どうやら、狼の巣に飛び込んでしまったらしい。お真は馬の背に飛び乗って、狼群を蹴散らして逃げようと考えたが、馬はピクリとも動かなかった。
狼の群れに包囲されると、馬は立ったまま気絶してしまう、ということを聞いたことを思い出したお真は、再び馬から飛び降りた。狼群の狙いはなんといっても馬である。人間は恐ろしい。
彼らの大嫌いな鉄の臭いをぷんぷんさせる刃物を持った、人間との接触はなるべく避けたい、とすべての猛獣は考える。他に食べるものが無ければ、勿論人間にも襲い掛かる。
しかしこの場合、まず邪魔な人間を追い払って、馬を手に入れることが第一であることを、お真は知っていた。しかし、よく見回すと狼群は二十頭を超える数に増えていたから、馬だけでなく自分も狙われている、と考えねばならなかった。
狼の群れはボスの動きにあわせて、じりじりとその輪をちじめてきた。お真はボスを睨みつけた。なんと大きな狼だろう。狼は見慣れていたが、こんな大きな狼は見たことがない。 
赤く充血した目と、むき出した大きな牙。狼の群れは、本当に飢えると、虎を取り囲んで脅して獲物を横取りする、という話を聞いたことを思い出した。この狼なら虎を恐れないかもしれない、と思った。
狼は犬に比べて、足は速くはないが跳躍力は素晴らしく、四、五メートルの柵は軽々と飛び越すことを思い出して、そばの大木によじ登ることも、諦めるしかなかった。
馬と一緒にかみ殺される、とおもうと、恐怖感が背筋を突き抜けてゆく。無謀な騎行を悔やんだが、すでに遅い。トガチャルは、きっと探しに来てくれるだろうけど、それまでどうやって持ちこたえるか。その時ふっと、テムジンの言葉が頭をよぎった。
「守るより攻めろ!敵より先に攻めろ。攻めることが、命を守ることにつながるのだ!」
お真はとっさに決心して後ろを向くと、背後を狙っている二頭の狼に向かって、剣を振り上げて襲い掛かった。不意を衝かれて、二頭は左右に分かれて飛んだ。
それに勢いを得たお真は、右に左に飛び跳ねるようにして、二頭の狼に切りつけた。剣が彼らに触れることはなかったが、彼らはお真の剣幕に恐れをなして、距離を置いて牙をむき出した。
お真は剣を正眼に構えたまま、慎重に一歩、二歩と後退し始めた。彼女が後ずさりすると見ると、二頭は攻撃態勢をとった。お真はそれを見ると、すかさず剣を振るって、襲い掛かるふりをしてみせ、又ニ、三歩後退した。
お真の目は目の前の二頭より、ボスを見ていた。もし、ボスが馬より自分に向かってきたら、群はすべて襲い掛かってくるだろう。二十頭もの狼を、防ぎきれるものではない。
ボスは二頭が人間をどうするか、を見ているに違いない。彼らの大嫌いな鉄の臭いと、夕日をはね返してきらきらと光る剣を見て、二頭が襲い掛かるのを躊躇している様子をみていた。
ボスは思案をめぐらせている様子であったが、少しずつながら後退をつづけるお真が、樹木にさえぎられて見えなくなると、意を決して馬の背に飛び乗った。
それが合図で、二十数頭が一斉に馬の背に飛び掛って、肉を食いちぎった。馬の腹部から内臓を引きずり出した小型の狼は、それをほかの狼に横取りされないように、大木の根方に走って、そこで飲み込んだ。
お真は、愛馬が四肢を踏ん張ったまま、あっというまに白骨化してゆく姿を、木の間隠れに見つめながら、じりじりと後退をつづけていた。
馬を食い尽くしたら、全員で襲ってくるに違いなかった。樹木の間から、狼も馬も見えなくなったところから、お真は後ろを向いて全力で走り出した。はるか遠くでひずめの音が聞こえた。
「トガチャール、トガチャール!」
お真は声を限りに叫んだ。
「おしーん、おしーん!」
と呼ぶ声とともに、トガチャルが猛烈な勢いで駆けつけてきた。
「トガチャル、狼が!」
その一声で、彼はすべてを察した。馬上からお真を抱き上げると、自分の前に座らせて、今来た道を猛然と走り出した。それと同時に、狼群が追跡して来た。
一頭の馬も、二十数頭の狼群の前に、あっという間に食い尽くされてしまったらしい。トガチャルはお真に手綱を預けると、背中から弓をとり、矢を番えて、背後に体をよじった。
ボスが、すばらしいスピードで追跡してきていた。約十メートル遅れて、ほかの二頭が追ってきていた。蒙古馬は頑丈ではあるが、いかにも小さい。二人を乗せた馬は次第に狼に追い上げられていた。
お真は必死に馬腹をけったが、思うようにスピードが出なかった。トガチャルは、ボスを充分にひきつけてから矢を放った。矢はボスの首に突き刺さって、巨大な狼がもんどりうって、地上に転がった。
その死体を飛び越えて、次の二頭が並んで追ってきた。その後ろに、二十頭くらいの狼が、ほぼ一列になって追いすがってくるのが見えた。トガチャルが、つづいて二本目の矢を放った。
これも狙いたがわず、右の一頭の胸板を貫いて、狼は二メートルも跳ね上がってから地上に転がった。次の矢は、左側を走って来た狼の右目を刺し貫いた。この狼は横に飛んで転がった。後から一列になって、追ってきていた狼群の動きが止まった。お真はその動きを知って
「あとの狼は追ってこないの?」
と聞いた。
「共食いだ。三頭倒したから、奴らは三頭を食い尽くしたら、また追ってくるんだ」
「自分たちのボスでも食べちゃうの?」
「ああ、ボスだろうが自分の子供だろうが、死んでしまえば肉の塊でしかない」
そのとき、樹木の間から草原が見え始めた。
「助かったぞ、もう大丈夫だ」
トガチャルの言葉に、お真は肩の力をがっくりと抜いた。自分のために犠牲になった愛馬の哀れな姿を思い出して、涙が溢れ出して前が見えなくなった。
お真の代わりに手綱をとったトガチャルは、草原を流れる小川のほとりで馬を止めた。小川の水は澄んで冷たく、お真はこれほど美味しい水は飲んだことがないと思った。
「トガチャル、私と結婚して!」
お真は不意に彼にしがみついた。トガチャルは小柄な彼女を抱きとめて、大きくうなずいた。
「明日、大将に頼みに行く。きっと許してくれると思うよ」
彼はお真を抱きしめると、柔らかい草の上にそっと寝かせて、ゆっくりした動作でお真の上に覆いかぶさった。地平線に沈み往く夕日は真っ赤に燃えて、二人の顔を真紅に染め上げていた。
はるかむこうのブルカン岳の上を、鷲が群れをなして舞っていた。馬と三頭の狼の死骸を見つけて、集まってきたものであろう。いまさらながら、野生の猛々しさを思い知らされるおもいであった。

ケレイト族のトオリル・カンと、テムジンは協調してやってきた。弱い勢力だった頃は、若いテムジンを庇ってくれたこともある仲であった。
しかし、ジャムカが陣営に加わり、年老いた汗に対して智謀と武勇をもって、陣営の中で大きく頭角を現してきたことから、やがて、テムジンと雌雄を決しなくてはならない時が来た。ジャムカは、トオリル・カンを必死になって口説いた。
「テムジンは、蒙古統一を狙う野心家である。彼をのさばらせておけば、いずれケレイトもやられるであろう。やられる前にたたいてしまうことが必要だが、後になればなるほど彼は力をつけて行くだろうから、今こそチャンスである」
トオリル汗はじっと考え込んでいた。勝てるだろうか。テムジンには隙がない。作戦が実に見事で、少数の兵をもってよく大軍を破っている。
「わしは、メルキトやタタールの大軍を破ったテムジンを見てきた。彼は日頃は穏やかな人間だが、戦いの時は虎のようになる」
「虎とは、少しほめすぎではないか。私は気のいい狼くらいにしか、彼を見ていない」
ジャムカは軽い調子で言った
「テムジンの弱点は何か」
「人情脆いところだ。すなわち、今、彼はあなたを信頼している。トオリル・カンが攻めてくるなどとは、夢にも思っていないはずだ。だからこそ今がチャンスなのだ」
「よし、分かった」
トオリル・カンの目が、猛獣のように光ったと思うと、すでに立ち上がっていた。
「出撃だ。三万の軍をもって、テムジンを押しつぶす。敵は一万もいないであろう。三日もあれば殲滅できるに違いない」
ジャムカは、トオリル・カンの横顔を見つめて、つぶやいた。
「老いても豹は豹だ。たかが狼に過ぎないテムジンは、これでお仕舞いだろう」
ケレイト軍侵攻の急報に接して、テムジンが真っ先に行ったことは、女たちに武装させることであった。ロクタイとカイソンに命じて、女たちに武器の使い方を教えさせて、留守部隊を作り上げた。
ケレイト三万の大軍に対して、テムジンには一万に満たない軍勢しかない。当時の遊牧民は女は奪うものと相場が決まっていて、女が戦うことなど考えられない時代であった。 
奪われた女は従順に男に仕え、さらに奪われれば、またその男に従うことが当然とされていた。テムジンは、木曽義仲の妻である巴御前が、すさまじいほどの武勇を奮ったことを記憶している。
女共も鍛え方一つで男並みに戦うはずだ、と考えた。テムジンは以前から、弓の工夫もしている。馬の上から射るための短弓は、日本では木や竹を使用したが、彼はかたい木と動物の角と腱を膠(にかわ)で張り合わせて作らせた。
そのため、ほかの部族のものより到達距離が長く、命中時の打撃力も強いものになった。後年、英国の学者がしらべた結果、日本や英国の長弓より、二十パーセントも打撃力が大きいことが、判明している。
テムジンの最大の作戦は、替え馬と突撃にあった。敵が予想していないときに、長躯してとつぜん現れ、そして突撃した。広い草原で戦線をできるかぎり拡大させておいて、敵の戦線がのびきった頃合を見計らって、自軍を一箇所にすばやく集結させる、騎兵の活動を見せる。
そして、手薄になった敵の戦列に対して、槍をそろえて一気に突撃をする。一騎対一騎の騎馬戦では、所詮数の多いほうに敵わないが、すばらしいスピードで密集隊形を作り上げて、突撃をくりかえすことで、敵の戦線を突破して敵の背後にまわりこむ。
そして、前面から攻撃する味方と呼応して、敵をはさみうちにしてしまうのである。この騎馬突撃という戦法は、蒙古の草原にはもちろん、世界中どこにもなかった戦法で、テムジンの独創であった.
一騎当千の四将、ベンケイ、サブタイ、ウタり、シュビに率いられた部隊は、各所でこの突撃をくりひろげ、トオリル・カンをして“猛虎のようだ”と言わしめた。三万の軍勢は四散して、トオリル汗は討ち死にをした。 
しかし、ジャムカは行方が分からなかった。後になって分かったことは、アルタイ山脈のふもとに勢力を張る、ナイマン族に身を投じていたのだった。
草原の部族を統一するために、翌年の夏、テムジンはナイマン部族を攻めることにした。ナイマンの汗は、バイブウカという名の中年男であった。軍勢は八万人といわれている。それに対して、モンゴル軍は二万人である。
テムジンは毎日考え込んでいた。今まで経験したことのない、山岳の上にある要塞を攻めなければならないからであった。ナイマンはヨーロッパに近いこともあって、武器は相当進歩したものが使われており、火器まであると聞き及んでいる。
モンゴルの槍、弓、曲刀で対抗できるだろうか。彼の悩みはそこにもあった。奇襲や詐術だけで、八万の軍勢に勝てるとは思えない。はやり立つ諸将をおさえて、テムジンは腰を落とした。まず軍馬を二十万頭用意させた。
得意の替え馬戦法の準備である。バイブウカは、死んだトオリル・カンの首を銀製にして、いつもモンゴル方面に向けて睨ませているほど、対モンゴル戦の準備をしている、という報告があった。
テムジンは、会戦を前にして詐術から始めた。各族長からやせて死にそうな馬を供出させて、数十頭を集めるとナイマンの草原に放牧した。敵のあなどりを誘う作戦である。
これを見たバイブウカはチャンスと考えたが、ジャムカは慎重に構えて、山岳から草原に降りることを引き止めた。バイブウカはモンゴルの戦陣訓を知っていた。
「進みに進んで草原の如くに広がり、海の如くに布陣せよ、そして鑿の如くに戦え」
「ケレイト戦で、ほとんど馬を使い果たしてしまって、あんなやせ馬しか残っていないようだが、あれで山に登ってくるなら、それこそ羊を殺すくらい簡単にひねって見せるわ。海のごとくに広がれだと、ナイマンには海などないわい」
といって、バイブウカは笑った。それに対してジャムカは
「テムジンを串刺しにして、丸焼きにしてみたいものでござるな」
と得意のニヤニヤ笑いで応えた。バイブウカが山を降りてこないことを知って、テムジンは、あえて不利な山岳戦をいどむべく馬を進めた。要塞が見える位置まで来て、彼は諜者を放った。彼らは駆け戻ってくると、伏兵がかなりの数でいるという報告をもたらした。 
テムジンはそれを聞くと
「ふ、ふ、ふ」
と含み笑いをもらした。サブタイを呼ぶと、なにごとか耳打ちをして、三千人の兵を授けた。サブタイは、兵とともに森の中に消えた。次に、弁慶に五千人の兵を授けて前衛部隊とし、戦端を開いた。バイブウカは、前衛部隊にケレイトの残兵と、ジャムカの残兵とを配したが、弁慶軍の勢いにおそれをなして逃げ帰ってきた。
彼は激怒して
「お前たちのような臆病者は、女房子供のところへ、とっとと帰ってしまえ!」
と怒鳴り散らした。そして、腹立ちまぎれに、自軍の精兵を思い切りよく突撃させた。ベンケイ軍は、それを適当にあしらいながら、退却し始めた。敵は数は少ないし、弱いと見たバイブウカは、本軍を全部出してベンケイ軍を追跡させた。
「そろそろ、伏兵が出てきても、良いころだが」
と彼が考え始めた頃、ナイマンの伏兵はすでにサブタイ軍の急襲にあって、全滅していた。バイブウカは伏兵をあてにして、いつの間にか山を下りて草原に立っていた。
気がついたときは、草原に引きずり出されていて、モンゴル軍に包囲されていた。あわてて山岳へ引き返そうと、馬首をめぐらせて見ると、そこにはテムジンが小高い丘に陣取って待っていた。
草原での野戦となるとモンゴル軍は、得意の機動性を発揮して密集隊形での突撃をくりかえして、ナイマン軍がばらばらになったところを殲滅して行った。
この戦いでナイマン軍は大半が討たれたが、バイブウカは討ちもらしていた。主を失った残兵は戦意なく、森に隠れ、林間を走って、鼠のように逃れ走った。
ジャムカもその一員であったが、最後に部下が五人だけになったときに、部下たちが逆にジャムかに襲いかかって、縛り上げてしまった。五人は相談して賞にあずかるべくモンゴル軍に下ったが、テムジンは
「主を捕らえて賞に預かろうとするような心根の汚い奴は、モンゴル軍に加えることは許さない」
といって五人を斬り殺させた。目の前で部下を斬られたジャムカは、しかし眉一つ動かさなかった。テムジンはジャムカの縛を解かせて
「国衡殿の武勇は千人力である、と考えており申す。忠衡殿も居られることであるし、是非ともわれらの味方となって、お力を貸していただきたい」
と言葉を尽くして説得したが、
「わしも武士の端くれである。これ以上の辱めは受けとうない。誠に勝手ではあるが、腹を切らせてもらいたい」
といって目を閉じた。テムジンもやむなくそれを認めた。この日、ウタリは幕舎にこもって一日中外に出なかった。テムジンは掃討を終えると、今までとはまったく異なる政治的措置をとった。すなわち、一切の略奪を禁じ、婦女子への手出しもさせなかった。
「蒙古高原の戦争はすべて終わった。これからは一つの国家を建設し、ほかの大国からの侵略に対抗しなければならない。もし、内乱を起こすようなことがあったら、男子はことごとく斬る。しかし、新しい国家の建設に協力してくれるなら、公子や諸将はそのまま残す」
この声明にナイマン部族はみな喜び、従った。テムジンは、バイブウカの美しい妻と形だけの結婚式を挙げ、鎮守府を置いてナイマンを後にした。バイブウカの妻は
「内乱など決して起こさせません。起こしたらどうなるか、皆もよく分かっております。民家も宮殿もすべて無事だっただけでも、ナイマンの者はみな大汗に感謝しております」
と言って、ヨーロッパの赤い酒を出して、テムジンに勧め自分も飲んだ。この夫人は後にジンギス汗の即位式に出席している。

五、源九郎義経ここにあり
草原の遊牧民を全て統一したテムジンは、名実ともに草原の王者になった。一ニ〇六年、各部族の長老が集まり、全蒙古の王として推戴する決議がなされた。
「いつまでも天神様でもあるまいから、わしはゲンギケイ、と名乗ろうと思う。すなわち、源義経(ゲンギケイ)である。皆の者はどう思うか」
ウタリ、ベンケイ、サブタイ、シュビの四将以下主だったものを集めて、テムジンは相談した。全員異論はなかったので、ゲンギケイ汗がここに誕生した。ゲンギケイは数百年のときを経て、ゲンギケ、ゲンギス、ジンギス、と変化して伝えられた.
モンゴルには当時文字がなく、発音はゲ、ギ、ジの三音は区別がなかった、と言われる。そのために、後年漢字圏の中国方面では、成吉思汗の字が当てはめられて、ジンギスカンと呼ばれ、西域からヨーロッパでは、チンギス・ハーンと呼ばれることになった。
当時のモンゴル語では、ジンギスは何の意味も持たなかった。歴史書によっては、宗教的、あるいは呪術上の何らかの意味があるらしい、と記しているものもあるが、現実主義者のテムジンが、そういったものを選ぶとも思えない。
むしろ、天神様から抜け出す方向を選んでいるのだから。何の意味もない名前を、わざわざ付ける筈もないし、ウタリやベンケイなどのように、学問や文字にうるさい部下が納得するわけもない。ゲンギス汗は、まず間違いないと考えられるが、ここでは、ジンギス汗で通すことにしよう。
即位式はオノン河のほとりで盛大に執り行われた。オノン河は九郎一行が船でさかのぼってきた、アムール河のはるか上流に当たる。源氏の白旗を九琉にして高々と翻えした彼は、全世界に向かって源九郎義経であることを、高らかに宣言したのである。
この年、彼は四十八歳になっている。平泉を後にして、すでに十八年の歳月が流れていた。ウタリは四十五歳、シュビは三十八歳になっている。ベンケイとサブタイはともに五十歳代になっているが、正確な年齢は伝わっていない。二人とも髪に白いものが混じっていたが、いまだに若者をしのぐ元気さであった。
大祝宴が催され、それは何日間もつづいた。酒はたしなむ程度にしか飲めないジンギス汗はみなが大飲し、大食するのを眺めることが好きだった。この祝宴の最中に彼は論功行賞を行った。
まず、九十五人の部下を千戸の長に任じ、この中から万戸の長をえらぶことにした。その中で特筆されるのは、ウタリを金国侵行軍の総帥に任命し、国王の名称をあたえたことである。以後、彼はウタリ王と呼ばれることになった。
異例のことである。九郎が秀衡公の恩義に報いるために行った人事であることは、明らかであったが、平泉以来の約千名にのぼる兵たちはよろこび、どよめいた。
ベンケイ、サブタイたちにもむろん異議はなかった。ウタリの勇敢な戦いぶりといい、思慮深く、部下に対して思いやりのある彼の人柄は、すべての将兵の心をつかんでいたからである。
ジンギス汗に関するおおくの書物は、この遅れてきたウタリ(ムカリ)に対する、ジンギス汗の厚遇のなぞを解きあかしていない。ただ事実を書きつらねているに過ぎない。これらの著者たちは、みながみな不思議に思いながら書いていたことであろう。ジンギス汗は、後に西征の旅にでるときに、
「ウタリ王の命令は、余の命令である、と思え」
と言いのこして、五年間にわたる長征に出発している。少年のころから培った、忠衡に対する信頼がなければ、離合集散常なき蒙古の大地にあって、全権をゆだねて長期間の征旅に出ることは、決してできることではなかったであろう。
ジンギス汗は即位すると、統一モンゴルの成文法をつくって発布した。「ヤサ法」(又はヤサク法)と呼ばれるもので、遊牧民の行動規範である。
モンゴルには文字がなかったので、ウイグル文字で書かれ、鉄の板に刻印された。ナイマンを征服したときに捕らえられた、ナイマン汗の顧問をしていたタタトンガという学者が文字をもちこんだ。
彼はジンギス汗の側近にくわえられ、ウイグル文明をモンゴルの朝廷にひろめる重要な役割をになった。タタトンガのもっていた玉璽を、何に使うものかをジンギス汗は問いただした。
「わが主君が銀や穀物を徴するときや、臣下に褒美をあたえるときに用います。この玉璽によって、正真正銘の王たる箔をつけるのであります」
と彼は答えた。この後、ジンギス汗の命令は、すべてこの玉璽によって捺印されることになった。タタトンガは初代の国務大臣になった。原始的な「目には目を」の慣習法を、はじめて法の次元に引きあげ、集大成したものがヤサ法である。
この法律はジンギス汗の晩年まで、あたらしい規定が書き加えられて、より完全なものとなっていった。のちに金国で捕らえられた耶律楚材が、その中心となって整備された。
十六世紀の、イタリアの政治哲学者マキャべリは、「君主に必要なものは力(獣の世界)とともに、法(人間の世界)である」といったが、ジンギス汗はそれより三百年も前に、これを実行していたのである。
ヤサ法は身分制からはじまり、軍事・経済・司法・行政などにいたるまで、ひろい範囲におよぶもので、「人間の絆」や「人間の倫理」を規定するものとして、遊牧民の歴史の中で画期的なものになった。
ヤサ法こそは、あらゆる純軍事文明のいちじるしい特徴である苛烈な不寛容さ、とともに、モンゴル封建精神の完全な表現であった。ラーフ・フォックスは「ジンギス汗」の中で、「軍国主義と高度の文明とは両立しない、という法則の中で、世界中でただ一つの例外は日本民族である」とのべている。
金国を攻めるときがきた。安東水軍の長である秀栄公があたえてくれた目標が目の前に、現実のものとなって現れた。金国を攻めるためにはその西方に位置する、西夏国を征服しなくてはならない。
背後から攻められたら、ひとたまりもないからである。それともうひとつの理由は、西夏国の進歩した武器を手に入れて、対金国戦に備えるためでもあった。
西夏は万里の長城をはさんで金国に従属していたが、文明は金国からそのすべてを吸収していた。それまで西方のナイマンの残党の掃討や、北方のオイラトなどの鎮圧に、むかっていた軍をひとまとめにして、夏のはじめに十五万の軍勢を動かすことになった。
一二〇八年になっていた。国内には八万の軍勢をのこしてある。西夏が金と内通して、モンゴル帝国を攻めることを恐れたからであった。西夏国を制圧する計画を知って、お真は父に翻意をうながすべく、ジンギス汗のゲルを一人で訪れた。
「父上は人殺しがお好きなのですか?」
ジンギス汗は不意をつかれて、お真の顔をまじまじと見つめた。
「何故そのようなことを聞くのだ?」
「どうして平和にやっている国に、戦いを挑まねばならないのですか?」
「お前にはわからんだろうけど、わしが戦いを挑むのは、世界に平和を求めるからだ」
「父上の言われることは、私には理解できません。西夏がモンゴルに害を及ぼすなら仕方がありませんけど、戦いをしかけてくる可能性は、ほとんどないと思われます」
「西夏という国は金国に従属しているから、金国がわが国を攻めるときは、彼らにしたがって、攻めこんでくることを考えねばならない」
「金国は、わが国を攻撃するでしょうか?」
「必ず攻めてくる」
「しかし、そのときに西夏がかならず従うとは、限りませんでしょう?」
「わがモンゴル帝国は、金国の攻撃をまっていて、本国で戦えば敗れるかもしれない。われらが勝つためには、先手をうって金国を攻めなければならない。しかし、そのときに西夏が後ろにまわって、挟み撃ちにされたのではたまらない。あくまでも先手をうって、西夏を押さえこんでおく必要があるのだ」
「西夏と話しあって、それを未然に防ぐことは、できないのでしょうか?」
「西夏や金国の人間は信用ならない。固い約束をしても、金国に従うほうに利があると思えば、すぐに約束をやぶるだろう」
「だけど、だからといって罪もない国に攻めこむことが、許されるでしょうか?」
「わざわいの根は、引きぬいておく必要があるのだ」
「父上の論理で行けば、世界中の国を征服して、わが国に従わせなければ、ならなくなります」
「自分の国を守るためには、あるいはそうすべきかもしれん」
「でもそうすることは、世界中に惨禍を広げることになります。ほかの国の人々とも仲良くする方法を、考えるべきではありませんか?」
「お前が考えるほど、世の中というものは甘くはないのだ」
「父上は、無用の人殺しをしようとしていることに、気がついていただきたいのです。親や夫を殺された上に、奴隷にされたり、財産をうばわれる人の身になって、考えてみてください」
「わしが戦いに負ければ、わしやトガチャルは殺され、お前が奴隷にされるのだぞ」
お真は言葉につまった。これ以上議論をしても、父の考えがかわらないことを悟って、不服顔のままジンギス汗のゲルを出た。夜、お真はもどってきたトガチャルに不満をぶつけた。
彼はお真の話をじっと聞いていたが、
「お真の言うことももっともだ。世界中が平和にやって行ければ、こんなに良いことはない。しかし、蒙古高原だけを例にとっても、大将が平定しなければ、今でも各部族はにらみ合い、奪いあいをつづけていたと思う」
と、しずかに話して聞かせた。
「人間同士、なぜ仲良くできないのかしら?」
「わしもつくづくそう思うよ。ベンケイ殿に聞いたのだが、大将は、兄者のために命がけで戦って、日本の国を平定したのに、その兄者に殺されそうになったのだそうだ。兄弟ですらそうなのだから、他人や他国を信用できないのも、無理はないと思うな」
「そんなことがあったの、私はちっとも知らなかった」
「ジャムカだって、日本で兄弟のように育った仲だったそうだ。それが、大将を謀事にかけて殺そうとした。弟のウタリ殿が知らせてくれなければ、大将は殺されていただろうって、べンケイ殿が言っていた」
お真はだまりこんだ。父にさからって議論したことに、心の痛みを感じはじめていた。

モンゴル軍は、ゴビ砂漠を横断して西夏に達した。西夏軍はこの戦いをすでに予知して、充分な準備をととのえていたが、野戦ではモンゴル軍の敵ではなく、たちまち敗走してしまった。モンゴル軍は進みに進んで、築城都市であるウーロ・ハイとの戦いにのぞんだ。
城攻めははじめての経験であった。野戦とちがって攻城戦は勝手がちがいすぎて、戦況は必ずしもはかばかしくなかった。その様子をじっと見つめていたジンギス汗は、一旦囲みをとかせた。そして、考えぬいたあげくに軍使をおくった。
「一千匹の猫と、一万羽のツバメを贈ってくれるなら、囲みをといて帰還してもよい。さもなくば地方を略奪して、それによって持久戦をしつづけるであろう」
この申し入れをきいて、西夏の指揮官は
「モンゴル人は、猫とツバメを食料として珍重するのだろうか」
と不思議に思いながらも、この程度で講和ができるのなら、と応じることにした。ジンギス汗はこれを受けとると、兵に指示して、麻縄をほぐして、猫の尻尾とツバメの足に結びつけ、火を点じていっせいに放した。
猫は、我が家をめざして一斉に走りだし、ツバメは、城郭や住宅の軒下をめざして一斉に飛びたった。これによって、ウーロ・ハイの城内は各地で火災が発生し、大混乱をまきおこした。この機にモンゴル軍は総攻撃に移った。 
ジンギス汗の頭脳プレイによる勝利であった。軍は、次に寧夏をめざして進んだ。金国を攻めるためのルートを、視察することも重要な目的であった。寧夏城を包囲されると、西夏の首脳部はふるえあがってしまった。軍使は
「この大軍をひきあげるに値する朝貢物を、毎年おくってくると誓約するなら、和平条約に応ずるであろう」
と申し出た。それに対して、西夏王は十五歳の王女と、大量の貢物をさしだして講和をもとめたので、ジンギス汗は承諾して、全軍をモンゴルへ帰還させた。この遠征で、はじめて黄河の濁流を見、万里の長城を目にした。
金国を攻めるための方法を、あれこれ思案をつづけたが、五千万人の人口をもつ世界一の大国である。たくさんの城砦をもち、一つの城砦に何十万人もの兵を擁しているこの大国を、どう攻めたらよいのか。
簡単に結論のだせる問題ではない。将軍たちも城砦攻めに不安をいだいている様子であったので、もう一度西夏を攻めることにした。西夏が朝貢を約束しておきながら、これを怠っていたことも原因であった。
前回の遠征から二年後の夏、ふたたびモンゴル軍は十五万の兵をゴビ砂漠にむかわせた。今回は兵の訓練が行きとどいていたから、前回より簡単に西夏軍をけちらして、中都に進軍することができた。ジンギス汗は、頭にえがいてきた攻城戦を展開しようとして包囲したあと、ふと気がかわった。
「この黄河を使ってみようか」
将軍たちは、大汗がなにを考えているのか想像がつかずに、その顔を見守った。
「黄河の濁流を、城の中へ流しこむのさ」
彼は河をせきとめる方法と、城へむけさせる方法を指示した。やってみると、黄河は予想以上に暴れくるった。モンゴル軍はあわてて囲みをといて安全な高地へ避難したが、寧夏城はたちまち水浸しになって、降伏してきた。
西夏軍の軍使に対して
「わずかな朝貢を怠るから、こういうことになるのだ」
とジンギス汗はしかった。西夏は朝貢品の増額と、以後のモンゴル軍の戦いに参戦し、全面的な協力をすることを誓約させられた。モンゴル軍が本営に凱旋すると、西夏に隣接するウイグルが、モンゴルの威をおそれて、朝貢の使者をおくってきた。思いがけない収穫であった。
金国は章皇帝が老齢で亡くなり、若いユン・チーが新皇帝となった。若い皇帝はモンゴル帝国に朝貢を要求してきたが、ジンギス汗はこの使者をそっけなく追い返した。
モンゴルの、どの部族のだれが朝貢を約束したのか、よくしらべて出直すように、今はモンゴル帝国であって、いろいろな部族は存在しないのである、と説明してきかせた。使者からそれをきいた皇帝は激怒して、使者を投獄してしまった。
「蛮族め!もう許さん。今まで何度朝貢を要求しても、なんだかだといって一度もよこさない。即時長城をこえて蛮族を討て!」
これに対して、諸将は攻撃派と守備派の二つに意見がわれた。守備派は西夏国が、モンゴルに手ひどく痛めつけられた経緯をふまえた意見であった。
ユン・チー改めワイワン帝は、戦争の経験がないため、もっとも勇壮な意見をのべた武将に、十万人の軍をもってモンゴルを攻めるよう指示し、慎重派の将軍には、長城に新たな城砦を築いて守らせることにした。
ジンギス汗は、金国軍のモンゴル遠征の通り道にあたる、オングート部族の族長をよんで警告をあたえた。オングートは遊牧民で金国にちかいため、金国の属国として存在していたが、苛酷な税金のとりたてに苦しんで恨みを抱いていた。
「女子供を遠くに隠し、兵と武器は岩穴に隠して、金国軍をやりすごすように」
「必ずそうします」
「遠征軍を殲滅したらすぐに金国へ攻めこむから、先陣にタタール、女真、フン族を使うことになるであろう。彼らは金国への道にくわしいであろうから」
「彼らは金国に略奪されたり、人減らしと称して、三年ごとに人間を多数殺されていますから、恨みがかさなっております。きっと彼らは勇戦してくれることでしょう」
ジンギス汗は、金国との戦いをまえにして作戦の立案に余念がなかった。まず騎馬隊の槍を短槍から長槍に変えた。一対一の騎馬戦には、長槍より短槍のほうが運動性がよいが、密集隊形で突撃をする場合は、長槍はすばらしい威力を発揮する。投石器や火砲もあたらしい武器としてくわえられた。
戦闘訓練は一段ときびしさを増し、女は武器や衣服をつくることにおわれ、牧畜は子供の仕事になった。道路が整備され、何十箇所もの駅と称するものがつくられ、そこには情報連絡のための部隊と替え馬が配置された。
やがて、十万の金国軍が長城をこえて侵攻してきた。彼らは、モンゴル軍がすぐに迎え撃つために、出撃してくるものと考えていたが、その期待は裏切られた。彼らのまえに現れたのは、猛暑真最中のゴビ砂漠であった。
この過酷な大自然のまえに、彼らの士気は一辺になえてしまった。金国内にはこういう自然は一つもなかったから、無論はじめての経験であった。
ようやくのことで砂漠を横断した彼らは、オングートの帳幕を襲ったが、どの張幕にも人間はおろか、食料品一つおいてなかった。ジンギス汗は、伝令によってこの様子を知ると、ベンケイとウタリの両将軍に、二万の兵をさずけてオングートへ向かわせた。
モンゴル軍は全員騎馬であり、各自四、五頭の替え馬を用意しているのに対して、金軍は騎馬が約三万、歩兵が約七万人の構成であった。弁慶とウタリは、金軍をゴビ砂漠に誘導して戦うことを最初から計画していた。
モンゴル軍が羊肉の干したものと、馬乳酒と水をたっぷり用意しているのに対して、金軍は水の用意が十分でないことを、ウタリが見破っていた。
そこでモンゴル軍は、攻めるとみせてはすぐに退却し、又攻めるとみせては退却をつづけ、ゴビ砂漠の奥地へ奥地へと金軍を引きこんでいった。真夏の太陽は容赦なく照りつけた。
この日差しの中を裸で一日中動きまわるとすれば、一時間で一リットルの水分が蒸発してしまう、といわれる。この蒸発を防ぐために、モンゴル軍は詰襟のような服にズボンをはき、その上に厚ぼったいコートを着ていた。
それを帯でしめ長靴を履いていたから、金軍の軽装にくらべて、水分の補給が少なくてすむように工夫されていた。そのうえ、朝晩はうすい氷がはるほどの冷えこみになるから、軽装の金軍の体調は最悪のものとなった。
モンゴル軍の携帯している馬乳は、それだけでも、数日間の行軍を可能にするほどの栄養価のあるもので、馬乳酒にすることによって腐敗を防いでいる。
ゴビ砂漠は一般的な砂漠とちがって、砂はかたく短い草がはえ、砂丘もあるていど固定化している。四、五十センチも掘ると水分が感じられ、四、五十メートル掘れば、井戸水が出るほどである。
したがって、騎馬の走行は草原とさしてかわらずにできるため、モンゴル軍は歩兵を連れている金軍に対して、進退のスピードに格段の差があった。すなわち、金軍の騎馬は歩兵のスピードでしか進退できないのである。  
しかも、モンゴル軍は各自四、五頭の替え馬を用意している。砂漠にはオアシスがあるが、モンゴル軍は、オアシスのない不毛の地域へ金軍を誘いこんで、渇きにくるしむ金軍の自滅を待った。
乾燥させた羊肉をかじり、馬乳酒を飲み、水をたっぷり用意したモンゴル軍は、追われれば逃げ、逃げるとみせては、すばらしいスピードで攻撃をしかけた。
この作戦のため、モンゴル軍はほとんど損傷することなく、金軍を全滅させることができた。金国軍の武器と馬は、そっくりモンゴル軍のものとなった。弁慶・ウタリ軍は、この戦勝のいきおいを駆って長城にせまり、新築中の城をこわし、その守備隊を一蹴した。二万人のモンゴル軍は、ほとんど無傷のまま凱旋することが出来た。

六、万里の長城を突破せよ
一二一一年春、ついに金国への侵攻作戦が開始された。兵の数は二十万人である。クランは、三歳の男児を伴って従軍した。幼児はロクタイの馬の鞍のよこに、皮袋に入れられて行をともにし、クランの両脇には屈強の兵士が二人、騎馬で行をともにした。
お真は子供ができなかったので、男装してトガチャルとともに従軍した。ジンギス汗は初め、お真の従軍志願に返事をしぶったが、お真の真剣な願いがついに聞き入れられた。
トガチャルは千戸の長として、弁慶軍に編入されている。弁慶は、トガチャルの指揮する部隊の優秀さを充分にみとめていたし、若さに似ない沈着な態度をたよりにしてもいた。
お真は、トガチャルの部隊に配属になり、百戸の長となった。その下には十戸の長が十人いて、その人たちが各十人ずつの兵を束ねている。
弁慶、サブタイ、ウタリ、シュビの四将に加えて、チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人の息子も加わって、約二十名の武将が、それぞれ約一万人の部隊を率い、その二十人の指揮官の上に、ジンギス汗が君臨していた。
したがって若い兵士たちは、大汗の顔を知らないものも数多くいた。この兵士たちに顔を覚えさせるためもあって、ジンギス汗は絵師をやとって、自分の似顔絵をかかせた。現在のこっている絵は、やさしげな老人の顔であったり、丸顔の中年男であったりするが、どう見ても、たけだけしいひげ面の大男ではない。
ヨーロッパの史書によっては、金髪で、目が青く、長身の大男だ、と伝えているものもあるが、実際の似顔絵はどう見ても小男の東洋人である。若いときはかなりハンサムで、むしろ優男であったことをうかがわせる絵である。
中には、捕虜を引見している絵もあるが、大王様がふんぞり返って見下ろしている図ではなく、立ったまま三人の敵将を引見している図で、驚くことにジンギス汗はこの三人より背がひくいのである。
写真ではなくお抱えの絵師であるから、大王を大きく描くことは、いくらでも可能なはずである。当然この絵は大汗が目を通して、許可を与えたものであろうから、事実により近いものと考えられる。
当時のモンゴルは、徹底した男尊女卑であったから、いかにジンギス汗の娘とはいえ、お真は三人の異母弟のように一万人の長というわけには行かなかった。しかし、彼女は百人の長で充分に満足していた。
トガチャルは千人の長として、いつも弁慶軍の先頭に立っていた。弁慶も一万人の部隊の先頭に立つことが、習慣になっていたから、二人は馬上で会話をする機会が多かった。
「将軍、ぜひ教えていただきたい事があります」
「なんだ?」
「モンゴル帝国は人口わずか二百万人しかいないというのに、何故、人口五千万人と言われる金国を、攻めることができるのでしょうか?」
「大汗は昔から、少人数で大軍を破ることを、当然のようにしてきたからだ」
「それは良くわかります。トオリル・カンとの戦いは、一万人対三万人でしたし、バイブウカとの戦いは、二万人対八万人でした。しかし、金国は領土の広さといい、人口といい、物資や武器のゆたかさといい、あまりにもかけ離れすぎています」
「どうしたトガチャル、怖くなったのか。女房をもって弱気になったのではないのか?」
「とんでもない、わしは弱気になったことは一度もありません。モンゴル帝国の興亡をかけた戦いに、いまが一番機が熟しているのかどうか、を考えているのです」
「うむ、考えることはいいことだ。しかし、大汗はわれわれの考えがおよばない所で、ものを考えている人だ。まあ、ついて行くしかないだろう」
「将軍のように、永いこと従っておられる方でも、大将のお考えがわかりませんか?」
「わしはいつも、大汗のやることを心配して、日本にいたときから、時には反対してきた。しかし、結果はすべてあの人の考え通りになってきた。わしは凡人で、あの人は天才だ。しょせん凡人には天才の考えはわからないものだ」
「なるほど、三十年以上も従ってこられた将軍にも分からないのなら、わしにわかるはずもない。天才児というものは、そういうものなのか・・・」
「一つ一つの戦いの結果をみて、それをはじめから振り返ってみれば、凡人のわしにももちろん納得がゆく。しかし、戦いというものは、一回一回まったくやり方が違う。いつも未知の敵だし、なにもかも条件がちがう。戦うまえから結果を見透せる人を、大天才というのだろう」
「なるほど、西夏国のウーロ・ハイとの戦いで使った、猫とツバメの戦術は、もう二度と使えないでしょうし、金国の燕京の城攻めには、黄河の流れを使うことはできないのですから。一体大将はどうやるのでしょう?」
「そんなことが、今からわかるのなら、わしは凡人ではないぞ」
「将軍は、ご自分では凡人とおっしゃいますが、わしの目からみると戦いの天才、としか思えません」
「わしは勝負はつよいさ。でも、これは部分的な戦術のほうの話で、大局をみる戦略というものがわかることとは違うのだ」
「そうですか、戦略と戦術とは別のものなのですね」
「当たり前だ、わしが大汗だったらモンゴルを統一することなど、とても出来るわけがない。わしは、大汗の言うとおりにやってきただけだ。サブタイだって、ウタリ殿だって、シュビだってそうだ」
「大将の天才的な戦略と、四将の天才的な戦術があいまって、モンゴルは金国に勝てるのですね?」
「ばかを言うな、戦ってみなくちゃ、まだ勝つか負けるか分かるわけはないだろう」
「ようやく少しだけ、わかってきました」
「臆病風はなおったか?」
「臆病でお尋ねしたのではありません。いかに将軍だとて、そういう言い方は許しませんぞ」
「ほう、怒ったか、ワツハツハツハ・・・、兵は怒らせて使うのが一番じゃ。わるく思うなよ」
弁慶は、馬上で一人高笑いをした。トガチャルは、それを見てしぶい表情をつくった。夜、星空を見上げながら、トガチャルは横にすわったお真に話しかけた。
「弁慶殿の話を聞いて、わしは大将の偉大さが、少しだけわかったような気がする」
「どんなことが?」
「どうやら、そういうことができる大天才らしい、ということさ」
「私には、父のそういうところが、全然みえなくて」
「中国のながい歴史の中で、一番の戦略家は三国志の諸葛孔明だといわれるけど、孔明には魏の曹操や司馬仲達とか、呉の陸遜などのような天才的なライバルがいたし、事実、孔明はかれらを倒しきれなかったわけだ。しかし、大将が金国を倒すことができたら、孔明をはるかに上まわる大天才、と言われるようになるだろう」
お真はトガチャルの言葉をきいて、天の一角に目をすえたまま、黙りこくってしまった。ロクタイやカイソンから聞いた、日本での戦いぶりと、蒙古高原を舞台にした戦いの数々を、お真は見たり聞いたりしてきた。
しかし、今まで父への反発ばかりが先にたって、父の人物を冷静に考えたことがなかったことを恥ずかしく思い、急に涙がこみ上げてくるのを禁じえなかった。
兄とも父とも思う頼朝のために、死を賭して戦いつづけ、無実の罪で日本を追われ、モンゴルまで流れてきた源義経が、いまやジンギス汗となって、世界一の大国である金国との戦いに、モンゴル帝国の全生命を賭けようとしているのである。
父に背を向けつづける自分の卑小さが、たまらなくいやになってきた。激情が足のさきから這いあがってくるのを覚えた。この激情が胸を通り、頭のてっぺんまで上りつめたとき、お真は声をはなって泣きだした。
トガチャルは、すぐにはその原因を図りかねてとまどったが、ようやくその理由を察して、お真の肩をやさしく抱いた。
「大将に会ってわびるといい。大将はきっと喜ぶだろう。お真がいくら反発しても大将は、お真が可愛くてならないのだから」
「父の愛はよくわかるのです。それなのに、わたしったら反発ばかりして、父を寂しがらせてきました。明日、父に会いに行きます」
トガチャルは、お真の涙を拭ってやった。澄んだ大気の中で、無数の星が手をのばせば届きそうな近さできらめき、ささやき交わしていた。地上にうごめく人間の小ささと、五分先の運命もわからない人間の無能ぶりを、思い知らされるような気がするほど、星はあまりにも美しかった。
戦いはすぐ始まる。今まではトガチャルも父も、無事に切り抜けてこられたが、対金国戦は、今までと同じようには行くまい。この幸せがいつまで続くのだろうか、と心細い思いも頭を持ち上げはじめる。
全軍の先頭にたって戦う勇敢なトガチャルが、生を全うすることができるだろうか。もしものことがあったら、と思うだけで胸がきしむように痛む。そんな不安を口にすると、トガチャルは笑った。
「わしが死んだら、お真も敵陣へ斬りこんで、死ねばいいじゃないか。そんなことを心配したって仕方がないよ。人間は、いつの日かかならず死ぬんだから。わしが先かお真が先か、なんて考えるだけ馬鹿らしいじゃないか」
そう言われてみると、お真の胸が急に楽になって、トガチャルに笑顔を向けた。
「トガチャルを殺した敵は、かならず私が殺すし、敵陣の中で斬り死にすればいいんだわ」
「そうさ、お真が先に死んだら、わしがかならずその敵をやっつけて、見事に斬り死にして見せるから安心しろよ」
二人は笑顔を向けあって、手を握りあった。この戦いは、西夏を通らずに東側から、直接金国に襲いかかるルートを採った。約七百キロの行軍で、オングート部族の地に到着した。
ジンギス汗はここを本営として、各武将に万里の長城を突破せよ、との命令を発した。勇敢な武将たちは、長い戦線で多大な損害をこうむりながらも、長城をやぶって金国へなだれ込んだ。
金国軍もこれを迎え撃ったが、圧倒的なモンゴル軍のいきおいに押されて、ほとんど戦わずに退却した。やがて、各地から戦勝報告が入り、燕京の都への道が開かれた。
そこで一息ついたジンギス汗は、再びオングートに本営を構えなおし、各地に散らばった軍隊をまとめた。ジンギス汗の作戦は、分裂合撃であった。
この態勢によって「あっちから十万人」、「こっちから二十万人」、とモンゴル軍は、三倍にも、五倍にもふくれあがった情報がとび、金国軍の中に恐怖がまきおこった。
戦いの経験のないワイワン帝は、名参謀がいないため、宮殿の奥ふかくでただ震えているばかりであった。しかし、大城塞は長期の攻囲戦を覚悟しなくてはならなかった。
長期にわたれば食料に窮し、内乱をおこして、必ず撃ってでてくるであろうから、そこで、野戦に持ちこむことが最上の策と考えられた。各城砦を粉砕して、倉庫から食料を奪うことができたので、モンゴル軍の食料は心配なかった。
この時、金国は大同府を奪還すべく、嚇合と糾堅という二人の猛将に、大軍をさずけて逆襲してきた。その報に接すると、ジンギス汗は大同府をはなれて、彼らの進路である山岳地帯に陣を構えて彼らを待った。
伝令が走り、情報が矢のはやさで伝わると、山岳地帯の道幅や、身をかくすべき場所などが、精密にわかってくる。進軍してくる敵の背後にまわる部隊、側面をつく部隊、頭上から逆落としに、槍をそろえて飛びかかる部隊、そして、各所に伏兵をおいて突如として躍りかかる部隊など、まさに神出鬼没の用兵の妙をつくしたので、二人の猛将もなす術なく討たれてしまった。
いつもジンギス汗が、敵の矢をうける位置で陣頭指揮をしていたから、将兵は彼を信じ、安心して自分達の役割を果たすことができた。敗報をきいた金軍は、救援のための大軍を送りこんできたが、これもおなじ作戦で殲滅されてしまった。進撃をかさねたモンゴル軍は、燕京に達した。
この年、ジンギス汗は五十三歳になっている。弁慶、サブタイ、ウタリ、シュビの四将も壮年期に入っていた。ジンギス汗はこの四将に後方をかためさせて、自分の子供たちに経験をつませるために、チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人を前線に送りだした。
三将軍は勇戦して各地を蹂躙し、それぞれに九琉の白旗をうちたてた。燕京の城はさすがに大きかった。今までつぶしてきた城砦を十数個もあわせたほどの大きさで、さすがのジンギス汗も目を見張るばかりで、名案が浮かんでこなかった。
「この大きな城郭都市と戦ったのでは、将兵の損害が大きすぎる結果になるであろう。第一、こんな立派な芸術的な城を壊してはもったいない。どうしたら、壊さずに攻略できるであろうか」
諸将をあつめて彼は相談した。しかし、だれも名案を持ちあわせなかった。そこで、ふたたびオングートに本拠を構えなおして、金国の内部情勢をしばらく観察することにした。
その間、弁慶軍が敵から五千頭の駿馬をうばったり、サブタイ軍が種馬牧場をおそって、数千頭の駿馬を手に入れたりした。その頃、燕京の宮廷では革命騒ぎがおこっていた。
元宦官であったフウフアシムを一軍の指揮官に任命したところ、彼は燕京城を占領して、ワイワン帝を刺殺してしまった。彼は、意のままになる親王の一人を皇帝に立てた。 
しかし、部下のカオシーの反逆で、斬殺されてしまった。カオシーは新皇帝をおどして、フウフアシムを、前皇帝の暗殺者として処刑したと認めさせた。
この情報を得ると、ジンギス汗はすばやい行動を見せた。軍を三つに分けて、第一軍は東から、第二軍は西から、第三軍は東南から攻撃を開始した。
約百にものぼる城砦が陥落して、燕京の城は裸城になってしまった。四月、ジンギス汗は燕京を目前にのぞむ平原に全軍を集結させた。金軍の降兵をしたがえた部隊は、三十万人にも膨れあがっていた。
そこで、裸城になった燕京に、使者をおくって降伏を要求した。金帝からの返事を待って、ウタリとシュビが、ジンギス汗の代理として出向き、講和を締結した。

二年ぶりにふむ蒙古高原の夏はすずしく、空気が乾いていて、懐かしいにおいがした。戦利品は膨大であった。金の帝室の公主である、十八歳のハトン姫と莫大な黄金、財宝と男女千人に上る子供、三千頭の馬などである。
ところが、金国はわずか三ヶ月後に、その都を燕京から、南方の開封にうつしてしまった。これは、金国に和平の意思のないことを示すものであった。
カオシーのやり方に対して、ジンギス汗は激怒した。もとタタール部族にいて、金国に対して恨みをいだいている、サムカとシンアンの二人の武将に、燕京攻略を命じた。
一二一五年一月から、本格的な戦争がはじまり、六月に、金国の傭兵となっていた契丹人が反乱をおこして、燕京を占領し、モンゴルに援助をもとめた。それに応えてモンゴル軍が入城し、白旗をかかげた。
武将としても、政治家としても、円熟の域に達してきたウタリを、いよいよ金国の国主にすべく出征を命じた。同時にベンケイをして、北東部の要衝である東京(トウケイ)を攻撃させた。
ベンケイ軍はトウケイの城を落とし、ほとんど蒙古高原に匹敵するほどの、広大な土地がモンゴルの勢力に加えられた。ベンケイの勇名は、金国全土になりひびいた。大軍を手足のごとくに動かし、戦って勝たざるはなしといった用兵の妙は、金国の武将たちから神業としておそれられた。
中国からもちかえった材料で、ジンギス汗は京都風の建物をつくらせ、入り口には小さいながら朱塗りの鳥居をつくり、大汗の宮殿とした。驚くべきことに、鳥居の写真が、現代までのこっているのである。数百年のときが流れて、焼けたり老朽化したりして、建て替えたであろうが、大正時代まで建物がのこった。(「義経伝説の謎」佐々木勝三他著参照)
ジンギス汗は、金国の特殊技術者や教養をつんだ者を、モンゴルに送らせた。その中に、後にモンゴル朝廷の中に、重きをなしてゆく耶律楚材がふくまれていた。
天文、地理、歴史、術数、医学、卜占にいたるまで、幅ひろく通じた二十六歳の青年である。彼はジンギス汗に対して、人心を結集させるためにもっとも大切なことは、信仰であることを説き、いかなる宗教に対しても迫害しないよう進言した。
蒙古高原には、西域の隊商がたえず交易をもとめてやってきた。軍隊に保護されることなしに、山脈をこえ砂漠を旅して、やってくるこれらの商人に対して、ジンギス汗は畏敬の念をもって迎えた。
らくだや馬に、金銀細工や、ガラス器や、美しいじゅうたんなどを、積んでやってくる彼らを優遇した。モンゴルには、金国から入る絹、綿、紙などがあって、彼らはそれを交易の対象としていた。
ジンギス汗は、彼らに武器類を注文することもあったし、彼らから貴重な情報を得ることも多かった。耶律楚材は、いつも大汗の傍にはべって、商人たちに質問をあびせる役目を担った。
彼の好奇心は、彼らから知識をすべて吐きださせるほど激しく、執拗で、商人たちは何時間もつき合わされた。しかし、耶率楚材の熱意は、モンゴルをいかに強大にするか、の一点にしぼられていた。
その点で、ジンギス汗と意見を一にしていた。ジンギス汗は彼を愛して、彼と議論をすることを好んだ。彼は大汗に対して、歯に衣をきせずにものを言える、数少ない側近の一人となった。
「金国は敗れはしたが、モンゴルにくらべて、はるかに高い文化をもっている。大汗は金国からなお沢山のものを学ぶべきである。金国の民に善政をしき、彼らのもっているものを自発的に、大汗に献じるように仕向けることが必要である」
「高い文化を持っていても、武力が劣っているために、わがモンゴルの支配下に置かれたではないか」
「大汗は、一体なにを支配したというのか。もし、ウタリ将軍が金国から引き上げたら、そこに何がのこるか。武力は相手を力で押さえつけているだけで、民を支配することにはならない。モンゴル自体がたかい文化をもたない限り、その国を完全に支配することはできない。それどころか、いつの間にか金国に吸収されて、逆に金国に支配されることだってありうるのです」
彼の論法は、鋭い切れ味で大汗をだまらせてしまった。一方、商人たちは大汗を“気のいいおじさん”あつかいして、蒙古高原に来ると、必ず宮殿を訪れるようになった。
ジンギス汗は七歳で仏門に入れられ、十六歳で平泉へ下るまでは、僧としての修行をしてきた。したがって、当然のごとく仏教徒であったし、ベンケイやカイソンが僧門にあった関係もあって、どちらかといえば、熱心な仏教徒であった。
しかしモンゴルへ来てからは、モンゴル人たちが信奉する、蒼穹の空と天帝を信奉することによって、蒙古の大地に溶けこんできた。そのため、西域の商人たちの信奉する回教に対しても、けっして否定的な態度をとらなかった。 
このことが後にカラ・キタイ征服のときに、大きな効果をもたらした。この商人たちのジンギス汗に対する絶大な信頼が、戦わずしてモンゴルに勝利をもたらしたのである。

七、三人の美女それぞれの戦い
金国遠征をおえて、ブルカン岳のふもとに帰りつくと、お真は長い間留守にしていたゲルの掃除や修理に追われた。戦場にあっては、百人の長として男とおなじ戦いに明けくれていたが、もどれば家庭の主婦である。
帰還して数日たったころ、戦利品の分配が行われた。黄金や財宝は莫大な数にのぼり、女たちは目の色をかえて配分を待った。第一夫人ボルテが、大汗の代行として女たちを集めて、分配係りの長をつとめた。
お真も呼びだされて、ボルテの手伝いをすることになった。目のさめるような金銀、宝石類を眺めているうちに、女たちの欲望はふくれあがる一方で、その喧騒は、戦場の雄たけびを上回るほどであった。
夫や息子の働きぶりを大仰に言いたてて、少しでも多くの分け前にあずかろうと、女たちは必死であった。中でも夫や息子に戦死された女たちは、これが最後の分配となることを主張して、係員の説得をはね返すだけの大声を張りあげた。
ボルテは少し太めの体をこまめに動かして、女たちの言い分を聞いてまわった。午前中だけではおわらなくて、昼食後、集会はふたたび催された。夕方、女たちはようやく引き上げた。つかれきった表情のボルテが、お真を自分のゲルに呼んだ。
「あなたは直接敵とたたかった勇士だから、特別のものを用意しておいたわ」
ボルテはそういいながら、首飾りや腕輪などが、ぎっしり入った小箱をとりだして、お真の前においた。しかし、お真は辞退した。
「私はこんなものが欲しくて、戦場に行ったのではありません。夫や父の戦いを、少しでも助けたかったから行ったのです。それに宝物には私、興味がありません」
ボルテは驚いて、お真の顔をまじまじと見つめた。
「宝物に興味がないですって・・・、あなたそれでも女なの?」
「私は女じゃないのかもしれません」
「なんて変わった人なの。子供の頃からあなたは、お洒落をしたがらなかったことは、私もよく知っているけど・・・、宝物は財産なのよ。おしゃれとは違うのよ」
「財産の意味はよくわかります。でも財産を持っても仕方がないですから。これはお母様に差し上げます」
「えつ、私にくれるつて・・・」
ボルテは絶句した。頭の中が混乱して、お真の言う意味が理解できなかった。
「あなたは、戦場で宝物を先取りしたんじゃないの?」
「とんでもない。そんな気はありませんし、そんなことは、できる訳もありません」
「だって大汗の娘ですもの、やる気になれば、なんだってできるわよ」
「それはひどい誤解です。私はトガチャルの部下として、百人の兵をまとめていました。一介の兵士にすぎない私が、宝物を横取りできるはずもありません」
「だってあなたは、大汗の兵舎に自由に出入りできるでしょ?」
「私が父の兵舎に行ったのは一回だけで、それも戦いがはじまる前でした。父に背をむけてばかりいたことを謝りたくて、一人で行きましたが、それ以後は、父に一度も会っていないのです」
「そんなことはわからないわ」
「いえ、本当です。父に聞いてみて下さい」
「あの人が、可愛い娘を悪く言うはずがないじゃないの」
「どうすれば、私の潔白をわかってくださるのですか?」
「そうね、クランにでも聞いてみようかしら」
「あ、そうです。クランは父につきっ切りですから、すぐわかることです」
「そういえば、クランは今日姿を見せなかったわね」
「あの人は宝物を欲しがらない人なのです」
「大汗から、たっぷり貰っているからでしょう?」
「いえ、クランという人は、父がいくら薦めても、一品として受け取ろうとしない人なのです。私はクランの態度をずっと見てきて、すばらしい人だ、と感心しているのです」
「宝石や黄金を前にして、欲しがらない女がこの世にいるかしら。私は信じませんよ。クランとあなたがグルになって、私をだまそうとするなら仕方がないわ。こうなったら、大汗の食事や洗濯の世話をしている小物たちの、口をわらせて聞きだすまでだわ」
お真は呆れて、ボルテの顔を見つめた。日ごろはおおらかで優しいボルテが、莫大な財宝を前にして、気が狂ってしまったのではないか、と疑った。しかし、いずれはクランも自分も疑いは晴れることだから、とあきらめてお真は自分のゲルにもどった。
翌日、クランのゲルを訪れて、この話をした。
「私はボルテから、疑われることに慣れています」
クランはさばさばした口調で言った。彼女はお真より三歳上でしかなかったが、メルキト部族が敗れて、つれてこられて以来、戦いにはすべて同行していたから、ボルテに疑われたことが、数回ならずあったであろう。
「女は宝石を見ると、みな狂うものなのね」
クランは諦めたように言った。
「でも、クランは狂わないわ」
「私は女じゃないのね。それにお真だって、女じゃないみたいじゃないの」
「私たちが変なのかしら?」
「ボルテは普通の女よ。大汗はもちろんだけど、ベンケイやサブタイたちは、普通の男じゃないわ」
クランの言うことに、お真はだまってうなずいた。
「私は普通の男には興味がないけれど、普通でない、とびきりの男たちが戦う姿を見たくて、いつも戦場に連れて行ってもらうの。私は弓矢も剣もだめだけど、戦いの場にいると胸が高鳴って、死ぬなら戦場がいいって、いつも思うのよ」
「クランは本当に父を愛しているのね」
「ジンギス汗という男に魅せられて、いつの間にか、死というものが恐ろしくなくなってしまったの。末端の兵士たちでも、きっと死を恐れてはいないでしょう。この世に、こんな素晴らしい男達が、他にいるとは思えないわ」
「私は娘でありながら、父の価値を知りませんでした。私も戦いという戦いに、すべてついて行きます。金国と戦う前に、トガチャルに諭されました。私が、トガチャルが死んだらどうしようって、心配したときのことです。トガチャルは、自分が戦死したら、敵中に斬りこんでお前も死ねばいいって、言ってくれました」
「さすがトガチャルね、お前をひとりのこして死ぬようなことはしないから、心配するなって、気休めを言うのが普通の男でしょう。斬りこんで死ね、という男は普通の男じゃない。トガチャルは、チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人より、優れているかも知れないわね」
「私はそれ以来、死というものを恐れなくなりました。以前は、宝石や金銀に興味がありましたけど、それからは興味がなくなりました」
「お真も普通の女じゃないわ。ボルテがなんと言おうと、放っておけばいいじゃない。彼女は普通の女で、別に悪い人じゃないけど、女のわるい部分は人なみに持っている人だ、と理解しておけば、べつに腹も立たないでしょ」
二人は顔を見合わせて微笑み合った。お真はクランがますます好きになった。

ベンケイに都をうつした金国は、いぜんとして抵抗をつづけていたが、金の国主に任命したウタリ王に後をまかせて、一ニ一八年夏、カラ・キタイ(西遼)征服の軍を起こした。大将はベンケイで、軍勢は二万であった。かつて、ナイマン王バイブウカを、打ちもらしたことがあった。そのバイブウカはナイマン滅亡後、カラ・キタイの実権を握っていた。
ジンギス汗に追われたバイブウカが、兄弟国であるカラ・キタイに逃げ込んでくると、皇帝はこれをかくまい、有能な臣として優遇していた。ところが、野心家のバイブウカは中央アジアにおけるカラ・キタイの最大の敵である、ホラズム王国のムハンマド皇帝と内通してしまった。
カラ・キタイとホラズムの間に、戦いが起きると、バイブウカは予定通り、皇帝を裏切ってムハンマドと挟み撃ちして、皇帝を捕らえてしまった。皇帝は獄の中で病死した。
モンゴル軍が、カラ・キタイにむけて兵を起こしたのは、バイブウカが支配したことによって、中国と中央アジアをむすぶ貿易に、大きな障害が生じていたからであった。
そのために、ウイグルとイスラムの商人たちが、ジンギス汗を動かしたこともあったが、直接的には、カラ・キタイからナイマンに向けて、反ジンギス汗熱をあおっていたことも、原因の一つであった。
バイブウカの息子タチュリュクが、皇帝の孫娘と結婚したので、当然、バイブウカが実権を握ることになり、堂々と反ジンギス汗作戦を打ちだしていた。この情報をもたらしたのは、ナイマンの后であった。
この后はバイブウカの後宮で、なさぬ仲のタチュリュクのために、せっかく平和にやっているナイマンが、戦争に巻き込まれることをきらい、元の将軍たちもそれに賛同している、という報告であった。
金国でさえ敵わないモンゴル軍に、カラ・キタイが太刀打ちできるはずがない、と考えたからである。ベンケイ軍が現れると、商人たちは武器や食料を提供し、政治上の重要な情報をもたらした。
それは、国民の大部分が回教徒であるにもかかわらず、バイブウカが回教を否定し、回教徒を圧迫したために、国民の不満が大いに高まっているという。トガチャルが、多数の部下を使ってあつめた情報であった。
それを知って、ベンケイは人々の信仰の自由を布告した。さらに、通商の自由と個人の安全を、モンゴルが保障する旨を布告したので、民衆は沸きかえった。
国民はもちろんであったが、バイブウカの部下たちも、ほとんど回教徒であったから、民衆と一緒になって、バイブウカを捕らえてしまった。彼は民衆に殺され、その首はモンゴルに送られた。
ジンギス汗は、トガチャルに多額の恩賞をあたえて、ほめたたえた。カラ・キタイは、中国にはない農業や工業の技術を持っていたので、モンゴルはそれを貪欲に吸収して行った。ジンギス汗はここを拠点として、さらに西のホラズムとの交易をもとめて、四百五十人からなる交易使節団を送った。
しかしアラル海とよばれる塩湖に注ぐ、シル河河畔の守将であるガイル・カンは、この使節団を歓迎するどころか、モンゴルの間諜であるときめつけて、全員を処刑してしまった。この中の一人だけが奇跡的に助かって、逃げ帰ってきたので、事の真相がわかったのである。ジンギス汗は激怒したが、すぐに兵を起こすようなことはしなかった。
ホラズムという大国が、どれほどの武力をもち、どれほどの強敵であるか、を懸命に探りつづけた。そして、第二回目の使節団を派遣して、ムハンマドに対して、謝罪とガイル・カンの処罰を要求した。
ムハンマドはこれを迎えて、使節団の団長を殺し、残りの団員の髭をそり落として、追いかえした。ムハンマドの側近たちは、ジンギス汗の力量を過小評価しないよう、懸命に忠告したが、彼は聞く耳をもたなかった。それどころか、モンゴルとの戦いを決意してしまったのである。
お真は父のゲルをおとずれて、偶然に中での会議を立ち聞きしてしまった。ジンギス汗を中心にして、ベンケイ、サブタイ、シュビ、ロクタイ、カイソンたちが、なにやら日本語でしゃべっている。この会議が西域の征服にあるらしいことは、お真にも察知できた。
お真にとって、日本語は四歳までで途絶えてしまっていたから、むずかしい言葉はもちろん理解できない。四百五十人の隊商が全滅させられたからといって、大ホラズム帝国に戦いを挑まねばならない決定的な要因になるであろうか。
金国をウタリ王に任せたからといって、いまだ金国を完全に征服できたわけではないし、金国を征服しきるには、モンゴル帝国の全力をもってしても難しい情勢ではないか、と考えていたから、お真は不信感を持った。
「ねえトガチャル、どうして父は西域征伐をそう急ぐのかしら。金国と金国に反抗している南宋を退治してから、西域へ行けばいいと思うのだけれど、中国をそのままにしておいて、ホラズム帝国と戦いをおこすのは、間違いじゃないかしら」
「わしもそれを考えていた。四百五十人の使節団を殺されたことは、モンゴル帝国としては面子をつぶされたことだから、当然何らかの措置をとるべきだが、今でなくてはならないのか、どうなのか。対金国という大問題を抱えていなければ、すぐやるべき問題なのだが・・・」
「私は、金国を片づけてからでいい、と思うわ」
「大将はいろいろなことを考えているのだろう。われわれには大将の腹の中が読めないのだ」
「納得が行かないのに、従軍するのはしゃくだわね」
「大将の考えたことは、いつも後から正しいことがわかる。しゃくではあるが、天才には敵わない」
「いくら天才でも、間違えることはあるでしょう?」
「しかし、人口二百万人のモンゴル帝国をもって、人口五千万人の金国に攻め込んで、あの世界一の大国を、黙らせてしまったのだから、ホラズム王国との戦いに対して、誰一人として反対できないだろう」
「そうね、父は昔日本で戦っていた頃から、すべて独断で、自分の思うとおりにやってきたらしいわね。そのやり方で一度も間違わなかったのだから、ベンケイもサブタイも、反対できるわけがないのよ」
「そういう人は普通、ワンマンになって威張りちらすものだけど、大将はちっとも威張らない。誰に対しても優しくて、普段は人の意見をよく聞くし、部下に対しても思いやりの深い人なのだから、不思議で仕方がないんだ」
「実の父でありながら、私にもまったく分からない人だわ」
「ホラズム王国の皇帝ムハンマドは勇猛で、四十万人の兵を動かす力を持っている、といわれている。それに対して、われわれは最大で二十万人でしかない。しかも彼らはたくさんの城を持っていて、ヨーロッパの文明をとり入れているというから、金国より強敵であることは間違いないだろう」
「金国には、ムハンマドのような人がいませんでしたからね。ホラズムの皇帝が勇猛なら、天才的な参謀がついているかもしれないわね」
「西域に、大将の戦略戦術を上まわる指導者がいる、などとは想像しにくいことだが」
「世の中は広いから、どんな大天才が待ち構えているか分からないわ」
「まあ、われわれが心配したって、大将の考えが変わることはあり得ないのだから、取り越し苦労はこの位にしておこう。それより、クランの見舞いに行ったらどうかな。わしはベンケイ将軍と、打ち合わせの約束がある」
「クランは体が弱いから心配で・・・。でもきっと、彼女は西域へも従軍すると言いだすわ」
クランは、事実従軍を申し出ている。ボルテの第一夫人に対して、クランは第二夫人の地位を得ている。第三夫人がイエスイ、第四夫人がイエスゲンの姉妹である。
クランは病弱な体を押して、従軍しなくてはならない理由はむろんないのだが、安逸をむさぼる気はさらさらなく、また身を飾ったり、ゲルの中に贅沢な調度品をおいて楽しむこともなく、ほかの女たちから
「何が楽しくて生きているのか、わからない」
と言われる女であった。イエスイ、イエスゲンの姉妹は東洋的な美人で、体全体からかもし出す色気という点では、百人をこす後宮の女たちの中でも、群を抜いていた。
ボルテは、絶えず彼女らに嫉妬の炎をもやしていたが、クランはその点でも普通の女らしくなかった。タタール部族を征服したときに捕らえられたのが、妹のイエスゲンであった。 
彼女は、姉のほうが大汗の后としてふさわしい女性だから、とジンギス汗に申し出たので、早速行方不明になっていたイエスイが探しだされた。イエスイは既婚者であったが、夫とは戦乱の中で生き別れになっていた。ジンギス汗は美しい姉に一目ぼれして、第三夫人となし、賢く美しい妹を第四夫人としたのである。 
この四人の后に対して、後から後宮に入れられた女性は妃とよばれ、両者の間には厳格な序列があった。后妃は合計三十九人であったが、次から次へと女たちがつれて来られて、後宮は何百人かにのぼった。
その数は正確には伝えられていないが、一般に言われる五百人という数字は、ややオーバーであった、と思われる。ジンギス汗の孫に当たる元朝の世祖クビライは十名、秦定帝も十名くらいで、ほかの皇帝は数名。中にはたった一名という皇帝もいた。
クランは、イエスイ、イエスゲンの姉妹に対して嫉妬したりはしなかった。少なくともこの二人に、辛くあたるようなことは一度もなく、むしろ積極的に仲良くつきあった。特に賢い妹のイエスゲンとは話も合い、頻繁に行き来していた。
クランは、ジンギス汗のもっとも男性的な部分、すなわち征服欲をもっともよく理解しえていることに自信を持っていた。モンゴル帝国の王者に満足せず、世界の王者たらんとするジンギス汗とともに生き、ともに戦場におもむくことに誇りを抱いていた。
女に生まれたことに満足し、女でなくては補佐できないことをして、ジンギス汗に尽くすことが喜びであった。一方、ジンギス汗の愛を独占したくて、それがかなわないボルテは絶えず悩み、絶えざる苦しみの中に生きていた。
しかし、クランにはそれがなかった。ボルテはそのために金銀財宝にかこまれ、ぜいたくな調度品と美味な食事に、悩みを忘れようとして、次第に肥っていった。
イエスイ、イエスゲンの姉妹はおとなしく、ボルテに対しても従順で、波風を立てなかった。それだけ賢い生き方をしていた、といえるかもしれない。お真は、体の不調を訴えてベッドにふせっているクランを見舞った。
「どこが悪いの?」
「どこが悪いのか医師にも分からないの。ときどき高い熱が出て、熱が引くとひざに力が入らなかったりして・・・」
「それでも西域へ行くのね?」
「私って物好きね」
「私も行くから看病は任せてね」
「悪いわね、でもお真も大変ね」
「私は、戦いは嫌いじゃないから」
「今度の戦いは、金国のようには行かないと思う、って大汗が言ってたわ」
「そうでしょうね」
「だから私は楽しみにしているのよ」
「クランは戦争好きね」
「戦争でなくてもいいの。男が全知全能を傾けてやる仕事なら、本当は戦争でないほうがいいのだけれど、ほかには見当たらないので、戦争で我慢しているのだけど、全力で何かをするって、素晴らしいことね」
「だけど、戦っている当人は命を的にしているのだから、素晴らしいなんて思ってはいないのよ」
「ごめんなさい。お真は血の雨の中を、かけずりまわっているんですものね」
「人を斬るときは、この人にも親があり、妻があり、子があるんだなって思うのよ。それから、あんまり若い男は、親の姿を想像して、斬れないわね」
「そういう人と遭遇した時は、どうするの?」
「私のほうが逃げることにしているの」
「優しいのね。大汗もあまり若い男は斬れない、って言っていたことがあるわ」
「私は、本当は戦いがきらいなの。出来れば人を殺したくないし、その人の財産を奪いたくないの。だけど団体行動だから、私だけそうしないわけに行かないし、百人ばかりだけど部下もいることだから、仕方のないことなのよ」
「私だけ面白がって、高見の見物をしているようで申し訳ないわね。私だって、人殺しを面白がっているわけじゃないのよ。ただ、戦いを通じて、この人の世っていうものが、移り変わってゆく姿を、じっと見つめているのよ。じっと見つめていることに、どれだけの意義があるのかって言われれば、返す言葉がないのだけれど」
「人間を見つめているのね?」
「そうね、人間は欲望とか、憎しみとか、心の中に、何か訳のわからないものにつき動かされて行動したり、悲しみに打ちひしがれたりして生きているうちに、気がついたらかなりの年齢になっていたり、いつの間にか時代が変わっていたりして、そんな儚いものが人生っていうものなのかしらね」
「クランは父に出会い、私はトガチャルに出会って、いつの間にか人生っていうものを考える年になったのね、お互いもう三十台ですものね」
いつの間にかしんみりした話になって、お真はにが笑いした。ゲルから見える草原に、人の影がまばらになって、初夏の空が暮れなずんでゆく時刻になっていた。
八、西域に九琉の白旗がひるがえった
一二一九年春、ジンギス汗は二十万人の大軍を率いて、ホラズム征伐に出発した。彼はホラズムの全軍隊を撃破し、主権者のムハンマドの息の根をとめるまで戦うことを宣言した。
通商使節というものは、彼の考えでは神聖なものである。軍隊に囲まれてゆくものではないから、途中の危険は計りしれないものがあり、しかも、国家の命令で親善と友好、それに交易をもとめて派遣されたものである。 
一度ならず二度までも侮辱をうけては、国家の威信にかかわる大問題であった。降伏するものには手を下さず、抵抗するものは兵と市民の区別なくこれを殺すべし、という厳しい命令であった。今回は、モンゴル帝国の全力を投入しての作戦であり、民族の興亡をかけての戦いであった。
海の見えない大地は、果てしなくつづく。短い草がまばらに生える草原、砂地がまばらに広がるでこぼこの荒地、見渡すかぎり砂、砂の砂丘地帯。はるか彼方に、雪をいただく高山が雲の切れ目に姿を現す。涸れてしまった河がある。雨が年に一度降ると濁流を流す河となり、翌年又雨が降るまでに干上がってしまう。
川床がひび割れて、まばらな草がわずかな湿り気にしがみついている。風はいつも乾いていて、時に烈風となり、砂塵をまきあげ、太陽を覆ってしまって、昼日中に突然夕方が訪れてしまうこともある。オアシスまでは遠く、長い長い道程である。鳥の影が次第に少なくなり、トカゲやさそりなどの小動物しか目に入らない旅がつづく。
モンゴルの兵は、褐色の粗布のながい外套を着て、胴には帯をしめ、袖はひろく長い。帽子は狐皮か白のフェルトで、赤や青のウールで縁取りがしてある。髭をはやし、頭は蓬髪。背はひくく、頑丈そうな体つき。砂塵にさらされて血走った目と、白い歯が特徴である。小型で毛もくじゃらの馬に乗る。馬乳はクミスといわれ、鋭い酸味のある青白い乳であるが、体力増強剤として強力な力をもつ。  
アジアの中央部は先史時代ひろい内海であった。崖には海の生物の化石が埋もれている。カスピ海や、アラル地方の塩水湖は海の名残りである。大草原は海のようである。この海を羅針盤なしに、航行できる能力を彼らはもっている。ありとあらゆる地形を正確に頭の中にきざみつける。夜は、星か鳥のとぶ方向をみて判断する。三歳くらいから乗馬を覚えて、遠くまで出かけるので、特異な力を身につけているのである。
ジンギス汗は大草原のど真ん中で、一族・重臣をあつめていつ死に別れてもいいように別離の宴をはったが、この席上自分の後継者を発表した。それは皆の予想どおりオコタイであった。
第一夫人ボルテから生まれた血筋のよさから、お子タイと幼少時から呼ばれた彼は、人間が温厚で誠実であった。おそらく、本名は別にあったと考えられるが、歴史は本名を伝えていない。史書によって呼び名が異なり、オゴタイ、ウグデイ、エゲディなどとなっている。
モンゴルの伝統では、末子相続の制度がおこなわれていたから、ツルイが継承者になる予想もあった。ジンギス汗のこの人事は、彼の死後大方の予想どおり兄弟間の分裂を呼んだ。中国の地に元(ゲン)王朝を創立したクビライは、ツルイの息子である。
回教国ホラズムは、モンゴル軍に二倍する四十万人の軍隊を用意しているとの情報があったが、それを完全に掌握できる統率者がいないことも分かった。
出陣の前に軍医の提言で、肌着に絹織物を使用していた。これは矢が肉をつらぬいた場合、絹織物が一緒に傷口に入り、後の治療に大きな助けとなるためであった。これは世界戦略史上はじめての試みであったろう。
「余が倒れても、一瞬たりとも戦いを休むな。余の屍をのり越えて戦え!」
ジンギス汗のこの命令は、壇ノ浦で平家と決戦をする前に、義経が言った言葉と同じである。参謀本部がホラズム帝国への進入路を検討しているときに、カラ・キタイに駐留していたベンケイが、予想もしなかった通路を知らせてきた。
一種の密路である。ホラズムだけに通ずる山岳道である。そこからシル河をわたって、北からも東からも進軍できる道があって、分進合撃作戦をとるのに絶好の抜け道であった。 
二十万人のモンゴル軍には、数百万頭の動物が従ってきている。食料のための大量の羊に加えて、替え馬が百万頭、荷物運搬用の牛、砂漠を横断するための駱駝などである。
ベンケイとシュビの二将に、二万人の兵をさずけて先発隊とした。天山山脈は、春とはいえ猛吹雪であった。三千メートル級の山々を越えると、さらに千メートル高い四千メートル級の山々が待っていた。
荷駄を捨て、馬の負担をへらし、ときには馬の血管を切ってその血を飲み、又その血管を閉じて、ただひたすら進みに進んだ。相当数の死人も出た。止まれば凍え死ぬことは、誰もが知っていたから、進むことだけを考えて手綱をひいていた。
やがて、フェルガナという谷あいの町につくことができた。フェルガナは、ぶどう、蚕、小麦などの産地であり、又、高級な種馬牧場として有名で、金銀細工、ガラス器の産地でもあった。
疲労困憊の極に達した将兵は、わずかな休息の後に、ホラズム軍の大軍を迎えうたねばならなかった。村の者が急報したためであった。ホラズム軍は皇帝ムハンマドと、息子のジェラール・ウッディーンに率いられた精鋭であった。
皇帝自らの出撃は、まったく予想外のことであった。ベンケイ軍は一旦は退却したが、すぐに態勢を立て直して、猛然と戦いをいどんだ。たかが蛮族の集団、と高をくくってきたムハンマドは、モンゴル軍の小旗の合図によってすばらしいスピードで、離合集散する機動力に目を見晴らされた。
シュビの軍が危ういと見ると、弁慶軍が側面からつきかかって来、ベンケイ軍を追うと、背後からシュビ軍が襲いかかってきた。ムハンマドは、自軍の数が三倍するため、絶対に優勢だと信じていたが、ふと気がつくと、自軍のすぐそばまで敵が来ていることに気づいて青くなった。
ジェラール・ウッディーンの軍が急行してこなければ、危ないところであったことを知らされて、ムハンマドは退却を決意した。夕闇がせまっていたので、モンゴル軍との距離がはなれたのを幸いに、サマルカンドの城砦に引きあげた。
ジンギス汗からは、五千人の増援部隊が送られてきた。そして、南方のアム河上流地帯に進出するよう命令が下された。チャプタイとオコタイの軍は、オトラルのガイル・カンを捕らえるべくシル河の中流に向かい、第三軍は上流へ、そしてジンギス汗の本隊はゼルヌーク城へ向かった。
本隊は五万人であった。シル河を渡り、キジルム大砂漠を難行軍して、ゼルヌーク城にたどり着いた。この城は無血開城に成功して、若者だけを兵として徴用し、ほかは家郷に帰ることをゆるした。しかし、城砦は徹底的に破壊した。
ついでモンゴル軍は、ヌール城へせまり、これも無血開城に成功した。チャプタイ、オコタイ軍はオトラル城に到着した。かつて、四百五十人の使節団を殺したガイル・カンは、このオトラル城にこもって抵抗したので、これを猛攻して陥落させ、ガイル・カンを極刑に処した。
一二二0年になっていた。ジンギス汗は、ブハラ城の郊外に達すると、河のほとりに本営をかまえて、兵に充分な休息をあたえた。城内には二万人の籠城軍がいたが、降伏勧告に応じようとしなかったので、大軍をもって城を包囲した。ムハンマドは、緒戦ですっかり懲りてしまい、サマルカンドの城から一歩も出てこようとしなかった。
ベンケイ、サブタイ、シュビの三軍をもって攻撃を開始したが、ブハラ城は、城砦の堅固さをたてに、頑強な抵抗をしめした。一日考えつづけたジンギス汗は、裏手に回ることを決意した。トガチャルが
「そういう危険な仕事は、大汗がなさることではありません、我々にお任せください」
といって止めようとしたが、
「砂漠の中の道が、何本通っているのか、あるいは道が通っていないのか、わしにも分からないのだから、部下に命令することができない。一番むずかしい仕事だから、わしがやるのだ」
ジンギス汗はそういって、三千人の親衛隊をひきいて、砂漠の中に姿を消した。砂漠の道案内は、トルクメンで捕虜にした兵士であった。篭城軍が、前面の敵に完全に気をとられているとき、ジンギス汗が突如として背後に現れて、城砦に火をつけた。
背後から、猛火にあおられてあわてた城兵は、門を開いてアム河にむかって逃れようとしたが、モンゴル軍は網をはって待っていて、かんたんに殲滅してしまった。一の谷で、平家の背後をおそった作戦と、同一のものである。
二十万人の総帥であるジンギス汗が、部下に命じずにみずから少数の兵をひきいて、砂漠を難行軍して城の裏手にまわって、背後から襲いかかる、という危険をおかすこと自体異常である。世界の戦史の中に、こんな例があるだろうか。後世の歴史家は「同一作戦は、同一人物でなくてはできない」
と、言っている。次いでモンゴル軍は、果樹園と宮殿の都市サマルカンドに迫った。サマルカンドは、アレキサンダー大王が創設したルートといわれる、主要な通商ルートの分岐点に位置していた。インドからも、ペルシャからも、トルコからも、ありとあらゆる商品が流れ込んでいた。
モンゴルの兵達は、はじめて見る楽園に見とれていた。城外は果樹や草花でうずまり、城をかこんで流れているソグド川の水は澄みきって、その岸辺は果樹の林が延々とつづいていた。
城は石の城壁を幾重にもめぐらせて、堅固そのものにみえた。城内には四万人の兵がいたが、ムハンマドはすでに逃げさった後であった。そのため、兵の士気はひくく、何のために戦うのか、目的も目標もないから簡単に降伏して城門をひらいた。攻城戦は三日間にすぎなかった。
工業技術者三万人と、多くの捕虜を捕らえ、モンゴル人を一人と、城内の長老二人を選んで臨時政権を作った。しかし、城砦は焼きつくした。いかなる軍隊が攻めても、数年はかかるといわれたサマルカンドが、わずか三日で陥落したと聞くと、ムハンマドは背筋に震えがはしるのを禁じえなかった。モンゴルの兵は、どこまでも自分を追いつづけるだろうか。モンゴルの兵よりも、自国の兵の方がさらに恐ろしく思えて来はじめた。
ジンギス汗は、ブハラでもサマルカンドでも、四百五十人の使節団を殺したムハンマドの非を鳴らし、抵抗しないものには穏便な処置をし、略奪もしていないと聞くに従って、自国民たちが皇帝を殺すことによって、モンゴルとの和平を達成しようと願うはずだ、ということが次第にわかってきたからである。彼は西へ西へと逃げて、ニシャプールの城砦へ逃げこんだ。従うのはわずかに数十人の親衛隊のみであった。
しかし、ニシャプールの兵も市民もあまりにもよそよそしかった。モンゴル軍と真っ向から戦おうとしない皇帝は負け犬であり、隙があれば首をとってモンゴル軍に突きだして、褒賞にあずかりたいと思うものは大勢いたが、味方になろうとする者はほとんどいなかった。
かつてムハンマドは圧政を行い、人民からの搾取をほしいままにしていたので、憎むものは多くても、一人として好むものはいなかった。弁慶とサブタイは、おのおの各一万ずつの兵を率いてムハンマドを追跡していた。彼を捉えないうちは、ジンギス汗の下へはもどらない覚悟をきめていた。
ムハンマドがバルフの城にいるという噂を聞きつけて、両軍は合流して駆けつけたが、城門はあっさり開かれ、ムハンマド皇帝はどこか分からない西のほうへ行った、と告げられただけであった。
一日百二十キロの速力で、両軍は西へ西へと軍を進めた。ほとんどの町は城門をひらいて食料だけは提供した。こうした戦況はホラズム国全土にひろがり、兵と市民の間に議論が沸騰していた。
モンゴル軍こそ真のアラーの神の軍隊であって、ムハンマド皇帝は偽者ではないのか。その証拠にカラ・キタイでは、キリスト教の皇帝をわずか三ヶ月で斬首して、回教寺院を大復活させているではないか、といった意見が多くささやかれるようになっていた。
「あの傲慢で、権勢欲のつよい、過酷な政治や政策しかしらない皇帝が、モンゴルからとんでもない狼群を呼びこんでしまった」
ホラズム国の国民は、次第にそう思うようになっていった。これがモンゴル軍よりおそろしい闇の目となって、皇帝をつけまわし始めた。
皇帝は、毎晩テントを変えて寝なければならなかった。ある朝起きてみると、皇帝のテントに見せかけた中央の立派なテントに、数十本の矢がつきささっていた事件があった。 
さすがのムハンマドも、これはひどいショックであった。国民から命を狙われていることを実感せずにいられない。そのとき、末子のジェラール・ウッディーンのことが、頭にひらめいた。
彼ならきっと自分の後継者として成功するだろう。帝位をゆずって自分はどこかに隠棲しよう。そう決心すると、馬首をめぐらせてカスピ海の方向へ走り出した。
カスピ海のそばで、サブタイ軍の一支隊が数十騎の武装した敵と遭遇し、全員を倒したが、その中の一騎が重傷を負ったまま、馬の背中にしがみついて走りだした。
サブタイが急報に接して駆けつけたときは、その男ムハンマドが、帆船に乗ってカスピ海を遠く去ってゆくのが、遠望されただけであった。
重傷を負ったムハンマドは、助からないことを一小島で知って、ジェラール・ウッディーンを王位継承者としてみとめる辞令書をのこして、孤独な死をむかえた。妻子は、カスピ海の岸ちかくに隠したままであった。ジェラール・ウッディーンがホラズム王国の首都ウルゲンチ城に、逃げ込んだことを知ったジンギス汗はウルゲンチに迫った。
ホラズム王国の皇帝ムハンマドの母親で、軍閥の指導者であるテルケン・ハトンは、ウルゲンチ城に住んでいたが、孫のジェラールが逃げ込んでくることを知り、又、ムハンマドが病死したことを聞きおよんで、ウルゲンチを捨ててイラル城へ逃げだした。
彼女は、息子のムハンマドも、孫のジェラールも共に憎んでいて、たえずこの二人に対して陰謀を企てていた。親子が憎み合う例はままあるが、孫まで憎むとは、珍しい例といわざるを得ない。
この情報を敵の脱走兵からきいたジンギス汗は、これを最大限に利用してきた。この三人は、それぞれ勝手に国民から搾取をつづけ、国民を自分たちの財布と勘違いしていたから、国家としての統制がとれず、軍隊もばらばらであった。
テルケン・ハトンは軍人ではなかったから、軍勢を糾合することができないので、逃げるしか方法がなかった。逃げだす前に、ウルゲンチ城に幽閉してあったセルジュクの皇子達を殺させた。
彼女はイラル城に逃げこんだが、一族以外はウルゲンチの兵も市民も、誰一人として同行するものはいなかった。モンゴル軍は、イラル城に殺到して彼女を捕らえて、モンゴルへ送った。残り少ない生涯を、彼女はモンゴルのテントのなかで生き恥をさらして過ごし、そのうちに人々から忘れ去られてしまった。
ジェラールが逃げ込んだウルゲンチ城は、十数万人の兵が守護する首都である。ムハンマドが何故、ジェラールと共にこの城にこもって抵抗しなかったのかが謎である。ジェラールは、この城郭都市に拠ってはげしい抵抗をみせた。
新しい指導者としてジェラールへの信望は、城内で日に日に高まってゆく様子がうかがえた。ジンギス汗はその様子を見ながら、周到にして完璧な作戦を練りあげた。まず最初の作戦は、城の近くにある村々の略奪であった。物資を補給するためと、村民を捕虜にして第一線で働かせるためであった。
城の周囲の堀をうずめたり、味方の塹壕堀りなどに使役し、さらに槍を打ちこむド砲の砲台や、城にのりうつるための櫓をかけたりする、もっとも危険な仕事をさせる。さらに戦いがはじまると、第一線に駆りたてて身内同士の戦いをやらせた。
用意した武器は、ド砲三千基、投石器五百基、石油を入れた火炎瓶を発射するカタパルト七百基、櫓四千基などである。ジンギス汗の作戦の特徴は、心理作戦からはじめることであった。
まず、いつわりの情報を城内にながす。それを間断なく繰りかえす。同時に、昼夜の区別なく投石器やド砲で攻めつづける。このために篭城軍は不眠状態になって、しだいに戦意がなえてゆく。
その様子を、手にとるように感じとったジンギス汗は、降伏の勧告をした。おとなしく降伏すれば市民の命は助ける、という内容であった。しかし、この勧告は拒否された。
そこで彼が打ったつぎの手は、城兵たちが見ている前で、城外に放牧されている家畜を奪ったり、民家から略奪することによって、敵を城から誘いだそうとする作戦であった。
不眠で疲れきった体に、心理的にいためつけられた篭城軍は、ついにたまりかねて城門を開けてうってでてきた。モンゴル軍はそれを見ると一斉に退却して、敵を城からひき離し、さらに追跡させて、敵がへとへとになるまで追わせた。
モンゴル軍はいつも替え馬を用意しているので、敵の人馬の動きがにぶくなるまで逃げに逃げる。へとへとになって、あまりの深追いが危険であることに、気がついた敵が引き返そうとすると、いつの間にか、行くてに新手のモンゴル軍が雲のごとくに湧いて出てきた。
しまった、とうしろを振りかえると、今まで逃げてばかりいたモンゴル軍が、疾風のごとくに攻めかかってきていた。長槍をそろえた密集隊形の突撃であった。
ばらばらになって逃げまわるウルゲンチ軍は、撒き狩りの野獣さながらで、討たれるに任せざるをえなかった。ウルゲンチの城内は、すでにブハラやサマルカンドのような主要都市を失って、孤立無援となっていたから、恐怖のどん底にあった。
しかしジェラールは、まだ降伏勧告に応じようとしなかった。ジンギス汗はついに総攻撃を決意した。先鋒をチャプタイとオコタイの二将に命じた。城壁をよじ登って、九琉の白旗をなびかせたモンゴル軍は、城内へ雪崩をうって進撃した。これを受けてウルゲンチ軍は、予想外にはげしい抵抗をしたので、双方に大量の死傷者が出る結果となった。

九、カルカ河の決戦
本営で戦いの報告をうけていたジンギス汗は、意外な訪問者を迎えた。娘のお真である。
「急にどうしたのじゃ」
「はい、お忙しいところを申し訳ございません」
「わけを申せ」
ジンギス汗はしばらくぶりに顔を見せたお真を、不振そうに覗きこんだ。
「あの・・・、トガチャルが戦死しました」
「トガチャルが・・・」
彼は大きく目を見開き、そして溜息をついた。
「死んだか、そうか・・・、良い男であった。勇敢で、お前をよく愛してくれた。惜しい男を亡くしたものだ」
ジンギス汗は涙をこらえるように、上を向いて天井を睨んだ。お真がクランの看病のために軍を抜けたので、ジンギス汗はトガチャルを、ベンケイ軍からはずして、オコタイ軍に編入していた。
「お願いがございます」
お真はひざを前に乗りだした
「私に兵をお授けください」
「うん?」
「憎っくき敵を、一人のこらず斬ってまいりとう存じます」
「お前がか?」
「私にせめて、千名の兵をお授けください」
「わずか千名でか?」
「千名で充分です」
「よろしい。わしの親衛隊一万人のうち、五千人を率いてゆくがよい」
「ありがたき幸せ」
「親衛隊の指揮は、シュビに執らせよう。それから、お前の護衛にはロクタイを行かせよう」
「そこまでして頂かなくても・・・」
「ところで、お前はいくつになった?」
「はい、三十五才になりました」
「平泉を出てから、はや三十二年も経ったか・・・」
「それでは父上、お別れです」
「待て、わしはすでに六十二歳になった。若いお前は、死んではならない。よいか、死んではならぬぞ。これはわしの命令だ。トガチャルと共に死ぬことは許さん。わかったか」
「はい」
立ち去るお真の後姿をじっと見つめて、ジンギス汗は口の中でつぶやいた。
「生きて帰ってくれ。わしを置きざりにするな」
選りすぐりの親衛隊五千人を率いたシュビとお真は、轡を並べてウルゲンチ城を目指した。すぐ後には、老いたりといえどかくしゃくとした、ロクタイの勇姿があった
やがて、日が暮れようとする頃、お真は返り血を全身に浴びた鎧姿のままで、父の前に姿を現した。
「おお、無事であったか」
ジンギス汗の表情は、老いたる父親の顔そのものであった。
「おかげさまで、目の前に現れた敵は、すべて斬り捨ててまいりました」
「そうか、そうか」
ロクタイは、お真の働き振りを誉めそやした。
「源氏の血とはすごいものであります。お父上の義朝殿や、叔父上の鎮西八郎為朝殿と、同じ英雄の血でありますなあ。お真殿が男であったなら、殿の跡継ぎになりましたろうになあ」
ロクタイの目には涙が光っていた。手塩にかけて育て上げたわが娘を見る目であった。トガチャルの死と、お真が斬り込んだことを知ったクランは、すぐに彼女のゲルを訪れた。体の汗と血しぶきを拭ったお真は、暮れようとする蒼天を睨んで、丘の上の草地に腰を下ろしていた。
クランはだまって横に腰を下ろして、左手でやさしくお真の肩を抱いた。お真は煮えたぎった体の中の血が、徐々に鎮まってゆくことを感じるにしたがって、寂しさがひしひしと襲ってきていた。
「よくやったわ。敵陣に斬り込めるあなたは幸せよ。たとえジンギス汗が戦死したって、私には斬り込むだけの力がないから、ただ泣くだけしかできないもの」
「斬り死にする積りだったのです。でもシュビとロクタイが守ってくれて、どうしても死ねなかったのです」
「大汗は、あなたに死んでもらいたくないのよ。私の体がこんなで、もってもあと半年か、一年がいいところでしょ、彼はそれが分かっているから、あなたの命は、どうしても助けたかったと思うわ。
だからといって、親衛隊を貨さなければ、あなたは自分の部下の百人だけでも、斬りこんでしまうことを、彼は知っているのよ。自分と同じはげしい血をもったあなたを、よく理解しているのね」
「トガチャルとの約束を果たせなかった、それが悔しい」
「人間の寿命は天が決めることで、人間の力では、どうにもならない事なのじゃないかしら。真冬に冷たい川に飛びこんでも、助かってしまう人もあるし、真夏に小川の浅瀬で、おぼれて死ぬ人もあるのだから」
「これから、私はどうすればいいの?」
「これからも戦いはつづきます。トガチャルのように、全軍の先頭に立って戦いなさい。それで、死ぬときは死ぬし、死ねないこともあるのよ。ジンギス汗の戦いは、おそらく彼が死ぬまでつづくでしょう」
「父は死ぬまで、戦いをやめないでしょうね。世界は広いですものね。私も戦いつづけるしかないのね」
「チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人は、こと戦いに関しては、言うことはないけど、彼らは、大汗の心の支えにはなっていないと思うの。彼はあなたに、それを求めているのよ」
「父はトガチャルを愛していました。その上、私まで居なくなってしまったのでは、寂しすぎますね」
「そうよ、そのうちに私も居なくなるだろうし・・・」
「クラン、そんなこと言わないで。生きて行かなければならない私にとって、クランまで居なくなることは、耐えられないわ」
「私の寿命は、どうやら決まっているらしいの。私が死にたがっている訳では、ないのだけれど」
「病気だって戦いよ。戦ってみなければ、勝つか負けるか、分からないじゃないの」
「そうね、頑張ってみるわ。あなたが辛い思いをしているときに、余計なことを言い出して、ごめんなさい」
クランはさびしげな微笑をもらした。容色は決して落ちてはいなかったが、どこか張りが感じられない皮膚の色であった。軍医にも病名は分からないらしい。大汗とは長い間、寝所を共にしていないという。クランの体が受けつけないようであった。
「お真、お互いにいつ死ぬか分からないけど、その日までがんばりましょうね」
二人は肩を抱き合った。お真は、トガチャルのために今は泣かずにいよう、と心に誓った。夕焼けの空いっぱいに、渡り鳥が群れをなして飛んでいた。
敵兵を掃討した後、ウルゲンチ城を徹底的に破壊し去るために、ジンギス汗がとった措置は、アム・ダリア河の流れをせき止めるために堤防をつくり、その堤防をきって大河の濁流を城の中に導き入れることであった。
これにより城中に潜んでいた兵も市民も、すべて溺死させられた。先に助けだされたのは若い女と幼児、工芸家、職人だけであった。約半年に及んだウルゲンチ攻略は、ここにようやく終止符を打った。
ホラズム王国は、こうしてモンゴルの征服するところとなった。しかし、ジェラール・ウッディーンはとり逃がしていた。彼はアフガンのホラサンに逃げ延びて、強力な部隊を結集しつつあった。
モンゴル軍はジェラールを追って、アフガンへ進撃した。この地での抵抗は、今まで出会ったいかなる敵よりも頑強なものであった。メルヴの城址は、いくつかの図書館や、一万人の工匠によってつくられた、といわれる防壁や築堤もあとかたなく破壊され、バルフの城址も繁華な町として有名であったが、ともに廃墟になるほどの徹底的な攻撃をうけた。
大都市バーミヤンもさらに激しい攻撃をうけた。チャプタイの息子モアトゥガンが敵の矢にあたって死んだため、ジンギス汗の怒りをさらにかき立てた。
「この都市そのものを倒壊し、土地も砂塵の下に埋もれしむべし」
と命令した。バーミヤンは無人の荒地となり、“マヴ・バリク”(呪われたる街)といわれた。このアフガンでの破壊と殺戮によって、ジンギス汗は残虐な大王という不名誉な称号を奉られたのである。しかし、回教徒の歴史家が口を揃えて語っているところでは、
「モンゴル軍は、いつも劫掠や破壊をしたわけではなく、どの城砦でも衣服、原料、羊毛の外皮、その他の物品などをトク金として和平を求めたものは、何事もなくてすんだ」(ラーフ・フォックス「ジンギス汗」)
のである。ムハンマド、ジェラール、テルケン・ハトンなどは、市民や農民から、搾れるだけ搾り取ろうとしたから、これらの抑圧者から開放されて、モンゴルという新しい主人のヤサ法による、秩序と規律の下におかれた人々には、救いであったことは事実である。
金国と同様の腐敗しきった国であったことが、モンゴル軍に幸いしたのである。ジンギス汗の強運ともいえるであろう。ジンギス汗は、武将シギ・クトクをしてジェラールを討たせようとした事があったが、大失敗に終わった。
シギ・クトクは自分の兵団の大部分を失って、失意の中をもどってきたが、ジンギス汗は、彼をとがめようとせずかえって慰めた。抵抗する敵にはきびしく、過酷な大汗も部下に対しては寛容であった。
冬の初めに、ジェラールが大軍を擁してカシミール地方に現れた、との知らせに接すると、ジンギス汗は正々堂々の決戦をいどむべく、自ら総軍を率いてインダス河を目指した。
斥候によると、ジェラールがインダス河畔に駐営していて、あすの未明に渡河しようとして、小船をあつめている最中であることが判明した。その報告をきくとジンギス汗はすぐ決心して、全軍に徹夜の強行軍を命じ、夜中にジェラールの陣を弓形に包囲した。
木曽義仲との戦いも、屋島で平家の本営を急襲したときも、騎兵のスピードがものを言ったように、今回もまた敵には考えられない速さで、モンゴルの大軍が現れてしまったのである。
太陽が昇ったとき、トルコとアフガンの連合軍は周囲をすっかり囲まれてしまっていて、インダス河以外に逃げ道がなくなってしまっていることを知った。ジェラールは驚きを隠せなかった。みずから陣頭指揮をして激戦を展開したが、ついに力尽きて敗戦をさとった。
彼は乗馬と共に二十尺の断崖をとび降り、盾を背負い、手に旗をもって、ただ一騎で向こう岸の見えない大河を渡ろうとした。モンゴル軍は、背後から矢を浴びせかけようとしたが、ジンギス汗は、勇猛な敵の武将に敬意を表して、それを制した。彼が大河の彼方に消えてゆくまで、見送ったジンギス汗は
「あの勇敢な戦いぶりを範とせよ」
と将兵にさとした。若き日に、一ノ谷で数十尺の崖を馬ごとすべり降りた彼は、自分の姿をジェラールに重ね合わせていたのであろうか。

一二ニ二年正月、モンゴル軍は、ヒンズークシュ山脈の北麓に本拠をかまえた。ジンギス汗は、征服した国々の住民をどう統治してゆくかを真剣に考えこんでいた。この問題が重くのしかかってきていた。
耶律楚材を顧問として、制度を作ろうとしていた。ホラズム王国の各都市に、モンゴル軍が任命した総督をおき、副総督としてモンゴル人をおくダルー制度を設けた。ただし、城砦の改修と再建はゆるさなかった。
ジンギス汗はかつて耶楚素材に命じて、南宋の山東省から長春真人を呼び寄せるよう、手紙を書かせてあった。長春真人は道教の最高権威で、民間人の信仰を一身にあつめていることを知り、以前から教えを乞いたいと願っていた。
遠路はるばるやってきた道士は、背の低いそこらにいくらでも転がっている、農夫のような顔立ちの老人であった。大汗は道士の遠路の辛苦をねぎらい、礼節をつくして歓迎した。
道士は贅沢な衣服や調度の類は一切よせつけず、魚や肉なども食べようとせず、草類や果物だけを食した。ジンギス汗はいくつかの質問をした。
「回教徒たちと話をしていると、戦争の相手はキリスト教徒だけであって、モンゴル軍は横から何をしにやってきたのか、という顔をする。ムハンマド皇帝の悪行をただしに、やってきたのだと説明しても、なにか人間らしい感動も、怒りも感じられない。
もし皇帝が謝罪し、誰か一子に世襲させて友好を誓うなら、戦争は起こらなかったはずである。わしが見るところ、回教という宗教は、民を病気にしているように見える。回教徒たちは、回教病の患者か化け物のようにしか見えない。道士は、どう考えられるか」
「私は、そのような宗教を宗教とは認めない。回教は皇帝や権力者たちが、それを道具として民を愚民とし、戦争の道具にしているだけだと考える」
「その意見にわしも賛成だ」
「宗教とは、人間を知ることから、悟りの世界に入ることで、戦争のためにあるものでは、決してない」
「ここの回教徒は毎日あつまって、何回も祈り、それによって天罰をまぬがれ、しあわせを得られると信じているようだが、これは努力をしようとしない、盲信ではないのか」
「神は人の心の中にあるものである。心の中の神によって、天の神を知るものである」
「不老長生の薬はあるのか」
「衛生(健康)の道あり、されど長生の薬なし」
「そうか、やはりないのか」
「そんな物があったら、地上は人間で一杯になってしまうであろう」
「それもそうだ。わしの質問が間違っていた。ところで、人は真人のことを天人と呼ぶが、自らそう名乗っているのか」
「人がそう呼ぶだけで、私自身は野人と思っている」
彼はジンギス汗の問いには答えるが、自分からは決して、ものを言おうとはしなかった。しかし、ジンギス汗は決して不愉快ではなかった。帰りたがる真人を引き止めて、三年間が過ぎた。この間に、真人が語った言葉を二、三取り上げてみよう
「大汗はもと天人である。天が大汗の手を借りて、横暴なもの共を、討とうとするのである。生を終えたときは、天に昇って天人となるであろう。この世にある間は、欲を少なくして残虐をつつしみ、体を安らかに保つならば、長生きできるであろう」
「神は真である。道にしたがってこれを得る者は、四六時中思慮するものである。善を行い道を進めるなら、天にのぼり仙人となるであろう」
「大汗の修行の法は、外行では民をあわれみ、衆の生命をとうとび、天下を太平にすることであり、内行では神を信ずることである」
ジンギス汗は、いつまでも真人を引きとめておきたがったが、真人を拘束するわけにも行かないため、千人の従者をつけて送りかえした。
土産は、道教の道士と寺院のすべてに、税を免ずる旨の書かれた大汗の指令書であった。ジンギス汗が、長春真人にもとめた最大のものは、道教の代表者である道士の、公然たるモンゴル帝国を支持する姿勢であった。
金国は南宋に敗れた。南宋とモンゴルが対決すべきときが、近い将来にくるであろうことを、ジンギス汗は見透していた。中国の国家宗教は儒教であったが、道教の支持を得ることの方が、はるかに利益が大きいことを、彼は知っていた。
仏教徒の支持だけでは充分ではない。仏教徒は自国への裏切り者だと、多くの人がみている側面もあったからである。中国を支配するためには、ゆるぎない組織がほしかった。この布石は息子のオコタイ、そして、孫のクビライの時代に見事に結実している。
個人的にも、帝王学を学びたかったこともたしかであった。彼はあとで読み返すために、側近に漢字で筆記させた。彼は、五十才頃に取り入れたウイグル語を学ばなかったというだけで、後世の史家は無学文盲、ときめつけている。
余談になるが、真人の弟子である李志常が書いた「長春真人西遊記」の中に、一行がモンゴルでも、かなり大規模に農業が行われているのを目にする場面がある。
ジンギス汗は、サマルカンドの付近に駐営していたが、この大都会には決して入ろうとはしなかった。サマルカンドはすでに戦火から完全に復興して、多種の民族が雑居し、それぞれ平和な生活を営んでいた。
住民の大部分はウイグル人で、その上に立って漢人、契丹人、西夏人が大勢のウイグル人を使っていた。その上に、征服者であるモンゴル人が立っていた。モンゴルの兵は、身分の高いものも低いものも、みなが贅沢な生活をしていた。
異民族の女たちをつれて、果樹園を散歩したり、町の料理屋へ出かけたりしていた。戦火の跡は、城壁以外にはなにも認められなかった。大汗のために広大な敷地をもつ宮殿がしつらえてあったが、彼はけっして入ろうとしなかった。
華美な生活をしないことを、心に誓っていたからである。着ているものは遊牧民の粗末な衣服であり、食べるものもモンゴルの遊牧民そのままであった。
若き日の九郎は衣装に凝って、鎧など何着も用意したほどであったが、大征服者となった今は、すべての兵士たちの範となるべく、質素をモットーにしていたのである。シル河のほとりに駐営していたとき、彼は狩の最中に落馬した。
大猪を射止めようとしたときであったが、幸い猪は方向をかえて去ってくれたので、たいした怪我にならなかったが、自分の年齢をあらためて考えさせられる事件となった。長春真人が去ったことも、心に大きな変化をもたらしていた。
ブルカン岳の麓へ帰ろうという気持ちが、急にわき起こってきたのである。このことを真っ先にクランに話したが、クランは
「大汗がそれを望むのに、私が反対することはできません」
と答えた。
「帰りたくないのか」
「勝手なことを、言わせていただけましょうか?」
「何でも言いなさい」
「ヒマラヤの向こうに、インドという国がある、と聞いております。熱い国で、象が住み、仏教が起こった国です。そこには強兵をもつ強国があって、無限の富をたくわえている、と聞いております。」
「クランは、その大国が欲しいのではなくて、いつも戦塵の中にいたいのであろう」
「その通りです。ヒマラヤを越え、インダス河をわたり、象の大群を操って攻めてくる敵と戦う大汗と、いつも一緒にいたいのです」
「とは言っても、お前は病気だ。とてもこの難行軍には、耐えられないだろう」
「私は命など惜しくはありません。戦塵の中で死ぬことが、私の生き方だ、と信じております」
「わかった、お前の希望をかなえよう」
彼は病気のために、もう二年近くも寝所を共にしていないクランがいとおしかった。ブルカン岳に凱旋して、やすらかな生涯をおえようとはせず、后としての生涯を、ボルテやその他の后たちとは、別のところにおこうとしていた。
ムハンマド皇帝が死んだ後、ベンケイ、サブタイの両軍は、目標を失っていたが、次の機会のために、威力偵察を命じられて、イラク、アゼルバイジャン、クリディスタン、グルジア、シリア、アルメニア、キプチャック(ウクライナ)、ブルガリアなどを、つぎつぎと征服していた。
ジンギス汗は、両軍の使者の報告をうけて、いまだ目にしたことのない異国を想像するだけで、ベンケイ、サブタイの二将の行動を制御できない、もどかしさを感じていた。
キプチャック草原を目指したシュビからは、なんの連絡もなかった。シュビに対しては、黒海、カスピ海の北方にでて、弁慶・サブタイの軍と合流するよう命令を出していた。
一方、金国平定の大事業をつづけているウタリ王からは、何十日かおきに使者がとどけられていて、ジンギス汗は、金国の様子を手にとるように知ることができた。ウタリ王に対してはその都度、その労をねぎらう丁重な手紙を使者にもたせていたが、一二ニ三年秋、ウタリ王の死が使者によってもたらされた。病死であるという。
ジンギス汗より三才若い、六十二才の死であった。彼の落胆は大きかった。自分の弟とも思い、右腕とも考え、肉親以上の信頼と愛情をよせていたから、ウタリ王の死は彼の全身から力をうばってしまった。
「忠衡殿・・・」
彼は心の中でつぶやいたが、不意に涙がこみ上げてきて言葉がでなかった。しばらくして、彼は全軍をあつめてウタリ王の死を伝え、一ヶ月間全将兵に喪に服することを命じた。彼は、ロクタイとカイソンを呼びつけた。
「ベンケイも、サブタイも、シュビもいない。忠衡殿を知る者は、そなたたち二人しかいない。忠衡殿のために、今夜は三人で酒を飲もうではないか」
「殿が酒を飲もうとは、珍しいことじゃ。忠衡殿をしのんで、大いに飲もうではありませんか」
カイソンが、禿げ頭をなで上げた。ロクタイは、涙をじっとこらえている風であった。
「もう一度お会いしたかった」
ジンギス汗は、二人の顔を見つめて何度もうなずいた。その年の終わりに、ベンケイとサブタイ両軍から使者が二人やってきた。
「両兵団はロシアのモスクワに侵攻し、キプチャックとロシアの連合軍を、カルカ河に撃破し、ドニエプル河畔にでて、さらに進んで、アゾフ海(黒海北岸)沿岸地方に進出せんとす」
彼はこの二人の使者から戦いの詳細を聞きだした。一二ニ三年、ベンケイとサブタイの両軍は、黒海沿岸のキプチャック族に襲いかかった。モンゴル軍来襲の知らせに、浮き足立ったキプチャック族は、ルーシ公国のあるロシアの草原へ逃げ、ロシア軍に助けをもとめた。
ロシア軍は、このキプチャック族の略奪に遭っていたから憎んでいたが、これを放置しておくと、次はルーシ公国も攻撃されるであろうことを想定して、キプチャック族と共に戦うことを決意した。
ガリチ公ムスチラフは、ルーシ諸王侯をキエフに招集し、一致してキプチャックを支援し、かつ彼ら自身もモンゴル軍と戦うことを決議し、ルーシの大公ゲオルゲの支持をとりつけた。そのことを知ったサブタイは一計を案じて、ロシア軍に使者をおくって説かしめた。
「われわれは、ロシアに敵意を抱くものではない。キプチャックの者共に、天誅を加える目的のためにやって来ただけである。むしろロシア軍は、日ごろロシアに害を与えつづけているキプチャックを、われわれと共に討つべきである」
しかし、この使者は斬られてしまった。そして、ロシア・キプチャック連合軍はドニエプル河にそって南下を開始した。使者を斬られたモンゴル軍は、怒り狂っていたから、決戦は避けがたいものとなった。
ドニエプル河をわたった八万人の連合軍は、はじめて遭遇したモンゴル軍の前哨隊を簡単に一蹴した。このとき、ロシア人はモンゴル人をはじめてみた。兵士の背丈が低く、馬も小型で、アラブやサラブレッドに比べて約二十センチも背丈が低い。
いかにも貧弱な軍隊であった。しかも彼らはロシア軍を見ると、ろくに矢合わせもしないですぐさま逃げ出した。それを見て、連合軍はモンゴル軍を与しやすしと見た。
モンゴル軍はみなが騎兵であり、歩兵は一人もいない。しかも、各自がかならず替馬を四頭ずつ用意していた。馬には何もつけず、兵も胸当てだけの皮の鎧で背中は丸出しである。
これに対して、ロシア軍は重騎兵である。馬には鎖鎧をつけ、兵は鉄製のおもい鎧をつけ、沢山の歩兵をつれていた。そのために、騎兵も歩兵の速度で走らなければならなかった。モンゴル軍は挑発をつづけながら、数日程の距離にあるカルカ川の東岸まで退却していった。
追跡をつづける連合軍は、カルカ河の西岸まで辿りついたが、馬も歩兵ももうへとへとに疲れきっていた。ところが、この疲労困憊の状態の中でガリチ公ムスチラフは、中世ヨーロッパの騎士道精神を発揮して、疲れきった兵を無理やり追いたて、河を渡りはじめたのである。
ムスチラフ公は、同じルーシのキエフ公や、チェルニゴフ公などには相談せずに、抜け駆けの功名をたてようとしたのである。サブタイはそれを読んでいた。そのためにここまで退却してきたのである。
連合軍のおごりを誘発し、遭遇すれば一撃で倒せる敵と信じさせ、さらに疲れきるまで追わせたのである。彼らが、河の真ん中まで入ったのを見届けると、東岸から一斉に騎射を開始した。いつの間にか、サブタイ軍は黒山の人数にふくれあがっていた。
「しまった、敵の罠だった」
と気がついたムスチラフ公は、はじめて退却を命じた。しかし、今出発したばかりの西岸には、弁慶の大軍がいつの間にか姿をあらわし、一斉に騎射を開始したのである。河の中は屠殺場と化してしまった。
両軍はムスチラフ軍の屠殺にたいした手間は取らなかった。西岸に合流した両軍は、ムスチラフ軍の壊滅を目のあたりにして、浮足だった連合軍にむかって突撃した。
モンゴル軍は密集隊形で、長槍をそろえて突撃するので、敵の歩兵はひとたまりもなかった。それを見た重騎兵は、歩兵部隊を見捨てて逃げだした。歩兵の大軍をベンケイ軍にまかせたサブタイ軍は、重騎兵の大軍を猛追撃した。
連合軍の重騎兵たちは、一対一の騎馬戦の訓練はしてきたが、密集隊形の長槍による突撃は、予想だにしていなかったので、対処のしようがないままに討たれてしまった。鉄製の鎧も、馬の鎖鎧も、騎馬の運動をにぶらせるだけで、なんの役にも立たなかったのである。
ロシアには、ながい間モンゴル軍の策略が悪夢としてのこった。後年、ロシアの元陸軍中将イワニンが、「鉄木真(テムジン)帖木児用兵論」(明治四十五年)の中で、戦略はスブタイ(サブタイ)が第一と記している。ただ、弁慶をジンギス汗だと勘違いしたことが、我が国をはじめ、ヨーロッパ全土にジンギス汗が二メートル有余の巨大漢である、との誤解をもたらした最大の原因となった。
一二二四年春、ジンギス汗は全軍にインドへ侵攻し、チベットを通って、蒙古高原へ帰るという大計画を発表した。この作戦は何年かかるのか、ジンギス汗にも重臣たちにも、見当がつかなかった。
長期の遠征に飛び出したまま戻ってこないベンケイ、サブタイ、シュビの三将軍には、現在の作戦を中止して、本営にもどるよう使者をおくった。
三月、モンゴル軍はシル河のほとりを出発した。カラコルム山脈を越えなくてはならない過酷な旅であった。数千メートル級の山々が行く手をはばみ、高山をこえると、ジャングルがさらに進行をおくらせ、ジャングルをようやくの思いで通りぬけると、又冠雪した高山がそびえ立っていた。
クランはしだいに病状がおもくなり、馬に乗れなくなっていたので、四頭立ての馬車に乗せられて、行軍していた。でこぼこ道が馬車を揺らせるため、できるだけゆっくり進ませたが、それでもかなり応えるらしく、食事の量がだんだんと減少していった。
親しかった将兵たちは、彼女の死期がちかいことを知って、交代で見舞いに行った。クランはそのつど愛想よくむかえて、逆に将兵たちをはげました。
お真はジンギス汗の承諾をえて、部隊をぬけてクランの傍につきそっていた。川の水は冷たく澄んでいたので、布をしぼってクランの体をぬぐい、熱のある額をひやした。
薬草を摘みとり、しぼって飲ませたり、若い兵士にたのんで川で小魚を釣ってきてもらい、それを焼いて食べさせたりした。ジンギス汗は夕食時には、かならずクランと一緒にすごした。 
クランは次第に衰弱してゆく肉体に逆行して、透明度のある美しさを現しはじめた。ろうそくの火が消える直前に大きく燃えるのに似て、それが燃えつきる合図であった。
「何か言い残すことはないか?」
ジンギス汗が耳元でささやいた。
「長いこと、楽しい思いをさせていただいて、ありがとうございました。何も望みはありませんが、もし許されるなら、渓谷の永久に溶けることのない、氷の下にうずめて欲しいのです。さようなら・・・」
それが最後の言葉であった。お真は号泣した。トガチャルの死に対しても、これほどの涙はでなかった。あの時は自分もすぐにあとを追って、死ぬ気でいたからであった。
クランとの別れは、永遠の別れであることを意味していたから、悲しみはさらに大きかった。トガチャルの雄雄しい魂と、クランの穢れのない魂は、お真の心の支えであった。 
死を恐れぬ勇気と、自己の欲望を抑えることのできる魂こそが、この世でもっとも尊いものであることを、お真はこの二人から学んだのであった。
翌日、六十名ほどの将兵とお真を連れてジンギス汗は、氷河の渓谷に向かった。明け方出発して、到着したのは夕方であった。クランの希望通り、溶けることのない氷河のふかい裂け目に埋葬された。その日から一ヶ月間、部隊はクランの祭祀のために駐屯した。

十、われ故山に帰りたし
その一ヶ月の間に、ジンギス汗の心境におおきな変化が生じた。インドへの侵攻がなんのためであるのか、自分でもわからなくなっていた。彼は一夜ふしぎな夢を見た。枕元に鹿に似た一匹の動物が現れるのを見た。
はじめ鹿かと思ったがよく見ると鹿ではなく、尾は馬のようで毛色は緑色であり、頭には一角をそなえ、人語をよくした。その動物はかれの枕元に前足を折ってすわると
「卿等、一日も早く軍をまとめて、卿等の国へ帰るべし」
といった。それだけ言うと、立ち上がってゲルをでて行った。明らかに夢であったが、夢とは思われぬほど、その動物の立ち居振る舞いには、現実感があった。翌日耶律楚材を招いて、この夢の意味することがどういうことであるかを尋ねた。
「その動物は角端というもので、あらゆる言葉に通じていて、みだりに流血の惨をみる乱世に現れるのを普通としている。おそらく、角端が大汗の前に現れたのは天意であろうと存じます」
いつもならば、彼は耶律楚材の言葉をそのまま信じることなど、決してなかったのであるが、この時ばかりは
「では角端の言葉に従おう」
とあっさり応じた。インド侵攻は労多くして功少ない作戦であることは、重臣や主だった武将たちには分かっていたので、作戦変更は全将兵に歓迎された。西域への侵攻はすでに五年の歳月が経過していた。
戦闘に明け暮れした五年間であった。兵士たちの望郷の念は日ましに募っていた。兵の気持ちを汲みとったジンギス汗と耶律楚材の、芝居であったかもしれない。
部隊は何回目かのアム河をわたって、ブハラの城市に入った。モンゴル軍によって徹底的に痛めつけられ、灰塵に帰した城と街は四年半の間にすっかり立ち直って、以前と少しもかわらない賑わいを取りもどしていた。戦いの傷跡は城壁の崩れにしか残ってはいなかった。
「あの戦いは、一体なんだったのだろう」
ジンギス汗は、一人自問していた。
「多くの人を殺し、不幸と悲しみをばら撒いただけのことだったのか」
サマルカンドと同じように、ここもあらゆる民族が雑居していた。漢人、契丹人、西夏人、トルコ人、イラン人、アラビア人、そして少数のモンゴル駐屯兵である。
彼らの顔には、モンゴルの大部隊を見てもおびえの表情はなく、同時に歓迎する表情もなかった。ジンギス汗は彼らの表情を見て、勝利感を感じることはできなかった。
城市に群がっている市民たちは、被征服民ではないように見えた。敵でもなく味方でもない。しかし、自分たちの生存がおびやかされた場合だけは、一瞬にして一人のこらず敵になるはずであった。
あの大虐殺をもってしても、何も変わらせることができなかったことを、思い知らされるだけであった。ブハラから五日間の行軍で、サマルカンドに到着した。冬の間をここで過ごして、来年の春に蒙古高原に進発することにした。
サマルカンドの城内は以前にも増してにぎわいを見せていて、わずかな部隊しか城内に駐屯させられない程であった。
ジンギス汗は今度もまた、城内には住まずに城外に本営をおいた。チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人の息子たちと、ロクタイ、カイソンなどの帳幕を本営にならべて配置していたが、そこへ顔を出すようなことはまずなかった。
しかし、一度だけ気まぐれから見廻ったことがあった。彼らのゲルは外見はモンゴルのものであったが、中は驚くほどの贅をつくしてあった。
内部はレンガや石で築かれた固定した館が築かれ、団炉や寝台、接待用の椅子やテーブルがおかれ、調度の中にはブドー酒のびんや、瑠璃製のグラスがならんでいた。
館のうらには青い芝生が敷きつめられ、花の咲きみだれる花壇や、噴水の吹きあげている泉水などが設けられていた。ジンギス汗は呆然として、それらの光景をながめていた。
自分の薄暗いゲルにもどった彼は、彼らをとがめてはいけないと、自分に言い聞かせていた。クランは、贅沢なものや宝石などを一切欲しがらなかった。あんな女は二度と現れないだろう、と思う。お真もクランと同じように、質素な生活をしていた。
それに引きかえ三人の息子たちは、と思わざるを得なかったが、豊かな生活をさせてやりたいと思って努力をしたし、その願いが一部かなったのだから、それはそれでいいことではないか、と自分に言いきかせていた。
彼の心の底にあいた小さな穴が、少しずつ広がってゆくように感じられた。年末になって弁慶、サブタイの両軍から使者がとどいた。何百頭かのらくだに、兵器、調度品、美術品などの、財宝の山をつんできた。
キプチャックのシュビからも使者がついた。二年前からの病気がしだいに重くなって、長距離の行軍に耐えられそうもないが、回復し次第蒙古高原にもどりたいという手紙であった。
一二ニ五年春、サマルカンドを出発して蒙古高原へもどろうとした矢先に、ベンケイとサブタイの両軍がもどってくる、との報せがあった。両軍の帰還の日、ジンギス汗は全将兵を城門のまえに整列させて出迎えた。
使者は毎日のように、両部隊の動静を知らせるために送られてきていた。ムハンマド追跡に出発したときにくらべて、それぞれ数倍の兵力に増えていることがわかった。サブタイが最初に元気な顔をみせた。
七十才をこえているにも拘らず、若者のように張りのある色艶であった。彼は簡単に帰還の報告をしたが、彼の最後の言葉にジンギス汗は顔を硬直させた。ベンケイが死んだ、という報告であった。
「ベンケイ、ベンケイ、ベンケイ」
彼は口の中で三度つぶやいた。全将兵のまえで涙を見せることは、彼の立場では不可能なことであった。空を睨みつけて、かろうじて涙をこらえると、死因を聞いた。
「自然死であります。副官の知らせに急いで駆けつけたのですが、馬の上で胸をはって、遠くを見つめたまま、死んでおりました」
「落馬しなかったのか?」
「馬もじっとしていたそうですが、最後まで気力が衰えなかった所為でしょうか」
「さすがベンケイじゃ」
ジンギス汗は、それだけを言うのが、やっとであった。ベンケイは、すでに七十台の半ばに達していた。アラル海の西岸の山の上に埋葬された、と伝えられる。つかれを知らない魂と、老いることのない肉体をもった豪傑であった、
「ベンケイの魂は、ブルカン岳の麓を通って、おそらく日本の国へ戻っているであろう。京と平泉で別れた、女たちのところを飛びまわっているであろうか」
ジンギス汗は京の街と静御前と、そしてわかれてきた数多くの女たちを思い出していた。シュビの軍だけが未だに戻らなかったが、四月のすえに全軍は出発した。
春から夏、夏から秋にかけて、地表を埋めつくすほどの大兵団は、ゆっくりと母国へむけて移動していった。秋のなかばにアルタイ山脈を越えた。この山脈を越えると、懐かしい蒙古の草原であった。
そこには、出迎えの一千名の兵士達と、第一夫人ボルテの配慮で、孫のクビライ(十一才)と、フラグ(九才)のおさない顔があった。六十七歳になったジンギス汗にとって、おさない孫は最高の贈り物であった。
蒙古高原に帰ってきた喜びを、全将兵に分け与えるために盛大な饗宴を催した。兵たちは何日も、昼も夜もなく飲み、歌い、踊って、血の臭いを洗い流した。
ブルカン岳につくまでにも、集落ごとに盛大な歓迎をうけ、そのつど何日間も滞在した。アルタイ山脈を越えてから一ヶ月を経て、トウラ河の帳幕に到着した。
ここはブルカン岳とならんで、政治経済の中心地であり、かつてはトオリル・カンの本拠地でもあった。トオリル・カンの墓がないことを知って、ジンギス汗は、黒い森の北方の彼が死んだ場所に墓をたて、盛大な供養を営んだ。
その後、三日間かけてブルカン岳の故郷にもどった。髪に白いもののまじったボルテは、豊満な体に第一夫人としての威厳をたたえて、にこやかにジンギス汗を迎えた。
後宮に何百人か、数えきれないほどの美女をたくわえた彼は、その一人一人と顔を合わせた。永年のつかれが吹き飛び、若さがよみがえる思いであった。
故郷に帰りつくとまもなく、シュビからの使者が到着した。今年の八月に病死した、という知らせであった。二年半もの間病床にあって、ジンギス汗の期待に応えられないことを、悔いる内容であった。
病状の悪化をいちいち知らせることは、余計な心配をさせることになると心くばりして、あまりひんぱんに連絡しなかったことを、わびる手紙がそえられていた。カスピ海北方の集落で死んだが、遺命によって、来春二月に全将兵と遺骨が帰還する、とのことだった。五十六年の生涯であった。
ジンギス汗の四将のうち、ベンケイ、ウタリ、シュビの三人が亡くなり、サブタイだけが残った。一二二五年の年末に、ジンギス汗は西夏への侵攻作戦を開始した。ウタリ王の死後、金国平定は唯一のこされた仕事であったが、そのためには西夏の徹底的な制圧が必要だった。
西夏は過去なんども恭順を誓いながら、五年前の西域侵攻の際は、従軍をこばんだ経緯があった。西夏としては、モンゴル軍はホラズム王国に敗れるであろう、との予測をしていたからである。
西夏に対しては、西域に侵攻する前に懲罰を下すべきだ、との将軍たちの意見が多かったが、ホラズムのムハンマドに対する懲罰が優先された。今こそ、西夏をして思い知らせる必要があった。
ジンギス汗はこのとき、戦火の中にあって死ぬことを考えていた。ウタリ王のように、ベンケイのように、シュビのように、そしてクランのように、自分の生涯を終えるのは、戦火の中でなければならない、と結論づけていた。
木曽義仲との戦いを皮切りに、平家との三度にわたる死闘からはじまって、今まで数々の戦いの中に身をおいてきた。長春真人は、戦いのために天が命をさずけた人間である、と言った。
死ねば天界にもどって、天人になるとも言った。自分の天命は戦いなのであろう、と彼は悟りの心境で考えつづけていた。モンゴル軍はゴビ砂漠のど真ん中で、一二二六年の正月を迎えた。かつてない難行軍のすえに、西夏国へ入ったのは二月中旬であった。
戦いは春から夏にかけて、広範囲にわたって行われた。無抵抗の城は、これを破壊するのにとどめ、殺戮は行われなかったが、抵抗する城市では徹底的な殺戮が行われた。猛暑の時期は、コンスイ山脈に兵をおさめて、秋になると作戦を開始して、快進撃をつづけた。
一二二七年春、モンゴル軍は首都寧夏にせまり、城を包囲してついに降伏させた。西夏王は降伏したが、開城するのに一ヶ月の猶予を乞うたので、ジンギス汗はそれを許した。
西夏の国王は、絶世の美女とうたわれた自分の愛妃、グルベルジン・ハトン(さそり姫)を、ジンギス汗への贈り物とし、さらに彼が九という数字を好むことを知って、黄金の仏像を九体、黄金、白銀の器皿を各九個、乗馬とらくだを各九頭などをはじめとして、すべての品物を九の単位にして献上した。
ジンギス汗の死因については、いろいろな説がある。モンゴル側の記録では、巻き狩りの際に落馬して重傷を負ったという説や、熱病にかかったなどの説があるが、西夏側の記録では、グルベルジン・ハトンがジンギス汗に抱かれた夜、熟睡中の大汗を刺して逃げだし、近くの黄河に身を投げて死んだことになっている。
西夏の人々は、その河をハトヌ・ゴル(妃の河)と名づけて、彼女の死を悼んだといわれる。モンゴルに滅ぼされた西夏人のうらみが、こういった言い伝えになったものであろう。
モンゴル軍は、寧夏の開城をまたずに、金国への侵攻を開始した。怒涛のごときモンゴル軍の進撃のしらせに接して、金国の皇帝はあわてた。何とかしてジンギス汗の機嫌を取ろうと、使者をつかわせて莫大な貢物をはこばせた。
しかし、ジンギス汗は貢物を喜ばなかった。ウタリ王が完成し得なかった金国の全土を支配したい、と考えていた。ホラズム王国の領土はほしいとは思わない。しかし、金国は別であった。世界一の豊かな国であり、豊かな大地をもち、東には海がある。交易は西からも、海からもやってくる。無限の可能性を秘めた、まさに「中国」であった。
世界の中心に位置する中国であった。蒙古の草原で遊牧をしても、経済効率が悪すぎる。封建制度の下にあって、封建貴族たちの不満を解消するためにも、豊かな土地と工業、そして商業が不可欠であった。
モンゴル軍が征西からもどってきたときは、金国は荒地に等しくなっていた。穀物倉庫は空になり、各地に疫病が流行っていた。戦争がのこしたこれらの諸問題を解決するために、モンゴルの将兵たちの単純で、容赦ない考え方をもってすれば、金国の住民を皆殺しにしてしまうことであった。彼らは大汗に進言した。
「金国人などは、わが国の役にまったく立たない連中であるから、住民は絶滅させ、都市は破壊し、後を牧草地にしてしまうことが良いのではないか」
この無謀な提案に対して、耶律楚材は懸命に頭をはたらかせて反論した。
「わがモンゴル軍が、金国の南部に侵攻してゆけば、それにつれて莫大な物資が必要になります。しかし、その莫大な物資も公平な基準にもとづいて、地税、商税、塩税、鉄税、酒税、酢税その他の税を付加すれば、いとも簡単に手に入るはずです。
わが軍隊を維持するのに必要な一切の物を、手に入れることができることでしょう。こういうことができる住民が、わが国の役に立たないなどと、どうして言えるでしょうか」
この耶律楚材の政策は、将軍たちの提案を見事にしりぞけた。ジンギス汗は感覚的に金国の重要性を大掴みにし、耶律楚材はそれを理論にした。この二人とモンゴルの諸将の間には、隔絶した展望のちがいがあった。
これ以後、評議会での将軍たちの力は弱まって行き、ジンギス汗の死後、二代目のオコタイ汗によって、行政のための法典を作成するように指名され、耶律楚材の勢力は隠然たるものになって行った。
しかし、このときジンギス汗の寿命は尽きようとしていた。高熱を発した彼は、しきりにうわ言を言うようになった。
「ベンケイ、どこに居るんだ。ウタリ殿相談がある、ここに来てもらいたい。シュビまだ戻らないのか、早く戻ってこい。クランもっと傍にこい。インドの話をしてくれ」
ジンギス汗が大声で呼ぶ四人は、すでに死んだ人ばかりであった。つきっきりで看病しているお真は、チャプタイ、オコタイ、ツルイの三人と、宿将サブタイを呼んで話し合った結果、みなの意見が一致して、とりあえず、モンゴルへ撤退することがきまった。
蒙古高原のトルメゲイ城に到着した夜、ながい時間眠っていたジンギス汗がふと目を覚まして、心配そうに見守る周囲の人々の顔を、不思議そうに見回していたが、その中にサブタイの顔を見出すと、うれしそうに笑って手招きした。
サブタイがにじり寄って、ベッドの脇にひざまずくと、彼はゆっくりと口を開いた。
「のうサブタイ、木曽義仲との戦いが、最初であったな」
不意を衝かれて、サブタイはすぐに返事ができずに、大きく息を吸いこんだ。ジンギス汗が突然、若き日のことを思いだした様子であった。
「そうでありました。殿が義仲との戦いに臨むにあたって、五百の兵を全員騎馬にした上に、替馬を各自四頭も用意させたことが、勝因でした」
「最低二日はかかるところを、馬を替えながら急行して、半日で着いてしまったので、義仲は戦の準備が、できていなかったな」
「平泉からずっと、お供をして居りましたのに、殿が替馬作戦を、編み出されたていたことに、全然気がつきませんでした」
「小さな馬に、ベンケイのような大男が乗っているのを見て、馬が可愛そうだ、と考えたことがきっかけであったな」
「この広い大陸にあって、替馬作戦はどの民族も、どの国の人々も、考えつかないことでありました」
当時、日本の古代馬も蒙古馬も、三百五十キロくらいの体重だったと考えられる。人間の体重を平均六十キロとして、鎧、兜は合わせて八貫目(約三十二キロ)位であったから、大刀、脇差、槍、弓矢に旗までもつと、約百キロの重さである。
現在、われわれが目にする競走馬は、改良に改良された、芸術品といわれる馬であるが、平均して四百七、八十キロであるから、昔の馬がいかに小さかったかが、分かろうというものである。
義経が創案した騎兵という概念は、信長、秀吉、家康も引き継ぐことがなく、明治に入って、フランスから教官を呼んではじめて日本陸軍が採用した。 明治三十年代の日露戦争で、秋山好古率いる騎兵隊はコサック騎兵と相対した。
コサック騎兵こそは、ジンギス汗の残した、熟練した騎兵隊であった。秋山好古はこのコサック騎兵には、到底敵し得ないことをすばやく察知して、塹壕の中に人馬を隠して、まともに戦おうとしなかった。皮肉な結果といわざるを得ない。
「一ノ谷も面白かったのう」
「そうでありました」
「サブタイが断崖絶壁の上から、二頭の馬を追い落として、そのうちの一頭が立ち上がった。その後を、われらが馬で滑り降りたのであったな」
「そうでありました。ベンケイが制止するのを振り切って、殿が
『馬だけでも立ち上がるものがある。ましてや、騎乗するものに勇気があるならば、馬はさらに巧みに、降り立つであろう』と叫んで、逆落としに墜ちて行かれました」
「三十人が誰一人失敗せずに、降り立ったものなあ」
「そうでありました。そのあと平家の館に火をつけて、三十騎で乱戦の真っ只中に、斬り込んで行きました」
「あんなにうまくいった戦いは、珍しいことだったな」
義経は一ノ谷を目指す決心をしたときに、木曽駒を手に入れて、替え馬の中に交えた。木曽駒はふつうの馬とちがって、ひずめの中ほどに、隆起した軟骨がある。そのため、人間や狼が近づけない山岳地帯の岩場を、自由に走りまわることができる。この軟骨が岩場を駆け下りるときの、ブレーキの役目をすることを、義経は知っていたのである。
「しかし、そのあとの屋島の戦いも、うまく行きましたな」
「うむ、屋島もおもしろかった」
「暴風の中を、船頭どもをおどして、船を出させたことが、大成功のはじまりでした」
「そうだった。弁慶が刀を抜いて、入り口に立ちふさがり、三郎が出口に立ちはだかって、弓矢をかまえて、船を出さなきゃこの場で殺す、といって船頭どもを、おどしたんだったなあ」
「普通なら二日もかかるところを、暴風に乗って、わずか四時間で着いたのですから」
「明け方浜について、そのまま馬を走らせて、平家の本営を襲ったのだった」
「そうであります。こちらはわずか百五十騎だったのに、平家のほうは、源氏の大軍がやってきたものと勘違いして、皆船にのって逃げたから、本営と行在所(あんざいしょ)に火をつけるのが、た易かったのでござる」
「しかしあの後、平教経めの矢で、佐藤継信を失ったことは、辛いことだった。わしの身代わりになってくれたのだ」
「あれほどの忠臣はいません。弟の忠信も吉野の山中で失いました。本当に惜しいことでありました」
「二人とも、わしの身代わりになってくれた。あの二人がいなかったら、わしはとっくの昔に、死んでおったなあ」
サブタイは白髪になった頭をふって、大きくうなずいた。ほんのわずかな間ながら、静寂のときが流れ、ふたたびジンギス汗が口を開いた。
「壇ノ浦の海戦は、はじめての経験なのに、何故あんなに、うまく行ったのだろう」
「東から西へながれる瀬戸内の海流が、夕方からは、西から東へ流れがかわることを、殿が研究されたことが、最大の勝因だった、と思われます」
「うむ、それもあるが、時代の流れが、源氏に傾いていたから、瀬戸内の水軍共が、みな協力してくれたのだろう」
「梶原景時の奴との、逆櫓論争もありましたな」
「そうであったな」
「あ奴を斬らなかったことが、弁慶とそれがしの痛恨事でござった」
「わしも何度、斬ろうと思ったか知れぬ」
「和田義盛も、斬りたかったです」
「ベンケイが、一番斬りたかったであろう」
「殿は頼朝殿を、ほんとうは一番斬りたかったのでござろう?」
「そのとおりだ。しかしのうサブタイ、頼朝殿に追われたお蔭で、大陸で思いのままの人生を送ることができた。一身をもって、二世を生きてしまった。人生とは夢か幻のようなものじゃのう」
サブタイは、ジンギス汗の死が近いことを予感した。白くなった眉を動かして、主の目を見つめて、大きくうなずいて見せた。ジンギス汗は、しばらく目を閉じていた。わずか十分ほどの短い時間であったが、ふたたび目を開いて。誰にともなくつぶやいた。
「われ、天命によりここに死す。今はうらみなし。ただ故山に帰りたし」
彼はそれだけ言うと、そのまま目を閉じて、二度とふたたび目を開かなかった。頼朝や梶原景時や、そのほか自分を苦しめた人々に対する恨みもすでに消えた。今はただ生まれ育った日本の国へ帰りたい、心から愛した静御前の元へ、京の街へ、平泉の山ふところへ・・・。
八月十五日は、ジンギス汗の命日と伝えられる。モンゴルの男たちは、源氏の武将が用いた古い陣羽織を着て、オボー祭りと称して、一年に一度集まることを、大正時代までは、伝統としていた。
その後、ソ連政府の圧力で、ジンギス汗の話しをすることすら禁じられてしまった。ただ、なぜ古色蒼然たる陣羽織を着たのか、なぜ清和源氏の紋である、笹リンドウの紋のついた垂れ幕を張ったのか、現代では誰も知らないといわれる。
ジンギス汗は、死去の際に黄金の棺の中で、身長がどんどん縮んで行った、と伝えられる。それはおそらく、身長を高く見せるための長靴をとり去り、帽子をとり、肩当て、腹あてなどをとり去ったためであった、と考えられる。それを見た武将たちは
「大英雄というものは、死と共に身長までも、縮んでしまうものなのか」
と驚いた、と伝えられる。享年六十九才であった。お真はブルカン岳を眺めながら、ひとり物思いにふけっていた。これから自分は、一体何をして、何のために、生きて行けばいいのだろうか。
汗位を継いだ異母弟のオコタイは、ジンギス汗のやり残した仕事を引継いでやって行く、と宣言したが、お真は、戦いに参加する気持ちを失っていた。
トガチャルも、父も、そしてクランもいない。秋風が急に冷たくなって、頬をなでて過ぎた。もうすぐ雪が降りはじめるだろう。沢山の人たちの流した血を洗い清めるために、きっと雪が降るのだろう。
天は、人間の浅はかな営みを許すために、雪を降らせるのだろう、と思った。草原が、雪以外何も見えなくなる季節になることが、たまらなくさびしく思えた。この蒙古高原で、これからの何十年かの人生を送ることを考えると、斬り死にできなかった自分が不憫で、可哀想に思えてくる。
お真は日本へ行ってみたい、と思いはじめていた。生まれ故郷でありながら、ほとんど日本の国の記憶はない。平泉に、母の墓はのこっているだろうか。京の都には、源義経を知っている人が残っているだろうか。
静御前は父より十四、五歳若かったというから、あるいはまだ生きているかもしれない。自分の異母兄弟、姉妹が何人か生きているかもしれない。その人たちに、義経の生涯を語ってやりたい。
広大な大陸を縦横無尽に駆けめぐって、戦って敗れることを知らなかった生涯を、その人たちに知らせてやりたい。ジンギス汗という大英雄が、源義経であった事を、その人々に伝えなければならない。
父が船でやってきた道筋を、逆にたどって日本へ行ってみよう。来年の春がきたら、一人で日本へ行こう。クランが生きていたら、一緒に行きたがっただろう。クランと二人の旅なら、きっと楽しかったろうに、と思う。
お真のその後の足跡は、歴史の中に見あたらない。茫漠たる大草原の霧のかなたに、消えてしまっている。しかし、義経が遮那王とよばれて、七歳から十六歳までの少年期をすごした鞍馬寺では、毎年八月十五日を義経忌(ぎけいき)として、法要が営まれている。
平泉で自刃した、とされる旧暦四月三十日ではなく、オボー祭りと日を同じくしていることは、何を暗示しているのであろうか。お真の名は、亜真という字が宛てられて、史書に残った。                   

                                 

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