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ヘンリエッタ編
163.「三日月」の夜
しおりを挟む砂漠を照らす月明かりの下、キウセイの街を黒装束の一団が駆ける。
街に火を放ち、迎撃に出てきた騎士団とぶつかり合いながらも、彼らが目指すのはただ一人の標的であった。
先行した者たちが失敗したのを知ってか、その標的――エッタが宿から出るや否や、まるで一つの生き物がうねるように、一群となってそこへ殺到してきていた。
まったく、どこの連中か知りませんが……。
エッタは連鎖魔法を錬魔しつつ、周囲の気配をうかがう。
わたくしを狙うのならば、わたくしだけに攻撃しなさいな。
「『悪役』の矜持が見えませんわよ! 連鎖魔法・三……、壱式・大地城壁!」
宿屋を背にしたエッタの周囲を取り囲むように、三枚の岩壁が聳え立つ。突如出現したそれに、黒装束の集団の足が止まった。
「弍式・竜翼飛翔!」
エッタは風の翼を広げて空に浮き上がると、後ろの宿屋の屋上へと降り立った。
屋上からは、キウセイの街の様子がよく見て取れた。細い路地のあちこちに火の手が上がり、あちこちで騎士や冒険者と思しき影が、街の人たちの避難誘導にあたっている。
「参式・――」
宿屋の前に集った黒装束の一団を見下ろして、エッタは手を振り上げる。最後の魔法を解き放とうとした、その瞬間だった。
「!!」
回転する刃が顔の高さに飛来する。エッタは咄嗟に身をかわし、刃は髪を掠めて飛び去った。
「何です!」
振り向くと、宿屋の屋上にそれは立っていた。
さっきまで、誰もいなかったはず――! 月明かりをも飲み込んでしまうような漆黒の装束のそれは、影が立ち上がったようにさえ見えた。
フードを目深に被り、顔は判然としない。手袋をはめた右手の指の間に、三日月型の刃物を3本挟んでいる。さっき飛んできたのはこれであろう。
「あなたですか! 下の連中の頭目は!」
そう問いながら、エッタは密かに錬魔をやり直す。参式で打とうとしていたのは爆風炎陣、火球を地面に叩きつけて大爆発を起こす魔法であるが、この屋上では使えない。別の魔法に錬り直す必要があった。
「わたくしが狙いなのでしょう!? だったら、関係のない人を巻き込むのはやめて――」
黒装束は左手を上げ、自らの口元に持ってくる。微かな音がエッタの鼓膜を揺らした。
犬笛のようなものだろうか。それを合図に、眼下の一団の気配が潮が引くようになくなっていく。
「手勢を引かせ――ッッ!?」
エッタが尋ねるより先に黒装束は右手を振り上げ、横に薙いだ。3本の三日月型の手裏剣がエッタに飛来する。慌てて錬魔を解き放った。
「火炎防壁!」
属性を変更する暇まではなかった。炎の壁が手裏剣の前に立ち塞がるが、岩の壁のように弾くことはできない。壁の陰でエッタは転がり、炎を切り裂いて迫る手裏剣をかわす。
エッタの背をかすめて飛んだ3本は、大きく弧を描いて旋回し、黒装束の右手に戻った。
「ブーメラン!?」
いや、魔法か。操っているという動きだ。
黒装束は再び手裏剣を投げた。三日月の刃が再びエッタを襲う。
「そっくりお返ししますわ! 連鎖魔法・二、壱式・神の遠ざける手!」
エッタの前面に巨大な半透明の手の平が現れ、刃を押し返す。アドニス王国では禁忌とされる「邪」属性は引力系統、ぶつかった対象をそのまま突っぱねる魔法である。
「……ッッ!」
自分が投げた速度そのままに戻ってくる手裏剣に、黒装束は思わず息を漏らす。受け止めるのは危険と判断したか、その身をひねってかわす。
そこを見逃すエッタではなかった。
「弐式・雷鳴閃光!」
雷をまとった一条の光が体勢を崩した黒装束を捉えた――かに見えた。
「な……!」
今度はエッタが息を飲む番だった。その身をひねりながら黒装束の突き出した左手の平に、雷鳴閃光が吸い込まれて消えた。
「……美味」
独り言ちて、黒装束は新たに手裏剣を取り出す。いや、右手の指の間に出現させた。
「神の遠ざ……!」
万が一の抑えとして錬魔していた魔法を解き放とうとしたその時、既に黒装束はエッタの眼前にまで間合いを詰めてきていた。
速い――!
魔法が間に合わない。黒装束は腕を振り上げ、右手に挟んだ刃をエッタに振り下ろす。
「!!」
が、金属音が響き、刃はエッタに届く寸前で大きく弾かれた。まるで、突如として現れた見えない壁に阻まれたように。黒装束は警戒して大きく飛び退った。
これは、風……?
すんでのところでエッタの身を守ったその「壁」の正体は、彼女を中心に渦を巻く風であった。旋風塁壁ではない。もっと強力な結界だ。
(ヘンリエッタ……!)
渦を巻く風の音の中に、エッタは自分の名を呼ぶ声を聞いた。
(宿屋の裏に飛び降りろ。この街を脱出する――)
この魔法は、風で自分の声を耳元に届ける妖精囁だ。そして、送られてきたこの声は、まさか――!
黒装束は手低い構えを取り、こちらをうかがっている。結界の隙を見定めようとするかのように。
考えていても仕方ない。エッタは声に従い屋上の端、宿屋の裏手側へ走る。
「ッ!」
エッタが動いたのを見て、黒装束も地を蹴った。
が、不意に後ろを振り向く。
風切り音と共に金属の弾丸が二つ、黒装束を襲った。魔法を吸収する左手を突き出すが、弾丸はその手の平に突き刺さる。
「ウッ……!?」
あれは、銃弾……? その隙に、とエッタは竜翼飛翔を発動して屋上から宿屋の裏に飛び降りる。
エッタの脱出を助けるように銃撃があったということは……。
(こっちだ!)
妖精囁の声に顔を上げると、裏庭の茂みの向こうにこちらへ合図を送るように手を振っている影が見えた。
エッタはそちらへ力の限り走った。茂みをかき分け、細い路地を駆け抜けて、キウスイの街の東端、城壁までたどり着く頃には息も切れ切れであった。
「来い!」
妖精囁を送ってきていた者が地声でそう呼びかけてくる。月明かりの下、頭巾で顔を隠し、城壁からエッタに手を伸べている。
怪しい。怪しいが、他に頼るものもない。エッタはそれを掴み、城壁を乗り越えた。
街のすぐ外には、駱駝車が止まっている。幌付きの車の向こうに見えた駱駝は、ヒトコブラクダ、やはりオイスタムからの駱駝車のようだ。
「グズグズするな! 早くここを離れるぞ!」
急かされるまま、エッタは駱駝車に乗り込んだ。それを合図に、すぐに車は走り出す。
「これで一安心だ」
そう言った彼女の頭巾を、振り向き様にエッタはサッと剥ぎ取った。
「何をする!」
「正体バレバレなんだから、とっちゃいなさいよ」
ほら、とエッタは肩をすくめる。頭巾の下のその顔は、想像通りよく知っているものだった。
「まったく、こんなところで何してるんですか!」
「それはこっちのセリフだ」
彼女は――クロエ・カームベルトは、そう応じてエッタをにらみ返した。
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