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バックストリア編
68.生かされた先で
しおりを挟む(いつだったかも、こうしてお前をおぶって歩いたことがあったな……)
闇夜の中、「エクセライの研究塔」へと続く小路を歩きながら、サイラスは自分の背におぶさるエッタに、そう語りかけた。
(この街に連れてきてくださった時のことですわね)
あの小さな漁村を連れ出された日のことだ。長時間の移動は、閉じ込められていたエッタの身体に堪え、馬車を降りた「カウク湿原」の途中でうずくまってしまった。それを、サイラスがおぶってくれたのだった。
エッタは義父の背を覆う、青いマントに顔をうずめる。懐かしいような、ホッとするようなにおいがした。
森の中を抜け、二人は「研究塔」の前に差し掛かった。塔の前に人影を見止め、エッタは首をかしげる。
(あれは一体……?)
(私の友人だ)
サイラス師、と声を掛けながら、その影は近づいてきた。覆面をしていて、赤い瞳がやけに闇の中で輝いて見えた。
(その子かい?)
(そうだ)
疑問を覚えるエッタを尻目に、黒覆面は懐から小さな注射器を取り出した。
(それは、何の薬です?)
(新たな世界へ行く薬さ)
サイラスの言葉と同時に、黒覆面が素早くエッタの後ろに回る。虹の反動で脱力したエッタに、その針をかわす術はなかった。うなじに打ち込まれたその薬によって、エッタの意識は暗闇の底へ落ちていく。
(騎竜は?)
(待機させてある)
草むらに下され、そこに身を横たえたエッタが最後に見たのは、森の奥から歩いてくる大きな影だった。
懐かしい「研究塔」周辺の森の情景は滲み、無機質な石造りの地下室に変わる。
視界が狭い。周囲が白くぼやけて、ふらふらと定まらない。
エッタは懐かしいにおいのマントに包まれて、自分の前に立つ男を見上げていた。
お前を殺す、と言った義父の背中だ。
そして、それと対峙する巨大な獅子頭の魔獣と白い髪に灰色の肌の女。
この女は、姿からしてデジールと呼ばれていた青年の仲間らしい。
だが、サイラスには敬意を持って接し、どこか人の良い面もあった彼と、この女は明らかに違う。明確な殺意が、その黒と赤の目から感じられた。
戦わねば。エッタは魔素を集めようとするが、上手く行かない。殺魔石を長時間はめられていたせいか、それとも「精神調整」の影響か。
考察はいい、立ち上がらなければ。自分の身も、義父の身も危ない。
(一人を逃がす術はある、と言ったはずだ。それは、何を前にしようと変わらぬ――)
サイラスが取り出したのは、2本の黒い角だった。造魔獣の核であるそれを、迷わず自分の両こめかみに押し当てる。
(我が血肉と魔力を以って、ここに最後の造魔獣を造り出さん……)
大きな、大きな声を上げながら、サイラスの身が左右に引き裂かれていく。分かれたそれらは、顔のない異形の魔獣へと変わって行った。サイラスの魔力と生命を材料に、2匹の造魔獣が造り出されたのだ。
(くっ、何てこと……!)
白い髪の女が取り乱している。獅子頭の魔獣に命じて、自分は逃げを打とうとする。
義父だった2体の魔獣は獅子頭に応戦し、戦いは始まった。
強い。
エッタは未だはっきりしない意識の中で、その戦いぶりに舌を巻く。バックストリアを襲ったブキミノヨルの比ではない。巨大な魔獣を相手に、互角以上の戦いを繰り広げている。
勝てる、これなら……。
そう思った時、不意に背後に気配を感じた。振り向く力もない今のエッタであったが、それがあの白い髪の女だと悟る。
(先にあんたを殺せば……!)
そうはさせん。
義父の声が聞こえた気がした。巨大な魔獣と戦っていた内の1体が、その身を翻して白い髪の女を突き飛ばす。
(ぐっ!)
女は手にした短剣を投げた。切っ先が片方の翼を貫く。
その背後では、もう片方が獅子頭の魔獣に追い詰められていた。2対1なら互角以上でも、1対1となれば手に余るのだ。
(お荷物を気にしたのが仇になったね!)
死ね、と白い髪の女はもう一本短剣を抜き放ち、逆手で構えて斬りかかる。
背中を切り裂かれながらも、魔獣はエッタの身を抱え上げた。
(逃がさな……!)
もう一方の魔獣が手に生成した黒い槍を投げつける。槍は女の足を貫き、歩みを止めた。その隙を逃さず、魔獣はよたよたと出口へ向かって駆け出した。
この魔獣は、いいえお父様は。伝わってくる振動に意識を揺られながら、エッタは思う。わたしを助けるつもりなんだ。
サイラスの血と肉と魔力から生まれた造魔獣は、その最期の思いを形にしたかのごとく、エッタを救うために奔り、戦ったのだった。
硬い寝台の上で、彼女は目を覚ました。
頭が痛い。随分と長い間眠っていたみたいだ。それに、胸も重たい。まるで何かが乗っているようだ。
ぐずぐずしてちゃいけない。今何時だ? 早く店に行かないと。開店の1時間半前には入っておかないと、またどやされちゃう。
混濁する意識の中、そう思って身を起こすと、顔の丸い黒猫と目があった。
胸の上に乗っていた猫は一声鳴いて彼女の鼻の頭を舐める。
「え、あ……メネス、ちゃん?」
黒猫は毛布から床に降りて、トトトと部屋を出て行ってしまった。
そうだ、もうあの店なんて関係ないのだった。
これまで起きたすべてが、頭の中を駆け抜けていく。それは、田辺恵理からハンナに、ハンナからヘンリエッタ・レーゲンボーゲンへと彼女を戻していく。
わたしは死んで、ここで新たに生きている。
「エッタ、気が付いたんだな」
部屋に誰か入ってきた。知っている、この子のことは、よく……。
「フィオ……」
「何だ、目が覚めたのか?」
ドアの影から大きな男がこちらを見ている。
「ガマセ……?」
「誰だよ!」
あれ、違ったか。どうも頭がはっきりしない。誰かがガマセと呼んでいた気がするのだけれど、定かではない。
「お前、猫の名前は一発で出たのに、何で俺の名前は出てこねぇんだよ!」
「それはあなたよりもメネスちゃんの方がよっぽどかわいらしいから……って、のぞいてましたの!?」
「のぞいてたんじゃねぇよ……! って、枕投げんな!」
思わず投げた枕を、大男は顔の前で上手く受け止めた。
「元気そうだな」
「ええ、おかげさまで……」
どれぐらい眠っていました? と尋ねると、フィオは「3日ほどだ」と答えた。
「そうでしたの……。ご心配をおかけしましたわね」
「気にするな。それよりも、無事でよかった」
ふわりと頭にふれたフィオの手の感触に、彼女はホッとしたように息をつく。
「で、思い出したか? 俺の名を言ってみろ」
「えーと、ザ……」
「ザ?」
「ザガ、サガ……。いや、ザギ……ジャギ? いえいえザグ、ザク? ザゲ……ザゴス! ザゴスですわね?」
「そうだよ! 時間かかり過ぎだろ!」
大男、いやザゴスは枕を投げ返してくる。それを受け取って、彼女は――エッタは改めて二人に向き合う。
「ありがとうございます。わたくしを、助けに来てくれて」
「ま、パーティメンバーだからな」
「そういうことさ」
ところで、とフィオが言いかけた時、もう一人の人物が部屋に姿を見せた。
「メネスに聞いてやってきました。エッタさん、意識が戻られたそうで」
黒猫を頭の上に乗せた、線の細い魔道士の青年であった。
「スヴェンさん……」
ザゴスが物凄い目でこちらを見たが、それは無視をしてエッタは続ける。
「あなたも助けに来てくれましたよね?」
「ええ、僕はほとんど何もしていませんが……」
「戦闘はな。でも、その後はすごかったぜ」
な、とザゴスに背中を叩かれて、スヴェンはごほごほとむせる。
「詳しくは後で話すが、スヴェンはエクセライ家の跡取りで、ボクらが陛下から受けた『クエスト』を、助けてくれることになった」
「コホン、戦いは得意ではないですが、それ以外のことならお助けしますよ」
微笑んだその顔は、エッタの記憶にあるよりも随分と不敵に見えた。
「あとあの、大学で研究者になろうとしていた元冒険者の方も……」
「グレースだな? ああ、そうだ。あの時、意識はあったのか?」
いえ、とエッタは少し目を伏せる。
「何となく、そんな気がしたんです。はっきりとはわからないけれど、夢の中であの獅子頭の大きな魔獣と、フィオ達が戦っているのを見たような……」
そう、そうですわ。エッタはもう一度顔を上げた。
「お話しなければならないことがありますの」
フィオ、スヴェン、ザゴスと3人の顔を見回して、エッタは意を決したように口を開く。
「わたくし、『異世界転生者』なんです――」
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