はなのなまえ

柚杏

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一章

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 逢いたかった。
 でも逢いたくなかった。
 それでもやっぱり逢えたら嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。
 ああ……この人なんだと。
 この人が運命なんだと心が弾む。
「永絆《なずな》」
 耳元で囁いた名前に彼は満面の笑みを見せた。
 恋なんだと。
 出逢ったあの日からずっと彼に恋をしているのだと気付くには十分な瞬間だった。
「オレは、藍《あい》」
 永絆の手を握って彼は自分の名前を告げた。
 友人達が周りにいるのも気にしないで、ぎゅっと強く握られた手はとても熱かった。
「……藍」
 きっとまた逢えるという予感はあった。
 それが運命なら、必ずまた出逢えると。
「永絆……」
 少し永絆より背の高い藍を見上げると、目と目が合った。
 瞬間、心がざわついた。ドクンドクンと激しく脈打つ心臓に、身体中が熱くなる。
 立っていられない程、力が抜けて崩れ落ちる様に藍に凭れかかった。
 藍の身体も酷く熱かった。
「……永絆、少しだけ我慢してくれ」
 言っている意味が分からないまま頷くと突然、藍に横抱きにされた。そしてそのまま走り出した。
 驚きながらも落ちない様にと彼のシャツを掴む。
 甘く、強い匂いが全身から漂っている。
 構内を走る藍と抱き抱えられる永絆を通り過ぎる生徒達が振り返る。
 きっと彼等は気が付いた筈だ。この抑えきれない匂いに。
 Ωが発する発情のフェロモンに。
「藍……藍……」
 途中からは意識がフワフワとしてうわ言の様に彼の名前を呼び続けた記憶しかない。
 以前、藍と初めて出会った時に乗せられた車にいつの間にか乗せられていて、後部座席で藍にしがみついまま離れなかった。
 耳元で藍の熱い息を感じてその息を飲み込んでしまいたかった。
 彼に深いキスをして貪りつきたい衝動にかられ、それを実行しようとすると藍の手が永絆の口を抑えた。
「永絆、薬は?」
 熱い息と共に藍が訊ねる。
 そんな事は永絆にはもうどうでも良くて、早くこの渇いた身体を満たして欲しかった。
 永絆が答えないまま藍の着ているシャツのボタンを外し始めると、藍は一緒に持って来た永絆の荷物を手繰り寄せ中身をガサガサと乱暴に漁った。
 鞄の中から薬の入った瓶を見つけると藍は永絆を押さえ付けて薬の蓋を開け、無理やり永絆の口の中に入れた。
 反射的にそれを飲み込んだ永絆は、それでも藍に抱き着いたまま身体を擦り寄せボタンを外したシャツから見える藍の肌に頬を寄せた。
 藍はそのまま永絆を強く抱き締めて動けなくさせた。
 少し抵抗していた永絆の身体からやがて力が抜けていく。
 嘆息して藍の胸に頬を寄せたままの永絆の髪を撫でると、永絆は薬が効きすぎたのか眠ってしまっていた。
 車内の窓を少しだけ開けると充満していた花のような強い匂いが薄まっていく。
 もう一度、嘆息してからシャツを直すと藍は外に待機していた運転手に車を出すように伝えた。
 そして腕の中で眠る永絆の髪に口付けをそっと落とした。

***

 好きな人に触れたいと、そう思う事は極自然な事。
 だから触れた。その運命の番に。
「永絆っ! 永絆、おいっ!」
 後ろから名前を叫ぶ声がする。それに気が付いてはいるけれど、決して振り向いたりしない。
「ちゃんと薬は飲んでるのか!?」
 大学の構内、人通りの多い場所で藍が一定の距離を保ったまま話し掛けてくる。
 通り過ぎる生徒達はその様子を物珍しそうに見遣る。
「そんな大きな声出さなくても聞こえてる!」
 注目を浴びたくなくて思わず永絆も声を大にして答える。
 人のいない備品室の中に急いで入ると施錠をして扉に背を預けた。扉一枚隔てた所に藍が居るのが見なくても解る。
 藍からは、番の甘い匂いがするから。
「永絆……?」
 さっきまでとは違う、控えめな声が扉の向こうから聴こえてくる。
「……ちゃんと薬は飲んでる。言われた通り、ピルも忘れず飲んでるし首輪も外してない」
 一つ息を吐いて答えると藍からも溜め息が聞こえた。
「あんまり近付かないで……。藍が傍に居るだけでヒート起こすんだから」
「永絆……」
 再会したあの日、まだ発情期ではないのにヒートを起こして藍に縋りついた。
 それはずっと逢いたかった運命の番の姿。
 次に逢った時は名前を教えると約束した相手。
 強烈に惹かれ合う魂の片割れ。
 それなのに――。
「迎えの車を待たせてるから、それに乗って帰れ」
 扉の向こうから藍が去っていく。番の匂いが薄れていく。
 それだけで胸が苦しくなる。
 本当は目を見て、手で触れて、扉なんて隔てないで会話がしたい。
 だけど永絆は藍を前にすると発情期など関係なくヒートを起こす体質になってしまった。

 名前を教え合ってヒートを起こしたその日、目が覚めると知らない部屋だった。
 気怠い身体を起こして周りを見渡し、その匂いで直ぐにこの部屋が誰の部屋か分かった。
 自分の運命の番、藍の部屋だ。
 藍を探して寝室を出ると彼はリビングのソファに座っていた。こちらに気が付いていない彼に近寄った時に、抑制剤で落ち着いた筈のヒートが再び起こった。
 部屋中にΩ特有のフェロモンが充満して、永絆も藍も理性を失い掛けた。その僅かに残った理性で藍は永絆を寝室へと押し戻し、永絆を一人残して部屋から出て行った。
 ヒートを起こした身体は熱く疼いて、番に置いていかれたショックも重なり永絆は取り乱しながら一人で身体の疼きに耐えた。
 彼がここから出て行ったのはお互いが望まぬ番にならない為だ。無理に永絆を犯したりしない為だ。
 それはつまり永絆を番にするつもりがないという意思の表れなのだと察して、涙が溢れた。
 ヒートの所為で感情がぐちゃぐちゃになっている。落ち着かせようと寝室の隅に置かれていた自分の鞄を見つけて抑制剤を取り出した。
 一日に何回も飲んでいいものじゃない。抑制剤の副作用は個人差はあるけれど出来るだけ飲まないでいられた方がいいのだ。
 けれどここには居られない。そもそも何故ここに連れてこられたのかも解らない。
 あまり力の入らない手で瓶の蓋を開けると抑制剤を取り出して口に入れた。飲み下して効果が出るのを寝室の壁に凭れながら待った。
 さっきは副作用で眠ってしまったけれど、今は眠るわけにはいかない。藍が戻って来る前にこの部屋を出て帰らなければ。
 初めて藍と逢ったあの日以来、抑制剤の効果があまり効かなくなっていた。
 前にテレビで運命の番に出逢うとそれまで効いていた抑制剤が効きにくくなるという研究結果が出たと言っていたからその所為なのだろう。
 そんな状態でも何とか発情期という自分の体質と折り合いをつけながら大学まで進学出来た。Ω性が大学進学をするには沢山の制約がある。一定の学力と発情期のコントロールがきちんと出来ている事。もし、何か問題が起きた時は速やかに退学し、大学側に責任を問わない事。
 他にも細かい制約が沢山あり、その全てに同意しないと受験資格は得られない。
 永絆はそれを全てクリアしてやっと大学に進学した。だから抑制剤が効かなくなってきている事を周りにバレたくなかった。
 疼く身体と薬の副作用で頭が霞みがかって段々何も考えられなくなってきた。
 やっと念願の再会を果たしたのに藍と交わした言葉はほんの少しだけ。この部屋に連れて来られてからは顔もまともに見ていない。
 こんな筈じゃなかった。再会したら、色んな問題があっても二人で解決していくのだと思っていた。
 藍は初めて逢った時に、これは二人の問題だと言っていた。だから再会出来たら一緒に居られる方法を二人で探していくつもりでいた。
 だけど今、この部屋に一人残されて動けないでいる。
 一人で勝手に番になる事を考えて浮かれていた。けれど彼はそう考えてはいなかったのだ。
 再会する迄の間に考えが変わったのかもしれない。
 そうだとしても責めることは出来ない。藍はαの家系で育った生粋のαだ。Ωと番うなんて普通なら考えたりしない。それが例え運命の相手だったとしても。
 自分だって番う事を拒否した。運命や性別に振り回されたくなかったから。
 でも心の何処かで藍の事を信じて求めていた。藍と番う事を夢見て、願っていた。
 自分勝手な考えで浮かれていた所為でどん底に落ちてしまった。
 こんな事なら再会しなければ良かった。
 運命の番になんて逢わなければ良かった。
 動けない身体を床に倒して、床から伝わる冷たさに疼く身体を冷ました。それでも中々冷めない熱に悔しくて涙が止まらない。
 知り合う前は発情期が来ても自分で一、二度欲を吐き出す行為をすれば治まったのに今ではそれだけじゃ満たされない。いつもいつも番の事を考えて自分を慰めるようになっていた。
 今はその行為すら億劫に感じて、自分から発せられるフェロモンで部屋が充満していくのをぼんやりとしながら声もなく泣き続ける事しか出来なかった。
 どのくらいそうしていただろう。
 涙を流し過ぎて喉がカラカラに乾いてしまっていた。水分を摂りたいけれど、まだ身体は動かない。このままここで干涸らびてしまうのもいいかもしれないと考え始めた頃、寝室のドアをノックする音が聞こえた。
 ドアが開いて足音が近付く。藍では無いことは見なくてもわかる。彼からは常に甘い花の匂いが漂ってくる。それはきっと番である永絆にしかわからない匂いだ。
「起き上がれるかな?」
 永絆の目の前に座り声の主が永絆を覗き込む。
 涙で滲む目を声の主に向けると、黒縁メガネとマスクをしていて、さっきまで寝ていたかのようなボサボサの髪をふわふわ揺らしながらメガネの奥の垂れ目を細めた。
 細い腕で永絆の上体を起こすと水の入ったペットボトルにストローをさして永絆の口元に近付ける。
 喉がカラカラに乾いていた永絆は黙ってストローを口にし、水を飲んだ。
「僕は藍の家の主治医の中根《なかね》元《はじめ》と言います。これでも一応医者です」
 その頼りなげな雰囲気は医者には全く見えなかった。
 メガネとマスクで顔がしっかり分からないが、声のトーンは若い。医者というより学生と言った方がしっくりくる。
「藍に呼ばれて君の様子を診に来ました。僕は第二性の研究もしてるので君の力になれると思って」
「……力に?」
 やっと出た声は掠れていた。泣き過ぎて水分を摂ったくらいじゃ喉の痛みは治らない。
「君、今日大学でヒートを起こしたよね? それで抑制剤を飲んだ」
 藍から説明を受けているのだろう。永絆は黙って頷いた。
「でもまたヒートを起こした。藍の傍に近付こうとして」
 もう一度頷くと中根は一つ息を吐いた。
「それでまた抑制剤を飲んだ」
 床に転がったままの抑制剤入りの瓶を拾って中根は永絆の身体をいとも簡単に抱き上げベッドへ運んだ。
 細くか弱そうな中根からは信じられない行動で永絆は驚きを隠せないままベッドに横になった。
「運命の番なんだってね? 君と藍は」
 それまで物腰の柔らかい物言いだった中根の声が急に厳しくなった。
 この人も自分と藍の事を反対しているのだろうと感じて永絆は顔を俯かせた。
「番に出逢うと抑制剤が効きにくくなるって話は知ってるかな?」
 ベッドサイドに腰掛けた中根に永絆は首を縦に振って答えた。
「藍の説明と君の今の状況から察するに、傍に寄れば寄るほど君はヒートを起こしやすくなるみたいだね。でも薬は効かない。一番の解決策は近付かない事だけど、同じ大学なんだって? 絶対に傍に寄らないなんてきっと無理だよね」
 近付く事が出来ないのが永絆にはどうしようもなく辛く苦しかった。
 藍に強く惹かれる気持ちは初めて逢ったあの日より、再会した今日の方がより強くなっている。
 ヒートのせいだけではなく、どうしても藍の傍に近付いて触れたくて仕方がない。
「とはいえ、君と藍だけがフェロモンを感じるだけならいいけど君のフェロモンは周りも巻き込んでしまう。きっと君は沢山努力して大学に入ったんだよね? そのΩのフェロモンで藍以外の誰かに犯されたり番わされたら大学にも居られなくなる。それは避けたい。……だよね?」
 この中根という人物はどこまで自分の事を理解しているのだろうかと永絆は不思議に思った。藍だけの説明でここまで解りはしないだろう。相当、頭のキレる人物だ。
「とりあえずは最悪の事態を想定して、ピルを処方するから毎日一錠飲んでね。もし犯されてもこれで妊娠は避けられるから」
 そう言って中根は持ってきた鞄からピルの入った箱を取り出した。
 永絆はその箱を呆然と見つめた。Ωが生きる為にやらなければいけない自衛策は幾つかある。
 例えば発情期になったら家から出ないとか、首輪をするとか。
 だけどそれは発情期が正常な場合だけだ。今の永絆は発情期がいつ来るかも分からない。大学内で藍に出くわせば忽ちヒートを起こす。常に発情期の状態と言っても過言ではない。
「抑制剤は飲み過ぎたら耐性が出来るから通常の発情期以外は飲まないようにしてね。君の体質に合いそうな別の抑制剤を持ってきたからこっちを試してみて」
 鞄からもう一つ薬を出すと中根は自分の連絡先の書いたメモを永絆に渡した。
 そして永絆の頭をゆっくりと撫でた。
「番えれば一番良いんだけどね。それは僕が口出し出来る事じゃないから」
 今日はここに泊まってゆっくり休んで、と中根は言った。藍は別の場所にいて今日は帰らないから、何でも勝手に部屋にある物を使って構わないと。
 そしてまた永絆の頭を撫でたあと、中根は帰っていった。
 手の中に薬が二種類とメモ。それを暫くボーッと見てから、ベッドの近くのローテブルに置いた。
 藍が帰らないと聞いて少し安心して、けれど直ぐにまた悪い考えが湧き出す。
 何のつもりで中根に会わせたのかは分からない。ただ、今日藍は帰らない。
 ヒートを起こした運命の番を部屋に一人で置き去りにしたまま、彼はここには帰って来ない。

 藍の残り香を感じながらその日、朝まで永絆はゆっくりと身体を休める事が出来た。
 一日に二回もヒートを起こし、抑制剤を多く飲んだせいで精神的にも肉体的にも限界だったのだ。
 心はとても冷えきっていて哀しみさえ感じなかった。ただひたすら、深い眠りに落ちていた。夢さえ見ずに。
 起きてすぐにマンションを出た。
 藍の匂いのする部屋に居続けるだけでヒートを起こしそうだった。自分の体質が藍と出逢ってこんなに変わるとは思わなかった。こんなに過敏に番に反応するなんて。
 マンションを後にしてから、中根から預かったメモに書かれていた連絡先に電話を掛け無事に帰宅した事を告げると、一度しっかり検査をしてみないかと言われた。
 直ぐには返事が出来ずに暫く考えさせてくれと頼み電話を切った。
 どんな検査をしたいのかは知らないが、今の永絆には『藍に触れる事が出来ない』という事実だけでもう充分だった。
 その日は大学を休み、泣き腫らした目をひたすら冷やした。
 藍への感情もこのまま冷えて凍ってしまえばいいのにと思いながら。
 昼過ぎに携帯が鳴ってディスプレイを見ると知らない番号からだった。恐る恐る電話に出る。
『永絆?』
 藍の声が携帯から聞こえてきて、心臓が止まるかと思った。
『もしもし?』
 驚いて何も言えずにいた永絆は慌てて「もしもし」と返事をした。
「なんで藍がこの番号……」
『中根から聞き出した。薬は貰ったか? ちゃんと家には着いたのか?』
「う……うん。大丈夫」
 声が少しイライラしている様に感じて戸惑った。何か怒らせるような事をしただろうかと。
『……永絆の体質の事、中根からちゃんと説明して貰った。今は辛くないか?』
「うん……大丈夫」
 イライラしていた声が急に優しくなる。それだけで胸がキュンと痛くなる。
『明日から、大学の送り迎えに車を出すからそれを使ってくれ』
「え? なんで? 大学までそんなに遠くないし車って藍の送迎のだよね? そんなのいらないよ」
 あんな高級車、乗っていても落ち着かない。それに電車を使えば三十分もあれば行ける距離だ。
『初めて逢った時みたいに突然ヒートを起こすかもしれない』
「あれはっ……」
 あの時は運命の番に出逢ったせいでそうなっただけで普段は発情期が来る日を予測して外には出ないようにしている。そのくらいの自衛はΩなら当然の事だ。
『大学だって一人で行動させたくない。出来るならオレが傍に付いていたい。でもそれは無理だから……せめて永絆が誰かに犯されたり番わされたりしないように少しでも何かさせてほしい』
 今、どんな顔をして話しているのだろう。
 番うつもりもないのに何故そんな心配をするのか。心配するくらいなら再会したあの時に項を噛んでくれたら良かったのに。
 そうしたら他の人にはもうフェロモンを撒き散らす心配はない。犯されたりもしない。
 この身体も心も全てが藍のものになったのに……。
「……藍が、それで安心するならそうするよ」
 きっと拒んでも藍は車を用意しておくだろう。それを無視してしまえば迎えに来た運転手が責任を取らされるかもしれない。
 自分の事で関係のない誰かに迷惑がかかるのは嫌だった。
 常に誰かに迷惑をかけないように生きていかなければいけないのがΩの宿命だ。発情期があるだけでも周りに影響を与えてしまうのにこれ以上迷惑をかけて生きるのは避けたかった。
 大人しく送迎されておけば藍も文句は言わないだろう。今は再会した事と体質の問題もあってお互い冷静な判断が出来ていないけれど、少し時間が経てばきっと藍は気付くはず。
 心配だから、なんてαのお情けで守られている事がΩである永絆にとってどれだけ屈辱なのかが。
 番えないのなら何もしないで放っておいてほしい。
 優しさも同情もいらない。そんなものは毒でしかない。
 傍に近寄って、触れて貰えないのなら運命の番なんて意味は無い。強く惹かれ合う気持ちなんて苦しみでしかない。
 それでも藍が好きだから。番になる夢を一度でも見てしまったから。望んでしまったから。
 自分からは離れられない。離れたくない。傍に近寄れなくても、少しでもいいから関わっていたい。
 藍に求められていると思っていたい。
 出来れば藍がいつか自分を必要としなくなり、家が決めた誰かと家庭を築くまで。
 それが無理ならせめてあと少しだけでいい。
 藍の運命の番でいさせて。

 翌日、大学へ向かおうと家を出るとそこには既にこの場所に似つかわしくない高級車が停まっていて二回程見た運転手が車の外で姿勢良く立って待っていた。
 一体いつからそこにいたのか、永絆の姿を見つけると恭しく一礼をして柔らかく微笑んだ運転手は自らを前野と名乗った。
 永絆より遥かに歳上で父親くらいの年齢だろう。自分にはそこまで丁寧な対応をしてもらう必要がないからと言っても、それが仕事だからと前野はその姿勢を崩さなかった。
 大学までの道程をゆったりしたシートの隅に座って居心地悪く過ごした。あまり大学の関係者に見られたくなくて着いてすぐに車から降りると、小走りでその場を去った。
 その日は構内で藍に遭遇する事はなく、至って普通の大学生活を過ごした。
 講義を全て終えて帰ろうと大学の門の前まで行くと、既に前野が朝と同じように車から降りて永絆を待っていた。そして永絆の姿を見つけると上品に一礼をし、後部座席のドアを開けた。
 高級車にお抱え運転手という光景は酷く目立ち、居た堪れなくなって急いで車に乗って持っていた鞄を抱きしめて外から顔が見えないように隠した。
 身の丈に合わない扱いに躊躇う。藍がαの家系で所謂、お金持ちというものなのは初めて逢った時、直ぐに分かった。彼もそれを別に隠すこと無く堂々としていた。
 一人暮らしをするには広過ぎる部屋や、送迎車やお抱え運転手。どれをとっても藍が特別な存在であることを示している。
 そんな彼と番になれるだなんて夢、どうして見てしまったのだろう。そんな事出来るはずないのに。
 この送迎だって藍のαとしての本能である、番を守るという性質からきているだけだ。または、他の人間に番にされたら藍のプライドが傷付くからかもしれない。
 だから決して、油断してはいけない。誤解してはいけない。
 もしかしたら藍は自分を番にしたいのではないか、なんて。
 運命の番だからではなく、永絆という存在を好きだからだなんて。
 もう昨日の様な思いはしたくない。置き去りにされる苦しみなんか二度と味わいたくない。
 彼の事を好きだと本人に告げる事は一生ないだろう。ただ、今は彼がしたいようにさせて自分の事を飽きるか、αの本能を満たして満足させるかすればいい。
 自分はその間だけ藍の運命でいる。
 どうしても嫌いになれない。離れたくない。苦しくて仕方ないのに、傍に近寄れないのに、それでも番である事を望んでしまったから。

***

 それから数日、送迎は一日も欠かさず続いた。
 前野は永絆の講義の時間を把握しているのか、毎日家を出る三十分前にはそこに待機している。
 帰りの時間だってその日によって変わるし、何か急に違う用事が出来て直ぐに帰れなくてもいつもちゃんと門の前で待っていた。
 最初は目立って仕方がなかったその姿も何日かすると見慣れた光景になり、視線も集めなくなってきた。
 構内では偶に藍と出食わす事が何度かあった。
 近くに居れば匂いが漂ってお互い気が付く。発情期の匂いとは別のものらしく周りには分からない様だったが、それはとても甘く痺れる匂いだった。
 一定の距離を取りつつ、構内をすれ違う。その度に心臓が痛くなる。
 これ以上はヒートを起こす、という距離感が段々と分かり始めた頃、構内で少し距離を取った状態で藍が声を掛けてきた。
「体調は大丈夫なのか?」
 藍とまともに話すのは久々だった。
 最後に話したのは電話での送迎の件だった。
 その声だけで涙が溢れそうなくらいに胸が詰まって、直ぐには返事が出来なかった。
「……大丈夫。藍は心配しなくてもいいから」
 噛まれても大丈夫な様により頑丈な首輪を前野に渡され、大学に行く時や外出の際は必ず付けている。ピルも毎日欠かさず飲んだ。
 藍以外の誰かに身体を犯されるなんて事を想像しただけで鳥肌が立つ。ましてや妊娠なんて。
「……永絆」
「なに……?」
 人通りの少ない場所で良かった。
 藍と話している所をあまり他人に見られたくない。
 再会したあの日、藍が永絆を抱えて走った事は暫く学生達の間で話題になっていた。
 周りには自分がΩである事を隠している永絆は、たまたま貧血を起こして倒れた所を藍に介抱して貰ったと噂好きの学生達に話してあった。藍の耳にもその話は届いているだろう。
 何せ彼は有名人だ。
 その苗字を知らない人間など居ないだろう。
 紫之宮《しのみや》という名前を聞けば誰しもが同じような事を答える筈だ。
『先祖代々αの血筋』
『幾つもの企業を手掛けている大財閥』
『αの中の絶対的存在』
 藍がその紫之宮の直系の跡継ぎだと知ったのは噂好きの学生達が話していたのを聞いたからだ。
 番にはなれないと分かってはいた。けれどまさか藍がそんな大きな家の人間とは思っていなかった。
 どこかでほんの少しだけ持っていた希望が無惨に砕け散った。文字通り、粉々に。
 だからもう、送迎なんていらないし誰に犯されてもどうでもいいとさえ思ってしまう。
 それでもこうやって声を聞けば、構内のどこかで姿を見掛ければ、心が嬉しいと言って跳ねる。
 懲りもせず、未だに藍が好きで好きでどうしようもない。
 まるで底無し沼にはまったみたいに、日々募る思いに身動き出来ずに佇んでいる。
「近寄ってもいいか?」
 一歩、藍の足が永絆に近付く。その足を見て思わず永絆は同じだけ後退った。
 いくら人通りの少ない場所でもヒートを起こせば忽ちフェロモンが広がってしまう。そうなったら近くにいる人間が本能を剥き出しにしてやって来る。
 もうどうにでもなれと思っていても、本当にそうなるのは絶対に嫌だ。藍以外を受け入れるなんて絶対に。
 嫌だと思っていてもヒートを起こして理性を失えば誰に抱かれても関係ない。本能だけで腰を振り欲を求めるだけの獣になってしまう。
「ヒートになりたくない……」
「……オレは、お前に触れたい」
 ぎゅう、と胸が締め付けられる。
 触れたいのは自分だって同じだ。触れられるのなら今すぐ抱き締めて欲しい。
 だけど、今ここでそんな事をする訳にはいかない。
「触れて……どうするっていうの? ヒートを起こしたオレをここで抱く? こんな……こんな場所で理性を失くして抱かれたら満足するの!? 他の誰かにも抱かれてワケわかんなくなって、そうなっても構わないなら今すぐ傍に来て抱き締めてみせてよ!!」
 頭の中がぐちゃぐちゃで酷く痛んだ。
 近付けないのは藍の所為じゃないのに、彼を責める言葉しか出てこない。
 こんなぐちゃぐちゃな感情の運命の番なんて藍も呆れてしまうだろう。その方がいい。さっさと自分の事など放り出してしまえばいいんだ。
「ごめん……そうだな、こんな人がいる場所で言うことじゃなかった……」
 優しい言葉をかけないでと言えずに顔を伏せた。
 これ以上期待させないで欲しいから。
「でも、出来ることなら今すぐ抱き締めたいよ」
「……出来ないくせに」
「ああ……今は出来ない。だけど必ず、抱き締めるから」
 そんな風に言われると、期待がまた膨らむ。
 彼と番える日が来るのではないかと、また甘い夢を見てしまう。
 例えそれが彼の一時の気まぐれだったとしても。
「これからは近くに居たら無視しないで声を掛ける。本当はずっと色んな話がしたかったんだ」
 藍と話をしていたら目立つだろう。
 一定の距離で会話をしていれば可笑しいと思われても仕方ない。
 こいつは何者だ、とまた噂好きの学生が群がるかもしれない。
 ――それでも。
「オレも……ずっと話したかった」
 少しずつ距離を縮めていきたい。
 物理的な距離ではなく、気持ち《こころ》の距離を。
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