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エルターニャ派の貴公子
悲恋のあと
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九太郎は酔いを醒ますついでに、カミラとメアリを探すため、活況を取り戻した晩餐会を抜けて外にでる。運動場の焚火は既に消され、年長の者たちだけが手元の灯りを頼りに残って片づけをしていた。
もう軋むように痛み始めた頭に、夜の冷気は心地よい。九太郎は酒があまり得意ではなかった。飲むと直ぐにこうして頭痛がし、息を吸うだけで後頭部を殴られたかのような衝撃がある。
メアリの行先はおおよそ検討がついている。教会を迂回して、まずポンの作業場を覗いてみるが、そこには誰もいない。後はさらに裏手の木立の中へ。そこにはレアとフィアの秘密基地があり、暖炉もあって一人閉じこもるには打ってつけの場所である。
九太郎が建て付けの悪い木の扉を思い切り開くと、メアリは「きゃ」と女の子らしい声をあげてから焦って目を擦りだした。その姿が、真っ暗な小屋の中で薪ストーブの火によって荒く削り出されている。
「軍人が、ましてや士官候補生がめそめそ子供みてえに泣くんじゃねえよ。」
「……うっさいな!どうせならないんだからいいんだよ。」
膝を抱えて座るメアリは、頬を膝頭に乗せるようにして潰し、九太郎から顔を背けて言う。
九太郎は入口脇の壁に背を凭れさせ、立ったまま腕を組む。妻であったエリザベートの話を、柄にもなく子供たちにしてしまった手前、気恥ずかしさやら、後悔やらで、からかう以外の言葉が頭に浮かんでこない。言動の一貫性を失って、いつもの自分が分からなくなってしまった。
てっきりカミラがメアリに付き添って慰めているのかと思いきや、その姿は小屋の中に見当たらない。
先に口を開いたのはメアリだった。
「……なあ、オヤジは人を殺したことがあるか?」
九太郎の予測の外から発せられた言葉に、彼は片目だけを顰めて見せる。
薪の炎が目に沁みる。
「……あるよ。」
首肯する九太郎に、メアリは溺れた水中から助け出されたような、痙攣に似た呼吸を一つ大きくする。
「……まさかそれは王女だったりするのか?」
「王女……ねえ。お前それを誰から聞いた?」
「よく分からない王国軍の野郎だ。」
九太郎の神経が一気に逆立つ。それはおかしな話だ。宴会が始まる前、サールから聞いた話では、王立管弦楽団の護衛はロンド・ミライルという大尉が率いる中隊規模の常備軍。そして九太郎の処刑という裏の目的を知るのはその大尉のみ、他の者には伝えられていないという。
「家族の者には『過去』を永久に秘密にする」、と九太郎本人が直接今の女王と契った。それを破るものが、このタイミングでメアリに接触してきた。
偶然であるはずがない。
「メアリ、その男は本当に王国軍の奴だったか?」
「え?……どうだろう。なんか黒いマント被ってて、潜入任務だって言うから軍服も着てなかったし……でも私のことは知ってるみたいだったから……。」
メアリは急に叱られた子供のように不安そうな顔を九太郎に向ける。彼女は腕っぷしは卓越しているものの、正直士官としての能力には欠けるように九太郎には思えてならない。相手の所属くらい普通聞くものだろうと静かに溜息を吐いた。
「……で、なんて言われたんだ。全部吐け。」
失態を犯していたらしいことに気付いたメアリは、掻き消えそうな小さい声で男との会話の一部始終を九太郎に伝える。……王女は病死ではなく九太郎が殺したということ。それは海賊として何らかの目的があったこと。メアリに九太郎を捕まえる手伝いをしろと求めてきたこと。
「なるほどな。で、お前は信じた訳か。」
「は?あり得ない、あり得ない。バーカって言ってやたよ。」
九太郎の死へと漸近していくように凪いでいた心がざわつき始める。サールの演奏を聞き、満足して、秘密を抱えたまま首を刎ねられる。その道に誰かが小石を投げ込んできている。
九太郎が王女を殺害したこと。それを知るのは誰だった?
王室、軍の上層部、貴族領主、政治家、行政官。武官から文官、中央から地方と、それぞれ知っている情報の濃淡はあれど、数え上げたら両手に足りない。ゆえにその男も本当に王国軍の者かもしれないし、そうでないかもしれない。その点をいくら考えても意味がなく、女王も王国の八隅遍く知るという訳にはいかないのだろう。
分かっているのは何者かが王室の意向に反して動いていること。
……でも、どうしてメアリに声をかける必要がある?
そもそも亡き者にすることが目的ならロンド大尉に任せておけばいい。その怪しい男が楽団警護の真の目的を知らないとは思えない。なら捕まえることが目的か?たしかにこの身はそこそこ役立つだろう。王室の露見したくない秘密そのものなのだから。しかしいずれにしてもメアリに接触する必要は微塵もない。
……なんだ、何がある。後は何が……。
仄暗いこの小屋のように、首を回しても一向に話が見えてこない。
そうして九太郎が深く思索に沈んでいると、メアリが疑いの眼差しを鋭くする。九太郎は彼女の質問にまだ答えていなかった。
……どうする?本当のことを伝える訳にはいかねえ。だが……。
メアリに真実を伝えれば全てが徒労となってしまう。かといってここで誤魔化したとしても、またその男がいつメアリに接触してくるかも分からない。伝えるなら絶対に自分の口からでなければならない。
メアリは男の言葉によって九太郎を猜疑しながら、それでもまだ信頼を残してその質問をしたのだ。
とにかく何か言わなければ。と、弁解か告解か、そのどちらも選び切れぬまま、見切り発車で九太郎が唇に力を込めた瞬間、氷結する夜空を砕くような爆音が、眠りかけたラゴナの丘に閃く。
「な、なにっ!?」とメアリが咄嗟に立ち上がる。
九太郎は嫌な予感がした。
「おい、メアリ!お前は孤児院に戻ってカットラスを取ってこい!あと銃もあるはずだ!ワイドに出して貰え!……さっさとしろっ!」
そう言ってメアリの手を引いて小屋の外に出る。
……間違いない。あれは銃声だ。
ラゴナの丘に至る道は全て自警団の者が守衛として張っている。ワイドが子供たちを誘拐されぬよう自費で雇ったのだ。しかも夜は一層手厚くなる。ワイドは双子とともにサルべード家に戻って寝ることが多く、その間孤児院のことはアリサに一任している。ゆえに夜の警備は一層手厚くなっているはずなのだ。
それでも九太郎は安心できなかった。
一度だけの発砲。しかし――。
……その銃声は余りに近くなかったか?
ランプも持たず、メアリと九太郎は疾走する。メアリも既に兵士としての峻厳とした顔つきになって前だけを見据えていた。
二人はそのまま運動場が見渡せる教会の正面に出て、言葉を失った。
――子供たちが消したはずの焚火が、また天を崇めるように燃えている。
人を委縮させる長靴の足音。白い軍服を着た50人程度の集団が運動場の真ん中を占拠している。
孤児院の長屋から、子供たちが興味本位で顔を出すのをアリサが必死に押し止めていた。そして軍服の連中の前にはワイドとサールと思しき影が立っている。おそらく教会の裏手に居た九太郎やメアリよりも先に異変に気付いたのだろう。あれだけの人数が馬も駆って丘を登ってくれば、孤児院に辿り着く前にその音を察知してもおかしくない。
発砲の意図が、九太郎に明確なものとなる。
「……お、おい、待て!どこ行くんだオヤジ!なんか分かねえけどあれはやばいって。取りあえずサールさんに任せよう、な?」
運動場に向かって歩き出す九太郎の背にメアリが縋る。振り向いた九太郎の顔は爆ぜる炎の影となって、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
しかし、確かなのは、頭に触れるあまりに懐かしい慈愛に満ちた掌の温かさ。
ふざけて触るのとは違う、そこから感情を流し込もうとする手の動きに、メアリの九太郎を見上げる眼差しも柔和なものになる。
「……リーザの家族を、任せたぞ。メアリ。」
火の粉が雪のように舞う中、九太郎はメアリから離れ、真っ直ぐに、教会の身廊を教壇に向かって歩くように、悠揚迫らぬ態度で進む。
メアリは徐々に小さくなるその背中が、一体誰なのか、本当に自分の父、あの九太郎・ソロア・サルべードなのか、分からなくなった。
……今まで私は何を見て来た?……いや、何を見てこなかったんだろう?
メアリは少し遅れて九太郎を追う。いつの間にか彼の傍にはレーダ、ポン、ロッドが駆け寄っていたが、その誰の心配した言葉にも九太郎は答えなかった。
ワイドとサールが九太郎を迎え入れるように視線を向ける。
「……香辛料と酒の匂いを嗅ぎつけてやってきたようには見えねえなあ。」
開口一番、九太郎らしい口火の切り方だった。が、メアリは驚愕する。白い軍服に鮮やかな青の制帽。間違いなく王国軍の兵士たちだが、ワイドとレーダの間に立つその男は格が違った。
「……托身のムト少将……。」
アールス王国の常備軍は12の師団から成る。その内のエルターニャを含む南方方面を師管区とする師団。通称「フィデーリタース」。その団旗にはエールスリンの白い花弁を両手で包む様が描かれ、王室への絶対的な忠誠を特徴とする師団だ。ゆえに最も王都から離れ、かつ反乱分子も多いエルターニャ地方を任されている。
ムト・ハジラル少将はその師団長に補されている王国の傑物。貴族出身ではなく、特権階級出身の叩き上げで、齢は60、その風貌は、頬骨が張って広い額が前に押し出され、白金に近い金髪は短く、前髪などは雄々しく逆立っている。
――太陽の獅子。
メアリの声を聞いた九太郎がふっと溜息を吐く。
「少将だって?……なんだよ、戦争でもする気か?生憎、ここには未来の従軍女か私娼しかいねえ。それにまだ刈り取るには早い、青くっさいしょんべん女ばっかりだ。それが少将殿のお好みか?」
それを聞いた軍の面々の苦々しい顔は、サールべード家の娘・息子たちには見覚えのあるものである。
「ふん。噂に違わぬ言動だ。九太郎・ソロア・サルべード。王立アカデミーの寵児にして、栄光ある『サルベード』の性を名乗ることを許された男。やはり芸術家とはこうでなければな。」
「ふん。そうやって芸術家を称号でしか形容できないのがいかにも軍人だな。返り血でいつも視界は真っ赤っか。そんなんじゃ絵なんてまともに見れまい。可哀想に。」
ワイドとサールを押し退けるようにして九太郎が前にでる。ムト少将もまた、護衛もなく彼の正面に立ちはだかった。背丈は同じぐらいだが、体の幅が九太郎とは違い過ぎる。
「それはお前も同じことだろう。なんだ、怒りや哀しみで目が濁ったか、それでもう描けないと?」
ムトの意味ありげな語尾の調子に、九太郎は彼の軍服の襟を掴む。が、ムトの体は少しも揺らがなかった。一斉に銃を構える兵たちをムトが手で制す。
「あいつはなぁ…………そんなちゃっちい感情で片づけていい奴じゃねえんだよ……。」
地を震わすような九太郎の凄んだ声に、ムトは金の眉を眉間に寄せる。二人は睨み合い、額がぶつかる。が、すぐにムトの方が口角を緩め、まるで友人と喧嘩した後のように軽く謝る。
「……そうか。それは済まなかった。どうして、のらりくらりと肩透かしばかりのつまらぬ奴だと聞いていたが、ちゃんと男じゃあないか。……しかし、嘘はいけない。」
「嘘?」
「ちゃんと青臭くない、いい女もいるじゃないか。造化の妙とはまさにこのこと。」
ムト少将は九太郎の腕を払い、レーダの前にずいと出る。彼の大きな手がその頬に触れる寸前、レーダは舞踊の最後にするような、慇懃で優雅な礼をしてみせるた。
――触るな。
レーダの拒絶は、その所作を見れば誰の目にも明らかだった。
「……そうか、気が強いのも悪くない。」
ムト少将は満足したように頷いて、九太郎に背を向けたまま孤児院の長屋の方へ歩き出す。その最後にメアリの肩を一つ鼓舞するように叩いた。
九太郎たちは置いてけぼりを食らった形。孤児の子供たちはまさか自分たちの方に来るとは思ってなかったのだろう。蜘蛛の子を散らしたように出していた顔を引っ込め、部屋の中へ逃げ帰る。
ムト・ハジラル少将が説明を放棄した、その後を継いだのは、彼の副官でもなんでもない男だった。
九太郎たちは誰も知らない。その男こそ、二日前、港湾の侵入者二名を連行した将校であることを。
「不倫は大罪だと、そういつも申し上げているにも関わらず、ご無礼をお許しください。」
レーダに頭を下げる男。ムト少将とは対照的に細身で、いかにも貴族将校と言った見てくれである。小隊規模の人数から察するに、彼は少尉で本来の隊長なのだろう。ムト少将はそこに飛び入りしたということか。
「ちっ、御託はいい。さっさと連れてけ。」と、自ら兵士たちの中へ割って入って行く九太郎を、その男が腕を掴んで止める。
「理由も聞かずに、どうして自分だと?」
メアリ、それからサール以外の頭にも同じ疑問が浮かんだだろう。軍はただ、「九太郎・ソロア・サルべードを出せ」としか言っていなかった。なぜ九太郎が軍に連れていかれなければならないのか、しかも少将自ら物々しく足を運んでまで。不安そうなレーダやロッドは勝手に話を進める九太郎を問いただしたかったが、軍の前でそう容易に口を開けない。
「まどろっこしいのは嫌いなんだよ。ほら、行くぞ、兵隊さん方。」
九太郎は間違いなく焦っていた。あたかもこの場から逃げるように、王国軍の連中を自分で引き連れ去ろうとしている。
将校がそれを見逃すはずもない。
「……いや、勿論あなたも連れて行きます。あなたは王族を、二人も、殺している。見逃すはずがない。」
「見逃すはずがない、ねえ。」
男の発言に、驚愕する兄妹の反応は様々だった。が、総じて理解できないという点では、末のレアとフィアとも大差ない。
「嘘、ですよね?」と聞くのはレーダ。それはワイドやロッド、ポンの代弁でもあった。が、九太郎は背を向けたままとぼけたように言う。
「嘘じゃないさ、レーダ。こうして破格のお迎えが来てる。……サール。済まない。どうやらお前の演奏は聞かせてもらえないらしい。」
九太郎が現れてからずっと顔を伏せていたサール。その日を五年も待ち侘びていた彼女は、しかしあっさりと引いた。
「……いいさ。『向こう』にだっていつか演奏しに行ってやる。……ちゃんと待ってろ。」
「そんな暇があんなら、おちびたちに聞かせてやれ。」
サールは鼻で笑い飛ばして、それからムト少将と同じように長屋の方に去って行く。その顔は、宵に紛れて誰にも見えなかった。
「どういうことですか、ねえ、九太郎さん!教えてください。私には、何がなんだか……行っちゃ嫌ですよ。」
サールの何かを理解した素振りに、レーダの焦りは高まる。九太郎に駆け寄ろうとするが、それを遮ったのはメアリだった。彼女は合流した時にロッドから渡されたカットラスに手をかけ、銃剣を佩び、片時も軍から目を離さずにいる。
威嚇行為に取られてもおかしくない、その態度に、しかし軍の兵卒たちの緊張は足りなかった。メアリ・アボニー、その名は有名だが、目の前の小柄で愛らし少女とそれが一致しない。子供の真似事と高を括っている。
「メアリ?……どうして、九太郎さんが殺人なんて、そんなこと、……。」
メアリが首を振る。今彼女が守らなければならないのは、兄妹だ。そう九太郎に託された。
「……そう。メアリも、何か知っているのね。」
レーダがメアリの腕の中で力なく膝を折る。九太郎に秘密があること、それを覚悟していたレーダでも、王族を殺したなどどいうのは余りにも理解の及ばぬものだった。
「誤解をしてもらっては困る。私は彼『も』と言ったはずだ。」
九太郎は既に手首を拘束され、大勢の兵士に囲われていた。まるでそのタイミングを計っていたような男の言葉。
「……おい、待て、今なんて言った?」
「レア・アウリウス。それからフィア・アウリウス。君たちも連れて行く。」
九太郎は己の過ちに気付くや否や、そのあまりに細い体を躍動させる。彼は取り巻きの兵の足を払い、すぐさまその兵が持っていた銃剣の切っ先で手の拘束を解き、そのまま銃を奪う。
その一連の動きに、周囲の兵たちの反撃は遅きに失した。繰り出される剣の突先を全て横転して交わし、銃を構えたときには射線上にサルベード一家が入ってしまっている。躊躇う間にも、九太郎は1人、また1人と、突撃するように飛び掛かって来る兵の腕やら、足を切り裂き、逃げ惑う。それを追っかけていると、いつの間にやら瞬間的に一対一の構図になって切りつけられる。
まるで跳梁する素早い動物を捕獲するために、人間が寄り集まって騒ぎ立ててるよう。滑稽ともとれるような、翻弄される兵たちの動きに、兄妹たちは見惚れていた。
父の体の傷の理由。それがようやくわかった。それと同時に、少尉の男の言った「殺人」の語も現実味を帯びて来る。
背を取ったと思えば、さっきまで前方に向けられていた銃剣の切っ先が回転して九太郎の脇の下から出て来る。その間に正面から突き出された剣は手で受け止められる。
そうして九太郎は手や足の服も裂け、流血しながらも立ち回り続ける。
小銃も幾度となく発砲されたが、味方に当てないように気を遣うと、九太郎が間一髪で避けてしまう。
圧倒的な技量差が、軍の兵士と九太郎との間にあった。
「お前ら本当に王国軍の兵士か。隊列組んでお膳立てして貰わないと戦えないってか、あ!?」
九太郎は、迫る兵たちの剣戟を払い、甘んじて身に受けながら防ぎ、命からがらまたメアリやレーダの傍に戻り、双子を自分の影に背負う。
「……九太郎、ち、ち、出てるよ?」
震えるフィアを抱くようにしたレアが、顔を上に向けて九太郎の顔を指す。左目の上の辺りが横に裂け、大量の血が流れ出ている。拭っても止まらず、焚火の灯りによって顔の半分が黒く染まったように見える。
傷はそれだけではない。左腕も銃弾を受けたらしく、力なく腰の脇に垂れている。
「……黙ってろ。」
九太郎はそれだけを言って、少尉の男を射殺すような目つきで睨む。幾丁もの銃の照準が依然彼の体に向いている。
「レア・アウリウスとフィア・アウリウス。君と同じでこの世にあってはならない命だ。こちらで預からせてもらう。」
「……うるせえなあ。こいつらは俺の所有物だ。これからきっちりと働いて貰って拾った恩を返してもらわねえと割に合わないんだよ。誰にもやらねえ。ましてや殺しもさせねえよ。」
九太郎はメアリからカットラスを引っ手繰る。
「お、おいっ!なにやってんだ。そんな体じゃ、そうでなくても無理だっ!」
片手にだけその美しい刀身を持つカットラスを構える。
……殺す気はない。それならなんとか……。
九太郎は先の、時間にして数十秒の戦闘から気付いていた。殺す気があればもう少し痛手を負っていてもおかしくない。むしろ命すらなかったと言える。何より銃口は一度も頭や胸に向かなかった。
……でも、くそっ、ここで逃げたとしてどうなる?
王国が一枚板でないことは明白となった。しかもレアとフィアのことまで嗅ぎつけている。今この場を切り抜けたところで意味はない。
「……諦めろ、サルべード。エリザベート様が君たちをお招きになっている。そう思い給え。」
「エリザベート、様?」と、はっとしたワイドが九太郎に答えを求める。
「……てめえ、それを言ったら、その瞬間にお前の頭はそこだ。」
九太郎がカットラスを光らせて地面を指す。が、少尉は順に、ワイド、レーダ、ポン、メアリ、レア、フィアと、まるで誰が兄で妹か知っているように見回してから、ゆっくりと口を開く。
言葉とは裏腹に、九太郎は少尉の喉元に飛びつくことはしなかった。
「エリザベート・フォン・サルべード。彼女のかつての名は、エリザベート・ベアトリーチェ・ウェールス。紛れもなく現女王、ベアトリーチェ様のご息女にして、第二王女であられたお方。そしてそこにいる双子は、その王女であった者とそこの下賤な海賊上がりの男との間に生まれた忌まわしき子。」
秘密が、男の長広舌によって暴かれる。それは通俗的な悲恋の物語。しかし既にそれは過去のものとなり、打ちひしがれるのは一人男のみ。
……なあ、リーザ。理不尽に過ぎるこの世で、生きることはやっぱり難むつしいな。だから、何にも、人は求めちゃいけないんだ。
九太郎はカットラスを持ち上げ、それを思い切り振り下ろす。矛先は少尉でも、ましてや自分自身でもなかった。
――双子、レアとフィアに向かって。
余裕を持って語っていた少尉の目が見開かれる。余りも予想外で、短絡的な九太郎の狂気とすら思える行動。
迫る刃にレアとフィアが反応できるはずがない。
……ママが本当のママで、本当のパパが九太郎……?
その真実に目が眩んでいた。
カットラスの刃の軌跡がレアの首を断つ。――その瀬戸際で九太郎の肩は背後から銃剣の刃に突かれていた。
「くっ……!メアリっ!」
「……オヤジ、今何しようとした?」
「…………。」
「何しようとしたかって言ってんだよつ!」
虚を突かれていたワイドとロッドが慌てて双子を九太郎から離す。レーダはもう頭が回っていない様子で運動場の地面にへたり込んでいた。
腕から銃剣が引き抜かれ血が噴き出す。それと同時にまた発砲音が響き、九太郎は気絶したよう倒れ込んだ。その体をメアリが駆け寄って抱きかかえる。
脚と脇腹の辺りを小銃によって撃ち抜かれていた。兄妹たちはメアリを除いて九太郎から逃げるようにしていざり退いていたため、射線が空いたらしい。
小さなメアリの胸に抱かれるようにして、九太郎は薄く目を開く。
「……だったら、どうしたらいいってんだ。誰か……教えてくれよ……俺は、どこで、間違ったんだ。リーザが、何を間違ったっていうんだよ。…………神様。」
メアリはくしくも九太郎の捕縛に一役買った。
彼女の胸の中で、彼女の父親である男が、燃え続ける火に見守られながら届かぬ神
もう軋むように痛み始めた頭に、夜の冷気は心地よい。九太郎は酒があまり得意ではなかった。飲むと直ぐにこうして頭痛がし、息を吸うだけで後頭部を殴られたかのような衝撃がある。
メアリの行先はおおよそ検討がついている。教会を迂回して、まずポンの作業場を覗いてみるが、そこには誰もいない。後はさらに裏手の木立の中へ。そこにはレアとフィアの秘密基地があり、暖炉もあって一人閉じこもるには打ってつけの場所である。
九太郎が建て付けの悪い木の扉を思い切り開くと、メアリは「きゃ」と女の子らしい声をあげてから焦って目を擦りだした。その姿が、真っ暗な小屋の中で薪ストーブの火によって荒く削り出されている。
「軍人が、ましてや士官候補生がめそめそ子供みてえに泣くんじゃねえよ。」
「……うっさいな!どうせならないんだからいいんだよ。」
膝を抱えて座るメアリは、頬を膝頭に乗せるようにして潰し、九太郎から顔を背けて言う。
九太郎は入口脇の壁に背を凭れさせ、立ったまま腕を組む。妻であったエリザベートの話を、柄にもなく子供たちにしてしまった手前、気恥ずかしさやら、後悔やらで、からかう以外の言葉が頭に浮かんでこない。言動の一貫性を失って、いつもの自分が分からなくなってしまった。
てっきりカミラがメアリに付き添って慰めているのかと思いきや、その姿は小屋の中に見当たらない。
先に口を開いたのはメアリだった。
「……なあ、オヤジは人を殺したことがあるか?」
九太郎の予測の外から発せられた言葉に、彼は片目だけを顰めて見せる。
薪の炎が目に沁みる。
「……あるよ。」
首肯する九太郎に、メアリは溺れた水中から助け出されたような、痙攣に似た呼吸を一つ大きくする。
「……まさかそれは王女だったりするのか?」
「王女……ねえ。お前それを誰から聞いた?」
「よく分からない王国軍の野郎だ。」
九太郎の神経が一気に逆立つ。それはおかしな話だ。宴会が始まる前、サールから聞いた話では、王立管弦楽団の護衛はロンド・ミライルという大尉が率いる中隊規模の常備軍。そして九太郎の処刑という裏の目的を知るのはその大尉のみ、他の者には伝えられていないという。
「家族の者には『過去』を永久に秘密にする」、と九太郎本人が直接今の女王と契った。それを破るものが、このタイミングでメアリに接触してきた。
偶然であるはずがない。
「メアリ、その男は本当に王国軍の奴だったか?」
「え?……どうだろう。なんか黒いマント被ってて、潜入任務だって言うから軍服も着てなかったし……でも私のことは知ってるみたいだったから……。」
メアリは急に叱られた子供のように不安そうな顔を九太郎に向ける。彼女は腕っぷしは卓越しているものの、正直士官としての能力には欠けるように九太郎には思えてならない。相手の所属くらい普通聞くものだろうと静かに溜息を吐いた。
「……で、なんて言われたんだ。全部吐け。」
失態を犯していたらしいことに気付いたメアリは、掻き消えそうな小さい声で男との会話の一部始終を九太郎に伝える。……王女は病死ではなく九太郎が殺したということ。それは海賊として何らかの目的があったこと。メアリに九太郎を捕まえる手伝いをしろと求めてきたこと。
「なるほどな。で、お前は信じた訳か。」
「は?あり得ない、あり得ない。バーカって言ってやたよ。」
九太郎の死へと漸近していくように凪いでいた心がざわつき始める。サールの演奏を聞き、満足して、秘密を抱えたまま首を刎ねられる。その道に誰かが小石を投げ込んできている。
九太郎が王女を殺害したこと。それを知るのは誰だった?
王室、軍の上層部、貴族領主、政治家、行政官。武官から文官、中央から地方と、それぞれ知っている情報の濃淡はあれど、数え上げたら両手に足りない。ゆえにその男も本当に王国軍の者かもしれないし、そうでないかもしれない。その点をいくら考えても意味がなく、女王も王国の八隅遍く知るという訳にはいかないのだろう。
分かっているのは何者かが王室の意向に反して動いていること。
……でも、どうしてメアリに声をかける必要がある?
そもそも亡き者にすることが目的ならロンド大尉に任せておけばいい。その怪しい男が楽団警護の真の目的を知らないとは思えない。なら捕まえることが目的か?たしかにこの身はそこそこ役立つだろう。王室の露見したくない秘密そのものなのだから。しかしいずれにしてもメアリに接触する必要は微塵もない。
……なんだ、何がある。後は何が……。
仄暗いこの小屋のように、首を回しても一向に話が見えてこない。
そうして九太郎が深く思索に沈んでいると、メアリが疑いの眼差しを鋭くする。九太郎は彼女の質問にまだ答えていなかった。
……どうする?本当のことを伝える訳にはいかねえ。だが……。
メアリに真実を伝えれば全てが徒労となってしまう。かといってここで誤魔化したとしても、またその男がいつメアリに接触してくるかも分からない。伝えるなら絶対に自分の口からでなければならない。
メアリは男の言葉によって九太郎を猜疑しながら、それでもまだ信頼を残してその質問をしたのだ。
とにかく何か言わなければ。と、弁解か告解か、そのどちらも選び切れぬまま、見切り発車で九太郎が唇に力を込めた瞬間、氷結する夜空を砕くような爆音が、眠りかけたラゴナの丘に閃く。
「な、なにっ!?」とメアリが咄嗟に立ち上がる。
九太郎は嫌な予感がした。
「おい、メアリ!お前は孤児院に戻ってカットラスを取ってこい!あと銃もあるはずだ!ワイドに出して貰え!……さっさとしろっ!」
そう言ってメアリの手を引いて小屋の外に出る。
……間違いない。あれは銃声だ。
ラゴナの丘に至る道は全て自警団の者が守衛として張っている。ワイドが子供たちを誘拐されぬよう自費で雇ったのだ。しかも夜は一層手厚くなる。ワイドは双子とともにサルべード家に戻って寝ることが多く、その間孤児院のことはアリサに一任している。ゆえに夜の警備は一層手厚くなっているはずなのだ。
それでも九太郎は安心できなかった。
一度だけの発砲。しかし――。
……その銃声は余りに近くなかったか?
ランプも持たず、メアリと九太郎は疾走する。メアリも既に兵士としての峻厳とした顔つきになって前だけを見据えていた。
二人はそのまま運動場が見渡せる教会の正面に出て、言葉を失った。
――子供たちが消したはずの焚火が、また天を崇めるように燃えている。
人を委縮させる長靴の足音。白い軍服を着た50人程度の集団が運動場の真ん中を占拠している。
孤児院の長屋から、子供たちが興味本位で顔を出すのをアリサが必死に押し止めていた。そして軍服の連中の前にはワイドとサールと思しき影が立っている。おそらく教会の裏手に居た九太郎やメアリよりも先に異変に気付いたのだろう。あれだけの人数が馬も駆って丘を登ってくれば、孤児院に辿り着く前にその音を察知してもおかしくない。
発砲の意図が、九太郎に明確なものとなる。
「……お、おい、待て!どこ行くんだオヤジ!なんか分かねえけどあれはやばいって。取りあえずサールさんに任せよう、な?」
運動場に向かって歩き出す九太郎の背にメアリが縋る。振り向いた九太郎の顔は爆ぜる炎の影となって、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
しかし、確かなのは、頭に触れるあまりに懐かしい慈愛に満ちた掌の温かさ。
ふざけて触るのとは違う、そこから感情を流し込もうとする手の動きに、メアリの九太郎を見上げる眼差しも柔和なものになる。
「……リーザの家族を、任せたぞ。メアリ。」
火の粉が雪のように舞う中、九太郎はメアリから離れ、真っ直ぐに、教会の身廊を教壇に向かって歩くように、悠揚迫らぬ態度で進む。
メアリは徐々に小さくなるその背中が、一体誰なのか、本当に自分の父、あの九太郎・ソロア・サルべードなのか、分からなくなった。
……今まで私は何を見て来た?……いや、何を見てこなかったんだろう?
メアリは少し遅れて九太郎を追う。いつの間にか彼の傍にはレーダ、ポン、ロッドが駆け寄っていたが、その誰の心配した言葉にも九太郎は答えなかった。
ワイドとサールが九太郎を迎え入れるように視線を向ける。
「……香辛料と酒の匂いを嗅ぎつけてやってきたようには見えねえなあ。」
開口一番、九太郎らしい口火の切り方だった。が、メアリは驚愕する。白い軍服に鮮やかな青の制帽。間違いなく王国軍の兵士たちだが、ワイドとレーダの間に立つその男は格が違った。
「……托身のムト少将……。」
アールス王国の常備軍は12の師団から成る。その内のエルターニャを含む南方方面を師管区とする師団。通称「フィデーリタース」。その団旗にはエールスリンの白い花弁を両手で包む様が描かれ、王室への絶対的な忠誠を特徴とする師団だ。ゆえに最も王都から離れ、かつ反乱分子も多いエルターニャ地方を任されている。
ムト・ハジラル少将はその師団長に補されている王国の傑物。貴族出身ではなく、特権階級出身の叩き上げで、齢は60、その風貌は、頬骨が張って広い額が前に押し出され、白金に近い金髪は短く、前髪などは雄々しく逆立っている。
――太陽の獅子。
メアリの声を聞いた九太郎がふっと溜息を吐く。
「少将だって?……なんだよ、戦争でもする気か?生憎、ここには未来の従軍女か私娼しかいねえ。それにまだ刈り取るには早い、青くっさいしょんべん女ばっかりだ。それが少将殿のお好みか?」
それを聞いた軍の面々の苦々しい顔は、サールべード家の娘・息子たちには見覚えのあるものである。
「ふん。噂に違わぬ言動だ。九太郎・ソロア・サルべード。王立アカデミーの寵児にして、栄光ある『サルベード』の性を名乗ることを許された男。やはり芸術家とはこうでなければな。」
「ふん。そうやって芸術家を称号でしか形容できないのがいかにも軍人だな。返り血でいつも視界は真っ赤っか。そんなんじゃ絵なんてまともに見れまい。可哀想に。」
ワイドとサールを押し退けるようにして九太郎が前にでる。ムト少将もまた、護衛もなく彼の正面に立ちはだかった。背丈は同じぐらいだが、体の幅が九太郎とは違い過ぎる。
「それはお前も同じことだろう。なんだ、怒りや哀しみで目が濁ったか、それでもう描けないと?」
ムトの意味ありげな語尾の調子に、九太郎は彼の軍服の襟を掴む。が、ムトの体は少しも揺らがなかった。一斉に銃を構える兵たちをムトが手で制す。
「あいつはなぁ…………そんなちゃっちい感情で片づけていい奴じゃねえんだよ……。」
地を震わすような九太郎の凄んだ声に、ムトは金の眉を眉間に寄せる。二人は睨み合い、額がぶつかる。が、すぐにムトの方が口角を緩め、まるで友人と喧嘩した後のように軽く謝る。
「……そうか。それは済まなかった。どうして、のらりくらりと肩透かしばかりのつまらぬ奴だと聞いていたが、ちゃんと男じゃあないか。……しかし、嘘はいけない。」
「嘘?」
「ちゃんと青臭くない、いい女もいるじゃないか。造化の妙とはまさにこのこと。」
ムト少将は九太郎の腕を払い、レーダの前にずいと出る。彼の大きな手がその頬に触れる寸前、レーダは舞踊の最後にするような、慇懃で優雅な礼をしてみせるた。
――触るな。
レーダの拒絶は、その所作を見れば誰の目にも明らかだった。
「……そうか、気が強いのも悪くない。」
ムト少将は満足したように頷いて、九太郎に背を向けたまま孤児院の長屋の方へ歩き出す。その最後にメアリの肩を一つ鼓舞するように叩いた。
九太郎たちは置いてけぼりを食らった形。孤児の子供たちはまさか自分たちの方に来るとは思ってなかったのだろう。蜘蛛の子を散らしたように出していた顔を引っ込め、部屋の中へ逃げ帰る。
ムト・ハジラル少将が説明を放棄した、その後を継いだのは、彼の副官でもなんでもない男だった。
九太郎たちは誰も知らない。その男こそ、二日前、港湾の侵入者二名を連行した将校であることを。
「不倫は大罪だと、そういつも申し上げているにも関わらず、ご無礼をお許しください。」
レーダに頭を下げる男。ムト少将とは対照的に細身で、いかにも貴族将校と言った見てくれである。小隊規模の人数から察するに、彼は少尉で本来の隊長なのだろう。ムト少将はそこに飛び入りしたということか。
「ちっ、御託はいい。さっさと連れてけ。」と、自ら兵士たちの中へ割って入って行く九太郎を、その男が腕を掴んで止める。
「理由も聞かずに、どうして自分だと?」
メアリ、それからサール以外の頭にも同じ疑問が浮かんだだろう。軍はただ、「九太郎・ソロア・サルべードを出せ」としか言っていなかった。なぜ九太郎が軍に連れていかれなければならないのか、しかも少将自ら物々しく足を運んでまで。不安そうなレーダやロッドは勝手に話を進める九太郎を問いただしたかったが、軍の前でそう容易に口を開けない。
「まどろっこしいのは嫌いなんだよ。ほら、行くぞ、兵隊さん方。」
九太郎は間違いなく焦っていた。あたかもこの場から逃げるように、王国軍の連中を自分で引き連れ去ろうとしている。
将校がそれを見逃すはずもない。
「……いや、勿論あなたも連れて行きます。あなたは王族を、二人も、殺している。見逃すはずがない。」
「見逃すはずがない、ねえ。」
男の発言に、驚愕する兄妹の反応は様々だった。が、総じて理解できないという点では、末のレアとフィアとも大差ない。
「嘘、ですよね?」と聞くのはレーダ。それはワイドやロッド、ポンの代弁でもあった。が、九太郎は背を向けたままとぼけたように言う。
「嘘じゃないさ、レーダ。こうして破格のお迎えが来てる。……サール。済まない。どうやらお前の演奏は聞かせてもらえないらしい。」
九太郎が現れてからずっと顔を伏せていたサール。その日を五年も待ち侘びていた彼女は、しかしあっさりと引いた。
「……いいさ。『向こう』にだっていつか演奏しに行ってやる。……ちゃんと待ってろ。」
「そんな暇があんなら、おちびたちに聞かせてやれ。」
サールは鼻で笑い飛ばして、それからムト少将と同じように長屋の方に去って行く。その顔は、宵に紛れて誰にも見えなかった。
「どういうことですか、ねえ、九太郎さん!教えてください。私には、何がなんだか……行っちゃ嫌ですよ。」
サールの何かを理解した素振りに、レーダの焦りは高まる。九太郎に駆け寄ろうとするが、それを遮ったのはメアリだった。彼女は合流した時にロッドから渡されたカットラスに手をかけ、銃剣を佩び、片時も軍から目を離さずにいる。
威嚇行為に取られてもおかしくない、その態度に、しかし軍の兵卒たちの緊張は足りなかった。メアリ・アボニー、その名は有名だが、目の前の小柄で愛らし少女とそれが一致しない。子供の真似事と高を括っている。
「メアリ?……どうして、九太郎さんが殺人なんて、そんなこと、……。」
メアリが首を振る。今彼女が守らなければならないのは、兄妹だ。そう九太郎に託された。
「……そう。メアリも、何か知っているのね。」
レーダがメアリの腕の中で力なく膝を折る。九太郎に秘密があること、それを覚悟していたレーダでも、王族を殺したなどどいうのは余りにも理解の及ばぬものだった。
「誤解をしてもらっては困る。私は彼『も』と言ったはずだ。」
九太郎は既に手首を拘束され、大勢の兵士に囲われていた。まるでそのタイミングを計っていたような男の言葉。
「……おい、待て、今なんて言った?」
「レア・アウリウス。それからフィア・アウリウス。君たちも連れて行く。」
九太郎は己の過ちに気付くや否や、そのあまりに細い体を躍動させる。彼は取り巻きの兵の足を払い、すぐさまその兵が持っていた銃剣の切っ先で手の拘束を解き、そのまま銃を奪う。
その一連の動きに、周囲の兵たちの反撃は遅きに失した。繰り出される剣の突先を全て横転して交わし、銃を構えたときには射線上にサルベード一家が入ってしまっている。躊躇う間にも、九太郎は1人、また1人と、突撃するように飛び掛かって来る兵の腕やら、足を切り裂き、逃げ惑う。それを追っかけていると、いつの間にやら瞬間的に一対一の構図になって切りつけられる。
まるで跳梁する素早い動物を捕獲するために、人間が寄り集まって騒ぎ立ててるよう。滑稽ともとれるような、翻弄される兵たちの動きに、兄妹たちは見惚れていた。
父の体の傷の理由。それがようやくわかった。それと同時に、少尉の男の言った「殺人」の語も現実味を帯びて来る。
背を取ったと思えば、さっきまで前方に向けられていた銃剣の切っ先が回転して九太郎の脇の下から出て来る。その間に正面から突き出された剣は手で受け止められる。
そうして九太郎は手や足の服も裂け、流血しながらも立ち回り続ける。
小銃も幾度となく発砲されたが、味方に当てないように気を遣うと、九太郎が間一髪で避けてしまう。
圧倒的な技量差が、軍の兵士と九太郎との間にあった。
「お前ら本当に王国軍の兵士か。隊列組んでお膳立てして貰わないと戦えないってか、あ!?」
九太郎は、迫る兵たちの剣戟を払い、甘んじて身に受けながら防ぎ、命からがらまたメアリやレーダの傍に戻り、双子を自分の影に背負う。
「……九太郎、ち、ち、出てるよ?」
震えるフィアを抱くようにしたレアが、顔を上に向けて九太郎の顔を指す。左目の上の辺りが横に裂け、大量の血が流れ出ている。拭っても止まらず、焚火の灯りによって顔の半分が黒く染まったように見える。
傷はそれだけではない。左腕も銃弾を受けたらしく、力なく腰の脇に垂れている。
「……黙ってろ。」
九太郎はそれだけを言って、少尉の男を射殺すような目つきで睨む。幾丁もの銃の照準が依然彼の体に向いている。
「レア・アウリウスとフィア・アウリウス。君と同じでこの世にあってはならない命だ。こちらで預からせてもらう。」
「……うるせえなあ。こいつらは俺の所有物だ。これからきっちりと働いて貰って拾った恩を返してもらわねえと割に合わないんだよ。誰にもやらねえ。ましてや殺しもさせねえよ。」
九太郎はメアリからカットラスを引っ手繰る。
「お、おいっ!なにやってんだ。そんな体じゃ、そうでなくても無理だっ!」
片手にだけその美しい刀身を持つカットラスを構える。
……殺す気はない。それならなんとか……。
九太郎は先の、時間にして数十秒の戦闘から気付いていた。殺す気があればもう少し痛手を負っていてもおかしくない。むしろ命すらなかったと言える。何より銃口は一度も頭や胸に向かなかった。
……でも、くそっ、ここで逃げたとしてどうなる?
王国が一枚板でないことは明白となった。しかもレアとフィアのことまで嗅ぎつけている。今この場を切り抜けたところで意味はない。
「……諦めろ、サルべード。エリザベート様が君たちをお招きになっている。そう思い給え。」
「エリザベート、様?」と、はっとしたワイドが九太郎に答えを求める。
「……てめえ、それを言ったら、その瞬間にお前の頭はそこだ。」
九太郎がカットラスを光らせて地面を指す。が、少尉は順に、ワイド、レーダ、ポン、メアリ、レア、フィアと、まるで誰が兄で妹か知っているように見回してから、ゆっくりと口を開く。
言葉とは裏腹に、九太郎は少尉の喉元に飛びつくことはしなかった。
「エリザベート・フォン・サルべード。彼女のかつての名は、エリザベート・ベアトリーチェ・ウェールス。紛れもなく現女王、ベアトリーチェ様のご息女にして、第二王女であられたお方。そしてそこにいる双子は、その王女であった者とそこの下賤な海賊上がりの男との間に生まれた忌まわしき子。」
秘密が、男の長広舌によって暴かれる。それは通俗的な悲恋の物語。しかし既にそれは過去のものとなり、打ちひしがれるのは一人男のみ。
……なあ、リーザ。理不尽に過ぎるこの世で、生きることはやっぱり難むつしいな。だから、何にも、人は求めちゃいけないんだ。
九太郎はカットラスを持ち上げ、それを思い切り振り下ろす。矛先は少尉でも、ましてや自分自身でもなかった。
――双子、レアとフィアに向かって。
余裕を持って語っていた少尉の目が見開かれる。余りも予想外で、短絡的な九太郎の狂気とすら思える行動。
迫る刃にレアとフィアが反応できるはずがない。
……ママが本当のママで、本当のパパが九太郎……?
その真実に目が眩んでいた。
カットラスの刃の軌跡がレアの首を断つ。――その瀬戸際で九太郎の肩は背後から銃剣の刃に突かれていた。
「くっ……!メアリっ!」
「……オヤジ、今何しようとした?」
「…………。」
「何しようとしたかって言ってんだよつ!」
虚を突かれていたワイドとロッドが慌てて双子を九太郎から離す。レーダはもう頭が回っていない様子で運動場の地面にへたり込んでいた。
腕から銃剣が引き抜かれ血が噴き出す。それと同時にまた発砲音が響き、九太郎は気絶したよう倒れ込んだ。その体をメアリが駆け寄って抱きかかえる。
脚と脇腹の辺りを小銃によって撃ち抜かれていた。兄妹たちはメアリを除いて九太郎から逃げるようにしていざり退いていたため、射線が空いたらしい。
小さなメアリの胸に抱かれるようにして、九太郎は薄く目を開く。
「……だったら、どうしたらいいってんだ。誰か……教えてくれよ……俺は、どこで、間違ったんだ。リーザが、何を間違ったっていうんだよ。…………神様。」
メアリはくしくも九太郎の捕縛に一役買った。
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