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エルターニャ派の貴公子

interlude 4  同士―spirits―

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 カミラの店から出た九太郎は大きく伸びをする。肺を膨らませると喉がひりつくエルターニャの冬は、例え悲哀に溢れる娼婦の巣窟であっても容赦なく木枯らしを吹かせる。

 花も咲かぬ寒さの中、道の端には九太郎に向かって手を伸ばす、色鮮やかな服の女たちが揺れる。

 ……そういえば店主に挨拶するの忘れたな。

 しかしこの時間はまだカミラも寝ているに違いないからあえて起こす必要もあるまいと、そのままもと来た方向とは逆に歩く。

 レッドライン。娼婦街は一本の街道である。エルターニャの東の端にあるここから南にずっと歩いて行けば教会のあるラゴナの丘に着く。

 ……レーダのやつ、珍しく我儘言いやがって。

 その理由は想像に難くない。が、だからと言って甘やかす訳にはいかない。どんな思いがそこにあろうと、不安に圧し潰されそうなアイリーに対する配慮が欠けていたことは否めない。

 ……甘やかしたことなんて、一度もないけどな。

 どの口が言うのかと自嘲しながら、レーダとアイリー、2人の関係がうまくいくことを切に願った――丁度その時だった。

 空を仰いで歩いていた九太郎の胸の辺りを不意に重い衝撃が襲う。どうやら誰かと出会い頭に激突したらしい。

 「っつ!!」

 正面からぶつかった九太郎はよろめきながらも転ぶことはなかった。が、相手の方は側面からの不意打ちである。そのまま地面に横倒しになり、立ち上がらず呻いている。

 「お、おい!大丈夫か。すまなねえ。」と九太郎。どうやらぶつかった相手は店と店の間の狭い路地を走り抜けてレッドラインに出て来たらしい。

 深緑のコートを着、フードを目深に被っているが、よく見るとレーダより少し年上ぐらいの小柄な女だった。

 九太郎はいよいよ申し訳なくなり、傍によって体を起こす。幸いにも頭を打ったようには見えなかった。

 「……申し訳ありません。大丈夫ですわ。」

 女が地面に打ちつけた右肩を庇いながら立つ。するとフードが頭から滑り落ち、赤く染められた髪が九太郎の目を引く。

 「……ほんとに悪かった。怪我はないか?」

 「はい。そのようです。こちらこそ飛び出してしまって。」

 女は優雅に微笑む。琥珀色の瞳が、細められた瞼の隙間から九太郎を見上げている。

 ……どっかの店の新入りか?見たことがねぇ顔だ。

 その辺は後でカミラに聞けば分かる。九太郎も娼婦全員を把握している訳ではない。怪我もしてないようだし、服も破れていない。そう確認した九太郎はもう一度謝罪してその場を去ろうと片手を挙げる。

 「すまなかった。まあ、お互い気を付け……おい、なんか落ちてるぞ?」

 九太郎は女の後ろ、さっきまで彼女が倒れていた場所に、何か日を反射して光る物が落ちているのを見つけて指差す。

 ……アクセサリーか?

 だとしたら弁償になるだろうか。そんなことを心配している九太郎を他所に、指摘された女は振り返り、それを確認するやいなや、尋常じゃない様子で慌てながらしゃがみ込み、その銀に鈍く光る小物を拾った。

 九太郎は女の手に握られる寸前、ちらりと目に映ったそれを、見逃す訳にはいかなかった。

 先程までの落ち着き払った淑女はどこへやら、女は九太郎の顔も見ずに逃げ出そうとする。

 「おいおい、待てって。大丈夫だ。誰もすぐに軍に突き出したりしねえから。」

 九太郎は女の肩を掴み、強引に自分の方に振り向かせる。

 「お前、レガロからの不法入国者だな。」

 エルターニャの属するアールス王国とローア連邦の間に挟まれるレガロ自由主義連邦。大陸の巨大な双頭に挟まれた小国同士の、生き残りを賭けた関税同盟であったものが、ここ数年で経済同盟となり、ついには連邦国家となった新興勢力である。

 彼女が落としたのは経済同盟時代の名残、協定を結ぶ国家間を移動する際に必要となる身分証明のプレートである。そこには固有の割り振られた番号と名前が記されている。

 レガロ自由主義連邦とアールス王国は現在小康状態にあり、正規の手続きを踏んで国境を超えることはまず難しい。それに仮に入国できたものが居たとして、こんな王都から離れたところに用など考えられない。少なくとも国家の要人クラスであるはずの者が、荒廃したエルターニャの、ましてや娼婦街に1人でいるはずがないのである。

 赤髪の女はプレートを握りしめ沙汰を待つ。

 「……ちっ。だから突き出さねえって言ってんだろうが。」

 「……よろしいのですか?」

 見逃したことが軍にでも露見すれば只事ではすまない。その事を言っているのだろうが、生憎九太郎には関係がない。

 ――なぜなら。

 「けっ。今更不法入国の幇助ほうじょだの、外患の誘致だの、その程度の罪なんて大したことねえよ。お前みたいな麗人を泣かせるのに比べれば軽すぎる罪ってもんだ。」

 九太郎はわざとらしくニヒルに笑ってみせる。彼にとってはこれも善行などでは全くない。むしろ偽善に属する行いだった。

 ……本当にその程度じゃ捕まんねえからな。

 極刑、更にはその家族まで連座に問われる罪をいとも容易たやすく犯す九太郎に、女は開いた口が塞がらないようで、彼の軽口も耳に入ってない。

 「とにかくこの辺で働きたければそこの店に行け、そうでなくて寝床がないんだったとしてもそこにいけ。なんとかしてくれる。」

 ただしそれは捨てろよ、と最後に九太郎は釘を刺す。カミラに迷惑をかける訳にはいかない。それに彼女の今後を考えた時、未だにそんなプレートを持っているなんてあまりに不用心すぎる。どこか浮世離れした感じもあるし、きっと他にも仲間がいて、それに付いてきただけの愚かな女なのだろう。と九太郎は結論付ける。

 女は助言を聞き、すぐにでもこの場を去るに違いない。と、九太郎は一応最後まで見届けようと腰に手を添え待っていたが、女はまだ何か言いたそうにしている。

 「なんだ?俺に惚れたか?」

 九太郎の冗談に、女は見かけや言葉遣いに反して初心な反応をして照れる。こうなると九太郎は形無しとなってしまって言葉が続かない。

 「……あの、私たちはどうしても、マニー二・トラヴィンスキーの指揮する演奏会に参加したくて、この国に来たんですわ。」

 女の義務感に駆られたような釈明に九太郎は合点する。マニー二・トラヴィンスキーはアイリーと同じローア連邦を、そして世界を代表する指揮者だ。国家の精神を体現していると言ってもいい彼が、レガロ自由主義連邦で指揮を執る可能性は無に等しい。少なくとも彼の余命が尽きるのが先になることは疑うべくもない。

 そもそもアールス王国での初公演も、国内の芸術家たちが連盟して再三進言した末に、彼が70歳を超えた頃ようやく叶ったのである。

 九太郎には不法入国までして1回限りの演奏を聞きに来る、その情熱を、愚かだとは思うが笑うことはできなかった。

 「だったらそれまでヘマすんじゃねえよ。ぶつかったのが俺じゃなきゃおじゃんじゃねえか。」

 「ええ、本当に感謝していますわ。……でも、もしかしたら聞けないかも知れないんですの……。」

 女が途端に落胆した表情で言う。

 「あ?なんでだよ。」

 「マニー二はよく演奏会を中止にしてしまいますから。……こちらで聞いた話では、ある公演で何度も延期されので、実際に演奏が始まった途端お客は大拍手、それに機嫌を損ねてまた中止。みたいになったこともあるそうですわ。」

 「なるほどな。そうなったらお前にとっては残念なんてもんじゃねえな。……うん、うん、俺もそれはまずい。分かった、ちょいと手を貸してやろう。」

 九太郎は女の頭に馴れ馴れしく手を置く。彼の癖みたいなものだった。

 歳もそう離れてないはずの男に子供扱いを受け、女は怒るかと思えばやはり恥ずかしそうに頬を赤く染めるばかり。

 「……な、何か案があるんですの?」

 「まあな。よし、大丈夫だ。安心して身を隠してろ。演奏会は絶対にやらせる。」

 そう言って九太郎は歯を見せ微笑む。彼は出会い頭に衝突した女をいたく気に入っていた。彼女は紛れもなく自分の同士であるし、惜しむらくは、まだ公国が健在であったならば、彼女はこの場でどれほどその勇気と芸術に賭ける情熱を讃えられたであろうかということである。

 そもそも公国が存在するのなら、今回の演奏会もなく、また彼女は何の法的な問題もなくエルターニャに来れただろう。しかしなんとも勿体ない気がしてならないのである。

 九太郎はかつてのエルターニャの代表として、公演までの生活ぐらい保障したい気持ちになっていたが、それは難しい。

 これもまた九太郎の偽善なのである。

 慰問のための演奏会。それを誰よりも待ち望んでいるのは何を隠そう九太郎自身であって、目の前の女の事情を知らずとも、彼は何が何でも公演を開催させたであろうから。
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