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第三話 雪柳

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 月季さんとの夜、俺は希望通りいろいろなことを教わった。客に会う前の準備や注意事項。覚悟しておいた方がいいことなど。そこにはいろんな生々しいこともあって、俺は大人でよかったな、なんて思った。
 けれど確実なのは、彼はプロであるということで。目が飛び出るほど高い対価を受け取ったとしても、なんら問題が無いと思えるほど。それは仕事は違えど、長年プロとして胸を張れるようにと努力してきたかつての俺から見れば、尊敬に値するものだった。
 翌日の休みはゆっくりしようと思ったが、なんだかソワソワしてしまって、結局早く起きて、いつもみたいに洗濯したり、自分たちの小さな部屋の掃除をしたりして過ごした。俺はここでどう生きていくのか。考える時間が欲しかった。

 一日の休みのあとは、夜の連勤が待っている。というのも、洸永遼と真波さんが二日連続で訪れることになっていたのだ。いつも二人の来訪は少しずつずれていたので、こういうことは珍しい。
 いつものように綺麗に装って、皐月に与えられた大きくはない部屋で、洸永遼を待つ。しかし夜になっても彼は訪れず、使いの人から夕食はいらないと連絡が入った。しかしキャンセルというわけではないらしく、俺は厨房で食事を取って、また部屋に戻った。
 ここに来てから初めてというくらい、何もすることのない時間だった。本もない(あっても読めない)し、寝ることもできない。あまりの暇さに、テーブルの隅っこの花の彫刻を指でなぞることを繰り返していると、やがて扉が叩かれた。
「遅くなって、すまない」
 そう言いながら彼が部屋に入ってきたのは、もう夜も深くなった頃だった。俺はまるで飼い主が帰ってきた犬のように、弾かれたように立ち上がった。
「お帰りなさい!」
 思わず言葉が飛びだした。もう慣れたエキゾチックな香りがふわりと鼻をくすぐって、なんだか嬉しくなる。
「待たせたね」
 彼が笑って、軽く俺を抱き締める。その身体からは雨の匂いがした。いつも明るめの色の袍は今日は暗めの茶色だから、雨で汚れるのに配慮したんだろうか。
 近づいて来た彼は思ったよりも濡れているようだった。あわてて手ぬぐいを棚から取り出してその肩を拭く。
「ありがとう。今日は思ったよりも降ったね。傘も差さずにここまできたら、このざまだ」
 肩を竦めて言う。手を伸ばし、濡れた前髪をサイドに分けると、美しい額が顕になる。
「水も滴るいい男、ですね」と言うと、彼はふっと笑った。
「君は私を褒める戦法に変えたのか? 悪くない」
 そして俺の手をそっと握る。冷たいその手は外の気温を感じさせた。
「夕食は食べたかな? うまいものを食べられていたらいいが」
 いたわりが滲むその言葉に頷いてみせた。すると彼は微笑んで、ぶるりと肩をふるわせた。
「……寒いな。もう春だというのに、季節が戻ったようだ。さきに風呂に入らせてもらうよ。……君も一緒に入るか?」
 不意打ちの誘いに、ふと月季との入浴シーンが頭を過ぎり……。俺は一瞬で頬に血が登るのを感じ、反射的に答えてしまった。
「はっ……入り、ません!」
「だろうね。わかってた」
 すこし残念そうな声音に、慌てて言う。
「でも! お背中を流したりは! ご希望でしたら!」
 すると彼は驚いたように目を見開いた。
「……手伝ってくれる気はあるんだな。まぁ、この綺麗な化粧が取れてしまうのも惜しいし。今日は1人で入ってくるよ」
 ふふ、と笑って、俺の頬に触れる。
「こんなに赤くなって。無理しなくていいよ」
「……すみません」
 ひらひらと手を振って、彼が部屋から出ていくのを見ながら、俺はため息をついて椅子に座り込んだ。今日は、勇気を持とうと思ったのに。やはり人はそう簡単には変われない。

 することもないので、部屋の小さな鏡台の前で髪を整えたりしていると、やがて彼が戻ってきた。
 ゆったりとした単衣の襦袢みたいなのを着ている。湯上りの浴衣みたいなイメージだろうか。
「いい風呂だった。やっぱり君も連れて入れば良かったな」
 笑いながら言う。でも、実は俺は。
「僕、先に入ってきたんですよ。着替える前に」
 そう。夜のお務めはない俺だけど、宴席に出る前には風呂に入る決まりらしい。多分孵化のときの皐月だって、着付けの前に風呂に入っていたんだろう。知らないって恐ろしい。
「私に会うために風呂に入ってくれたのか。嬉しいね。でも、次は一緒には入りたいから、すっぴんのままおいで」
 にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺の前の席に座る。用意した酒を注ぐと、くいと飲み干した。
「ああ……うまいな」
 夜には鐘は鳴らないが、この妓楼にはホールに時計があることに気づいたので、さっきこっそり時間を見た。もう子の初刻を過ぎていたので……深夜零時近い。
「こんな遅くに来てもらって、ありがとうございます」
 頭を下げると、彼は小さく首を振った。
「いや。私の都合だったから。それに……少しでも君に会いたくてね」
 甘すぎる声はさすが尊敬する先輩のもので、不覚にもときめいてしまう。
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