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第一話 皐月
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え、と思う間もなく、がたりと音を立てて真波さんが立ち上がった。そして俺の横に来ると、腕を掴んで俺を引き起こす。
「あっ……」
そして次の瞬間。腰に手を回され、抱き上げられた。
ふわっと目線が高くなる。驚いて思わず彼の首に手を回した。
彼は軽々と俺を抱きあげ、そのまま衝立の裏へと回った。目に飛びこんできたのは赤い布団。木製の寝台の上で存在感を放つそれに、目が吸い寄せられる。
真波さんはその布団の上に俺を置いた。放り投げるでもなく、優しすぎもしない、ぽん、と置く感じ。せんべい布団とは違う柔らかな布団の感触。そして彼は寝台に膝を付いて、俺の顔の横に腕を突いた。たよりない燭台の明かりの中、思い詰めたような目に射貫かれて、心臓がばくばくと鳴り始める。
「雪柳」
名前を呼ばれてどきりとした。
…………顔が近づく。キスされる、と思う間もなく、唇は横にそれ、首筋に触れられた。首筋に感じる柔らかく熱い唇の感触に、思わず身をすくめた。
開いた胸元に、大きな手が差し込まれる。素肌に感じる手の感触に、からだが震えた。
もう片方の手は腰に降りていき、しゅる、と帯がとける音がする。前が開かれる感触。
俺は……この人に……抱かれるのか。
だけど……。見知らぬオヤジに抱かれるなら、真波さんのほうがずっとマシだ。せめて優しくしてくれ、と観念しかけ、ぎゅっと目をつぶった、その瞬間。
「……雪柳」
ぎゅっと抱きしめられた。その腕には力が込められ、痛いほどだ。
そして彼は……そのまま、動きを止めた。
……どういうことかわからない。こういうときはノンストップなんじゃないのか?
「……すまない」
二度目の謝罪。なんで謝るんだ、別に悪くないだろう。これは彼の正当な権利なんだから。
そしてさらに次の瞬間。
ふっと、からだのうえの重みが消えた。彼がからだを起こしたのだ。
寝台に腰掛けて、俯く。その広い肩が妙に寂しげに見えて、俺は急いで身を起こした。まだ心臓は全速力で脈打っているけど、そのうち収まるだろう。
「……大丈夫、です。俺……できます」
思わず言ってしまった。いや無理、できません何言ってんの俺! そう思うのに、なぜか口走ってしまった。すると彼は俺のほうを振り向いて、そっと俺の頬に触れた。
「無理するな。今日は、やめよう」
そう言うと、また背中を向けて、傍机に置かれた陶器の水差しを手に取る。そして湯飲みに水を入れ、飲み干した。
「君も、呑むか?」
聞かれて、気づいた。俺は夕方から水すら口にしていない。頷くと、もうひとつの湯飲みに水を注いで渡してくれる。身を起こしてそれを受け取り、むさぼるように飲み干した。喉を滑り落ちていく冷たい水に、熱を持った体が冷やされていく。
……沈黙に支配された空間。遠くに聞こえる音楽も笑い声も、ここには届かない。
どれほどそうしていただろう。不意に彼が呟いた。
「……昔。この街は、一度滅びたことがある」
「滅びた……?」
意外過ぎる言葉に、思わず首を傾げた。いきなり、何を言い出すんだろう。
「もう20年も前だ。私も聞いた話だが、隣国の当時の王が乱心してな。この街と周辺の領土が狙われた」
……そんなことが。いまのこの街は平和そうだが。
「妓楼に間諜が送り込まれた。そして多くの男妓が死んだ。……井戸に毒が入れられたんだ」
思わず目を見開いた。まさか……。
「犯人は、わからなかった。多くの死者に慌てふためいて、街の大門は開けられた。そこに奇襲があって、街は占領された。青鎮軍の出る幕はなかった」
彼はちいさく首を振った。そしてため息をつく。
「陽と陽が合わされば、力を得られる。青鎮軍で言い継がれてきた言葉だ。だが当時の将軍は迷信だととりあわなかった。鶴汀楼を一度も訪れることもなく……間諜は中から街を崩した」
唾を呑み込むのも忘れて、話に聞き入っていた。なんと壮絶な……。
「それ以降、青鎮将軍は就任後、必ず一度は、『孵化』に立ち会うようになった。私はまだ将軍になって日が浅い。昨年は孵化がなかったから、ひそかに胸をなでおろしていたんだ」
「え……」
……知らなかった。それはこの妓楼の常識なのかもしれない。ただ話題に出なかっただけで。
「幸い、隣国では世代交代があり、現国王は穏健派だ。十年前には国交も回復して、今では隊商も行き来している。ただ、いつ脅威が迫るかわからない。迷信だと思えど、私は……退けることができない」
独白のような訥々とした語り。年若くして一軍を背負う苦悩が、そこにはあった。
「……ごめんなさい」
謝罪は自然に零れ落ちた。どうしよう。俺は、どうすればいい?
肩幅のしっかりした広い背中は、鍛え抜いた男のそれだ。彼は仕事でここに来ただけ。いくら馬鹿げた命令でも、時にやらなければいけないということは、仮にも社会人として仕事をしてきた俺だって知っている。
……せめて、俺にできることは。
そっとその背中に抱き着いた。驚いたように彼の背中が震える。今俺にできることは、これくらいしかない。
「……ごめんなさい。皐月兄さんなら、きっと務めを果たせただろうに。でも、せめてこうすれば、陽と陽がくっつくことに、なりませんか」
そういうことじゃないのはわかっている。けれどこの真面目な人が、任務を遂行できないことに落ち込むならば、せめて心を軽くしてあげたかった。
すると、「ふっ」という声とともに空気が動いた。
……笑った?
彼の胸に回した手が、掴まれる。暖かい手のひらの感触。
そして彼がこちらを向いた。その広い胸に抱きしめられる。ふっといい匂いがする。香の香りだろうか。
「そうだな。……今は、こうしよう」
そしてそっと布団に沈められた。さっきのような激しさはなく、優しく。自分より大きい身体の誰かに抱きしめられるのは、随分久しぶりで。
「一緒に、寝ようか」
その「寝る」には文字通りの意味だろう。俺は「はい」と頷いて、彼に笑いかけた。彼もわずかに笑い返してくれる。
その夜、俺たちは豪華な重箱に手も付けず、抱き合ったまま眠りに落ちたのだった。
「あっ……」
そして次の瞬間。腰に手を回され、抱き上げられた。
ふわっと目線が高くなる。驚いて思わず彼の首に手を回した。
彼は軽々と俺を抱きあげ、そのまま衝立の裏へと回った。目に飛びこんできたのは赤い布団。木製の寝台の上で存在感を放つそれに、目が吸い寄せられる。
真波さんはその布団の上に俺を置いた。放り投げるでもなく、優しすぎもしない、ぽん、と置く感じ。せんべい布団とは違う柔らかな布団の感触。そして彼は寝台に膝を付いて、俺の顔の横に腕を突いた。たよりない燭台の明かりの中、思い詰めたような目に射貫かれて、心臓がばくばくと鳴り始める。
「雪柳」
名前を呼ばれてどきりとした。
…………顔が近づく。キスされる、と思う間もなく、唇は横にそれ、首筋に触れられた。首筋に感じる柔らかく熱い唇の感触に、思わず身をすくめた。
開いた胸元に、大きな手が差し込まれる。素肌に感じる手の感触に、からだが震えた。
もう片方の手は腰に降りていき、しゅる、と帯がとける音がする。前が開かれる感触。
俺は……この人に……抱かれるのか。
だけど……。見知らぬオヤジに抱かれるなら、真波さんのほうがずっとマシだ。せめて優しくしてくれ、と観念しかけ、ぎゅっと目をつぶった、その瞬間。
「……雪柳」
ぎゅっと抱きしめられた。その腕には力が込められ、痛いほどだ。
そして彼は……そのまま、動きを止めた。
……どういうことかわからない。こういうときはノンストップなんじゃないのか?
「……すまない」
二度目の謝罪。なんで謝るんだ、別に悪くないだろう。これは彼の正当な権利なんだから。
そしてさらに次の瞬間。
ふっと、からだのうえの重みが消えた。彼がからだを起こしたのだ。
寝台に腰掛けて、俯く。その広い肩が妙に寂しげに見えて、俺は急いで身を起こした。まだ心臓は全速力で脈打っているけど、そのうち収まるだろう。
「……大丈夫、です。俺……できます」
思わず言ってしまった。いや無理、できません何言ってんの俺! そう思うのに、なぜか口走ってしまった。すると彼は俺のほうを振り向いて、そっと俺の頬に触れた。
「無理するな。今日は、やめよう」
そう言うと、また背中を向けて、傍机に置かれた陶器の水差しを手に取る。そして湯飲みに水を入れ、飲み干した。
「君も、呑むか?」
聞かれて、気づいた。俺は夕方から水すら口にしていない。頷くと、もうひとつの湯飲みに水を注いで渡してくれる。身を起こしてそれを受け取り、むさぼるように飲み干した。喉を滑り落ちていく冷たい水に、熱を持った体が冷やされていく。
……沈黙に支配された空間。遠くに聞こえる音楽も笑い声も、ここには届かない。
どれほどそうしていただろう。不意に彼が呟いた。
「……昔。この街は、一度滅びたことがある」
「滅びた……?」
意外過ぎる言葉に、思わず首を傾げた。いきなり、何を言い出すんだろう。
「もう20年も前だ。私も聞いた話だが、隣国の当時の王が乱心してな。この街と周辺の領土が狙われた」
……そんなことが。いまのこの街は平和そうだが。
「妓楼に間諜が送り込まれた。そして多くの男妓が死んだ。……井戸に毒が入れられたんだ」
思わず目を見開いた。まさか……。
「犯人は、わからなかった。多くの死者に慌てふためいて、街の大門は開けられた。そこに奇襲があって、街は占領された。青鎮軍の出る幕はなかった」
彼はちいさく首を振った。そしてため息をつく。
「陽と陽が合わされば、力を得られる。青鎮軍で言い継がれてきた言葉だ。だが当時の将軍は迷信だととりあわなかった。鶴汀楼を一度も訪れることもなく……間諜は中から街を崩した」
唾を呑み込むのも忘れて、話に聞き入っていた。なんと壮絶な……。
「それ以降、青鎮将軍は就任後、必ず一度は、『孵化』に立ち会うようになった。私はまだ将軍になって日が浅い。昨年は孵化がなかったから、ひそかに胸をなでおろしていたんだ」
「え……」
……知らなかった。それはこの妓楼の常識なのかもしれない。ただ話題に出なかっただけで。
「幸い、隣国では世代交代があり、現国王は穏健派だ。十年前には国交も回復して、今では隊商も行き来している。ただ、いつ脅威が迫るかわからない。迷信だと思えど、私は……退けることができない」
独白のような訥々とした語り。年若くして一軍を背負う苦悩が、そこにはあった。
「……ごめんなさい」
謝罪は自然に零れ落ちた。どうしよう。俺は、どうすればいい?
肩幅のしっかりした広い背中は、鍛え抜いた男のそれだ。彼は仕事でここに来ただけ。いくら馬鹿げた命令でも、時にやらなければいけないということは、仮にも社会人として仕事をしてきた俺だって知っている。
……せめて、俺にできることは。
そっとその背中に抱き着いた。驚いたように彼の背中が震える。今俺にできることは、これくらいしかない。
「……ごめんなさい。皐月兄さんなら、きっと務めを果たせただろうに。でも、せめてこうすれば、陽と陽がくっつくことに、なりませんか」
そういうことじゃないのはわかっている。けれどこの真面目な人が、任務を遂行できないことに落ち込むならば、せめて心を軽くしてあげたかった。
すると、「ふっ」という声とともに空気が動いた。
……笑った?
彼の胸に回した手が、掴まれる。暖かい手のひらの感触。
そして彼がこちらを向いた。その広い胸に抱きしめられる。ふっといい匂いがする。香の香りだろうか。
「そうだな。……今は、こうしよう」
そしてそっと布団に沈められた。さっきのような激しさはなく、優しく。自分より大きい身体の誰かに抱きしめられるのは、随分久しぶりで。
「一緒に、寝ようか」
その「寝る」には文字通りの意味だろう。俺は「はい」と頷いて、彼に笑いかけた。彼もわずかに笑い返してくれる。
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