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第一話 皐月

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 この世界には時計がない。その代わり鐘が鳴る。鐘といっても除夜の鐘のドーンというものではなくて、もうすこし軽い澄んだ音で、コーン、コーン、と鳴る。
 時刻の数え方は日本では江戸時代みたいな感じで、子丑寅卯…と数えるあれみたいだ。なので鐘が鳴ったとしても、俺にはとっさにそれが何刻なのかはわからない。
 先輩に付き従ってお客さまを見送ったあとは、先輩の洗濯物の回収をした。高価な衣類やシーツみたいな大物は専門の業者に出すらしいので、主に下着や手ぬぐいや普段着を洗う。……転生前でも他人の下着なんて手洗いしたことないのに!
 石けん代わりの植物……無患子ムクロジというらしい……をとりあえず泡立て、俺は無になって手を動かしていた。こういうときは何も考えないに限る。俺は割と単純作業は好きなのだと自分に言い聞かせる。洗濯が終わると廊下の水拭き。おいおい、まじで忙しいんですけど?
 そんな風に俺たちがばたばた仕事をしているときに、先輩たちはおやすみタイムらしい。だからあまり音を立てないようにする。
 くたくたに疲れたところでようやく昼飯。お粥に朝と同じくナンだった。炭水化物ばっかだけど身体を動かしているから丁度良い。
 そして一息ついたころに休憩があって、文字の勉強。基本的には漢字みたいなのですこしだけほっとする。俺はゼロスタートだと思われているので気も楽だ。ほかの日には歌や踊りの練習、一般教養もあるらしい。

 それから夕方になるとさくっと夕食を食べて、先輩がお客を迎える準備……。
 俺達下っ端はまだ夜の接客には出ないので、客が大方フロアに入ったところで、一段上の先輩にバトンタッチして終了となった。その頃には、俺はくたくたに疲れ果てていた。なんせこっちは朝7時(推定)から動いている。
 今何時かな。7時くらいだろうか。随分早い時間に飯を食べたので腹が減った。ここでは上客の部屋での食事は外注らしく、外から豪華な食事が届けられる。一方で一階のホールで楽しむ客の酒や肴はここで準備するので、厨房は孟さん含めスタッフが大忙しだ。なので下っ端は、食事を早めに終えて、早寝早起きするのがつとめらしい。
 ……あれ? ゲームでこんな地味な描写あったっけ? 俺の役、割と早めにいろいろ艶っぽいできごとなかったっけ? などと思いながら、もらった部屋に移動する。そりゃそうか、どんなエンタメでも、地味な日常描写は最小限だろう。
 俺たちの部屋は縦長の小部屋だった。昨日寝かしてもらったのは予備の部屋だったらしく、今日からはここで秋櫻と2人で暮らす。小部屋は板間で、奧に大きな木の寝台があった。ちょうど二人で眠れそうな、ダブルベッドみたいなサイズ感だ。部屋が狭いから、2つくっつけてあるらしい。
 この部屋にあるのはそのベッドと、ちいさな火鉢と、座卓が二つ。そこで勉強したりするんだろう。あとは片隅に箱形のクローゼット的なものがあった。秋櫻は下段を使っているから、上段は俺が使っていいと言われた。
 部屋は寒いし、もうくたくただし、できれば風呂に入って休みたい。幸い温泉はあるらしいし。
 ベッドに腰掛け、火鉢で手を温めながらそう思っていると、俺の心の声が聞こえたのか、秋櫻がにこにこしながら言った。
「ねえ、お風呂入りにいかない?」
 その言葉にときめいた。しかしその次の言葉は意外なものだった。
「町の湯屋に行こうよ! このあとは自由時間だから、亥の正刻までに戻ってくれば外に出てもいいんだよ。外っていっても町の中だけど。お金があれば買い食いだってできる。湯屋のお金もかかるけどね」
「お金……」
 正直俺は無一文だ。ここに着いたときに持っていた荷物のなかには粗末な着替えとお守り袋、手ぬぐい位しか入っていなかった。旅の途中で使い果たしたのか、元から持っていなかったのか。不意に不安げになった俺に気づいたのか、秋櫻はにこっと笑った。
「湯屋のお金は僕が出すよ。君より三ヶ月も前からここにいるから、それくらいのお金はある」
「でも……ここにも温泉あるんじゃ」
 聞いてみると、秋櫻はうん、と頷いた。
「あるけど、基本的にはお客さま用なんだよ。そのつぎが兄さん方。僕らは朝に入らせて貰えることがあるけど。でも雪柳、疲れた顔してるから、今入りたいでしょ。温泉は疲れがとれるよ」
 天使のような言葉と笑顔にテンションがあがる。なんていい子なんだ!
「ありがとう。じゃあ、行きましょうか」
 すると秋櫻は立ち上がり、クローゼットからマイ桶を取り出して、掲げてみせた。
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