総長様は可愛い姫を死ぬほど甘く溺愛したい。

彩空百々花

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第10章 「……だから、ごめん。別れよう」

全部、全部、俺のせい 裕希side

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桜十葉は、一過性全健忘(いっかせいぜんけんぼう)、通称TGAという記憶障害だと診断された────。



一過性全健忘とは、頭の外傷を原因とせずに、一時的に新たな記憶ができなくなる状態を言うという。



自分や家族の名前、職業、年齢などは覚えているが、今自分がどこにいて何をしているのかが分からなくなることが主な症状だそうだ。



通常24時間以内に症状から回復するが、回復後も発症中のことは思い出せないことがほとんど。再発することは少ないが、脳梗塞やてんかんなど他の重大な病気が隠れていることもあるので注意が必要だという。



『んだよ、それ……』



俺から話を聞いた裕翔は、病室の椅子に座った状態で頭を抱え込んだ。



あの後、俺たちは命からがらに桜十葉を担いで倉庫から抜け出し、脱出に成功した。



すぐに救急車を呼んで、桜十葉は病院に運ばれた。俺たちも体中に所々傷を負っていたせいか、救急隊員の方に病院に行くように迫られ、桜十葉と一緒の救急車に乗ったのだ。



俺たちは、桜十葉の兄ということにしておいた。



桜十葉の記憶障害の名前が分かって、2時間が過ぎていた。面会が後少ししたら許されるらしいから、俺たちは1人ずつ行こうと決めていた。



『じゃあ、裕翔。行ってくる』



心の動悸が治まらない。ドクドク、と嫌な音を心臓がたてる。



今もなお俯いている自分の弟に声をかけて、俺は椅子を立った。



病室の扉を開け、廊下に出る。とても静かな、寂しい廊下。普段からずっと1人だった俺は、その寂しさが痛いほどに分かった。



大切な人を失うという絶望が、体中を駆け巡っている。桜十葉は、俺のことを忘れてしまっているかもしれない。もう、他人のように見られてしまうかもしれない。



でも、もし俺のことを覚えていたら…。それさえも、怖い。俺は、許されないことをした。裕翔と俺は、これからずっと、陽の当たる桜十葉の世界に足を踏み入れてはならない。



でも、もし…あのことを忘れてくれていたら。



俺はまだ、桜十葉の隣にいることが出来るかもしれない。



『結城桜十葉』という表札が入れられた部屋の扉に手を添える。



桜十葉の桜という漢字には「春」「植物」「和風」「和の色彩」「女性的」のイメージがある。



十という漢字にはものごとのはじまりというイメージがあり、葉という漢字には「夏」「植物」のイメージがあるというのをネットで調べたことがある。



初めて名前を聞いて漢字を教えてもらった時、すごく綺麗な名前だと思った。



春のように温かくて、夏のように力強い。桜十葉にぴったりな名前だと思った。



ゆっくりと病室の扉を開けて、中に入る。ここは1人部屋だから他の人の迷惑を気にする必要がない。



病室の窓には自殺防止用の鍵が掛かっているらしく、それは看護師さんしか開けられないという。



自殺防止だなんて、すごく残酷だ。



でも今は窓が全開に開けられており、そこから入ってくる冷たい風がカーテンを揺らしていた。



こんなに開けていたら、桜十葉が冷えてしまう……。



そう思った俺は、勝手に開けられていた窓を閉める。



病室のベッドで、桜十葉は横たわるようにして眠っていた。その寝顔が眠り姫のように美しくて、思わず目を瞠る。ぷるんとした柔らかそうなピンク色の唇が目に入った俺は、ごくんと喉を上下させた。



だめだと分かっているのに、桜十葉の顔にどんどん自分の顔を近づけていく。そして俺は、桜十葉の柔らかい唇に自分のを重ねた。



桜十葉が目覚めてしまったら、もうキスも出来ないかもしれないから。



『ん、……』



桜十葉の眠るベッドの横で静かに座っていた俺は、ビクッという桜十葉の手の動きを見逃さなかった。



『桜十葉……っ?起きたのか?』



なるべく大きな声は出さずに、努めて落ち着く。



桜十葉はゆっくりと瞼を開けて、窓から差し込んでくる光に眩しそうに目を細めた。



そしてゆっくりとこちらを向き、目を一瞬だけ瞠って、優しく俺を見て微笑んだのだ────。



『おはよう。裕希』



ふにゃふにゃの笑顔を俺に見せた桜十葉。



『桜十葉……っ!』



良かった……っ!忘れて、なかったっ!



『ふふ、どうしたの?裕希』



桜十葉は呑気に笑いながら俺の頭を撫でた。この様子じゃ、あの拉致されたことを覚えていなさそうだ。良かった……。



『ううん。何でもないよ。無事で良かった』



無事で良かった、だなんて俺が言っていい台詞じゃない。自分の愚かさに、思わず鼻で笑いそうになる。泣きたくなる。



あんな罪を犯した俺を忘れて、偽りの俺を優しく見つめている桜十葉のことを見ていると、自分のことが嫌いになる。



桜十葉と居ることで、やっと自分のことを大切に思えるようになったのに。



やっと、こんな自分自身を受け入れられるようになったのに。俺は、いつまでも変われないままなんだ……。



今日は、俺が父親と縁を切って何年か経った日だった。全ての責任を裕翔に押し付けて桜十葉と同じ世界に居るつもりだった。



高校生だった俺たち。裕翔はまだ、俺よりも幼くて背負い込めるものだって俺の方が断然多かった。それなのに、全ての責任を投げ出した俺に、裕翔はまだ優しさをくれた。



今日、裕翔が助けに来てくれなかったら多分俺も桜十葉も死んでいた。こんなに優しい弟を、裏切っていたことを心の底から後悔した。



『裕希、なんか元気ない?』


『桜十葉が目覚めたから大丈夫』



ごめんな、桜十葉。一緒に幸せになるっていう夢は、叶えられそうにないや。俺は、人の幸せを奪ってまで幸せになる覚悟のない人間だったんだ。



そう絶望すると同時に、俺にはまだ人を思う心があったということに酷く安心する。



桜十葉が退院したら、別れを告げよう。



今度こそ、ちゃんと終止符が打てるように。



桜十葉と一緒に居られた日々は、幸せだった。



一生分の幸せをもらった。もういいだろう、俺。3年間、ずっと桜十葉と一緒に居たんだから。次は、裕翔が幸せになる番なんだ。



『桜十葉、退院したらあの公園に一緒に行こうか』



俺たちが初めて遊んだ公園。桜十葉は、覚えているだろうか。



『…?うんっ!』



桜十葉は一瞬、不思議そうにした後、元気よく頷いた。



『桜十葉。裕翔っていう人のことを覚えてる?』



桜十葉と裕翔が、もう1度出会えるように。そのための確認だ。



***



この日、裕翔は桜十葉と会わなかった。怖かったんだそうだ。



今日で、桜十葉と一緒に居られる日のカウントダウンは0になった。俺は言葉に表せない気持ちを胸に抱いて、黒のロングコートを羽織る。



玄関を出て、家の鍵を閉めた。もう、本当に終わりなんだ。



ふとした時に涙が出てきてしまうかもしれない。でも、ちゃんと演技しないと。



公園に着くと、先に桜十葉が来ていた。もうちょっと早く来るべきだったかな。



『桜十葉、お待たせ』


『あっ!裕希』



桜十葉は俺を見てふわっと微笑んだ。この笑顔をもう見れなくなると思うとすごく悲しい。



『桜十葉。実は、伝えなきゃいけないことがあるんだ』



早く、別れを告げないと……。早く、桜十葉から離れないと……。心の中で嫌な焦燥感がどんどん広がっていく。



早く言わないと、俺の決心が鈍ってしまいそうだったから。だから、



『他に好きな人が出来たから、もう別れてほしい』


『え、……?』



言えた。言えたぞ、俺。頑張った。だからもう、いいんだよ。



くだらない妄想を抱くのも、ありもしない幸せを必死になって掴もうとするのも。止めれば、案外辛くないのかもしれない。



桜十葉は顔を真っ青にさせて動揺していた。辛かった。そんな桜十葉の辛い表情を見るのが。俺はそれを見ていたくなくて、目を背ける。



『桜十葉、聞いてる?別れてって言ってんの』



本当は、別れてほしくなんかない。ずっと、俺の隣に居てほしい。



『ど、どうして?』



そんな風に、苦しそうな目を向けないでよ。その瞳に映る俺が、汚い人間に見えてしまうから。



『どうしてって…、もうお前のこと好きじゃなくなったからだよ』



お前って、初めて言った気がする…。ごめんな、桜十葉。こんな最低な俺で。自分から桜十葉に会いに行ったのに、最後は自分で別れを告げるとか、最低かよ。俺。



『私にどこか嫌なところでもあった?もしそうだったとしたら直すから、だから…』



だから…別れないで、ほしい?本当は、……大好きだよ。桜十葉のことで心も頭もいっぱいなんだ。一生幸せにしたいって思えるくらい、桜十葉のことを愛しているんだ。



『そんなんじゃねぇよ。もうお前のこと嫌いなの。だから別れて』



辛い。辛いよ……。すごく胸が痛いんだ。嫌いじゃない。むしろ正反対だ。



『う、ん』



桜十葉は唇を力いっぱいに噛み締めて、泣きそうになるのを必死に抑えていた。俺は、そんな桜十葉を作り物のように冷たい瞳で見つめる。



『桜十葉、最後にお願いを聞いてくれる?この薬を、飲んでほしい』



これだけは、しないといけないから。罪悪感だけが、心の中を支配していく。本当に、ごめんな……。こんな最低なことして、もう許されないってことくらい分かってる。



桜十葉は不思議そうに俺を見つめた後、素直にその薬を飲んでくれた。これで、全部終わりだ。



さっき桜十葉が飲んだ薬には、俺の記憶を消すものが入っているのだ。



桜十葉の中から、俺が居なくなる。ずっと覚えていてほしい、という願いはもう叶うことはないのだろう。



『……じゃあね、桜十葉』



最後に頭くらい、撫でてあげたかった。違う。俺が、最後に桜十葉に触れたかった。だけどそれじゃあ、決心した心が傷つくから。揺らいでしまうから。



俺から別れを告げられた桜十葉はずっと俯いた顔を上げなかった。



公園から出る。桜十葉を置いて。



早足で歩いた。涙が出ないように、必死に唇を噛み締めた。でも、無理だよ……っ。もう、無理なんだ。



『っ……クっ!!』



声を押し殺して泣いた。歩きながら泣いた。通り過ぎていく人たちが不思議そうに俺を見ていた。でも、俺はそんなことにお構い無しで泣き続ける。



冬の冷たい空気に、俺の悲痛な泣き声だけが響いて溶けていった────。



『兄、貴……』


『次は、お前の番だ。裕翔』



俺の弟、裕翔は複雑そうな表情で俺を見つめていた。ここは、俺の家の前。俺が裕翔にここに来てくれと頼んだのだ。



『俺たちが昔遊んだ公園に、桜十葉が居るから』


『本当にいいのかよ、兄貴』


『…っ。ああ、いいよ』


『じゃあ、有り難くもらうからな。お前の彼女』


『もう、彼女じゃないよ…』


『はっ……!そうかよ』



裕翔は吐き捨てるようにそう言い、俺の横を通り抜けた。



『裕翔、最後に1つだけ伝えておきたいことがある』


『なんだよ』


『俺は、桜十葉の記憶を失わせる薬を飲ませた。でも、錠剤1つなんかで本当に効果が出るのかは分からない』


『…だから?』



裕翔が目を見張って、ごくり、と喉を大きく上下させる。



『裕翔、お前もするんだ。坂口組が開発した薬を、桜十葉に飲ませろ。桜十葉の中に俺が居たら、お前は幸せにはなれない』



俺の伝言に苦しそうに頷いた裕翔は、桜十葉の居る公園に走って向かって行った───。



ありがとう。桜十葉。



君と居られた日々は、信じられないくらいに幸せだったよ。



だから今度は、裕翔のことを幸せにしてあげて。



…バイバイ。俺の、たった1人のお姫様。



✩.*˚side end✩.*˚

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