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第三章【殻の中】

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 こうして始まったすふあとの生活は、新鮮そのものだった。すふあは、何を食べても喜ぶし、何を見てもはしゃぐ。生きるものとしての経験を、全力で謳歌する。

 喉が渇いたと言って、唇の端からこぼしながら牛乳を飲むすふあ。バナナボートを頬張り、むせるすふあ。雨の日に、楽しそうに水たまりから水たまりへと飛び跳ね、泥まみれになるすふあ。
 そんな、まるで子供のようなすふあを見守っていると、幸せな気持ちになれた。

 二人でデパートで買い物。すふあは、目に映るものをなんでも手に取り、嬉しそうにはしゃぐ、しかし、ほしがらない。結局購入したのは、星のついた赤と青のシマ模様のヘアゴムだけ。いつも無造作になびかせている長い髪をまとめられるようにと、僕が勝手に購入した。

 帰宅すると、すふあは鏡の前に立ち、ヘアゴムで髪をくくる。そして、鏡越しの僕に、満面の笑顔で親指をグッと立てた。


 彼女いない歴年齢の僕は、すふあとの生活が幸せでたまらなかった。最初のうちは…


 なんの警戒心も無く、僕と同じ布団で眠る無垢なすふあを見ながら、これが愛なんだろうかと考える。そう、愛なんだ。だから、我慢することは辛くない。そう自分に言い聞かせる。しかし、すふあの静かな寝息が耳をくすぐる度に、僕の眠気はどこかへ消える。



「おいタマゴ、今日も社長出勤か。下っ端のくせにボス猿気分とはいい御身分だな」

 上司の怒鳴り声と、デスクを蹴る音がフロアに響く。今月2度目の遅刻では言い訳もできない。まぁ、1度目の遅刻でも言い訳を聞いてもらえた訳ではないが。

 今日は予定があるので定時であがることは、事前に上司にも伝えていた。しかし…
「これ、今晩中に終わらせておけよ。遅刻のが定時でなんてありえねーから」

 2分の遅刻とは釣り合わない量の仕事。上司は、それを本来やるべきだった部下を連れて退勤する。どうせまた、飲みに行くのだろう。
「タマゴのタイムカードも押しといてやるよ」
 上司についていく同僚が笑いながら言った。タイムカードを打刻する音。それが、サービス残業スタートの合図になる。

 僕は、残業の合間に何度かLineを打つ。
「もう少しで行くから」

 そうやって3時間引き延ばしたが、とうとう飲み会終了を知らせるLineが届いた。
 
 ニコ:わりぃ。今日はもう切り上げる。残業、がんばれよ
 ユノウ:頑張るのと言いなりになるのとは違うぞ。そろそろ、考える時期がきてるんじゃないか?

 大学時代の親友、谷 康太たに こうた茶汲 由之生ちゃくみ ゆのう。今日は二人と飲む約束をしていたが、今回も僕は残業で不参加。
 残業を終え、駅で電車を待つ。急行を見送り、各駅停車の空いている席に座る。発車ベルの直前に若い男性が駆け込んできた。茶髪で派手な服装。襟元からタトゥーをちらつかせている。男は僕の隣に座った。

 隣の駅で、年配の女性が乗り、僕の前に立つ。お年寄りには席を譲るべきなんて、知っている。でも、座るために急行を見送ったのだ。席を譲るべきは、後から乗ってきた隣のチャラそうな男。
 そんなことを思っていたら電車が揺れた。合わせて目の前の女性も揺れる。ため息を吐いてから、僕が立ち上がろうとする。その時、一瞬早く隣の男が席を立つ。
 男は当然のことをしただけのはずなのに、周囲から温かな視線を向けられている。同時に、僕は周囲から冷たいまなざしを向けられている気がして、居心地が悪いので次の駅でいったん降りた。
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