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第六話(最終回)
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昼間よりもさらに気温の落ちた頃、帰宅した。今日の晩ご飯は鍋だ。スープは最近買って二人とも気に入った豆乳キムチ味。オレもララちゃんとともに準備をする。
「ほ、ホントにダダもやるの……?」
「野菜の切り方、いつもララちゃんの後ろから見てたし、ソーイチローにも訊いたから」
本屋さんでアルバイトしているソーイチローに「初心者でもわかる料理本はないか」と相談したら、
「包丁の持ち方から、大さじ小さじの説明とか初歩の部分から書いてくれてるんです。僕も困った時にこの本を開いてます」
と、おすすめしてくれたのがこの本だった。パラっと見ただけでも、イラストや写真が目に入る。説明文も簡潔に書かれてて、わかりやすかった。
買って、何度も読みながら、頭の中でシュミレーションして、今日を迎えた。動かないよう手を添えて、にんじんを半分に切ったあと、さらに半分に。いちょう切りにしていく。
「上手に切れてるじゃん」
「ほんと?」
「わっ! よそ見しないの! 猫の手意識して、ゆっくり切りなよ?」
「はーい」
スープと一緒に大根や人参など混載を入れて火にかける。
ララちゃんが淹れてくれた温かいほうじ茶と、麗子さんからもらったクッキーをかじりながら煮立つのを待つ。クッキーには一枚一枚にオレが描いたイエフリのジャケットイラストが印刷されていた。本来ならオレたちが手伝ってくれたみんなにお菓子だとかを渡さないといけないのにと思ってたら、ララちゃんはお礼の品を見繕い、もう事務所の方に送ってたらしい。本当によく気がつくなぁと思う。
「ダダに一つ訊いておきたかったことがあるんだけど」
「何?」
「バラの花好きなの?」
「うーん、普通かな」
たぶんプレゼントした絵に描いていたバラのことだろうと察す。
「詳しいこと、おばあちゃんからは何も?」
「あの時、キタエさんからは『花言葉を調べてみて』って言われただけで」
「そっか」
ララちゃんはオレを探して、実家に来てくれたことがあるらしい。そこで、キタエおばあちゃんから渡せなかったあの絵を見ているのだ。あの時にてっきりバラを描いた理由も聞かされていると思い込んでいた。
「えっと、オレがね、バラを描こうと思ったのはおじいちゃんがきっかけで。高三に上がった頃、おじいちゃん、体調を崩して入院しちゃったんだよね。その……病院はお父さんもお母さんも入院して退院できないまま死んじゃった場所だからさ。思い出したらつらくて、お見舞いに行けなくなってた」
「その辺、少し教えてもらったよ。アタシと出会った頃は精神的に不安定になってたって」
「生きてる限り、お別れするっていうのは仕方ないことなのに、どうしても受け入れたくなかった。毎日不安で、おばあちゃんに当たったり、人間としてダメな時期だったなぁって思う。ララちゃんに出会わなかったら、怖いって思ったまま、おじいちゃんと何も話せなかったかも。ララちゃんと放課後話す時間が、楽しすぎて、いつの間にかいろんな不安が和らいで。少しずつお見舞い行けるようになった。おじいちゃんにもララちゃんの話をしてたんだよ。おじいちゃんも会ってみたいってずっと言ってくれてた」
「そうなの? 会いたかったなぁ……」
オレは目をつむり、バラを描こうと決めた七年前の冬を思い出す。
ちょうど今ごろの時期――十二月に入ったか、入らないかくらいのこと。粉雪がちらついていた日だった。いつも通り頼まれていた本や、着替えを届けてに行くと、おじいちゃんは唐突に、
「キムキムさんと話せるようになったか」
と訊いてきた。おじいちゃんは事あるごとにオレとララちゃんとの仲を気にかけてくれていた。きっとオレが家族以外の人間の名前を出すのが相当珍しかったんだと思う。
「まだ、そんなに」
「そうか。……まだ照れるか?」
小さく頷く。
「キムキムはオレと違ってたくさん話しかけてくれる。オレも彼女のこと楽しませて、もっと仲良くしたいけど、どうすればいいのかわかんない」
この頃にはもうララちゃんのことを好きだと自覚していた。だけど、どうすれば今以上に仲を深められるのかと行き詰っていた。卒業までもう時間はない。それまでに彼女に気持ちを伝えたいという目標は密かに立てていた、そんな時期だった。
おじいちゃんは腕を組み、「ふうむ……」と言って息を吐いた。
「少し、俺の話をしてやろう」
「なに?」
「俺もな、気持ちを伝えるのが苦手だった。小さい頃からずっと一緒にいたおばあちゃんに結婚を申し込もうと思ってからも、何年もかかった。『好きだ』なんて素直に伝えると言うのは長く共に過ごせば過ごすほど難しくてな。友人の優男に訊いたよ。どうすればいいかって。そいつが言ったんだ、『バラの花束を渡せ』って」
バラの花束と言えばプロポーズの定番だ。それくらいオレでもわかる。きっとおじいちゃんだって知ってただろう。そんな当たり前のアドバイスをするなんてと思いながら、おじいちゃんの話に引き続き耳を傾ける。
「花っていうのは色や本数によって花言葉が変わってくるらしい。バラ一本なら『一目惚れ』、三本で『愛している』、一〇八本で『結婚してください』って感じだ。九九本はな、『永遠の愛』『ずっと好きだった』って意味があるんだとよ」
「知らなかった」
「『愛している』『結婚してください』よりも、先におばあちゃんには『ずっと好きだった』と伝えたかった。だから俺は九九本のバラをおばあちゃんに渡したよ」
「どうだったの?」
「どうだったって、そりゃあ、お前がここにいるんだから、そういうことだ」
「あー……そっか、なるほど」
おじいちゃんはまっすぐオレを見ると、
「俺は花にチカラを借りたが、太介は特別なチカラがあるだろう」
「チカラ?」
「絵も描けるし、ピアノだって弾ける。口下手と感じるならその特技を使うといい」
人に伝えるために描く、弾く。そんなこと考えたこと、なかった。
両親が亡くなったあと、おじいちゃんとおばあちゃんに引き取られ、幸いオレは一人じゃなかった。だけど、いつも一人で真っ白で、色も音もない世界に閉じこもっているような、そんな感覚は消えなかった。
「さびしい」
口に出してしまえば自分の身体がバラバラになってしまうと思って、飲みこんだ。その代わりに、オレは紙の上に様々な色を重ね、ピアノの鍵盤を指でたたく。苦しい気持ちを吐き出すための方法だと思っていた。はたして好意を表現するなんて出来るんだろうか。不安になっていると、どうやら顔に出ていたんだろう。おじいちゃんはオレの手を優しく両手で包んだ。
「大丈夫だ。キムキムさんは受け取ってくれる」
「年明けたあたりから、どんどん体調悪くなっていって、ララちゃんと会えなかったことも言えないまま、大学入学したくらいに亡くなった。――おばあちゃんは、きっとあの絵にバラがたくさん描かれているの見て、すぐにオレがララちゃんに告白しようとしてることわかったんだと思う。だからこそ、ララちゃん自身に意味を調べてほしかったのかなって」
「そういうことだったんだ。確かにあの場で意味を教えてもらわなくてよかったかも。自分で調べて、意味を知って。ダダがどんな気持ちでいてくれたのか、わかったから」
「ちゃんと伝わってよかった」
「十二分に伝わってる。ありがとう」
「ん」
軽くキスを交わすと、土鍋の蓋がカタカタと音を立てる。慌ててララちゃんが火を止めて、ローテーブルに用意したコンロの上に移動させた。
「あったかいうちにお鍋食べよっか」
「そうだね。……あっ」
「どうしたの」
「あともう一つ、ずっとララちゃんに返さなきゃと思ってたものがあった」
「返す? アタシ、ダダに何か貸してたっけ?」
いつも使っているリュックの中から桜色の巾着袋を取り出す。
「ララちゃん、手、出して」
彼女の手のひらに巾着の中身――プラスチック製のクマのフィギュア。
「これ、昔流行ったクマコじゃん! なつかしー!」
クマコというのは『クマクマ高等学校』というキャラクターの内の一人……一匹? だ。紺のブレザーにチェックのミニスカート。つけまつげに虹色のアイシャドウ……と派手なメイクをしている茶色のクマ。
「アタシもこのクマコのキーホルダー、カバンにつけてたなぁ。卒業したあとに家の鍵につけなおそうと思ったら、落としてることに気づいてさー。結構気に入ってたんだけどね」
「それ、ララちゃんのクマコだよ」
「え?」
「オレが拾った。卒業式の日に」
あの日、美術準備室の前にララちゃんの姿を探した。きっと愛想を尽かして帰ったんだ。そもそも来てないとは思いたくなかった。でも、もしかしたらオレの絵が好きって言ってたけど、本当は……。膝に手を置き、咳きこんでいると、床に何かが落ちているのを見つけた。そのまましゃがみ、それを手に取る。それがこのクマコだった。
「なんでこれがアタシのだってわかんの? これ、ガチャガチャのだから持ってる人たくさんいたと思うけど」
「耳のところ見てみて」
「……あ」
ララちゃんは目を見開いた。
「もしかして、絵具?」
オレは小さく頷いた。
いつだったか忘れたけど、色を塗っていた時、筆の勢いが余って絵具がキャンバス外にはねた。床はもちろん、足元に置いていたララちゃんのカバンにも飛んでしまった。紺色のスクールバッグに、黄色の絵具が点々と付着している。慌てて油絵の具を落とす専用のリムーバーを取ってこようとすると、ララちゃんはオレのシャツの裾を掴んで止めた。
「大丈夫大丈夫」
「早く取らないと」
「超カッコよくない?」
「え?」
「なんかさー、飛び方がそーいうデザインっぽくて良い」
そう言って笑ってくれたのだった。
「絵具飛んだのは覚えてるけど、そんなこと言ったかなー?」
腕を組んで首を傾げている。
「確かにいい感じになったよね。通学カバンで暗い色で地味だからさ」
「それならよかった」
アクシデントもポジティブに考えを切り替えてくれる、ララちゃんの好きなところのひとつだ。
「ずっと持っててくれたんだね」
「捨てるわけないよ。つらい時とか巾着から取り出して眺めたら、そこにララちゃんがいてくれるような気がして助けられてた。返すの遅くなっちゃったけど」
「このまま持っててくれてもいいよ?」
「ララちゃんに返そうってずっと思ってたから」
「このクマコもあとで玄関にかわいく飾ってあげよーっと」
ララちゃんはアクセサリーボックスに一旦クマコを入れた。ララちゃんならきっと今日渡した絵や、麗子さんのボードとともにオシャレに飾ってくれるだろう。
「さてと。二人とももう思い残すことないよね?」
「うん」
「んじゃあ、今度こそご飯にしよっか!」
「おー!」
鍋の蓋を開けると一気に白い湯気が立ち込める。部屋中に良い香りが広がる。
「いい感じに煮えてる~! ちょっと具多めになっちゃったけど……今日はお疲れ様」
よそって入れてくれた。
「ありがと。オレがララちゃんの分入れてあげる」
「マジ? じゃあ、お願いしちゃお」
「まかせて」
といったものの、どれくらい入れれば適量なのかイマイチわからない。もう少し、もう少しかな? とお玉ですくう。気がつけば、器に山が出来ていた。
「なんか、具、山盛りになった」
「アハハ! お腹空いてるから全然いいよ、ありがとねー」
準備が整ったのを確認して、手を合わせる。
「「いただきまーす」」
声がキレイに揃って、思わず二人で吹き出した。ここからまた新しい生活が始まる第一声になったような気がする。
<了>
「ほ、ホントにダダもやるの……?」
「野菜の切り方、いつもララちゃんの後ろから見てたし、ソーイチローにも訊いたから」
本屋さんでアルバイトしているソーイチローに「初心者でもわかる料理本はないか」と相談したら、
「包丁の持ち方から、大さじ小さじの説明とか初歩の部分から書いてくれてるんです。僕も困った時にこの本を開いてます」
と、おすすめしてくれたのがこの本だった。パラっと見ただけでも、イラストや写真が目に入る。説明文も簡潔に書かれてて、わかりやすかった。
買って、何度も読みながら、頭の中でシュミレーションして、今日を迎えた。動かないよう手を添えて、にんじんを半分に切ったあと、さらに半分に。いちょう切りにしていく。
「上手に切れてるじゃん」
「ほんと?」
「わっ! よそ見しないの! 猫の手意識して、ゆっくり切りなよ?」
「はーい」
スープと一緒に大根や人参など混載を入れて火にかける。
ララちゃんが淹れてくれた温かいほうじ茶と、麗子さんからもらったクッキーをかじりながら煮立つのを待つ。クッキーには一枚一枚にオレが描いたイエフリのジャケットイラストが印刷されていた。本来ならオレたちが手伝ってくれたみんなにお菓子だとかを渡さないといけないのにと思ってたら、ララちゃんはお礼の品を見繕い、もう事務所の方に送ってたらしい。本当によく気がつくなぁと思う。
「ダダに一つ訊いておきたかったことがあるんだけど」
「何?」
「バラの花好きなの?」
「うーん、普通かな」
たぶんプレゼントした絵に描いていたバラのことだろうと察す。
「詳しいこと、おばあちゃんからは何も?」
「あの時、キタエさんからは『花言葉を調べてみて』って言われただけで」
「そっか」
ララちゃんはオレを探して、実家に来てくれたことがあるらしい。そこで、キタエおばあちゃんから渡せなかったあの絵を見ているのだ。あの時にてっきりバラを描いた理由も聞かされていると思い込んでいた。
「えっと、オレがね、バラを描こうと思ったのはおじいちゃんがきっかけで。高三に上がった頃、おじいちゃん、体調を崩して入院しちゃったんだよね。その……病院はお父さんもお母さんも入院して退院できないまま死んじゃった場所だからさ。思い出したらつらくて、お見舞いに行けなくなってた」
「その辺、少し教えてもらったよ。アタシと出会った頃は精神的に不安定になってたって」
「生きてる限り、お別れするっていうのは仕方ないことなのに、どうしても受け入れたくなかった。毎日不安で、おばあちゃんに当たったり、人間としてダメな時期だったなぁって思う。ララちゃんに出会わなかったら、怖いって思ったまま、おじいちゃんと何も話せなかったかも。ララちゃんと放課後話す時間が、楽しすぎて、いつの間にかいろんな不安が和らいで。少しずつお見舞い行けるようになった。おじいちゃんにもララちゃんの話をしてたんだよ。おじいちゃんも会ってみたいってずっと言ってくれてた」
「そうなの? 会いたかったなぁ……」
オレは目をつむり、バラを描こうと決めた七年前の冬を思い出す。
ちょうど今ごろの時期――十二月に入ったか、入らないかくらいのこと。粉雪がちらついていた日だった。いつも通り頼まれていた本や、着替えを届けてに行くと、おじいちゃんは唐突に、
「キムキムさんと話せるようになったか」
と訊いてきた。おじいちゃんは事あるごとにオレとララちゃんとの仲を気にかけてくれていた。きっとオレが家族以外の人間の名前を出すのが相当珍しかったんだと思う。
「まだ、そんなに」
「そうか。……まだ照れるか?」
小さく頷く。
「キムキムはオレと違ってたくさん話しかけてくれる。オレも彼女のこと楽しませて、もっと仲良くしたいけど、どうすればいいのかわかんない」
この頃にはもうララちゃんのことを好きだと自覚していた。だけど、どうすれば今以上に仲を深められるのかと行き詰っていた。卒業までもう時間はない。それまでに彼女に気持ちを伝えたいという目標は密かに立てていた、そんな時期だった。
おじいちゃんは腕を組み、「ふうむ……」と言って息を吐いた。
「少し、俺の話をしてやろう」
「なに?」
「俺もな、気持ちを伝えるのが苦手だった。小さい頃からずっと一緒にいたおばあちゃんに結婚を申し込もうと思ってからも、何年もかかった。『好きだ』なんて素直に伝えると言うのは長く共に過ごせば過ごすほど難しくてな。友人の優男に訊いたよ。どうすればいいかって。そいつが言ったんだ、『バラの花束を渡せ』って」
バラの花束と言えばプロポーズの定番だ。それくらいオレでもわかる。きっとおじいちゃんだって知ってただろう。そんな当たり前のアドバイスをするなんてと思いながら、おじいちゃんの話に引き続き耳を傾ける。
「花っていうのは色や本数によって花言葉が変わってくるらしい。バラ一本なら『一目惚れ』、三本で『愛している』、一〇八本で『結婚してください』って感じだ。九九本はな、『永遠の愛』『ずっと好きだった』って意味があるんだとよ」
「知らなかった」
「『愛している』『結婚してください』よりも、先におばあちゃんには『ずっと好きだった』と伝えたかった。だから俺は九九本のバラをおばあちゃんに渡したよ」
「どうだったの?」
「どうだったって、そりゃあ、お前がここにいるんだから、そういうことだ」
「あー……そっか、なるほど」
おじいちゃんはまっすぐオレを見ると、
「俺は花にチカラを借りたが、太介は特別なチカラがあるだろう」
「チカラ?」
「絵も描けるし、ピアノだって弾ける。口下手と感じるならその特技を使うといい」
人に伝えるために描く、弾く。そんなこと考えたこと、なかった。
両親が亡くなったあと、おじいちゃんとおばあちゃんに引き取られ、幸いオレは一人じゃなかった。だけど、いつも一人で真っ白で、色も音もない世界に閉じこもっているような、そんな感覚は消えなかった。
「さびしい」
口に出してしまえば自分の身体がバラバラになってしまうと思って、飲みこんだ。その代わりに、オレは紙の上に様々な色を重ね、ピアノの鍵盤を指でたたく。苦しい気持ちを吐き出すための方法だと思っていた。はたして好意を表現するなんて出来るんだろうか。不安になっていると、どうやら顔に出ていたんだろう。おじいちゃんはオレの手を優しく両手で包んだ。
「大丈夫だ。キムキムさんは受け取ってくれる」
「年明けたあたりから、どんどん体調悪くなっていって、ララちゃんと会えなかったことも言えないまま、大学入学したくらいに亡くなった。――おばあちゃんは、きっとあの絵にバラがたくさん描かれているの見て、すぐにオレがララちゃんに告白しようとしてることわかったんだと思う。だからこそ、ララちゃん自身に意味を調べてほしかったのかなって」
「そういうことだったんだ。確かにあの場で意味を教えてもらわなくてよかったかも。自分で調べて、意味を知って。ダダがどんな気持ちでいてくれたのか、わかったから」
「ちゃんと伝わってよかった」
「十二分に伝わってる。ありがとう」
「ん」
軽くキスを交わすと、土鍋の蓋がカタカタと音を立てる。慌ててララちゃんが火を止めて、ローテーブルに用意したコンロの上に移動させた。
「あったかいうちにお鍋食べよっか」
「そうだね。……あっ」
「どうしたの」
「あともう一つ、ずっとララちゃんに返さなきゃと思ってたものがあった」
「返す? アタシ、ダダに何か貸してたっけ?」
いつも使っているリュックの中から桜色の巾着袋を取り出す。
「ララちゃん、手、出して」
彼女の手のひらに巾着の中身――プラスチック製のクマのフィギュア。
「これ、昔流行ったクマコじゃん! なつかしー!」
クマコというのは『クマクマ高等学校』というキャラクターの内の一人……一匹? だ。紺のブレザーにチェックのミニスカート。つけまつげに虹色のアイシャドウ……と派手なメイクをしている茶色のクマ。
「アタシもこのクマコのキーホルダー、カバンにつけてたなぁ。卒業したあとに家の鍵につけなおそうと思ったら、落としてることに気づいてさー。結構気に入ってたんだけどね」
「それ、ララちゃんのクマコだよ」
「え?」
「オレが拾った。卒業式の日に」
あの日、美術準備室の前にララちゃんの姿を探した。きっと愛想を尽かして帰ったんだ。そもそも来てないとは思いたくなかった。でも、もしかしたらオレの絵が好きって言ってたけど、本当は……。膝に手を置き、咳きこんでいると、床に何かが落ちているのを見つけた。そのまましゃがみ、それを手に取る。それがこのクマコだった。
「なんでこれがアタシのだってわかんの? これ、ガチャガチャのだから持ってる人たくさんいたと思うけど」
「耳のところ見てみて」
「……あ」
ララちゃんは目を見開いた。
「もしかして、絵具?」
オレは小さく頷いた。
いつだったか忘れたけど、色を塗っていた時、筆の勢いが余って絵具がキャンバス外にはねた。床はもちろん、足元に置いていたララちゃんのカバンにも飛んでしまった。紺色のスクールバッグに、黄色の絵具が点々と付着している。慌てて油絵の具を落とす専用のリムーバーを取ってこようとすると、ララちゃんはオレのシャツの裾を掴んで止めた。
「大丈夫大丈夫」
「早く取らないと」
「超カッコよくない?」
「え?」
「なんかさー、飛び方がそーいうデザインっぽくて良い」
そう言って笑ってくれたのだった。
「絵具飛んだのは覚えてるけど、そんなこと言ったかなー?」
腕を組んで首を傾げている。
「確かにいい感じになったよね。通学カバンで暗い色で地味だからさ」
「それならよかった」
アクシデントもポジティブに考えを切り替えてくれる、ララちゃんの好きなところのひとつだ。
「ずっと持っててくれたんだね」
「捨てるわけないよ。つらい時とか巾着から取り出して眺めたら、そこにララちゃんがいてくれるような気がして助けられてた。返すの遅くなっちゃったけど」
「このまま持っててくれてもいいよ?」
「ララちゃんに返そうってずっと思ってたから」
「このクマコもあとで玄関にかわいく飾ってあげよーっと」
ララちゃんはアクセサリーボックスに一旦クマコを入れた。ララちゃんならきっと今日渡した絵や、麗子さんのボードとともにオシャレに飾ってくれるだろう。
「さてと。二人とももう思い残すことないよね?」
「うん」
「んじゃあ、今度こそご飯にしよっか!」
「おー!」
鍋の蓋を開けると一気に白い湯気が立ち込める。部屋中に良い香りが広がる。
「いい感じに煮えてる~! ちょっと具多めになっちゃったけど……今日はお疲れ様」
よそって入れてくれた。
「ありがと。オレがララちゃんの分入れてあげる」
「マジ? じゃあ、お願いしちゃお」
「まかせて」
といったものの、どれくらい入れれば適量なのかイマイチわからない。もう少し、もう少しかな? とお玉ですくう。気がつけば、器に山が出来ていた。
「なんか、具、山盛りになった」
「アハハ! お腹空いてるから全然いいよ、ありがとねー」
準備が整ったのを確認して、手を合わせる。
「「いただきまーす」」
声がキレイに揃って、思わず二人で吹き出した。ここからまた新しい生活が始まる第一声になったような気がする。
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