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桂仁志は素直になれない

第十一話

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 夏休みに入った。今年も旅行はもちろん、そもそも近場に出かける用事もない。いつものように土曜日には浅倉姉妹がやって来て、人数よりも多い食事が用意される。それ以外は仕事を淡々とこなし、過ごしていた。
 八月のお盆を目の前にしたこの日の朝も、起きると、おふくろが弁当を包んでいた。
「保冷剤たくさん入れたけど、早めに食べとくんだよ」
「おう」
「ふぅ、ふぅ」と少し息が荒いおふくろ。それに、首にかけた手ぬぐいでしきりに汗を拭っている。昔から汗っかきだとはわかっているが、まるで水を被ったかのような量だ。
「おふくろ、大丈夫か?」
「なにが?」
「いや……、今日は汗かきすぎじゃないか、って」
「いつもと一緒だと思うけど?」
「そうか……?」
「今日は本当に暑いって天気予報でも言ってたからねぇ。気をつけて」
「じゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」

 いつも通りに学校へ向かい、作業をする。昼が過ぎ、何人かの先生が遅めの昼食のため、外出している。
「いやぁ、桂先生」
「なんです?」
「二人きりだね~。こうして堂々と喋ったって怒られないよ」
「そうっすね」
「夏休みどっか行くの?」「子どもの頃の夏休みどう過ごしてた?」など隣の席からかけられる山田先生の話に付き合う。
 そう、いつも通りだった。
 帰ったら、飯食って風呂入って寝る。何も変わらない日常が今日も過ぎて終わるんだと思っていた。昼飯を食べ終わり、また仕事をしていると、職員室の引き戸が勢いよく開く。

「桂……センセぇ……!」
 入って来たのは、浅倉妹。目に涙をため、全身から流れ落ちる汗をそのままに、息絶え絶えその場に座りこんだ。
「オレはここだ。おい!? 大丈夫か?」
「センセー……静江センセーが……!」
「おふくろがどうした?」
「……倒れた……」
「は?」
 真っ白になりそうな脳を無理やり働かせ、浅倉妹の消え入りそうな声に耳を傾ける。
「教室入ったら、センセーが倒れてて、すぐ救急車呼んだ……。サエ姉が代表で乗って……今病院に……」
「病院名わかるか?」
 浅倉妹は大きく頷き、病院名を言う。この辺りじゃ一番大きい病院だ。
「学校の電話番号わかんなくて、でもセンセーにとにかく伝えなきゃって思って……走って……痛っ……」
 さすった膝はすりむいて出血している。
「ケガしてんじゃねぇか……! 止血しねぇと」
「アタシのことより、早く病院っ!」

 そう叫んだ彼女の顔には、オレに伝えられた安堵の表情と、不安や恐怖、痛みで今にも泣きだしそうな苦し気な表情が入り混じっていて、こちらも胸が苦しくなった。
 でも、浅倉妹の言う通りだ。オレは行かなきゃならん。

「――山田先生」
「は、はい!」
「すいません、彼女を頼みます。オレ、病院に向かいます」
「わかった。こちらのことは任せて」
 荷物をまとめ、職員室を飛び出し、車に乗り込んだ。
 道路が空いていて、信号も引っかからず、あっという間に到着することが出来た。
 おふくろの名前を受付で告げる。
 案内されたのは手術室だった。その前に置かれている細長い合皮のベンチに一人、うつむく女の子。

「浅倉……!」
 オレが声をかけると、浅倉は勢いよく顔を上げた。充血し腫れた目から、涙の粒が今にも溢れそうだ。彼女に駆け寄り、目の前でしゃがむ。手が勝手に動き、彼女の頭に置いた。目を閉じ、
「浅倉、ありがとう。よくやったな」
 その場で絞り出した精一杯の言葉だった。浅倉はわぁっと声を上げ泣きながら、オレの胸に顔を埋めた。
「先生っ……!」
「待たせてごめんな。一人で心細かっただろ」
 彼女の温もりを感じながら、オレも少し落ち着きを取り戻せた。

 おふくろがまだ家庭科の先生として学校に勤務していた頃、帰宅がかなり遅いことも多かった。あの頃はPHSやケータイもおろか、ポケベルさえない。ただ一人、待つしかなかった。帰ってきたら、一目散に玄関に走って、まだ靴も脱いでいる途中のおふくろに抱きついたことを思い出していた。

 仕事を切り上げて迎えに来てくださったお母様と、一緒についてきた浅倉妹と共に浅倉が帰ったあとは、ただただ心細くなっていった。
 いつ終わるかわからない地獄のような時間。
 一般診療も、面会時間も過ぎて、入院患者もこの辺りをうろつかない。
 病院内はやたらと静かになった。

 静寂がよりオレを追い詰める。
 おふくろが自分から体調不良を訴えることなんて、この数年なかった。だからこそ、朝、もっと心配してやるべきだった。
 なんで出来なかった? 
 おふくろが「いつもと変わらない」って言ったから? 
 どんどんと深い沼に足をからめとられ、底のない暗く冷たい場所に連れて行こうとする。
 ダメだ、頭を振る。

 握っていた手を開く。手汗で柔らかくなったメモの切れ端。さっき交換した浅倉家の電話番号が書かれている。アイツは最後の最後まで「先生と一緒に手術終わるのを待つ」と言ってきかなかった。必死の形相で帰宅を拒む彼女の姿にお母様も少々驚いていた。「終わったらすぐ連絡する」とお互い自宅の電話番号の交換を提案し、帰したのだった。
 浅倉は家族じゃない。彼女でも妻でもない。生徒で、他人だ。彼女の存在が今欲しかった。「大丈夫だ」と言ってほしかった。いつもあんなに突き放してきたのに。
「呆れるくらい、オレは身勝手だな。最低だ」
 オレたちには溝も壁もある。それさえなければ、オレは素直に生きれたのだろうか。
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