仙年恋慕

鴨セイロ

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2章

53.八年前の足取り1

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 ――八年前。
 俺はマーナムを飛び出し国境を一つ越え、ひなびた温泉街へとやって来ていた。

「おぉぉ! やっぱ露天風呂は最高だなー!」

 高台にある巨岩に囲まれた天然温泉を前に、俺の口から感嘆の声が飛び出る。

 実は温泉宿にやっては来たものの、流石に男つーか、エドに襲われたばかりで人前で裸になれる気分になれず、三日目までは自室の小さな湯舟を使っていたのだ……。

「が! せっかく温泉宿に泊まって目玉の露天風呂に入らないなんて、勿体な過ぎるもんなー」

 ザザッと体を流し、俺は早朝の人気のない時間を狙ってきた露天風呂にちゃぷんと浸かる。

「はぁぁ、極楽ごくらく~」

 朝の冷気にもうもうと白い湯気を上げる温泉を独り占めして、見渡す先には白み始めた空に雄大な山脈。
 ちょっと熱めのお湯が体を芯まで温めてくれると、心まで癒されるようだった。


「……エド、大丈夫かな」


 俺がこの温泉街に向かっている途中、携帯端末にエドからの着信があった。
 しかし、いきなり画面に表示されたエドの名に慌てふためいた俺は携帯端末を道に取り落とし、そこへタイミング悪く走ってきた馬車の車輪にバキッと轢かれ俺の携帯端末は粉砕してしまったのだ。

「たぶん目の覚めたエドが、俺に何をしたのかを思い出して連絡を寄越したーとか、そんなトコだったんだろうが、エドからしたら俺が着信を無視したみたいになってるかなぁ」

 街を出る前に寄った診療所でクリストフェル先生が、エドは命に別状はないけど内臓機能に後遺症が残るかもしれないと言っていたのも気にかかっていた。

「顔を合わせるのは流石にまだ無理だけど、声くらい聴きたかったな……」

 俺は風呂べりの岩に寄りかかり、先ほどより少しだけ日の高くなってきた空を仰いだ。


 ***


 エドが俺を酷い目に合わせてくれやがった件は……、本来なら許される事では無い。
 だが、あの行為がエドの本意でないことぐらい、四年もつるんでいた俺に分からない訳がなかった。

 そりゃあの時は、俺だって痛みやショックでパニックになっていたさ。
 けれど魔法で怪我を治療し、体を清めて冷静に考えれば、むしろあの状態のエドを放ったままマイロさんに連絡するなどのフォローもしなかった事を、俺は少なからず後悔していた。

 だから翌日、掻き出しそびれたエドのモノで腹を下した俺が、ヨロヨロと薬を求めに向かった薬局の顔なじみの主人に、エドが昏睡状態で診療所に運ばれたという話を聞いた時は目の前が真っ暗になった。


 確かに様子はおかしかったけど、アイツが倒れるほどの異常があったのか!?
 様子が普通じゃないってのは分かってたのに、くそっ……、俺がちゃんとマイロさんに連絡しなかったから!

 もし、エドの身に何かあったら……、俺のせいだ。

 沢山の後悔と恐ろしい想像が頭をよぎる度にゾッとしては、そんな事あるわけないと首を振り、俺は這う這うの体で診療所に向かった。

 しかし、そんな俺の心配などよそに辿り着いた診療所のベッドには、拍子抜けするほど穏やかな寝息を立てるエドが寝かされていた。
 エドの親しい者として病室に入れてくれた診療所のクリストフェル先生は俺に、エドがあのサティ―リアと言う兎獣人から危険な量の媚薬を盛られたと言う事と、命に別状は無いが、内臓に後遺症が残るかも知れないという説明をして退出していった。

 残るかも知れないという後遺症の話は気掛かりだったが、ひとまずの無事に安心したせいで、どっと疲れが押し寄せた俺は、眠るエドの横に上半身をぽふんとダイブさせた。

『あーもー、色々と理解した! なーに、簡単に媚薬なんか盛られて俺なんか襲ってんだよ! っとに、心配して損した! ばーか、ばーか、エドのばーか』

 眠る事で体を癒しているのか、まったく目覚める気配のないエドに悪態をつきながら、その口元に手を伸ばせば規則正しい息がかかるのを感じ、喉の奥がギュっとして涙が出そうになる。

『……っとに、無事でよかった』

 にじり寄ったエドの枕元に頬杖を付きながら、伏せられた目蓋にかかる前髪をよけてやれば、指先に俺より少し高い体温を感じる。
 そのまま頬を撫でる様に少しくすみのある金の髪を流せば、今更ながらその顎先に俺が噛みついてつけた傷を見つけ、昨晩の出来事と、それに付随する筆舌しがたい羞恥心を思い出してしまった。

 あぁ、俺はこの男に襲われたんだよな……。

『お前ってば手加減ないし、はちゃめちゃに痛かったし、辛くて吐きそうで、早く終われって思ったのになぁ』

 エドの高い鼻をムギュッと摘まんでやれば、フゴッと息を詰まらせて眉根を寄せる顔につい笑ってしまう。

『それでも嫌いになれないんだから、これが惚れた弱みってやつなのか』

 目が覚めないのを良いことに、今度はエドの眉間に寄ったしわをチョイチョイとつつき解す。

『本命いるくせに、俺なんか襲ってバカなヤツ……。でも、襲ったのが俺じゃなかったら裁判沙汰とかエライ事になってたんだからな』

 惚れていると自覚する前から整った顔の男だとは思っていたが、目を閉じて静かに眠るエドは普段の取っつきやすさが鳴りを潜めて、容姿の美しさが際立つ。
 エドが普段からこうだったら、俺にはちょっと眩し過ぎてきっと惚れるなんて事なかったのに……。

『ったく、本命と結婚するんだか何だか知らないけど、そんな大事な時にスキャンダルを起こしたらエドだって外聞が悪かろうにさ』

 俺は身を乗り出して、眠るエドの顔をじっと見つめてから意を決しエイヤ! っと、その唇に、ちょこんとキスを落とした。
 二度の人生で初めて自分から奪った拙いキスは、俺の胸にチクリと罪悪感を残す。

『これくらいの餞別は許されろ』

 それから俺は自宅に戻り、最低限の荷物を手にマーナムを飛び出したのだった。


 ***


「だって、惚れてるって超再確認しちゃったこのタイミングでエドの結婚を素直におめでとーって言えるか? 言えないよな? 俺は言えないし、普通に本人前にして泣くわ!! それどんな黒歴史になるよ!!」

 浴場の端にあった打たせ湯のような、湯が落ちて来る小さな滝つぼに陣取りながら俺は一人頭を抱える。

「エドがナイスバディな美人奥さんを連れてきたって想像だけで、今だって涙目なのに祝福何て絶対無理じゃん……」

 とは言え、今の状況はよろしくなかった。
 携帯端末を壊してしまったあの流れ、エドからしてみたら俺があえて通話を切ったように感じただろう。折角メイリンには適当言って出てきたのに、あれではエドに襲われたショックで俺がマーナムから逃げたしたと言う風に取れてしまう。

「いや、むしろそう言う事にした方が良いのかもな……」

 そりゃ、俺だってエドに襲われたのはショックだった。
 しかし結果的に言うと、アレについては初めての経験で恥ずかしかった気持ちが今は大きく、それ以外は自分でも驚くくらいケロッとしている。

 だって相手はエドだし、アレは事故だし、俺はフリーな上にエドに惚れていて……でも、エドは俺の事なんか……あっ、これめちゃくちゃ凹むやつだ。

 俺は落ちそうになった思考にセーブをかける。

「と、とりあえず、都市部に戻ったら新しい端末買ってエドに気にすんなってメッセ送ろ……」

 流石にそろそろ朝風呂組が来てしまうかもしれないと、ザバっと湯から上がったところで、ガヤガヤと数人の話し声が脱衣所の方から聞こえてきた。

「げっ、長居し過ぎたか」

 見れば小柄なお爺さん達が、賑やかに話しながら歩いてくる。その平和な光景に安堵しつつも、俺は素早くタオルを腰に巻く。
 そのまま何食わぬ顔で、洗い場に入って来た三人組のお爺さん達の脇を、会釈してすり抜けようとした時だ。

「あんたぁ、その腕はどうしたんじゃ?」

 三人組の一人、真っ白な立派なヒゲを蓄えたお爺さんが、俺の右腕を見て声をかけてきた。

「へぇ!? あっ、えーっと俺、ハンターで怪我して、回復魔法失敗しちゃって」

 突然、いびつな右腕を指摘され、俺はしどろもどろに答える。

 実はこの腕、エドに潰された後に自分で回復魔法をかけたのだが、集中力を欠いたせいでまんまと治療を失敗してしまったのだ。
 怪我をした経緯が気軽に話せる内容でも無いので、つい目が泳ぐ俺をいぶしがる白髭のお爺さんの横で、急に訳知り顔になったちょんまげのお爺さんが割り込んでくる。

「ややや! ハンターって事はさては小僧、獣人だか古代種に囮にでもされたな!」

「ふむぅ。確かに腕の中に残ってるこの魔力痕は人間のモノじゃあないねぇ」

 ちょんまげのお爺さんに、一番後ろにいたスキンヘッドのお爺さんが続ける。

「え、えっ?」

 魔力痕ってのは文字通り魔力の痕跡の事だが、普通は専門の技術者が魔導具で調べて見る。
 つまり、少なくともひと目見ただけでわかる様なモノじゃない。しかも、俺の腕の中にちょこっと残ってたらしいエドの魔力何て、無意識レベルで俺に移った微々たる量のはずなのだが……。

「それにしても下手くそな回復魔法だねぇ」

 スキンヘッドのお爺さんは俺の腕を掴んでまじまじと観察しながら、フォッフォッフォッと楽し気な笑い声をあげた。

「ホントになぁ、最近の若いもんは魔法が下手くそでいけねぇな!」

「まったく、これだから人間はと、獣人古代種に馬鹿にされるんじゃ」

 裸のご老体達に囲まれて魔法の下手さを叱られると言う、まったくもって一ミリも嬉しくないイベントにゲソッとしていると、白髭のお爺さんが俺の右腕から顔を上げ、ようやっと俺の顔をまともに見たと思ったら、これでもかと両目を見開いて固まってしまった。

「まっ、まだ何か?」

 自分を凝視したまま固まる人間を無視することも出来ず、俺は次は何を言われるのかと思いながら首をかしげたが、返って来た言葉はまったく意味が分からないモノだった。

「シシシ、シオンさ、マ」

「んぁ? ダイジュ何を言っ……」

「なっ、なんと」

 白髭のお爺さんに続いて、俺の右腕に群がっていたちょんまげとスキンヘッドお爺さん達までもが俺の顔を見上げ穴が開くほど見つめる。
 いや、だから裸のお爺さん達に見つめられても嬉しくないぞ! 俺は!

「えーっと……」

 居心地の悪さに思わず後ずさろうとした瞬間、白髭のお爺さんが俺の両手をギュッと握って、わなわなと口ひげを震わせ――


「ひっ、ひっ、ひっ、姫様じゃぁぁぁ!!」


 と、叫んだ。

「んなわけあるかぁぁぁい!!」

 我ながら瞬発力の良いツッコミが早朝の男湯に響いたのであった。
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