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本編
Module_009
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「うん……? な、何だ?」
蔵書室でこの日も密かに魔法の実験を行っていたセロは、窓の外に目を向けるとわずかに眉根を寄せながら呟いた。
窓の外に映る景色はいつもと変わらない。しかし、彼が気になったのは、いつも以上に楽園にいる大人たちの動きが慌ただしく思えたことだ。普段は優しい笑みを見せる彼らが、血相を変えて右往左往している。
そんな大人たちの取り乱した姿に触発され、外で遊んでいた子どもたちも不安げな面持ちで大人たちの動向を窺っていた。
言い知れぬ違和感を覚える中、次の瞬間セロが目にしたのは――
「「「うおおおおおおおっ!」」」
微かな地揺れと共に耳に届く多数の雄叫びと、蹴破るように勢いよく扉を開けて中に侵入数る武装した兵士たちの姿だった。
「「「「うわあああああぁぁぁっ!」」」」」
突如として現れた兵士たちに、様子見していた子どもたちは恐怖を露わにしつつ、悲鳴を上げてそれぞれの寄宿棟へと蜘蛛の子を散らすように戻っていく。だが、所詮は未だ成長過程の幼い子どもである。寄宿棟を目指して走ろうとも、雪崩れ込むように楽園の中に侵入した兵士に簡単に道を塞がれ、そして――次々と斬り伏せられていった。
銀の鎧を打ち鳴らし、逃げる子どもの背中を斬る大勢の兵士たち。勢いよく振り下ろされた剣に、斬られた子どもは泣き叫ぶ暇も与えられず、傷口からパッと花を咲かせるように真っ赤な血を吹き出して大地に倒れた。
倒れた子どもは、以後一切動かずにその短き一生を終える。対する兵士は倒れた子どもには見向きもせず、血塗れの剣を今度は別の子どもの胸に突き立てる。
ーーその光景は、まるで地獄絵図そのものだった。
血に飢えた狼の如く、目の前の震えた子どもたちを狩る兵士の軍勢。昨日まで無邪気な子どもたちの笑い声に包まれていた中庭は、今や子どもたちの亡骸と鮮血で汚されている。
まるで出来の悪いホラー映画でも見せつけられているかのような状況に、セロは一瞬何が起きたのか分からなかった。
「――っ!」
窓の外で突如として繰り広げられる殺戮劇。敷地内のあちらこちらで血が流れる状況に、楽園は瞬く間に混乱と恐怖の坩堝に叩き込まれる。次々と兵士たちの手にかけられる子どもたちを目にしたセロは、手にしていた書籍を放り出して急いでその場を後にした。
(――どうして兵士たちがやって来たのかは分からない。けど……今この時しかない!)
かつて自らの心の奥に零した決意。それは彼があの夜デコイズたちの会話を盗み聞きした日から抱いたものだ。
――必ず、ここから逃げ出してみせる。
その決意を胸に秘めながら、セロは今日まで逃げ出すための算段を練っていた。だが、高い壁に囲まれ、大勢の大人たちの目がある中をかいくぐるのは容易なことではない。
どうやって逃げ出そうかと思案していた矢先に起きた今回の事件は、セロにとってまさに千載一遇のチャンスだと言えた。
もちろん、次々と斬り伏せられ、血の海に沈む仲間たちのことは、セロの心を締め付けた。何の罪もない、自分よりも幼い子どもが理由もなく殺されていく場面を見るのは、転生前に本宮数馬として日本という平和な世界で過ごしていた彼にとっては酷な仕打ちとも言えるだろう。
しかし、だからといってただ手をこまねいて事態を遠まきに眺めているだけでは、いずれは他の子どもたちと同じ結末を迎えることになる。
「ちくしょうちくしょうちくしょう……」
セロは口から突いて出た悔しさを、奥歯を噛んでやり過ごし、泣きたくなる思いを必死に押し殺す。
(クッーー! ゴメンな……)
何も出来ず、ただこの場から逃げることしか出来ない無力な自分に対し、罪悪感に襲われつつも、セロは心の内に救ってやれなかった仲間たちへ向けて謝罪の言葉を呟きながら必死で逃げ道を探る。
「こっちだ! 応援を寄越せぇっ!」
「見つけたぞ! 先回りしろ!」
「うわああああああっ……グフッ!」
蔵書室から出たセロの耳に、ガシャガシャと金属鎧を鳴らしながら追いかける兵士の声と逃げ惑う子どもたちの悲鳴、そして耳障りな肉を断つ音が届く。
(クソッ! 手が回るのが早い! まずは追ってくる兵士たちをどうにかして撒かないと……)
物陰に潜みつつ、逃走のためのルートを確保しようと逡巡するセロの視界に、外から戻ったロッソの姿が見えたのはその時だった。
「セロッ!」
「ロッソか! こっちだ!」
言われるがまま手近にあった空き部屋に転がり込んだセロとロッソ。直後に耳に届く兵士たちの声が小さくなるのを確認した二人は、薄暗い部屋の中で情報交換を始めた。
「セロ、い、一体どうなっている!? 突然、武装した多数の兵士たちがここに雪崩れ込んできたと思えば、ヤツらは次々にここにいる人たちを殺し始めた」
「あぁ、それは俺も蔵書室の窓から見たよ。俺の方も兵士たちがここにやって来た理由は分からない。だが……これは逆に言えばチャンスなんじゃないか?」
「チャンス?」
即座に訊き返したロッソに、セロはわずかに逡巡した挙句、再び口を開いた。
「あぁ、ここから逃げ出すチャンスってことだ」
耳朶を打つセロの言葉に、ロッソは目を見開いて訊ねる。
「しょ、正気か!? 前にも言ったが、ここは俺たちのような孤児や奴隷にとっては、またとない楽園なんだぞ? 寝る場所も、食事だってある。ここにいれば命を脅かされる心配もない。けれど……外に出ちまったら、俺たちなんて凶悪な魔物共の餌にしかならねぇんだぞ?」
彼の言う通り、両親から捨てられた子供にとって、この楽園は居心地のいい場所であった。この世界には至る所に「魔物」と呼ばれる凶悪な生き物が棲息しており、人を襲い命を奪う。
また、身に迫る危険は何も魔物だけではない。身寄りのない子どもはそれだけで売買の対象とされかねないのだ。そうした事態に陥れば、今のような暮らしは夢のまた夢となるだろう。
「じゃあ、お前はいいってのか? ここにいれば、そのうちヤツらに見つかって無残に殺されるだけなんだぞ!」
珍しく怯えを宿した目で弱音を吐くロッソに、セロは若干苛立ちを混ぜた強い口調で問いただす。
「そりゃ、確かに今のままだとそうだろうさ。けど、これは何かの間違いだろ? 俺たちが一体何をしたって言うんだ。ただここで静かに暮らしていただけなのに。そ、そうだよ……きっとこれは何かの間違いなんだ……」
セロの指摘に対し、ロッソは目前の異常事態を前にして現実逃避の言葉を呟く。そんなロッソの怯えた態度に、セロは彼の胸ぐらを掴んで声を荒らげた。
「いい加減目を覚ませよ! ここに居る子どもたちは――俺たちの仲間は、このままじゃあ、アイツらにみんな殺されちまうんだ! それに……もしお前の言う通り、何かの間違いだったとしても、俺たちには一生ここで飼い殺される運命しかないんだぞ」
「飼い殺されるって……おいおい、どうしたんだよ? まるでこの場所が檻の中とでも言いたげじゃないか」
険しい表情を浮かべて問いかけるセロに、ロッソはわずかに頬を引き攣らせながら真意を訊ねる。
「あぁ……そうだ。ここはいわば楽園という名の『監獄』だ。施設を取り囲むように設けられた高い壁、院長を始めとした大人たちの目……この状況を監獄と呼ばずして何と言うんだ?」
「……」
セロの指摘に薄々ながら同様の考えを持っていたらしいロッソは即座に言い返すことが出来ずに口を噤んでしまう。
「で、でもさ……ここは本当にいい場所なんだぜ? 病気をしても大人たちが『治療』してくれるし、ちゃんとした引き取り手があれば『卒業』させてくれる。もう野垂れ死ぬ思いをしなくて済むんだ」
「――じゃあ、お前はあの教務棟で院長からの『治療』を受けたり、ここを『卒業』していった子どもたちがその後どうなったのか知っているのか?」
弱々しい口調ながらも、辛うじて反論したロッソにセロは容赦のない一言を告げる。
「治療を受けた子どもは病気から回復すると寄宿棟に戻るはずなんだろ? だが……俺はここ最近、治療を受けて無事に戻って来た子を見た覚えはない。卒業した子にしたってそうだ。ここを卒業して出ていったとしても、長い間世話になった楽園に手紙の一つぐらい寄越すもんだろ? だが、そんな知らせはとんと聞かない。何故だか分かるか? 彼らは戻ろうにも戻れない、手紙を書こうにも書けないからだ。つまり、彼らはもう――」
「やめろ!」
ロッソはセロが最後まで言う前に咄嗟に胸ぐらを掴んで引き寄せ、厳しい口調で制した。
「……俺から言えるのはそれだけだ。で、どうする? このまま大人しく捕まるか、それえとも俺と一緒にここから逃げ出すか。時間が無い。今すぐこの場で決めてくれ」
セロは胸ぐらを掴んでいたロッソの手を振りほどくと、部屋の外の様子を窺いながら静かに告げる。
「俺は……俺は……」
今後の運命をも左右する重大な決断を迫られたロッソは、ボソボソと呟きながら頭を抱えた。 そんな時、身を潜めていた部屋の扉が開き、鎧姿の兵士がセロたちを発見する。
「いたぞ! こっちだ!」
「マズい! 逃げるぞ!」
腰に吊っていた剣を抜いて迫る兵士に、セロとロッソの二人は応援が駆けつけるまでのわずかな時間を利用して部屋の中を駆け回り、辛くも追っ手から逃れる。
しかし、最早大半の職員や子どもたちが雪崩れ込んだ兵士たちにより殺害されたため、次第にセロたちを追う兵士の数が増えてきていた。
やがて、次々と襲いくる追っ手から逃れ続けたセロたちが行き着いた先。
そこは彼らが今まで立ち入ったことのない、院長室だった。
「あぁっ、クソッ! 行き止まりか!」
部屋に入ったセロは、悪態をつけつつも、何とか自分たちが隠れられそうなスペースを探そうと試みる。
荒い息を吐きながら辺りを見回していたセロに、壁際の本棚を見たロッソが呟いた。
「……っ! ここはどうだ? 奥に繋がっているみたいだぞ!」
「よし! なら、とっとと行こう! もしかしたら外に出られるかもしれない!」
「わかった」
遠くから聞こえてくる鎧の音に急かされるように、セロたちは本棚の裏に隠された道を進む。
――それがどんな結果をもたらすか、知る暇も無いままに。
◆◇◆
「一体これはどういうことだ!」
一方、楽園から少し離れた場所に本陣として設置されたテントの中では、兵士から報告を受けたレカルナ王女が怒りの声を上げていた。
「私の指示を聞いていなかったのか? 私は中に居る者たちを『拘束しろ』と命じたはずだ。だが、つい先ほど伝えられた報告では、『討伐』と聞いたぞ?」
テント内に控えたレカルナは怒りの形相を見せつつ、報告を行った兵士に詰め寄る。詰め寄られた兵士がビクリと身を震わせながらも、言葉を紡ごうとした矢先、レカルナの横から声がかけられた。
「……レカルナ王女。確かに私どもは王女の命に従い、危害を加えないと説明した上であの中に居る者たちを拘束しようと試みました。しかしながら、ヤツらはこちらの要求を突っ撥ね、あろうことか王女の命令に背こうと抵抗してきたのです」
「何だと!?」
反射的に鋭い目で問いただした先には、怒りを滲ませるレカルナとは対照的などこか余裕を見せるシュルツ男爵の姿があった。
「その結果、現に我々の方にも犠牲者が出ています。おい……そうだったな」
「は、はい。数は少ないですが……」
レカルナ王女の怒りに満ちた形相に気圧されていた兵士は、言葉を詰まらせながらもシュルツからの問いに答える。
「そ、そんな……」
現実として起きてしまった悲劇。相手はこれまで武器を手に取ったことの無い者たちだからとどこか油断していたのか――そんな思いを抱きつつ、呆然と立ち尽くすレカルナの心を見透かすように、シュルツは言葉を発した。
「私は先に申し上げたはずです。楽園の者たちからすれば、我々は『敵』なのだ、と。自らの安寧の場所を奪おうとする敵に対し、追い詰められた者が命を賭して戦おうとするのは当然と言えるでしょう。既に我々の方にも少なからぬ犠牲が出ている。仲間を失った悲しみは恨みとなり、やがては暴力として連鎖する……もうこうなった以上、我々ができるのは楽園に再び静寂が訪れるのを待つことのみでしょうな」
シュルツの冷酷な言葉に、レカルナ王女はわずかな救いを求めるように傍に控えていたミュルゼ侯爵の顔を窺う。だが、彼は無言のまま首を横に振った。
「私は……何もできないのか……」
突き付けられた現実に、愕然とするレカルナにその場に集まった貴族たちが彼女の思いを察して沈痛な面持ちを浮かべる。
しかし、その中でシュルツはただ一人、誰にも気取られないように小さな笑みを浮かべていた。
蔵書室でこの日も密かに魔法の実験を行っていたセロは、窓の外に目を向けるとわずかに眉根を寄せながら呟いた。
窓の外に映る景色はいつもと変わらない。しかし、彼が気になったのは、いつも以上に楽園にいる大人たちの動きが慌ただしく思えたことだ。普段は優しい笑みを見せる彼らが、血相を変えて右往左往している。
そんな大人たちの取り乱した姿に触発され、外で遊んでいた子どもたちも不安げな面持ちで大人たちの動向を窺っていた。
言い知れぬ違和感を覚える中、次の瞬間セロが目にしたのは――
「「「うおおおおおおおっ!」」」
微かな地揺れと共に耳に届く多数の雄叫びと、蹴破るように勢いよく扉を開けて中に侵入数る武装した兵士たちの姿だった。
「「「「うわあああああぁぁぁっ!」」」」」
突如として現れた兵士たちに、様子見していた子どもたちは恐怖を露わにしつつ、悲鳴を上げてそれぞれの寄宿棟へと蜘蛛の子を散らすように戻っていく。だが、所詮は未だ成長過程の幼い子どもである。寄宿棟を目指して走ろうとも、雪崩れ込むように楽園の中に侵入した兵士に簡単に道を塞がれ、そして――次々と斬り伏せられていった。
銀の鎧を打ち鳴らし、逃げる子どもの背中を斬る大勢の兵士たち。勢いよく振り下ろされた剣に、斬られた子どもは泣き叫ぶ暇も与えられず、傷口からパッと花を咲かせるように真っ赤な血を吹き出して大地に倒れた。
倒れた子どもは、以後一切動かずにその短き一生を終える。対する兵士は倒れた子どもには見向きもせず、血塗れの剣を今度は別の子どもの胸に突き立てる。
ーーその光景は、まるで地獄絵図そのものだった。
血に飢えた狼の如く、目の前の震えた子どもたちを狩る兵士の軍勢。昨日まで無邪気な子どもたちの笑い声に包まれていた中庭は、今や子どもたちの亡骸と鮮血で汚されている。
まるで出来の悪いホラー映画でも見せつけられているかのような状況に、セロは一瞬何が起きたのか分からなかった。
「――っ!」
窓の外で突如として繰り広げられる殺戮劇。敷地内のあちらこちらで血が流れる状況に、楽園は瞬く間に混乱と恐怖の坩堝に叩き込まれる。次々と兵士たちの手にかけられる子どもたちを目にしたセロは、手にしていた書籍を放り出して急いでその場を後にした。
(――どうして兵士たちがやって来たのかは分からない。けど……今この時しかない!)
かつて自らの心の奥に零した決意。それは彼があの夜デコイズたちの会話を盗み聞きした日から抱いたものだ。
――必ず、ここから逃げ出してみせる。
その決意を胸に秘めながら、セロは今日まで逃げ出すための算段を練っていた。だが、高い壁に囲まれ、大勢の大人たちの目がある中をかいくぐるのは容易なことではない。
どうやって逃げ出そうかと思案していた矢先に起きた今回の事件は、セロにとってまさに千載一遇のチャンスだと言えた。
もちろん、次々と斬り伏せられ、血の海に沈む仲間たちのことは、セロの心を締め付けた。何の罪もない、自分よりも幼い子どもが理由もなく殺されていく場面を見るのは、転生前に本宮数馬として日本という平和な世界で過ごしていた彼にとっては酷な仕打ちとも言えるだろう。
しかし、だからといってただ手をこまねいて事態を遠まきに眺めているだけでは、いずれは他の子どもたちと同じ結末を迎えることになる。
「ちくしょうちくしょうちくしょう……」
セロは口から突いて出た悔しさを、奥歯を噛んでやり過ごし、泣きたくなる思いを必死に押し殺す。
(クッーー! ゴメンな……)
何も出来ず、ただこの場から逃げることしか出来ない無力な自分に対し、罪悪感に襲われつつも、セロは心の内に救ってやれなかった仲間たちへ向けて謝罪の言葉を呟きながら必死で逃げ道を探る。
「こっちだ! 応援を寄越せぇっ!」
「見つけたぞ! 先回りしろ!」
「うわああああああっ……グフッ!」
蔵書室から出たセロの耳に、ガシャガシャと金属鎧を鳴らしながら追いかける兵士の声と逃げ惑う子どもたちの悲鳴、そして耳障りな肉を断つ音が届く。
(クソッ! 手が回るのが早い! まずは追ってくる兵士たちをどうにかして撒かないと……)
物陰に潜みつつ、逃走のためのルートを確保しようと逡巡するセロの視界に、外から戻ったロッソの姿が見えたのはその時だった。
「セロッ!」
「ロッソか! こっちだ!」
言われるがまま手近にあった空き部屋に転がり込んだセロとロッソ。直後に耳に届く兵士たちの声が小さくなるのを確認した二人は、薄暗い部屋の中で情報交換を始めた。
「セロ、い、一体どうなっている!? 突然、武装した多数の兵士たちがここに雪崩れ込んできたと思えば、ヤツらは次々にここにいる人たちを殺し始めた」
「あぁ、それは俺も蔵書室の窓から見たよ。俺の方も兵士たちがここにやって来た理由は分からない。だが……これは逆に言えばチャンスなんじゃないか?」
「チャンス?」
即座に訊き返したロッソに、セロはわずかに逡巡した挙句、再び口を開いた。
「あぁ、ここから逃げ出すチャンスってことだ」
耳朶を打つセロの言葉に、ロッソは目を見開いて訊ねる。
「しょ、正気か!? 前にも言ったが、ここは俺たちのような孤児や奴隷にとっては、またとない楽園なんだぞ? 寝る場所も、食事だってある。ここにいれば命を脅かされる心配もない。けれど……外に出ちまったら、俺たちなんて凶悪な魔物共の餌にしかならねぇんだぞ?」
彼の言う通り、両親から捨てられた子供にとって、この楽園は居心地のいい場所であった。この世界には至る所に「魔物」と呼ばれる凶悪な生き物が棲息しており、人を襲い命を奪う。
また、身に迫る危険は何も魔物だけではない。身寄りのない子どもはそれだけで売買の対象とされかねないのだ。そうした事態に陥れば、今のような暮らしは夢のまた夢となるだろう。
「じゃあ、お前はいいってのか? ここにいれば、そのうちヤツらに見つかって無残に殺されるだけなんだぞ!」
珍しく怯えを宿した目で弱音を吐くロッソに、セロは若干苛立ちを混ぜた強い口調で問いただす。
「そりゃ、確かに今のままだとそうだろうさ。けど、これは何かの間違いだろ? 俺たちが一体何をしたって言うんだ。ただここで静かに暮らしていただけなのに。そ、そうだよ……きっとこれは何かの間違いなんだ……」
セロの指摘に対し、ロッソは目前の異常事態を前にして現実逃避の言葉を呟く。そんなロッソの怯えた態度に、セロは彼の胸ぐらを掴んで声を荒らげた。
「いい加減目を覚ませよ! ここに居る子どもたちは――俺たちの仲間は、このままじゃあ、アイツらにみんな殺されちまうんだ! それに……もしお前の言う通り、何かの間違いだったとしても、俺たちには一生ここで飼い殺される運命しかないんだぞ」
「飼い殺されるって……おいおい、どうしたんだよ? まるでこの場所が檻の中とでも言いたげじゃないか」
険しい表情を浮かべて問いかけるセロに、ロッソはわずかに頬を引き攣らせながら真意を訊ねる。
「あぁ……そうだ。ここはいわば楽園という名の『監獄』だ。施設を取り囲むように設けられた高い壁、院長を始めとした大人たちの目……この状況を監獄と呼ばずして何と言うんだ?」
「……」
セロの指摘に薄々ながら同様の考えを持っていたらしいロッソは即座に言い返すことが出来ずに口を噤んでしまう。
「で、でもさ……ここは本当にいい場所なんだぜ? 病気をしても大人たちが『治療』してくれるし、ちゃんとした引き取り手があれば『卒業』させてくれる。もう野垂れ死ぬ思いをしなくて済むんだ」
「――じゃあ、お前はあの教務棟で院長からの『治療』を受けたり、ここを『卒業』していった子どもたちがその後どうなったのか知っているのか?」
弱々しい口調ながらも、辛うじて反論したロッソにセロは容赦のない一言を告げる。
「治療を受けた子どもは病気から回復すると寄宿棟に戻るはずなんだろ? だが……俺はここ最近、治療を受けて無事に戻って来た子を見た覚えはない。卒業した子にしたってそうだ。ここを卒業して出ていったとしても、長い間世話になった楽園に手紙の一つぐらい寄越すもんだろ? だが、そんな知らせはとんと聞かない。何故だか分かるか? 彼らは戻ろうにも戻れない、手紙を書こうにも書けないからだ。つまり、彼らはもう――」
「やめろ!」
ロッソはセロが最後まで言う前に咄嗟に胸ぐらを掴んで引き寄せ、厳しい口調で制した。
「……俺から言えるのはそれだけだ。で、どうする? このまま大人しく捕まるか、それえとも俺と一緒にここから逃げ出すか。時間が無い。今すぐこの場で決めてくれ」
セロは胸ぐらを掴んでいたロッソの手を振りほどくと、部屋の外の様子を窺いながら静かに告げる。
「俺は……俺は……」
今後の運命をも左右する重大な決断を迫られたロッソは、ボソボソと呟きながら頭を抱えた。 そんな時、身を潜めていた部屋の扉が開き、鎧姿の兵士がセロたちを発見する。
「いたぞ! こっちだ!」
「マズい! 逃げるぞ!」
腰に吊っていた剣を抜いて迫る兵士に、セロとロッソの二人は応援が駆けつけるまでのわずかな時間を利用して部屋の中を駆け回り、辛くも追っ手から逃れる。
しかし、最早大半の職員や子どもたちが雪崩れ込んだ兵士たちにより殺害されたため、次第にセロたちを追う兵士の数が増えてきていた。
やがて、次々と襲いくる追っ手から逃れ続けたセロたちが行き着いた先。
そこは彼らが今まで立ち入ったことのない、院長室だった。
「あぁっ、クソッ! 行き止まりか!」
部屋に入ったセロは、悪態をつけつつも、何とか自分たちが隠れられそうなスペースを探そうと試みる。
荒い息を吐きながら辺りを見回していたセロに、壁際の本棚を見たロッソが呟いた。
「……っ! ここはどうだ? 奥に繋がっているみたいだぞ!」
「よし! なら、とっとと行こう! もしかしたら外に出られるかもしれない!」
「わかった」
遠くから聞こえてくる鎧の音に急かされるように、セロたちは本棚の裏に隠された道を進む。
――それがどんな結果をもたらすか、知る暇も無いままに。
◆◇◆
「一体これはどういうことだ!」
一方、楽園から少し離れた場所に本陣として設置されたテントの中では、兵士から報告を受けたレカルナ王女が怒りの声を上げていた。
「私の指示を聞いていなかったのか? 私は中に居る者たちを『拘束しろ』と命じたはずだ。だが、つい先ほど伝えられた報告では、『討伐』と聞いたぞ?」
テント内に控えたレカルナは怒りの形相を見せつつ、報告を行った兵士に詰め寄る。詰め寄られた兵士がビクリと身を震わせながらも、言葉を紡ごうとした矢先、レカルナの横から声がかけられた。
「……レカルナ王女。確かに私どもは王女の命に従い、危害を加えないと説明した上であの中に居る者たちを拘束しようと試みました。しかしながら、ヤツらはこちらの要求を突っ撥ね、あろうことか王女の命令に背こうと抵抗してきたのです」
「何だと!?」
反射的に鋭い目で問いただした先には、怒りを滲ませるレカルナとは対照的などこか余裕を見せるシュルツ男爵の姿があった。
「その結果、現に我々の方にも犠牲者が出ています。おい……そうだったな」
「は、はい。数は少ないですが……」
レカルナ王女の怒りに満ちた形相に気圧されていた兵士は、言葉を詰まらせながらもシュルツからの問いに答える。
「そ、そんな……」
現実として起きてしまった悲劇。相手はこれまで武器を手に取ったことの無い者たちだからとどこか油断していたのか――そんな思いを抱きつつ、呆然と立ち尽くすレカルナの心を見透かすように、シュルツは言葉を発した。
「私は先に申し上げたはずです。楽園の者たちからすれば、我々は『敵』なのだ、と。自らの安寧の場所を奪おうとする敵に対し、追い詰められた者が命を賭して戦おうとするのは当然と言えるでしょう。既に我々の方にも少なからぬ犠牲が出ている。仲間を失った悲しみは恨みとなり、やがては暴力として連鎖する……もうこうなった以上、我々ができるのは楽園に再び静寂が訪れるのを待つことのみでしょうな」
シュルツの冷酷な言葉に、レカルナ王女はわずかな救いを求めるように傍に控えていたミュルゼ侯爵の顔を窺う。だが、彼は無言のまま首を横に振った。
「私は……何もできないのか……」
突き付けられた現実に、愕然とするレカルナにその場に集まった貴族たちが彼女の思いを察して沈痛な面持ちを浮かべる。
しかし、その中でシュルツはただ一人、誰にも気取られないように小さな笑みを浮かべていた。
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