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水色の月
しおりを挟む 水色の満月が夜空に高く浮かんでいる。最上の形状、最高の色合いの月だというのに、隣を歩く女性は沈痛な面持ちで俯き、一言も喋らない。
この鄙には稀な美女と道連れになった当初から、この女性をなんとかものにしたい、という下心をわたしは抱いていた。しかし、こちらがいくら話しかけても返事をしてくれないので、取りつく島がない。
さて、どうしたものか。
思案を巡らせていると、突然、女性が足を止めた。
「どうされましたか。ご気分が優れないのですか?」
「いいえ。とても尊いものが近くにあるのに、あたし一人がそれに気がついていないような気がして……」
わたしは身震いを禁じ得なかった。女性の声が実に美しかったからだ。絶対にわたしのものにしてやる。そう強く胸に誓った。
「近くにある尊いもの――それはあれのことではないですか? ほら、見てください」
夜空の満月を指し示す。顔を上げた女性は、水色に染まった天球を目の当たりにして、双眸を見開くと共に歓声を上げた。
「凄い! 水色の月! 綺麗……!」
「でしょう。月でさえも、予告なく色を変える時代なのです。人間一人の些細な悲しみなど――」
「ちょうだい、ちょうだい!」
女性は道路脇の叢の中に入っていった。足が地面を踏み締めるたびに上体が大きく揺れていて、足取りはかなり危なっかしい。眼差しは一直線に水色満月に注がれている。
女性の背丈は、歩くごとに少しずつ縮んでいる。
「待ってください!」
自らも叢の中に入ってみて、その理由が分かった。叢ではなく、湿地だったのだ。柔らかい泥の地面に足が沈んでいるのだ。
面食らったわたしが立ち竦んでいる間も、女性は届くはずのない月に向かって前進する。あっという間に肩まで水に浸かった。
「待って! これ以上行ってはいけない!」
しかし女性はなおも歩き続け、頭のてっぺんまで水中に沈んだ。
すぐに助け出せば、命は助かる。
女性が沈んだ地点まで走ろうとしたが、両足が動かない。わたしの両足が沈んだ付近の泥だけ、コンクリートのように固まってしまったのだ。懸命に足を引き抜こうと試みたが、何度やっても抜けない。
やがてわたしは悟る。もうこんなに時間が経ったのだから、女性は窒息死してしまったに違いない、と。
きっと顔を上げ、憎らしいまでに平然と夜空に浮かぶ水色満月を睨みつける。憎くて、憎くて堪らない。殴れるものなら殴ってやりたかったが、遠すぎて届かない。届くはずもない。
女性を救えなかったこと。女性の命を奪った水色満月に復讐する力がないこと。二種類の無力感に同時に襲われ、両目から涙が溢れ出した。
するとどうだろう。涙が流れ出れば流れ出るほど、満月の水色が薄らいでいくではないか。
やがて涙が涸れた時、水色満月が浮かんでいる場所には、輪郭の大きさと形が満月と全く同じの巨大な穴がぽっかりと開いていた。
その穴から、死んだはずの女性が顔を覗かせた。
目が合うと、彼女は表情を綻ばせた。わたしに向かって控えめに手を振り、穴から顔を引っ込める。それと同時に、穴と夜空との境目が急速に曖昧になり、視線の先には漆黒が広がるばかりとなった。
この鄙には稀な美女と道連れになった当初から、この女性をなんとかものにしたい、という下心をわたしは抱いていた。しかし、こちらがいくら話しかけても返事をしてくれないので、取りつく島がない。
さて、どうしたものか。
思案を巡らせていると、突然、女性が足を止めた。
「どうされましたか。ご気分が優れないのですか?」
「いいえ。とても尊いものが近くにあるのに、あたし一人がそれに気がついていないような気がして……」
わたしは身震いを禁じ得なかった。女性の声が実に美しかったからだ。絶対にわたしのものにしてやる。そう強く胸に誓った。
「近くにある尊いもの――それはあれのことではないですか? ほら、見てください」
夜空の満月を指し示す。顔を上げた女性は、水色に染まった天球を目の当たりにして、双眸を見開くと共に歓声を上げた。
「凄い! 水色の月! 綺麗……!」
「でしょう。月でさえも、予告なく色を変える時代なのです。人間一人の些細な悲しみなど――」
「ちょうだい、ちょうだい!」
女性は道路脇の叢の中に入っていった。足が地面を踏み締めるたびに上体が大きく揺れていて、足取りはかなり危なっかしい。眼差しは一直線に水色満月に注がれている。
女性の背丈は、歩くごとに少しずつ縮んでいる。
「待ってください!」
自らも叢の中に入ってみて、その理由が分かった。叢ではなく、湿地だったのだ。柔らかい泥の地面に足が沈んでいるのだ。
面食らったわたしが立ち竦んでいる間も、女性は届くはずのない月に向かって前進する。あっという間に肩まで水に浸かった。
「待って! これ以上行ってはいけない!」
しかし女性はなおも歩き続け、頭のてっぺんまで水中に沈んだ。
すぐに助け出せば、命は助かる。
女性が沈んだ地点まで走ろうとしたが、両足が動かない。わたしの両足が沈んだ付近の泥だけ、コンクリートのように固まってしまったのだ。懸命に足を引き抜こうと試みたが、何度やっても抜けない。
やがてわたしは悟る。もうこんなに時間が経ったのだから、女性は窒息死してしまったに違いない、と。
きっと顔を上げ、憎らしいまでに平然と夜空に浮かぶ水色満月を睨みつける。憎くて、憎くて堪らない。殴れるものなら殴ってやりたかったが、遠すぎて届かない。届くはずもない。
女性を救えなかったこと。女性の命を奪った水色満月に復讐する力がないこと。二種類の無力感に同時に襲われ、両目から涙が溢れ出した。
するとどうだろう。涙が流れ出れば流れ出るほど、満月の水色が薄らいでいくではないか。
やがて涙が涸れた時、水色満月が浮かんでいる場所には、輪郭の大きさと形が満月と全く同じの巨大な穴がぽっかりと開いていた。
その穴から、死んだはずの女性が顔を覗かせた。
目が合うと、彼女は表情を綻ばせた。わたしに向かって控えめに手を振り、穴から顔を引っ込める。それと同時に、穴と夜空との境目が急速に曖昧になり、視線の先には漆黒が広がるばかりとなった。
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