いかされ

阿波野治

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殺人鬼の家

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 相葉先生は日本刀を竹刀袋に収めると、私を促して建物の外に出た。ケンの遺体も、フレデリカさんの遺体も放置したままで。

「ユエちゃんにはこれから、私の家まで来てもらいます」

 穏やかだが有無を言わさない語調で、相葉先生は命じる。

「あなたは賢いから、ごちゃごちゃ言う必要はないと思うけど、一応言っておきますね。ユエちゃんに拒否権はありません。なぜなら、私の方が強いから。私があなたを助けたのは、私の欲望を叶えるためであって、あなたを守るためではないから。分かったかな?」

 首肯。歩き出したので、ついていく。
 先生はわたしが後ろを歩くことを許しているし、後ろを振り向きもしない。しかし、逃げようとしても逃げられないだろうな、というのは、試してみるまでもなく理解できる。だから、行動を起こす意欲は湧かない。ケンを圧倒するシーンを見せられた時点で、その選択肢は実質的に消滅していたのだろう。

 期待できないのは、助けが入ることも同様だ。
 わたしたちは現在、人気のない道を歩いている。仮に誰かが通りかかるか、人通りのある道に出たとしても、相葉先生はごく普通の若い女性で、わたしはごく普通の少女。通行人からすれば、わたしを救うために動く理由がない。わたしが助けを求めたとしても、間違いなく、目的を遂げる前に先生に斬り殺される。人前で凶器を振るったことで先生は逮捕されるかもしれないが、わたしが死んだのでは元も子もない。
 ようするに、黙ってついていくしかない。

「子供のころ、十一歳だったかな? 家で料理の手伝いをしていたら、包丁で指を切ったの。切り傷を負うんじゃなくて、肉片が切り離されちゃってね。切り離される、なんて言うとおどろおどろしいけど、大きさ的にはほんのちょっと。うすっぺらくて、正円形に近い楕円形みたいな形で、直径でいうと一センチ以下。五・六ミリとかかな」

 世間話でもするような気軽さで、相葉先生は話し始めた。

「あ、切れたと思って、パニックになったのね。人体の一部が切断されることって、普通に生活していたらないでしょう。髪の毛とか爪とかであれば抜けて当たり前だし、切って当たり前じゃない。だけど、本来であれば離れてはいけないものが離れたから、もう慌てたし、怖かったし、どうしようと思って。肉片を元の場所にくっつけて絆創膏でも貼っておけば、しばらくすればくっついていたんだろうけど、世界が終わるんじゃないかレベルで混乱してしまって。どうにかして肉片を処理しなきゃ! その一念だったんだけど、捨ててしまうのも、手元に置いておくのも怖くて。どちらでもない証拠隠滅方法ということで、口の中に入れたのね。で、よく噛んでから飲み込んだんだけど、そしたらもうね、美味しくて、美味しくて。誇張でもなんでもなく、今までに食べたどんな食べ物よりも美味しかった。それ以来、自分の体を少しずつ、少しずつ、削っては食べるようになったの」

 時折歓喜が見え隠れするものの、基本的には口調は淡々としている。事前にセリフを考えていたわけではないようだが、弁舌には淀みがない。

「太ももとか、贅肉がたっぷりあって、服の内側に隠れる部位を削るようにしていたんだけど、当たり前だけど痛いし、傷跡が残ることもあるでしょう。これはちょっと割に合わないな、ということで、他人を狙うことにしたの。小型の刃物を常に持ち歩いて、機会を見つけてはさり気なく刃を振るって、切り取った肉片を持ち帰って食べる、というわけ。でも、成功率は限りなく低いし、捕まったらおしまいだし、やっぱり割に合わない。試行錯誤と挫折をくり返すうちに思春期に入って、人肉に対する興味関心が相対的に薄れて、通り魔稼業からは足を洗ったの。でも、あくまでも相対的に薄れただけであって、人肉を食べたい願望はずっと残っていたのね。交通事故現場に行けばタダで食べられるんじゃないかとか、また通り魔をやろうかとか、葛藤と煩悶があって。教師になる道を選んだのも、人肉を食べたい願望があったからこそ。弱い存在が近くにいる生活を送れば、もしかしたらチャンスがあるんじゃないかな、と思って。じゃあ、どうして小学校でも中学校でもなくて高校かというと、高校生って成長期がそろそろ終わる年齢だけど、肉はまだまだ柔らかいでしょう。ようするに、最も美味しくて最も食べごろなのね。もちろん、その時点ではがっつり食べたことはなかったから、百パーセント憶測なんだけど。小学生の方が殺しやすいから、やっぱり小学校の方がよかったかな、だなんて、葛藤なり煩悶なりがまたあったんだけど、結果オーライという感じかな。来るべき時に備えて、剣術を習うとか、体力を鍛えるとか、準備をしてきた甲斐があったというものね」

 相葉先生は肩越しにわたしを一瞥した。感情が表に出ていないので、心の中を読むのは難しいが、リアクションを欲する気持ちがあるものと思われる。しかし、わたしはなにも言わなかった。先生の供述は、情緒面に欠陥があるなりに驚いたし、感心した。とはいえ、心の揺れの規模は決して大きくはなかった。
 もちろん、相葉先生が命じれば話は別だ。しかし、奇妙な優しさの持ち主である彼女は、ただ一言、こう呟いただけだった。

「すぐには殺さないわ。すぐには、ね」


* * *


 相葉先生の自宅は、閑静な住宅街の外れに孤立していた。こぢんまりとした、二階建ての一軒家。地味で目立たない外観だが、禍々しい雰囲気が漂っている。食人鬼の根城、という意識をわたしが持っているからこそ、だろうか。

「こっちに来て」

 家に上がると、真っ先にバスルームに案内された。ドアに相対した時点で、嫌な予感がした。相葉先生の手がドアを開く。
 歓待したのは、腐臭と、糞便臭と、血なまぐささが等しい割合で混ざり合ったような、それはそれは酷い悪臭。
 至るところに赤が飛び散っている。時の経過により赤黒く変色した血だ。片隅には、両の眼球をくり抜かれた若い女性の頭部が転がっている。他には、切断された手の指が二本に、内臓の一部らしきものがいくつか。

 バスタブの中を見るように手振りで促された。言われた通りにする。
 胴体だ。頭部と四肢と乳房が付け根から切断された、女性の胴体。鳩尾から性器にかけて真一文字に切り裂かれ、腸が露出している。ところどころが食いちぎられて、残飯と糞便の中間とでも呼ぶべき内容物がこぼれ、高濃度の異臭を立ち昇らせている。外に転がっていた頭部と同一人物なのかは、判断がつかない。

「というわけで、ユエちゃんには今日からここで暮らしてもらいます。――よいしょっと」

 前屈みになって頭部を脇にどける。奥に隠れていたのは、鉄製の鎖。相葉先生がそれを持ち上げると、先端に首輪がついている。南京錠つきの、鎖以上に重々しい鉄製の首輪が。
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