いかされ

阿波野治

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ケンの帰宅

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「もしかして、誰か来た?」

 帰宅したケンを出迎えたわたしに、彼は真っ先にそう問うた。顔つきは険しい。わたしは恐怖も焦りも覚えなかった。ただ、わたしたちがいる一帯の気温が下がったのを感じる。

「知らない人間の匂いがする。女物の化粧品? 香水? 整髪料? なんて言ったらいいか分からないけど、とにかく赤の他人に起因する匂いだね。ユエ由来じゃない。女の匂いだけど、人工の匂いだからカモフラージュの可能性も……」
「ケン、心配しなくてもいいよ。お客さんが来ただけだから。お隣さんと、相葉先生」
「お隣さん? ピンク髪の女のこと?」

 首肯。

「てか、二人も来たんだ。相葉ってどこかで聞いた名前だけど、誰だっけ」
「四人に絡まれたときに助けてくれた、世界史の先生。わたしのことを心配してくれたみたいで、高井の件で忙しい中、わざわざ訪ねてくれて。ケーキまで御馳走してくれたの」

 こちらから訪問を要請した事実は告げない方がいい。ケンの性格と、彼のわたしに対する愛情を考慮すれば、それが無難な選択だ。

「そっか。先生については分かったけど、隣の女はなにしに来たんだよ」
「昨日の件の念押し。ようするに、ケンとセックスがしたいからよろしく、ということを。それから――」

 訪問時のフレデリカさんの発言と行動について、わたしの個人的な見解なども交えながら伝える。彼女が現役のAV女優であることと、出演したアダルト動画を見せられたことについては、はぶいた。時間の無駄だからだ。

「ふーん。昨日も思ったけど、やっぱり変な女だな」

 後頭部をぼりぼりとかきながらのケンの言葉だ。

「フレデリカさんはケンに興味津々だけど、ケンはそうじゃないんだね」
「うん。だって、そいつ、ユエが一人のときを狙って訪問したんでしょ?」
「おそらくは」
「だったら、どうでもいいよ。ぼくにびびってるような小物、相手したってしょうがない」

 いきなり耳を寄せたかと思うと、ケンらしいともらしくないとも言える、どこかハスキーな声で、

「殺すか、そいつ。面倒くさいし」
「奇遇だね。わたしも、ケンにそうしてほしいと思っていたところ。ターゲットが六人に増えるけど、平気?」
「平気、平気。もうデブは消してやったから、残っているのは五人、スタート時点と同じでしょ。だから大丈夫、大丈夫」
「いつ殺すの? まだ決まっていない?」
「うん。でも、上手くやるから任せておいて」

 ケンの表情が漸く柔和な、子供らしいものに変わった。わたしの背中を押しながらリビングへ。

「どうだった? 偵察の結果は」

 ダイニングとリビングの境界線上まできたところで、わたしは足を止めて質問をぶつけた。
 ケンからの返事はない。落ち着かない様子でリビングをうろつきながら、小鼻を盛んに蠢かせている。まるで初めてとなる場所に連れてこられた犬や猫だ。

「ケン、落ち着かない?」
「うん。隣の女については分かったけどさ、その相葉って女はユエにはなにもしてないよね? きみが傷つくようなことは」
「ええ。生徒と教師の関係だし、同性だし、ケンが懸念しているようなことは特になにも」

 不意に、ケンのボトムスの股間部分が膨らんでいることに気がつく。
 彼はわたしの視線を辿り、もう一人の自分の現状を把握したらしい。気怠そうながらも素早く手を動かし、下半身裸になる。ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、貧乏ゆすりをしながらペニスをしごく。どす黒い棒は見る見る膨張していく。盛んに分泌される我慢汁によって亀頭がてらてらと輝く。

「あー、なんだろ。落ち着かないな。なんか落ち着かないんだよなー、くそっ。……いや、分かるよ? ユエがなにもされていないっていうのは、雰囲気からだいたい伝わってくるんだよ。それが理由で落ち着かないんじゃない。やっぱ、あれかな。ねぐらによそ者が来たのがいけなかったのかな」
「偵察先でなにか問題が起きた、とかではないよね」
「違うよ。そういうことじゃない。落ち着かないだけなんだよ。ただ落ち着かないだけなんだ」

 ケンの物言いはぶっきらぼうだ。というよりも、投げやりといった方が近いかもしれない。
 質問は余計だったかもしれない。いや、確実に余計だった。ケンが現在している行為を考えれば、彼の不満の正体は、わたしに求められている行為は、あれしかない。
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