いかされ

阿波野治

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秘密

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 とたんに、胸の深奥に潜んでいた好奇心が疼き出した。
 客観的に見れば、些細な、看過できる程度の影響力に過ぎない。しかし、興味や関心というものをめったに抱かないわたしは、この波に乗ってみよう、という前向きな気持ちになった。

 竹刀袋を一瞥し、相葉先生が開閉したばかりのドアを一瞥する。音を立てずに這い進み、袋の前まで行く。
 一見しただけでは開け方が分からない。束の間、利き手と視線が空をさ迷ったが、ほどなくファスナーを発見した。手をかけようとした瞬間、

 視線。

 ドアが隔たっていたとはいえ、数メートルの距離があったとはいえ、トイレのドアの開閉音をたしかめないまま行動に移ったのは迂闊だった。しかし、後の祭りだ。
 ドアの隙間から、一対の瞳がこちらを窺っている。無音を奏でながらドアが開かれる。

 何十秒かぶりに姿を見せた相葉先生は、緊迫した雰囲気をまとっていた。ただし、禍々しさはない。殺意も、狂気も、破壊衝動も読み取れない。わたしが感情をほとんど覚えない欠陥人間だから、ではなくて。
 しずしずと歩み寄ってくる。わたしは四つん這いの姿勢を正さない。相葉先生は竹刀袋を挟んでわたしの真正面にしゃがみ、目を合わせてきた。

「見てないわよね?」

 返事をするまでもないので、無駄な言葉は発さない。首の動きも右に同じだ。

「見たい?」

 小首を傾げての問いかけだ。わたしは首肯する。唇が薄く開き、無音の吐息。

「分かった。それじゃあ――」

 機械音にも似た音を立てながら、ゆっくりとファスナーが開かれる。全長の半分ほどだ。相葉先生の両手が隙間を拡大する。口の角度と照明の相乗効果により、収納物を取り出すまでもなく、フォルムがある程度明瞭に視認できた。
 まったく予想していなかった代物だった。それでいて、竹刀袋に秘めておくものはこれしかない、とわたしには思えた。

 どうしてこんなものが、と目で問う。不可解に思う気持ちはよく分かるわ。そう言うかのように、相葉先生は口角を少し引き上げる。表面的には柔和なのに、普段のおっとりとした、親しみやすい雰囲気は微塵もない。

「私は、本来は持ち歩いてはいけないものを持ち歩いている。だから、お詫びに、等々力さんに見せた。等々力さんは、人の持ち物を勝手に見ようとした。だから、お詫びとして、この事実は誰にも口外しない。ようするにギブアンドテイクね。……いい?」

 首肯。相葉先生は小さく頷き、衣擦れの音さえ立てずに立ち上がる。ファスナーを閉じ、竹刀袋の肩紐を掴んで肩にかけるまでの一連の動作は、いかにも手慣れている。

「じゃあ、私はそろそろお暇させてもらうね。お茶、ごちそうさま。また今日みたいにお話ができたら」
「――先生」

 わたしは立ち上がった。相葉先生は玄関へと向かいかけていた足を止め、肩越しにわたしを振り返る。

「どうして、わざわざ見せたんですか。まだ見ていなかったことは、ファスナーが閉まっていたから分かったはずです。それなのに、どうして」
「さっき言ったでしょう、共有できるものがあると仲よくなれるって。私と等々力さんは秘密を共有した。だから、仲よくなれる。それから先は――シミュレーションするだけ野暮というものね」

 先生はドアを開けて玄関へ向かう。見送りという、ホステスの義務を果たすためだけについていく。

「等々力さん。下の名前、よかったら教えてくれる?」
「ユエ、です」
「かわいい名前ね。私は京子。次からそう呼んでくれても、もちろん呼ばなくても、どちらでも好きにして。それじゃあ、ユエちゃんまたね」


* * *


 感情をほとんど覚えないというわたしの特性を、相葉先生は知らないはずだ。ただ、無表情だし、声に感情を込めないという、分かりやすい異常を常に発信している。情緒面になんらかの欠陥がある人間だと認識しているはずだ。
 だからこそ、わたしに打ち明けたのかもしれない。
 自分一人で考えただけでは、絶対に正答に辿り着けない問題だろう。考えるのはそれくらいにして、食器を洗う手を動かす。

 フレデリカさんと相葉先生の訪問が、ケンの心理状態に大きな影響を及ぼすとは思えない。しかし、これ見よがしに痕跡を放置しておく理由もない。
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