いかされ

阿波野治

文字の大きさ
上 下
32 / 46

相葉先生

しおりを挟む
 ドアを開けると、淡く甘い匂いが鼻孔に到達した。
 訪問者である相葉先生は、肩から竹刀袋を提げている。

「先生、こんにちは」
「はい、こんにちはー。おみやげにケーキ、買ってきたから。チーズケーキ」

 右手に提げたものを顔の高さまで持ち上げ、実年齢よりもいくぶん幼く感じられる微笑みを浮かべる。

「等々力さん、チーズケーキは好き?」
「はい、好きです。どうぞ、上がってください」

 散らかっていますが。感情を正常に覚える人間であれば、そんな余計な一言を付け足していたかもしれない。

 ダイニングテーブルにするか、リビングのちゃぶ台にするか。少し迷って、後者を勧める。
 相葉先生は肩から竹刀袋を外し、音を立てずに床に横たえ、淑やかに腰を下ろした。

「先生、どうぞ」

 お待たせしました、と言おうとしたが、直前で文言を変更した。ウエイトレスみたいだ、と思ったからだ。ケーキの皿とフォークを置く。二人分。わたしが足音を立てずにやって来たため、わたしの接近に直前まで気がつかなかったらしく、相葉先生は虚を衝かれたらしい表情を見せた。しかし、すぐに社交用の微笑みを上書きし、

「ありがとう。ケーキをお皿に移すの、私がした方がよかったかな?」
「お客さんにさせるわけにはいかないと、わたし自身は思いますが」
「そういう細かいマナー的なことって、大人になってもよく分からないわよね。歳を重ねれば重ねるほど染みついていくものなのだろうけど」

 曖昧に頷く。キッチンに引き返そうとすると、それにしても、という声。

「部屋、きれいに片づいているね。一人暮らしだと、女の子でも散らかっちゃうものだけど。等々力さんは一人暮らし?」
「もともとはそうでした。今は一時的に同居している人がいます。親戚、なんですけど」

 少し間があって、小さく首肯。根掘り葉掘り訊いてこようとはしない。賢い分、大人の相手をする方がよっぽど楽だ。

 茶の用意が完了し、わたしは食べ始める。リラックスした雰囲気の中で、他愛もない言葉のキャッチボールが静かに行われる。チーズの濃厚な味わい。市内にあるおすすめのスイーツの店。子供のころに食べたスイーツにまつわる思い出。話題の選定には、極めて人工的な香りを感じる。相葉先生なりに気をつかっているのかもしれない。

 会話の傍ら、先ほどフレデリカさんに見せられた映像の数々を思い返す。尿、痰、大便。相葉先生はそれらの映像を鑑賞しながら、あるいは脳内で再生しながら、チーズケーキを食べられる人だろうか?

『ユエちゃん。今日やっと気づいたけど、あなたもなかなかやばいやつね』

 フレデリカさんが言うところの「やばいやつ」に該当する人なのだろうか?
 相葉先生は、教室の床に落ちていた猫の内臓や、わたしを虐げる四人に対しては、臆することなく、むしろ平然と、あるいは毅然と接していた。

「先生」

 わたしは相葉先生の発言を遮った。「子供時代に食べたスイーツの話」が、「子供時代の思い出話」へと融け広がっていきそうな気配を察知したからだ。

「わたし、先生と話がしたい、と電話で言いましたよね。多分、勘違いしていると思うから言うんですけど、悩みや相談があるということではなくて、単に暇なんです。だから、なにかためになるお話をしてくれたらいいな、と思って、先生に家まで来てもらったのですが」

 人によっては怒り出してもおかしく発言だ、と理解していた。そして、相葉先生はその例からは漏れる人間だ、ということも。

「ためになる話、か」

 深刻に困惑する、という顔を相葉先生は見せた。それはすぐに明るい苦笑に変わった。

「いきなり言われると難しいね。……うん、かなり難しい。教師という立場ではあるけど、まだ社会人一年目、教師一年目の若輩者だから。ためになる話――うーん」

 思案していた総時間は意外にも短く、三十秒にも満たなかった。先生はフォークを皿に置くと、わたしの目を見ながら語り始めた。
しおりを挟む

処理中です...