いかされ

阿波野治

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不在の夜

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 若い男性がアラビア語をしゃべっている。確証はないが、おそらくアラビア語だろう。
 ネイティブの発音ではない。日ごろアラビア語を聞く機会がないわたしにも、ネイティブではないと察せられる。無尽蔵に湧出する恐怖を死に物狂いで抑えながら、声の限りに絶叫しそうになるのを堪えながら、なおかつ発音が不明瞭にならないように、技術を、それ以上に気力を振り絞りながら、男性はしゃべっている。

 必死。「一言で表す」という制約のもとに説明するならば、その単語以上に適当な単語はないだろう。

 理路整然とした文章を朗読しているらしい語調だが、わたしはアラビア語を解さないので、発言内容は一ミリも把握できない。読み取れるのは、必死さ、真剣さ、緊迫感、これらの情報のみだ。

 ダウンロード元のウェブサイトの説明によると、イスラム過激派組織に拉致された二十代のアジア系の男性の、処刑される直前の音声らしい。

 一度聴いた者は、身の毛がよだつようなおぞましさを感じただろう。終日、その音声を念頭から消し去れないだろう。今後の生涯において、折に触れて、己の意思とは無関係に音声が再生される呪いを得ただろう。
 わたし自身は、ポジティブ・ネガティブを問わず、なんらかの感情を抱いたわけではない。ただ、心には残ったので、機会を見つけてはダウンロードした音声を聴いている。隣で眠るケンの眠りを覚まさないように、有線イヤホンを介して聴くという最大限の配慮をして。

 わたしはわたしが欠陥人間である事実を認めて以来、「感情とはなにか?」という謎を解き明かそうと模索してきた。そのほとんど唯一の手段として、アニメや小説などのフィクションの世界に、人並み以上に積極的に、かつ多大に触れてきた。しかし、得られたものはといえば、広く浅い知識と読書の習慣だけ。肝心要である感情のなんたるかは、一ミリも理解できなかった。

 知識を蓄積していく中で、わたしは死という現象に関心を持つようになった。

 人間は必ず死ぬ。死は恐ろしいものであり、誰もが恐怖するものである。達観の境地に至った聖人や哲人や超人たちも、誰もが死を恐怖していた時期が必ずあった。
ならば、わたしも死を恐怖できるはずだ。死を予感するほどの絶大な恐怖に直面すれば、あるいは。そう考えて、様々なグロテスクで、血なまぐさくて、破滅的なコンテンツに触れてきた。

 フィクションの中に真実は落ちていないという考えのもと、現実の一部を切り取ったコンテンツに集中的にアクセスした。オンラインかオフラインかでいえば、前者。形式としては音声と動画で、特に後者はよく視聴した。

 生きたままチェーンソーで、ナイフで首を切断される、メキシコの男性二人組。ウクライナの少年三人組が、森の中で男性の眼球にアイスピックを突き刺し、ハンマーで頭部を殴って殺害する一部始終。マチェーテで腕、脚、首の順番で切断されて殺される、ブラジルの少年。

 様々なグロテスクな映像や音声に触れてきたが、わたしの感情は動かなかった。あるいは、動いたかな、と思い、真摯に自分自身と向き合ってみると、錯覚だったと判明した。「これはグロテスクな映像であり音声である」とちゃんと認識できたし、世間一般の人からすれば怖いのだろうな、おぞましいのだろうな、吐き気を催すのだろうな、と客観視できる。しかし肝心のわたしは、恐怖を感じることもなければ、嘔吐感を覚えることもない。

 昨日、わたしは待ち伏せをしていたケンに襲われ、処女を奪われた。
 あれは紛れもなく、わたしがこれまでに体感した中で、最大級の恐怖の出来事だった。
 ただ、ここで言う恐怖とは、あくまでも世間一般の基準から見ればの話。わたし自身は、怖いとはまったく感じなかった。乱暴な真似をされ、未踏の領域に土足で立ち入られたことで必然に覚える、痛み。それを覚えただけであって。

 ケンとの同居生活二日目が早くも終わろうとしている。ケンは五人を殺すと約束したし、フレデリカさんを殺すこともほぼ決まった。
 わたしの生活に占める恐怖と死の割合は、次第次第に高まっている。

 いずれ、欠陥人間でも恐怖を覚えざるを得ないほどの恐怖に、わたしは遭遇するのだろうか?
 わたしはどうやら、その未来に期待しているらしい。
 もっとも、感情をほとんど覚えないわたしは、本質的に欲望を抱きにくい。もしそうなったら嬉しいかな、程度の、消極的で些末な感情に過ぎない。

 男性が二回目の読み上げを終えた。わたしの人差し指が音声を停止させる。普段のように何度も何度も、くり返しくり返し聴くのではなく、スマホの電源を落としたのは、ケンの眠りを阻害する可能性を危惧したからだ。
 ようするに、その程度の関心。たかが知れた積極性。

 そんな態度で、求めているものに辿り着けるのだろうか? そんな反省が、これまでにないわけではなかった。
 しかし、消極的だろうと、関心がさほど高くなかろうと、恐怖の方からわたしのもとを訪れてもおかしくない状況に、現在はなっている。
 現実がどう展開するのかは、感情のなんたるかと同様、わたしは知る由もない。


* * *


 闇の中で目を覚ました。携帯電話を確認すると、夜の真ん中だった。

 隣で眠っているはずの人が、いない。

 横たわったまま家内の気配を探ったが、人気は感知できない。ケンは殺人鬼だけあって、気配を殺すことに長けている印象がある。しかし、いくら彼であっても、これほどまで完璧に消すのは無理だ。そもそも、味方しかいないこの空間で、そうする必要はない。
 殺人を実行するために家を出たのだ。

 今日殺すのは、罪なき一般市民だろうか。それとも、クラスメイトの五人のうちの誰かか。後者だとすれば、自宅の自室で就寝しているだろうに、どうやって殺すのだろう。前者だとすれば、男性か、女性か、若者か、老人か。女性だとすれば、強姦もセットで行うのだろうか。強盗は? 死体損壊は? カニバリズムは? ひと仕事を終えたあと、ちゃんとこの家まで帰ってくるのだろうか。殺人を犯した高揚感から、わたしを叩き起こして報告を行うのだろうか。それとも、何食わぬ顔で隣に潜り込み、何事もなかったように眠りに就き、何事もなかったかのように朝を迎えるのだろうか。

 想像を巡らせている時間は、ある種の楽しさを感じないでもなかった。
 さりとて、生理現象には抗えず、やがて眠りに落ちた。
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