いかされ

阿波野治

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各人のリアクション

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 こすりつけられた性器の臭いは存外頑固だ。洗っても、洗っても、完全には落ちない。

「等々力、臭くね? なんか、ほんと、マジで臭いんだけど」

 中条さんの机の前を通ったさいに、異臭が鼻孔を掠めたらしい。彼女はわざわざわたしの机の前まで来て、汚物を見るような目をわたしに向けながら、罵言を吐いた。先に教室に帰っていた五人が、その発言を耳にしたらしく、どっと笑った。
 数名の人間が、心から誰かを見下した笑いを一斉に弾けさせると、本当にどっという音がする。この事実を、この世界に存在する何人の人間が把握しているのだろう。

「くっせーんだよ。死ねよ、ボケ」

 机の脚を蹴飛ばし、中条さんは自席に帰る。掛け時計を見上げると、そろそろ世界史の授業が始まる時間だ。わたしは教科書と筆記用具の準備に取りかかる。


* * *


「等々力さん!」

 休み時間を利用して、もう一回だけ体を洗っておきたくて廊下を歩いていると、声が届いた。足を止めて振り向く。視界に飛び込んできたのは、藍色のブラウスに包まれた胸を揺らしながら走り寄ってくる、相葉先生。

「よかった、追いつけて」
「わたしになにか用ですか」
「うん。ちょっとね、等々力さんの制服? 髪の毛? 体? ちょっと分からないんだけど、変な臭いがしていたから、気になって」

 相葉先生は先ほどの世界史の授業で、机と机の間を歩き回りながら教科書を読んだ。わたしまで最も接近したときの距離は、約三メートルだったから、臭いに感づいていたとしても不思議ではない。

「等々力さんを責めているんじゃなくて、なにかトラブルでもあったのかなって、心配になったの。誰かになにかされたんじゃないかなって」

 クラスメイトとクラス担任以外の人間から、被害に言及されたのは初めてかもしれない。驚きはないが、興味深いと感じる。相葉先生は若い先生だし、性格がおっとりしているから、しっかりしているイメージはなかった。

「困っていることがあるなら、先生、協力するよ。相談室、多分今も空いていると思うから、そこへ行ってもいいし。もちろん、気軽に立ち話をするのでも全然構わないから」

 相対した当初は、こちらの警戒心を解きほぐそうとするような微笑みだった。それが今は、いかにも日ごろから親身になって生徒に接する教師ですよ、という顔に変わっている。
 わたしは視線を窓外に逃がす。空は雲と青空の割合が拮抗し、個性が感じられない。

 相葉先生は黙して返答を待っている。世の中には、沈黙の意味を過大に捉える人間が一定数存在するが、彼女はどちら側に属する人間なのだろう。
 脳内で検討してみたが、五人のことを相談する気にはなれそうもない。クラス担任でもない、新任教師の彼女に、事態を根本的に解決する力があるとは思えないからだ。なおかつ、事情を最初から最後まで話すのは億劫でもある。

「いえ、今のところありません。心配をかけて、すみません」

 浅くでも深くでもなく頭を下げる。相葉先生は、にこやかだが心の中が読み取れない顔をしている。もう一度お辞儀をし、わたしは歩き出す。
 先生は食い下がってはこなかったが、わたしのことをずっと目で追っていた。
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