記憶士

阿波野治

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「あら、秋奈」

 ドアが開いたのにワンテンポ遅れてお母さんは上体を起こし、しとやかに微笑んだ。健康な人間と比べると緩慢だが、普段と比べると動作が機敏だ。瞳に宿っている光も充分に明るい。体調はとてもよさそうだ。

「おなかが空いていたから、待ち遠しかったわ。今日はなにを作って――」
 ドアの陰から現れた人物を見て、言葉が止まる。一拍を置いて、表情がもう一段階明るくなる。

「夏也! あらあら、どうしたの、二人揃って。珍しいのね」
「珍しいもなにも、初めてじゃないか? よく覚えてないけど」
「最初のころはあったよ。でも、久しぶりなのは間違いないと思う」
「二人とも、こっちに来なさいよ。私が思うように動けないからって、からかっちゃ駄目。ほら、早く」

 手招きをしたので、わたしたちは肩を並べてベッドへと歩を進める。わたしはテーブルを出してその上にトレイを置き、夏也はパイプ椅子に腰を下ろす。やっぱり手伝わないんだ、と思ったが、怒りは微塵も湧かない。お母さんの視線はわたしを素通りし、夏也ばかり見ている。

「夏也、どうしたの。秋奈についてくるなんて、珍しいじゃない。相談ごとがあるんだけど、打ち明けるのが恥ずかしいからついてきてもらった、みたいな?」
「妹を頼るとか、そっちの方が恥ずかしいだろ。別に、特に意味はないから。ていうか、身を乗り出すなよ。危ないから」

 あまり使わない予備のパイプ椅子を引っ張り出しながら、わたしはお母さんの饒舌を意識する。話しかけているのは夏也ばかり。やはり、甲乙をつけるならば夏也の方が好き、なのだろうか。

「お母さん、ごはん食べてよ。コロッケ、あったかい方が美味しいよ」
「そうね。いただこうかしら」

 お母さんはコロッケを箸で一口サイズにカットする。それを口に運び、よく噛んでから嚥下し、顔を子どものように綻ばせる。

「うん、美味しい。さすが秋奈、よくできてる」
「それ、俺がスーパーで買ってきたやつだけど」
「あら、そうなの。でも、温かいわね」
「わたしが温めたの。大げさに言えば共同作業だね」
「あらあら。それはいいわね」

 スローペースで食事を進めながら、お母さんは盛んに兄妹に話を振った。それが漸く一段落し、食べるのに専念したところで、夏也がわたしの袖を引いて耳打ちをしてきた。

「なあ。今日の母さん、いつもより口数多くね?」
「多分、ていうか絶対、二人で来たからでしょ。それしか考えられないよ」
「やっぱりそうか。来てよかった、ってことなのな」
「そうだね。でも、わたし的にはちょっと複雑かも」
「は? なんでだよ」
「だって、お兄ちゃんと話をしている時間の方が長いでしょ。お母さんと二人で話すときもそう。一度お兄ちゃんの話題が出ると、凄く楽しそうな顔をして、いつまでもお兄ちゃんのことばかり喋るんだよ。お兄ちゃんがわたしにこんな酷いことをしたよって報告しても、必ずお兄ちゃんの肩を持つし」
「えっ、マジ? 同じだ」
「へっ?」
「俺と二人きりのとき、よく秋奈の話をするもん。ずっとお前のことばかり褒めるんだよ。だから俺、やっぱり嫌われてるんだなって思っていたんだけど……」

 見つめ合った二人の時間の流れが止まる。先にわたしが噴き出し、夏也がそれに続く。笑い声を、笑顔を、抑え込むことができない。
 長年のもやもやが、こんなにも呆気なく、拍子抜けするくらい呆気なく解消されるなんて!

「どうしたの、二人とも」
 箸を止めて、きょとんとした顔で兄妹の顔を見比べる。わたしはやっとのことで笑いを収め、再び顔を見合わせる。代表してわたしが言う。

「ううん、なんでもないの。なんていうか、わたしたち、幸せだなって」
 やや間があって、お母さんは花のように微笑んだ。

 この一輪を、末永く守っていこう。いつの日か、記憶を保てなくなるその時まで。
 二人で力を合わせれば、それも夢物語ではないはずだ。
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