記憶士

阿波野治

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 やがてわたしの意識は、多木さんが遭った被害に向いた。
 わたしを殴って、涙して、「記憶を取り出さないと殺す」とまで言ったのだ。多木さんが被害に遭ったのは真実で、負った心の傷は相当深い。それは間違いない。性犯罪の被害に遭った経験がないわたしでも、発言が真実か誇張かの判断くらいはつく。

 厳密にいえば、全くないわけではない。人込みや満員電車の中で、故意に触ったのか、偶然触れてしまったのか、線引きが極めて難しいケースに遭遇したことが、片手で数えられるほどある。
 手の感触を覚えた瞬間は、鳥肌が立った。痴漢だったらどうしよう、という恐怖と不安が瞬く間に心を支配し、全身は強張り、心拍数は上昇した。逃げ場はあるだろうか。行為が執拗にくり返された場合や、これ以上過激になった場合に、声を上げる勇気はあるだろうか。様々な想念が脳裏を駆け巡った。体験したことがないのであくまでも想像に過ぎないが、死に際の走馬灯のようなものだったのだろう。

 ただ、不思議なもので、手が接触しなくなり、なおかつ安全な空間まで移動した途端、「その人は、わたしの体を故意に触ったのではない」という思いが圧倒的に優勢になった。犯人に対する怒りはない。安心材料を見つけてきてはそれが真実なのだと自らに言い聞かせ、問題の時間のことを忘却しようと一心に努めた。
 自分が性犯罪の被害に遭った事実を認めたくないあまり、自分にとって好都合な解釈を結論にしようとしたのだ。わたしはそう自己分析している。

 友人の中でその手の被害に遭うことが多いのは、ルックスがいい茉麻と、気弱な詩織だろうか。ただ、茉麻の場合はすぐに笑い話に変えてしまうし、詩織はそもそも被害について積極的に語ろうとはしない。
 重く暗い被害の記憶は、打ち明けるのも受け止めるのも、多大なる精神的な負担を強いられる。それは痛いくらいに分かる。
 この仕事は今までで一番難しいものになる。そんな予感がひしひしとする。

「黙っていても仕方ないから」
 多木さんが唐突に沈黙を破り、視線を合わせてきた。
「記憶士のこと、あたしに教えてよ。どんなことをする職業なのかとか、記憶を取り出す方法とかを」

「……信じてくれるの? 記憶士の存在」
「一応ね。あたしは常識的な人間のつもりだから、疑わしく思う気持ちは当然あるよ。でも、あんたの友だちの話と、話をするさいの顔つきを見たら、実在すると信じてみてもいいのかな、と思って。そうしないと話が先に進まないっていうのもあるけど」
「ありがとう」

 感謝の言葉に続いて、求められた事項について説明する。記憶士の存在を明かすというフェイズはすでにクリア済みなので、楽に話せた。まだ半人前なので失敗も数多くあることも、きちんと伝えておく。
「取り出せなければ殺す」と言い放った人が相手だ。サンドウィッチを持った手を虚空から動かせなくなるほど緊張は高まったが、なるべく正直に話した。
 周りに人もいるし、まさか殴られはしないだろうが、怒鳴りつけられたとしても文句は言えない。そう覚悟していたが、

「なるほどね。完璧ではないけど、かなり分かったよ」
 無感情な呟きとともに、多木さんは仰々しく首を縦に振った。どうやら杞憂だったらしい。
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