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俺は思い返す。一回目の四月二十八日の深夜に、冷蔵庫の中身の確認を求められたことを。そして、二回目の二十八日の昼間に、暇だから話をしてほしいと言ってきたことを。
汐莉はこちらの世界の様子が見える。それにもかかわらず、俺に冷蔵庫の中を確かめるように命じた。俺が料理をしている最中だと知りながら、電話をかけてきた。わざわざそうしたのは、なぜなのか?
それはきっと、いや絶対に、俺と会話がしたかったからだ。深夜ではあったが、料理を作っているところではあったが、その気持ちを抑えられなくなって、電話をした。それが真相に違いない。
非現実的な現実を認めたくないから、夫と話をしたくない。でも、夫と話がしたい。
汐莉は絶対に、後者の思いに身を任せるべきだ。
「俺が話をしようと言っているのは、愛する人とのコミュニケーションが不足すると、人は愚かな真似をしでかすからだ。
汐莉も分かっていると思うけど、榊さん、凄く常識的で真面目な人だろ。加えて、話を聞いた限りでは、旦那さんとの仲が無茶苦茶いい。それにもかかわらず、俺と一緒に美術館へ行きたい、だなんて言ったわけだからね。
榊さんですらそういうことをやっちゃうんだから、榊さんよりも圧倒的にアホな俺だと、笑えないくらい愚かなことをやらかしてもおかしくない。それを未然に防ぐためにも、積極的に会話する機会を持とう。榊さんは話が上手いし、話をしていて楽しい相手だけど、楽しさにかけてなら汐莉も負けていないし、なにより、お前が相手だと馬鹿なことが言える」
一呼吸を置いて、語を継ぐ。
「俺は人生をもっと楽しいものにしたい。俺の人生も、汐莉の人生も。だから俺の要望、聞き入れてくれないか?」
密やかな溜息が聞こえた。気のせいでも、他の音と混同したのでもなく、正真正銘の溜息だ。
「うん、分かった! じゃあ、そうしよう!」
「え……」
「今日からは、お話多めの日常のスタートね。規則とか制限とかがあるから完全に自由ではないけど、ゆるゆるだから大幅に増やせるよ。やったね!」
「おいおい、そんなにあっさりオッケーするのかよ。……大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
短く言い切った声からは、嘘の気配は微塵も感じられない。汐莉らしく楽天的で、能天気で、底抜けに明るい一言に、自ずと頬が緩んだ。
汐莉が大丈夫だと言ったのだから、汐莉は、俺たちは、もう大丈夫だ。心からそう確信できた。
「でも、現状を受け入れていないっていう龍くんの指摘、あれはびっくりした」
「あちらの世界へ行った現実を受け入れきれていないっていう、あれか」
「そうそう。そんな自覚はなかったんだけど、言われてみればそうだなって。びっくりしすぎてね、もうね、目からコンタクトレンズが落ちたみたいだった」
「鱗だよ、鱗。ポピュラーランク最上位の慣用句なのに、なんで知らないんだよ」
「それにしても、なんで鱗なんだろうね。生臭そうでちょっと嫌だなー。あっ、龍くんがビーチにいるからかな? 水繋がり、魚繋がりで」
「聖書からの引用だろ、目から鱗っていう表現は。N市の砂浜とはなに一つ関係ねぇよ。一ミリもかすってねぇ」
なにが面白いのか、汐莉は笑い出した。腹を抱えて大口を開けているのが目に見えるような、そんな笑い方だ。今度はこちらが溜息をつく番だった。しかし、不愉快な気分ではない。むしろその逆、こちらも笑い出したくなって、気がつくと汐莉と一緒になって笑っていた。
なんとも呆気ない幕切れだが、俺たちの間に隔たる問題は、解決するとなればこの形しかないのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
汐莉はこちらの世界の様子が見える。それにもかかわらず、俺に冷蔵庫の中を確かめるように命じた。俺が料理をしている最中だと知りながら、電話をかけてきた。わざわざそうしたのは、なぜなのか?
それはきっと、いや絶対に、俺と会話がしたかったからだ。深夜ではあったが、料理を作っているところではあったが、その気持ちを抑えられなくなって、電話をした。それが真相に違いない。
非現実的な現実を認めたくないから、夫と話をしたくない。でも、夫と話がしたい。
汐莉は絶対に、後者の思いに身を任せるべきだ。
「俺が話をしようと言っているのは、愛する人とのコミュニケーションが不足すると、人は愚かな真似をしでかすからだ。
汐莉も分かっていると思うけど、榊さん、凄く常識的で真面目な人だろ。加えて、話を聞いた限りでは、旦那さんとの仲が無茶苦茶いい。それにもかかわらず、俺と一緒に美術館へ行きたい、だなんて言ったわけだからね。
榊さんですらそういうことをやっちゃうんだから、榊さんよりも圧倒的にアホな俺だと、笑えないくらい愚かなことをやらかしてもおかしくない。それを未然に防ぐためにも、積極的に会話する機会を持とう。榊さんは話が上手いし、話をしていて楽しい相手だけど、楽しさにかけてなら汐莉も負けていないし、なにより、お前が相手だと馬鹿なことが言える」
一呼吸を置いて、語を継ぐ。
「俺は人生をもっと楽しいものにしたい。俺の人生も、汐莉の人生も。だから俺の要望、聞き入れてくれないか?」
密やかな溜息が聞こえた。気のせいでも、他の音と混同したのでもなく、正真正銘の溜息だ。
「うん、分かった! じゃあ、そうしよう!」
「え……」
「今日からは、お話多めの日常のスタートね。規則とか制限とかがあるから完全に自由ではないけど、ゆるゆるだから大幅に増やせるよ。やったね!」
「おいおい、そんなにあっさりオッケーするのかよ。……大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
短く言い切った声からは、嘘の気配は微塵も感じられない。汐莉らしく楽天的で、能天気で、底抜けに明るい一言に、自ずと頬が緩んだ。
汐莉が大丈夫だと言ったのだから、汐莉は、俺たちは、もう大丈夫だ。心からそう確信できた。
「でも、現状を受け入れていないっていう龍くんの指摘、あれはびっくりした」
「あちらの世界へ行った現実を受け入れきれていないっていう、あれか」
「そうそう。そんな自覚はなかったんだけど、言われてみればそうだなって。びっくりしすぎてね、もうね、目からコンタクトレンズが落ちたみたいだった」
「鱗だよ、鱗。ポピュラーランク最上位の慣用句なのに、なんで知らないんだよ」
「それにしても、なんで鱗なんだろうね。生臭そうでちょっと嫌だなー。あっ、龍くんがビーチにいるからかな? 水繋がり、魚繋がりで」
「聖書からの引用だろ、目から鱗っていう表現は。N市の砂浜とはなに一つ関係ねぇよ。一ミリもかすってねぇ」
なにが面白いのか、汐莉は笑い出した。腹を抱えて大口を開けているのが目に見えるような、そんな笑い方だ。今度はこちらが溜息をつく番だった。しかし、不愉快な気分ではない。むしろその逆、こちらも笑い出したくなって、気がつくと汐莉と一緒になって笑っていた。
なんとも呆気ない幕切れだが、俺たちの間に隔たる問題は、解決するとなればこの形しかないのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
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