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車道を横断する 後編
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深呼吸だとか、
車に撥ねられるイメージ映像を脳内から追放するとか、
「瞬間移動した車に轢かれるなんて、天地がひっくり返ってもありえないのだから、案じるだけ時間の無駄だ」と自分に言い聞かせるとか、
歩きながらできることは全てやったが、恐怖は不動だ。勢力を堅固に維持したまま、私の心の中央に居座り続けている。
やはり、横断歩道などを見つけるまで、辛抱強く歩き続けるしかないのだろうか?
横断歩道か歩道橋さえ見つかれば、問題はたちどころに解決する。しかし、歩いても、歩いても、見えるのは道ばかり。車が車道を走り抜ける速度も、頻度も、増加もしなければ減少もしない。せめて車両の通行がもっとゼロに近づけば、踏み出す勇気が湧くかもしれないのだが……。
悶々としているうちに、こんな疑問が忽然と胸に生まれた。
そもそも、歩道を横断する必要はあるのだろうか?
はるか昔からその考えを持っていたので、当たり前のものとして受け入れていたが、よく考えてみろ。この道路の左右に存在するのは、これという特色のない空き地と、作物の植わっていない畑のみ。そんな場所に用がある人間など、いるはずがないではないか。仮にあるのだとしても、空き地と畑はどちらも道の両側にあるのだから、横断せずに用事を済ませてしまえばいい。
「そうか。道を渡る必要はなかったんだ」
横断しなくてもいい。恐怖を抑えつけてまで、無理に渡る必要はない。胸の中で何度もくり返して、百八十度転換した方針に自分を従わせようとした。
しかし、思惑とはうらはらに、気持ちは一向に落ち着いてくれない。自分を納得させようとすればするほど、後ろめたくなる。
交通ルールを破って、車道を横断する。
たったそれだけの問題に、なぜこんなにも悩まなければならないのだろう。
懊悩から解放され、心が楽になる方法はあるのだろうか。
そもそも、なぜ、横断する必要があると感じるのだろう。
本当に横断しなければならないのだとすれば、どうすれば勇気を奮い立たせられるのだろう。
「自分一人の力では、真の意味で自分を納得させるのは難しいだろうね」
突然のしわがれた声に、私ははっとして足を止める。いつの間にか俯きながら歩いていたらしく、視界に映っているのはアスファルトの黒だ。
顔を上げると、目の前に見知らぬ老爺が立っていた。七十過ぎくらいで、灰色のくたびれた作業着を着ている。目鼻立ちはどことなく私に似ている。喜怒哀楽、どの感情にも染まっていないが、表情は穏やかで柔らかい。
「君は他人からのお墨つきが欲しかったんだよ。誰からこう言ってもらいたかったのさ。『いいよ、いいよ。ルールを破っても、いいよ。車道、車が通っていないなら渡ってもいいよ』って」
肩の力が抜けた。ああ渡っていいんだ、と思った。
ありがとうございます。心の中で謝辞を述べ、頭を下げる。老爺の表情は相変わらず柔和だ。
私は車道に向き直る。現在、車は通っていない。右を見て、左を見て、もう一回右を見る。どちらの方向にも、車は影も形もない。
「ああ、やっとだ」
やっとこの車道を横断できる。向かいの歩道まで行ける。私は口角を持ち上がるのを感じながら、まずは右足で車道を踏みしめ、続いて左足をその隣に置いた。
刹那、私のすぐ右側の空間に一台の大型トラックが忽然と出現し、猛然と私にぶつかって天高く撥ね上げた。
薄れゆく視界に映るのは、車道を遠ざかっていく大型トラック、軽やかな足取りで車道を横断する老爺――とこしえの闇。
車に撥ねられるイメージ映像を脳内から追放するとか、
「瞬間移動した車に轢かれるなんて、天地がひっくり返ってもありえないのだから、案じるだけ時間の無駄だ」と自分に言い聞かせるとか、
歩きながらできることは全てやったが、恐怖は不動だ。勢力を堅固に維持したまま、私の心の中央に居座り続けている。
やはり、横断歩道などを見つけるまで、辛抱強く歩き続けるしかないのだろうか?
横断歩道か歩道橋さえ見つかれば、問題はたちどころに解決する。しかし、歩いても、歩いても、見えるのは道ばかり。車が車道を走り抜ける速度も、頻度も、増加もしなければ減少もしない。せめて車両の通行がもっとゼロに近づけば、踏み出す勇気が湧くかもしれないのだが……。
悶々としているうちに、こんな疑問が忽然と胸に生まれた。
そもそも、歩道を横断する必要はあるのだろうか?
はるか昔からその考えを持っていたので、当たり前のものとして受け入れていたが、よく考えてみろ。この道路の左右に存在するのは、これという特色のない空き地と、作物の植わっていない畑のみ。そんな場所に用がある人間など、いるはずがないではないか。仮にあるのだとしても、空き地と畑はどちらも道の両側にあるのだから、横断せずに用事を済ませてしまえばいい。
「そうか。道を渡る必要はなかったんだ」
横断しなくてもいい。恐怖を抑えつけてまで、無理に渡る必要はない。胸の中で何度もくり返して、百八十度転換した方針に自分を従わせようとした。
しかし、思惑とはうらはらに、気持ちは一向に落ち着いてくれない。自分を納得させようとすればするほど、後ろめたくなる。
交通ルールを破って、車道を横断する。
たったそれだけの問題に、なぜこんなにも悩まなければならないのだろう。
懊悩から解放され、心が楽になる方法はあるのだろうか。
そもそも、なぜ、横断する必要があると感じるのだろう。
本当に横断しなければならないのだとすれば、どうすれば勇気を奮い立たせられるのだろう。
「自分一人の力では、真の意味で自分を納得させるのは難しいだろうね」
突然のしわがれた声に、私ははっとして足を止める。いつの間にか俯きながら歩いていたらしく、視界に映っているのはアスファルトの黒だ。
顔を上げると、目の前に見知らぬ老爺が立っていた。七十過ぎくらいで、灰色のくたびれた作業着を着ている。目鼻立ちはどことなく私に似ている。喜怒哀楽、どの感情にも染まっていないが、表情は穏やかで柔らかい。
「君は他人からのお墨つきが欲しかったんだよ。誰からこう言ってもらいたかったのさ。『いいよ、いいよ。ルールを破っても、いいよ。車道、車が通っていないなら渡ってもいいよ』って」
肩の力が抜けた。ああ渡っていいんだ、と思った。
ありがとうございます。心の中で謝辞を述べ、頭を下げる。老爺の表情は相変わらず柔和だ。
私は車道に向き直る。現在、車は通っていない。右を見て、左を見て、もう一回右を見る。どちらの方向にも、車は影も形もない。
「ああ、やっとだ」
やっとこの車道を横断できる。向かいの歩道まで行ける。私は口角を持ち上がるのを感じながら、まずは右足で車道を踏みしめ、続いて左足をその隣に置いた。
刹那、私のすぐ右側の空間に一台の大型トラックが忽然と出現し、猛然と私にぶつかって天高く撥ね上げた。
薄れゆく視界に映るのは、車道を遠ざかっていく大型トラック、軽やかな足取りで車道を横断する老爺――とこしえの闇。
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