30 / 33
惑いの森 中編
しおりを挟む
リーファと名乗った妖精の案内のもと、私たちは言葉を交わしながら道なき道を進む。彼女は私の肩に乗ることもあれば、私の周囲を飛び回ることもあった。
話題は多岐に亘った。これについて話してほしい、という具体的な指定がなかったため、思いつくままに語った結果だった。日常生活のこと、初恋の記憶、幼少時の思い出。それら全てが、生まれて以来森の外に出たことがないリーファには興味深いらしかった。
一時間ほど歩いて、小休止をするべく大樹の根本に腰を下ろした。
「リーファ、一ついいかな」
この機会に、気になっていたことを訊いてみる。
「君と出会った時、君は『森の中に人間がいるのは珍しい』と言っていたよね。それは本当かい?」
「うん、ほんとうだよ。わたしがじっさいにこの目で見た人間は、あなたがはじめて」
「私が初めて……?」
リーファは頷いた。にわかには信じられない。
「あのね、リーファ。リーファは知らないだろうけど、人間たちの間では、この森は『惑いの森』と呼ばれていて、足を踏み入れると脱出は不可能と言われているんだ。私のように道を見失って、さ迷い歩いている人間を見かけたことはない?」
「ないよ。ずっと昔に、森の中を歩いている人間を見たっていう話を仲間から聞いたことならあるけど」
本当だろうか。食い下がろうとした矢先、リーファは付言した。
「さ迷い歩いている人間はいたかもしれないけど、森は広くて、わたしはちっぽけだから、出会えなかったんじゃないかなぁ」
出会わなかった、ではなく、出会えなかった。その言い回しに込められた感情を察した瞬間、私は彼女を追及する意欲を失っていた。
リーファはどれくらいの期間、孤独に暮らしてきたのだろう? 恐らく、これまでの人生の大半に違いない。初めて見る人間に声をかけてきたのは、交換条件として話をすることを要求したのは、彼女の境遇に起因するところが大きいのだろう。
歩くのを再開してからも、リーファと交わした約束に基づき、引き続き話し手としての役割に徹した。話題はやがて、私が「足を踏み入れたら二度と出られない」と言われている森を通り抜けてまで道を急ごうとした理由に及んだ。
「待ち合わせをしている相手は、私にとって大切な人なんだ」
「大切な人……」
「その人との待ち合わせに遅れることは、大げさに聞こえるかもしれないけど、私にとっては死を意味するといっても過言ではないから」
「そんなに大切な待ち合わせなんだ」
言下に頷く。リーファは俯き、考え事をしているようだったが、ほどなく顔をこちらに向けた。
「あなたにとって大切なその人と、あなたはなにをするの?」
「え……?」
「待ち合わせって、待ち合わせをすること自体が目的じゃないでしょ。待ち合わせ相手と合流したあとで、その人といっしょになにかをするために待ち合わせをするんでしょ。あなたは、待ち合わせ相手となにをする予定なの? さしつかえなければ教えてほしいな」
「それは――」
突然、激しい眩暈に襲われ、私はその場に片膝をついた。
「ちょっと、どうしたのっ!?」
霞んだ視界に、リーファが心配そうに私の顔を覗き込んでいる姿が映った。彼女を安心させたい一心で、口角を引き上げて笑みを作る。
「大丈夫。よくあることだから。じっとしていればすぐに治るから」
言った後で、立ち眩みに見舞われた過去を思い出せないことに気がつく。大変なことが起きている予感に、心臓が早鐘を打ち始めた。だが眩暈も、鼓動の高鳴りも、しばらく蹲っているうちに収まった。
「今日はもう、休もう。もうじき日が暮れるし、今日中に森を出るのはどっちみち無理だから」
慰めるようなリーファの言葉に、私は首を縦に振った。尤も、最後の一言がなければ、悪足掻き程度に食い下がっていたかもしれない。
世界の終わり、あるいは始まりのような真っ暗闇の中、私たちは夕食を摂った。私が口にしたのは、非常食として携帯していた板チョコレート。リーファにも勧めたが、彼女の口には合わなかったようだ。彼女は近くに生えていた植物の実を何粒かちぎって食べ、食事を終えた。私も一粒口にしたが、味気のない甘さが舌に感じられるばかりで、お世辞にも美味とは言い難かった。同じ甘いものでも、人間と妖精では好みが異なるらしい。
食後は引き続き話をした。尤も、リーファは待ち合わせの件には触れようとはせず、私もその話題は避けた。
四囲を暗黒に囲繞されているという環境の中、眩暈に襲われた一件を消化できずにいたが、不安や恐怖や寂しさは感じなかった。リーファという話し相手がいたし、彼女の淡く薔薇色に発光する翅が灯火となったからだ。
森の中は冷え込みが厳しかった。持参していた毛布を体に巻きつけてもまだ寒い。この気温では熟睡するのは難しいかもしれない。
寒さに必死に耐える私の胸に、不意にリーファが降り立った。どうしたのだろう、と思って見ていると、いきなり毛布の中に潜り込んだ。それだけに留まらず、服の内側に侵入する。
「どうしたんだい、リーファ。寒いの?」
「ううん。なんとなく、こうしたかったから」
「それ以上動かないでくれるかな。……くすぐったくて堪らない」
リーファの動きが止まる。その途端、彼女がいる場所から温もりが伝わってきた。心を落ち着かせる成分を含有しているかのような、そんな温もりだ。
あんなに小さな体でも、生きているのだ。生きているからこそ、こんなにも温かいのだ。
思わず涙ぐんでしまった。実際に見る人間は私が初めてで、触れた人間も私が初めてのリーファも、同じようなことを思ったのだろうか。
「寝返りは打っちゃダメだよ。つぶれちゃうの、イヤだから」
動きを止めてから大分経って、リーファが呟いた。
「しないよ。そんなことは絶対にしない」
当たり前だ、という風に即答し、瞼を閉じた。
話題は多岐に亘った。これについて話してほしい、という具体的な指定がなかったため、思いつくままに語った結果だった。日常生活のこと、初恋の記憶、幼少時の思い出。それら全てが、生まれて以来森の外に出たことがないリーファには興味深いらしかった。
一時間ほど歩いて、小休止をするべく大樹の根本に腰を下ろした。
「リーファ、一ついいかな」
この機会に、気になっていたことを訊いてみる。
「君と出会った時、君は『森の中に人間がいるのは珍しい』と言っていたよね。それは本当かい?」
「うん、ほんとうだよ。わたしがじっさいにこの目で見た人間は、あなたがはじめて」
「私が初めて……?」
リーファは頷いた。にわかには信じられない。
「あのね、リーファ。リーファは知らないだろうけど、人間たちの間では、この森は『惑いの森』と呼ばれていて、足を踏み入れると脱出は不可能と言われているんだ。私のように道を見失って、さ迷い歩いている人間を見かけたことはない?」
「ないよ。ずっと昔に、森の中を歩いている人間を見たっていう話を仲間から聞いたことならあるけど」
本当だろうか。食い下がろうとした矢先、リーファは付言した。
「さ迷い歩いている人間はいたかもしれないけど、森は広くて、わたしはちっぽけだから、出会えなかったんじゃないかなぁ」
出会わなかった、ではなく、出会えなかった。その言い回しに込められた感情を察した瞬間、私は彼女を追及する意欲を失っていた。
リーファはどれくらいの期間、孤独に暮らしてきたのだろう? 恐らく、これまでの人生の大半に違いない。初めて見る人間に声をかけてきたのは、交換条件として話をすることを要求したのは、彼女の境遇に起因するところが大きいのだろう。
歩くのを再開してからも、リーファと交わした約束に基づき、引き続き話し手としての役割に徹した。話題はやがて、私が「足を踏み入れたら二度と出られない」と言われている森を通り抜けてまで道を急ごうとした理由に及んだ。
「待ち合わせをしている相手は、私にとって大切な人なんだ」
「大切な人……」
「その人との待ち合わせに遅れることは、大げさに聞こえるかもしれないけど、私にとっては死を意味するといっても過言ではないから」
「そんなに大切な待ち合わせなんだ」
言下に頷く。リーファは俯き、考え事をしているようだったが、ほどなく顔をこちらに向けた。
「あなたにとって大切なその人と、あなたはなにをするの?」
「え……?」
「待ち合わせって、待ち合わせをすること自体が目的じゃないでしょ。待ち合わせ相手と合流したあとで、その人といっしょになにかをするために待ち合わせをするんでしょ。あなたは、待ち合わせ相手となにをする予定なの? さしつかえなければ教えてほしいな」
「それは――」
突然、激しい眩暈に襲われ、私はその場に片膝をついた。
「ちょっと、どうしたのっ!?」
霞んだ視界に、リーファが心配そうに私の顔を覗き込んでいる姿が映った。彼女を安心させたい一心で、口角を引き上げて笑みを作る。
「大丈夫。よくあることだから。じっとしていればすぐに治るから」
言った後で、立ち眩みに見舞われた過去を思い出せないことに気がつく。大変なことが起きている予感に、心臓が早鐘を打ち始めた。だが眩暈も、鼓動の高鳴りも、しばらく蹲っているうちに収まった。
「今日はもう、休もう。もうじき日が暮れるし、今日中に森を出るのはどっちみち無理だから」
慰めるようなリーファの言葉に、私は首を縦に振った。尤も、最後の一言がなければ、悪足掻き程度に食い下がっていたかもしれない。
世界の終わり、あるいは始まりのような真っ暗闇の中、私たちは夕食を摂った。私が口にしたのは、非常食として携帯していた板チョコレート。リーファにも勧めたが、彼女の口には合わなかったようだ。彼女は近くに生えていた植物の実を何粒かちぎって食べ、食事を終えた。私も一粒口にしたが、味気のない甘さが舌に感じられるばかりで、お世辞にも美味とは言い難かった。同じ甘いものでも、人間と妖精では好みが異なるらしい。
食後は引き続き話をした。尤も、リーファは待ち合わせの件には触れようとはせず、私もその話題は避けた。
四囲を暗黒に囲繞されているという環境の中、眩暈に襲われた一件を消化できずにいたが、不安や恐怖や寂しさは感じなかった。リーファという話し相手がいたし、彼女の淡く薔薇色に発光する翅が灯火となったからだ。
森の中は冷え込みが厳しかった。持参していた毛布を体に巻きつけてもまだ寒い。この気温では熟睡するのは難しいかもしれない。
寒さに必死に耐える私の胸に、不意にリーファが降り立った。どうしたのだろう、と思って見ていると、いきなり毛布の中に潜り込んだ。それだけに留まらず、服の内側に侵入する。
「どうしたんだい、リーファ。寒いの?」
「ううん。なんとなく、こうしたかったから」
「それ以上動かないでくれるかな。……くすぐったくて堪らない」
リーファの動きが止まる。その途端、彼女がいる場所から温もりが伝わってきた。心を落ち着かせる成分を含有しているかのような、そんな温もりだ。
あんなに小さな体でも、生きているのだ。生きているからこそ、こんなにも温かいのだ。
思わず涙ぐんでしまった。実際に見る人間は私が初めてで、触れた人間も私が初めてのリーファも、同じようなことを思ったのだろうか。
「寝返りは打っちゃダメだよ。つぶれちゃうの、イヤだから」
動きを止めてから大分経って、リーファが呟いた。
「しないよ。そんなことは絶対にしない」
当たり前だ、という風に即答し、瞼を閉じた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【短編】怖い話のけいじばん【体験談】
松本うみ(意味怖ちゃん)
ホラー
1分で読める、様々な怖い体験談が書き込まれていく掲示板です。全て1話で完結するように書き込むので、どこから読み始めても大丈夫。
スキマ時間にも読める、シンプルなプチホラーとしてどうぞ。
熾ーおこりー
ようさん
ホラー
【第8回ホラー・ミステリー小説大賞参加予定作品(リライト)】
幕末一の剣客集団、新撰組。
疾風怒濤の時代、徳川幕府への忠誠を頑なに貫き時に鉄の掟の下同志の粛清も辞さない戦闘派治安組織として、倒幕派から庶民にまで恐れられた。
組織の転機となった初代局長・芹澤鴨暗殺事件を、原田左之助の視点で描く。
志と名誉のためなら死をも厭わず、やがて新政府軍との絶望的な戦争に飲み込まれていった彼らを蝕む闇とはーー
※史実をヒントにしたフィクション(心理ホラー)です
【登場人物】(ネタバレを含みます)
原田左之助(二三歳) 伊代松山藩出身で槍の名手。新撰組隊士(試衛館派)
芹澤鴨(三七歳) 新撰組筆頭局長。文武両道の北辰一刀流師範。刀を抜くまでもない戦闘の際には鉄製の軍扇を武器とする。水戸派のリーダー。
沖田総司(二一歳) 江戸出身。新撰組隊士の中では最年少だが剣の腕前は五本の指に入る(試衛館派)
山南敬助(二七歳) 仙台藩出身。土方と共に新撰組副長を務める。温厚な調整役(試衛館派)
土方歳三(二八歳)武州出身。新撰組副長。冷静沈着で自分にも他人にも厳しい。試衛館の弟子筆頭で一本気な男だが、策士の一面も(試衛館派)
近藤勇(二九歳) 新撰組局長。土方とは同郷。江戸に上り天然理心流の名門道場・試衛館を継ぐ。
井上源三郎(三四歳) 新撰組では一番年長の隊士。近藤とは先代の兄弟弟子にあたり、唯一の相談役でもある。
新見錦 芹沢の腹心。頭脳派で水戸派のブレインでもある
平山五郎 芹澤の腹心。直情的な男(水戸派)
平間(水戸派)
野口(水戸派)
(画像・速水御舟「炎舞」部分)
【本当にあった怖い話】
ねこぽて
ホラー
※実話怪談や本当にあった怖い話など、
取材や実体験を元に構成されております。
【ご朗読について】
申請などは特に必要ありませんが、
引用元への記載をお願い致します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる