どうせみんな死ぬ

阿波野治

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女の仕事

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 今年も桜の季節が訪れ、清代家では恒例の花見が催された。
 広い庭の中央、蒼穹に向かって雄々しく屹立する、一本の巨大な染井吉野の木。それを取り巻くように、広範囲に渡って茣蓙が敷かれ、その上に参会者と料理と銘酒とが散っている。時折それらの上に桜花が舞い落ち、可憐な彩りを添えた。
 誰もが浮かれ騒ぐ中、ただ一人、弥生だけがまめまめしく立ち働いている。彼女は誰のどのような要請にも二つ返事で応じ、微笑を絶やすことがなかった。
 弥生は清代家の当主・和雄の一人娘で、今年で二十歳になる。来月に結婚式を控えていて、婚約者の名は晋一郎といった。晋一郎とその家族も、今年の清代家主催の花見に招かれていた。

「主婦役は私に任せて、弥生は晋一郎さんと花見を楽しみなさい。せっかくお越しいただいているのだから」

 弥生の母親・美千子はそう言葉をかけたが、娘は静かに頭を振った。

「晋一郎様と二人で過ごす機会は、今後いくらでもあります。今のわたくしにとって一番の幸せは、皆様のために働くことです。お母様こそ、今日くらい、ゆっくりとお食事をお召し上がりください。皆様と心行くまでご歓談ください」

 遠くから参会者が呼ぶ声が聞こえた。弥生は急ぎがちに母親のもとを離れた。



 夕闇の到来と共に宴はお開きとなった。
 一人庭に残った弥生は、重箱の中から余りものを小皿に集め、遅い昼食を手早く済ませた。後片付けに取りかかるべく、立ち上がろうとした時、何者かが隣に腰を下ろした。晋一郎であった。
 晋一郎は弥生よりも三つ年上。堂々たる体躯の、端正な顔立ちの青年である。二人は見合いを通じて知り合い、交際を始め、婚約するに至った。弥生も彼女の両親も、彼の物腰が穏やかなところに好感を抱いていた。

「今日の弥生さんは、普段にも増して働き者でしたね」

 口元に柔和な微笑を湛え、婚約者の目を見つめながら晋一郎は述べた。

「ええ。皆が気持ちよく過ごすためには、誰かが献身的に働かなければなりませんから」

 静かに答え、髪の毛を耳にかける。弥生が照れた時に決まってする仕草である。次に発せられるに違いない晋一郎の言葉を踏まえての仕草でもあったのだが、彼は予想外の言葉を口にした。

「そうですね。でも、弥生さん一人がその役割を担う必要はなかった」

 息を呑んで晋一郎の顔を見返す。口元の微笑は健在だが、心持ち眉をひそめていた。

「弥生さん、あなたはどうも、一人で頑張りすぎるようです。今日だって、お母様がおっしゃっていたでしょう。僕と二人で楽しみなさいと。弥生さんはなぜ、お母様の言葉に甘えなかったのですか? 僕は客の立場だったので、差し出がましい真似は控えましたが、そうでなければ、きっと弥生さんに苦言を呈していたでしょう。いいですか、弥生さん。男は仕事、女は家事。そんな旧い考え方が、僕は大嫌いだ」

 弥生の肩が震えた。晋一郎は喋り続ける。

「結婚したら、僕も家事を手伝おうと思っている。弥生さんも、仕事がしたいのであれば外に出るべきだ。個人の意志を尊重し、よいものも、悪いものも、二人で分かち合う。そんな夫婦でありたいと僕は思っている」
「違うのです。違うのです、晋一郎様」

 弥生は晋一郎の顔に自らの顔を近付けた。真っ直ぐに見つめ、早口に言葉を連ねる。

「晋一郎様は先程、よいものも悪いものも分かち合いたいとおっしゃいましたが、わたくしは、これだけは手放したくないのです。大切に手中に収めておきたいのです」

 婚約者の豹変に、晋一郎は目を丸くしている。それに気付いた弥生は、居住まいを正し、空咳をした。表情を引き締め、真剣な眼差しで相手の目を見据える。

「晋一郎様は、わたくしが家事に熱心なのは、因習に囚われているせいだと思われているようですが、そうではないのです。わたくしは、好きだから家事をしているのです。他人様のお世話をしたり、細々とした用事をしたりするのが、わたくしは好きなのです。男が家事をするのもいいでしょう。ですが、それは女が家事を手伝ってほしいと願っている場合に限られるべきです。女が仕事をするのもいいでしょう。ですが、それは女に能力がある場合に限られるべきです。晋一郎様がわたくしのことを大切に思ってくれているのなら、どうか奪わないでくさい。どうか尊重してください。わたくしから家事を取り上げないでくださいませ。それを失ってしまえば、わたくしがこの世に存在する意味がなくなってしまいます……!」

 静寂が二人を取り巻く世界を満たした。弥生の両目には涙が溜まり、今にも零れんばかりである。

「弥生さんは疲れているんだ」

 沈黙を破ったのは、至極穏やかな晋一郎の声。

「結婚を目前に控えて、するべきことが沢山あるせいで、心が疲れてしまったんだよ。気が張っているから、自覚はしていないかもしれないけど」

 右手が弥生の肩に置かれた。その置き方の優しさに、掌から伝わってくる温もりに、涙が滝のように流れ出した。晋一郎は弥生を抱き寄せた。濡れた顔が彼の胸に押し当てられる。

「新しい生活が始まれば、考え方が変わるかもしれない」

 晋一郎は弥生の耳元に囁きかける。彼女は声を上げずに泣いている。

「やる前から出来ないなんて決め付けないで、新しいことに挑戦してみようよ。そうしたら、案外上手くいくかもしれない。いや、きっと上手くいくよ」



 翌日、清代家の庭の染井吉野の木の傍らで、晋一郎の遺体が発見された。



 窓外で桜吹雪が乱舞している。昨日の穏やかな晴れ模様から一転、強風が吹き荒んでいるのだ。
 清代家の広い客間。ガラステーブルを挟んで二脚のソファが置かれている。そこに向かい合って座しているのは、二人の男性。一人は五十歳を過ぎていると見受けられ、一人はまだ二十代だろうか。漆黒のスーツを着た両名は、互いにテーブルの上に身を乗り出し、潜めた声で言葉を交わしている。

「犯人が遺体を犯行現場に放置したのは、どのような思惑からなのでしょうか」
「積極的な理由からではなく、消極的な理由から放置したのかもしれない」
「と言いますと……?」
「遺体を処理したくても出来なかったんじゃないか。被害者は大柄な男性だ。腕力がある人間でなければ、あの重さを運ぶのは難しい」

 いきなりノブが回り、客間のドアが開いた。入ってきたのは、清代弥生。緑茶が注がれた湯呑みを載せた盆を手にしている。
 スーツ姿の二人はソファから腰を上げ、弥生に軽く頭を下げた。彼女は会釈でそれに応じ、テーブルの上に湯呑みを置いていく。年輩の男が声をかける。

「すみませんね。婚約者に不幸があったというのに、突然押しかけた上、お茶の用意までしていただいて」
「お気遣いいただかなくても結構ですよ。犯人を捕まえるために、あらゆる人から話を聞くのが刑事さんのお仕事ですから。それに――」

 話し相手に目を合わせ、穏やかに、艶めかしく微笑する。

「お客様をもてなすのが女の仕事ですから」
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