どうせみんな死ぬ

阿波野治

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逃げる

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 大粒の雨が降りしきる夜明け前、私は妻を殺害した。寝室に忍び込み、ハンマーで頭部を滅多打ちにしたのだ。
 私は妻を心の底から憎悪していた。しかしながら、殺したいほど憎んでいたわけではない。言葉で不快感を伝えても聞く耳を持たないため、やむなく暴力という代替手段に頼ることにしたのだ。
 しかし、ハンマーを振るっているうちに我を忘れ、殺してしまった。

 遺体を前に呆然と座り込んでいると、僅かに開いていた窓から一匹の黒猫が部屋に入ってきた。餌を貰うため、毎日朝と夕方に我が家にやって来る猫だ。窓外に目を向けると、夜は既に明けていた。
 キッチンで黒猫にキャットフードを与え、バスルームに直行する。返り血が夥しく付着した服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて血と汗を洗い流す。新しい服を纏ってキッチンに戻ると、皿にキャットフードは一粒もなく、黒猫は姿を消していた。
 物置部屋から旅行鞄を取り出し、中に遺体を押し込む。鞄の持ち手を両手で握り締め、自宅を出る。雨は降り止んでいた。
 鞄は重たいが、持ち歩けないほどではない。



 最寄りのバス停からバスに乗り、町外れに広がる雑木林に最も近い停留所で降りる。
 遺体は雑木林に埋めるつもりだった。

 濡れた落葉を踏み締めながら奥へ奥へと向かっていると、私についてくる人物がいる。肩越しに振り返って、愕然とした。その人物は、中学二年生の時のクラスメイトで、私と妻の共通の友人でもあった、N君だった。
 当時は親しくしていたが、彼が県外の私立高校に進学して以来疎遠になり、顔を合わせたのは十数年ぶりになる。
 N君と話がしたい。
 そんな欲求がないわけではなかったが、今は遺体を処理するのが先決だ。顔を進行方向に戻し、歩みを再開する。

 N君は私についてくる。
 ついてくるからには、私に何か用があるのだろうが、彼は一言も喋らない。
 私は困ってしまった。N君についてこられると、遺体を埋めることが出来ないからだ。かつては私とも妻とも親しかったことを考えれば、喜んで共犯になってくれる気もしたが、難色を示された場合を想像すると、事情を打ち明ける勇気は萎えてしまう。

 早くどこかへ行ってくれないだろうか。
 そう心中で願いながら、黙々と雑木林の中を進む。何時間歩き続けても、N君は黙ってついてくる。
 やがて空が茜色に染まり始めた。暗くなってしまえば、帰り道が分からなくなる恐れがある。私は遺体を埋めるのを断念し、来た道を引き返し始めた。
 バス停まで戻ってきた時には、夜の帳が下りていた。N君はいつの間にかいなくなっている。時刻表を確認すると、本日のバスの運行は既に終了していた。私は駅へ向かった。

 駅舎に入り、券売機に紙幣を投入したが、何度ボタンを押しても切符が出てこない。悪戦苦闘していると、駅員が近づいてきた。
 胸を撫で下ろしたのも束の間、駅員は券売機ではなく、私の旅行鞄に触れた。制止する間もなくファスナーが全開にされた。
 押し込められた死体を目の当たりにして、駅員は悲鳴を上げた。駅舎内にいる人々の注目が私に集中する。逃げ出そうとしたが、叫び声を聞きつけて飛んできた別の駅員に腕を掴まれた。
 間もなくパトカーが駅に到着し、三人の警察官が降り立った。彼らは私に手錠をかけ、後部座席に押し込んだ。屈強な体格の二人が私の両脇に腰を下ろし、残る一人が運転席に座り、パトカーは夜道を走り出した。



 私は留置場での生活を余儀なくされた。
 やがて裁判が始まり、私は妻殺しの容疑を全面的に認めた。反省と謝罪の言葉も口にした。
 下された判決は、懲役X年。
 刑務所での不自由な暮らしには一週間ほどで慣れた。歳月が飛ぶように過ぎて行った。



 出所まで一週間を切った初夏の早朝、目を覚ますと、私は黒猫になっていた。
 私が暮らす独房には、寝台の向かいに鏡つきの洗面台が設置されている。目覚めると真っ先に自分の顔を確認するのが習慣だったのだが、その日の朝、鏡に映ったのは、やつれた中年男性の顔ではなく、緑色の目をした黒猫の姿だった。私は驚き、戸惑いながらも、自らの体を目と手で確かめた。その結果、自分が黒猫になった事実を知った。
 猫の姿でこんな場所にいては、誰に何をされるか分からない。人間に戻りたい。それが不可能ならば、この場所から逃げたい。でも、どうやって?
 独房内を見回すと、鉄格子がはめ込まれた小窓が目に留まった。躊躇う理由はない。軽やかに窓枠に跳び乗り、格子と格子の間をすり抜ける。上空は分厚い黒雲に、真下の地面は青々とした芝生に覆われている。音もなく地上に降り立ち、すぐさま走り出した。

 塀の内側に沿って移動していると、やがて出口を発見した。鉄製の門扉は閉ざされていたが、見張っている者はいない。門扉の上に跳び乗り、敷地の外に跳び降りた。
 そう言えば、我が家はどうなっているのだろう。
 妻が死に、私が刑務所に入れられたことで、現在は誰も住んでいないはずだが……。
 私は道を歩き始めた。



 一時間以上歩き続けて自宅に辿り着いた。家は元の場所に元の姿のまま建っていて、敷地内にも変化は認められない。
 玄関のドアは閉まっていた。鍵がかかっているか否かは不明だが、どちらにせよ、閉ざされたドアを開ける力は今の私にはない。家の裏手に回ると、リビングの窓が僅かばかり開いている。そこから中に入った。
 リビングは真っ暗だった。最小限の家具が置かれただけの室内は、清掃が行き届いていて埃一つ認められず、生活感がない。
 隣り合ったダイニングに人がいた。テーブルに着き、箸を動かしている。机上には幾つもの食器が並べられ、螺子と釘が山盛りに盛られている。その人物は、硬質な咀嚼音を響かせながら、螺旋と釘を機械的に噛み砕いていた。
 不意にその人物が私の方を向いた。
 X年前に死んだはずの、私の妻だった。

「あなた、おかえり」

 妻は屈託のない笑顔を見せながら言う。

「X年もの間刑務所の中で暮らして、疲れたでしょう。疲れた時は金属が体にいいわ。金属を食べて、金属を」

 茶碗に盛られた螺子と釘を箸ですくい、私へと突きつける。
 突然、風が鋭く吹き抜けたような音がした。次の瞬間、妻の頭部が椿の花のように落下した。頭部はフローリングの床を緩やかな速度で転がり、私の足元で停止した。妻の顔は、体と離れ離れになっても笑っている。首なしの体が椅子から滑り落ち、床に横たわった。
 直後、私は気がついた。
 先程まで妻が座っていた椅子の背後に、正体不明のおぞましい生物がいる。
 私はその生物に背を向け、脱兎の如く家の外へ飛び出した。

 庭の南西の角には背の高い松の木が植わっている。私は木の幹を駆け上り、家の屋根へと跳び移った。高い場所に逃げれば安全に違いないと考えたからだが、心は落ち着かない。屋根の上を駆け、隣家の屋根へと跳び移る。それでも安心からは程遠い。屋根の上を走り、端まで行き着くと隣家の屋根へと跳び、また屋根の上を走る。それを幾度も繰り返し、次第に我が家から遠ざかっていく。
 どのくらい走ったか分からない。
 走り疲れて私は足を止めた。見覚えのない、赤い屋根の上だ。
 地上を見下ろすと、私がいる家の門前に少女が佇んでいた。一糸纏わぬ姿だ。俯いていて表情は窺えない。股間から流れ出した一筋の血が内腿を伝っている。

 少女が顔を上げ、私を見た。
 少女は、少女時代の妻と同じ顔をしていた。
 目が合うと、少女は相好を崩し、私を手招いた。
 屋根から下り、少女のもとへ向かうか。
 あくまでも逃亡を続けるか。
 決断を迫るかのように、曇天から大粒の雨が落ち始めた。
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