どうせみんな死ぬ

阿波野治

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破られた話

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 応接間の古時計が鳴り、午後二時の到来を戸島家に報せた。
 それを聞いた菜々子は、ソファに載った体を緩慢に反転させ、仰向けの姿勢になった。大口を開けて欠伸をし、猫のように伸びをする。シャツの裾が大きくめくれ、腹部が露わになったが、然るべき状態に戻すことはしない。女子中学生にあるまじき、だらしない姿を目撃し得る者は家内には存在しない、と分かっていたからだ。

 菜々子は両親と三人で暮らしている。その両親は、昼食後、自家用車で外出していた。帰ってくるのは夕食前になる、という話だった。それは即ち、午後六時過ぎまでの約四時間、菜々子は自宅で自由に過ごすことができる、ということを意味していた。
 友達を家に呼んで、両親が帰ってくるまで思う存分、遊ぼう。菜々子はそう考え、友人たちに片っ端から連絡を入れたのだが、生憎なことに、みな外せない予定が入っているという。
 いくら自由に過ごせるといっても、一人きりではつまらない。だからといって、外出する気分ではない。仕方なく、リビングに行ってテレビを点けてみたものの、休日の昼間の番組はどれも面白くない。溜息と共にソファに寝そべり、うつらうつらしていたところ、古時計の音色に意識を取り戻し、今に至るというわけだ。

 明かりの灯っていない、静まり返ったリビングのソファの上で、なにをするでもなく横になっていると、頭の中を飛び交っている諸々の想念が、次第に取るに足らないものに劣化していく。それに反比例して、安らかな眠りを促す膜状の物体が、厚みを増しながら全身を覆っていく。網戸を通過して部屋に吹き込んでくる七月の風は涼やかで、時折聞こえる鳥のさえずりは子守歌のようだ。
 菜々子の意識は緩やかに眠りの世界へ向かった。菜々子はその運命に抗わなかった。一人きりの休日の午後を昼寝に費やすのも、ある意味、贅沢な余暇の過ごし方なのではないか、と思い始めたからだ。

 やがて、意識がチーズのようにとろけ始めた。
 菜々子はそれに身を任せて、深い穴に吸い込まれる瞬間を静かに待ち構えた。

 あと一息、という時になって、突然、繊細な板状の物体にヒビが入ったような音が聞こえた。
 菜々子は反射的に瞼を開き、音源を見やった。
 リビングの南側、戸島家の猫の額ほどの庭に面した窓の向こう側に、鼠色のツナギを着、紺色の野球帽を被った男が佇んでいた。年齢は三十前後だろうか。表情のない顔で菜々子を凝視している。
 菜々子は、その男の顔に見覚えがなかった。
 男の右手には、太さも長さも野球のバットほどの木製の棒が握られていた。男の眼前の窓硝子には、蜘蛛の巣に似た模様の亀裂が刻まれている。

 出し抜けに、男が右手を振り上げた。菜々子は思わず目を瞑った。眠りの世界から引き戻された時に聞いたのと同種の音が、菜々子の耳を鋭く襲った。衝突音の余韻が次第に収束していき、やがてなにも聞こえなくなった。
 菜々子は怖々と瞼を持ち上げた。窓硝子のヒビ割れが二箇所に増えていた。横並びに刻まれたそれは、一見、何者かの目玉のようにも見える。
 目玉模様の向こう側で、男は白い歯を見せていた。目は笑っていなかった。棒を右肩にかつぎ、緩やかなテンポで首の付け根に近い箇所を軽く叩いている。

 男が再び棒を振り上げ、振り下ろした。たちまち、目玉模様が三つになった。男の右腕の動きは止まらない。二回、三回と、続け様に打撃が加えられる。棒が衝突するたびに、窓硝子は傷を増やし、内側にひしゃげていく。穴があくのは時間の問題のように思える。
 なんとしてでも、男の蛮行を止めなければ。
 菜々子はソファから下り、素早く窓際に駆け寄った。

「やめて!」

 叫び声が響くと同時に、男の右腕が静止した。顔が緩慢に持ち上がり、菜々子の顔を見返す。
 菜々子は唇を真一文字に結び、男を睨みつけた。
 その途端、唇の隙間から垣間見えていた白い歯の面積が広がった。
 男は顔を窓硝子に向け直すと、再び棒を振るい始めた。菜々子の顔が泣き出しそうに歪んだ。

 溢れ出しそうになった涙を抑え込むように、下唇を噛み締める。菜々子は網戸に手をかけると、窓の左端にあったそれを、一気に右端まで移動させた。網の防壁が、男が割ろうとしている窓硝子の前に立ちはだかる恰好となった。
 男の表情が軽い驚きに包まれた。振り下ろされようとしていた棒が虚空に停止した。
 しかし、棒が宙に留まっていたのは一瞬間に過ぎなかった。
 男はすぐさまそれを振り下ろし、網戸越しに一撃を加えた。連打の嵐が吹き荒び始めた。柔な網では、堅い棒による打撃のダメージを軽減できても、完全に防ぐには力不足だ。講じた対策も虚しく、窓硝子に刻まれる傷は着実に増えていく。

「ちょっと、やめてよ! もう、やめてよ!」

 菜々子の口から悲鳴が迸った。男はもはや、菜々子には見向きもせずに、棒で窓硝子を殴りつけている。
 網戸の位置を変更したことで、リビングと庭とを仕切る障壁は取り払われていた。
 菜々子はやにわに上半身を庭に乗り出すと、両腕を伸ばし、男の右腕にしがみついた。
 しがみついたのだが、男の腕力は強かった。二の腕に絡みつく二本の細腕の束縛をものともせずに、男は棒を振るい、窓硝子を破壊し続ける。菜々子の非力と無力とを小馬鹿にするように、嫌みたらしく口元を歪ませて。
 菜々子の胸を諦念が過ぎった。目頭が熱くなった。虚脱感に襲われ、へたり込みそうになった。
 だが、咄嗟に両足を踏ん張り、男の二の腕に回した両腕の力を強める。そして、溢れんばかりに涙を溜めた目で男を見据え、口を衝いて出るのに任せて叫ぶ。

「やめてよ! おねがいだから、やめてよ!」

 男の破壊と、菜々子の嘆願とが繰り返される最中のことだった。
 菜々子はふと、おかしいのではないか、と思った。現在進行形で破壊されている、窓硝子のことだ。何十回と堅い棒で叩かれているのに、未だに割れていないのは、おかしいのではないか。硝子の強度はさほど高くなく、男の腕力は決して弱くないというのに。
 男は手加減をして破壊活動を行っているのではないか。

 菜々子は息を呑み、男の表情を窺った。
 その途端、今まで窓硝子を見つめていた男の顔が向きを変え、菜々子を正視した。目が合うと同時に、男は初めて、顔に付属する部品を総動員させて微笑んだ。
 菜々子の背筋を悪寒が駆け上がった。
 男が右手を振り上げた。これまで何十回と凶器をかざしてきた中で、最も高く、雄々しく。

「やめてぇ!」

 絶叫を打ち消すように、乾いた破砕音が響き渡った。硬く鋭利な物体が無理矢理食い込んできたような痛覚を覚えたのを最後に、菜々子の意識は急速に遠のき、闇に溶け込んだ。



 下腹部に鈍痛を覚えて、菜々子は目を覚ました。
 看過できない程度の痛みによって強制的に覚醒させられた形だが、その割に、目覚めた直後の頭の中は靄がかかったように朧だ。だから菜々子は、意識が鮮明になるのを待つために、眠りから覚めた瞬間の姿勢のまま身じろぎ一つせずに、見慣れたリビングの景色を眺めていなければならなかった。
 しばらくして、菜々子は微かな物音を聞いた。人間の足音のようだった。頭はまだ、ぼんやりとしていたので、幻聴かもしれない、と疑った。
 耳を澄ませた結果、足音は戸島家の庭を、門の方角に向かって早足に移動している最中らしい、と分かった。

 ツナギを着、野球帽を被った男の歪んだ口許と白い歯とが、忽然と脳裏に甦った。
 菜々子は意識を完全に取り戻した。

 リビングの南側の窓からは、自宅の庭だけでなく、自宅の門の周辺も見通せる。足音の人物の正体を確かめるべく、起き上がろうとソファの座面に手をついた。
 その瞬間、再び下腹部に鈍痛が走った。先程感じたものを何倍にもしたような、強い痛みだった。顔をしかめ、痛みの源泉に目を向ける。

 菜々子は、自分が下半身になにも穿いておらず、股間に赤黒い血が夥しく付着しているのを認めた。
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