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0101<後編>
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目的の店はすぐに見つかった。入り口の真上に掲げられた、黄金色の二頭の龍に縁取られた看板を見て、一目であの時の店だと分かった。記された店名は漢字のようだったが、崩し字だったために判読できなかった。
ドアを開けると、真っ先に感じたのは、香ばしい胡麻油の匂い。八割ほどの客の入り、といった客席の状況だ。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、若い女性の店員。目の醒めるような真紅のチャイナドレスを身に纏っている。不自然なまでに膨れ上がった胸部、下着の一端が垣間見えそうなほど深く切れ上がったスリット。学生時代、メイドカフェがブームになったことがあり、私も一度だけ男友達と共に足を運んだことがあるが、その時のことを思い出した。
「一名様ですね? お席にご案内します」
案内されたのは、奥まった二人がけのテーブル席。着席し、メニューを開く。ホイコーロー、チンジャオロース、サンラータン。写真は掲載されていないが、料理名の多くがカタカナで表記されているため、イメージがすんなりと頭に入ってくる。名前を聞いたことがない料理は、一通り見た限りでは一つもない。
経験上、中華料理店のチャーハンには外れが少ないので、一品はそれを選びたい。ハーフサイズも頼めるということなので、そちらにしよう。炭水化物と炭水化物の組み合わせは避けたいので、ラーメン、ギョーザ、小龍包、それらは今回は見送りたい。ユーリンチーのように食べ応えがある料理か、マーボー豆腐のように辛みがある料理か、その二択だろうか。中華料理は脂っこいので、できれば口直しにデザートも欲しい。杏仁豆腐か、胡麻団子か、それともマンゴープリンか。実際に注文するか否かは、二品を食べ終わってから判断した方がいいかもしれない。
不意に「バナメイエビのチリソース」という料理名が目に留まった。バナメイエビ。四年前の冬に起きた食品表示偽装問題で、シバエビとして使用されていた事実が明るみに出た海老だ。四年が経った今では、関係者以外の人間は忘失している類の小事件かもしれないが、父親が交通事故で亡くなった直後に世間を騒がせた事件だったため、私は現在も記憶していた。
バナメイエビのチリソースを注文しよう。そう決めた直後、タイミングよく、店員が水とお手拭きを持ってきた。私をこの席まで案内した、真紅のチャイナドレスを着た女性だ。
「注文をお願いします。チャーハンのハーフサイズを一つ。それから、バナメイエビのチリソースを一つ」
バナメイエビのチリソース。その料理名を告げた瞬間、女性店員は表情を曇らせた。怪訝に思って顔を見返すと、女性店員は咄嗟に営業スマイルを浮かべた。その表情を完璧に維持したままオーダーを復唱し、テーブルを去った。
女性店員はなぜ表情を曇らせたのだろう。バナメイエビのチリソースを注文されると不都合なことでもあるのだろうか。バナメイエビが四年前の食品表示偽装事件で注目を浴びた海老だということと、何か関係があるのだろうか。考えてみたものの、関連性は見出せない。関連性は見出せないが、気のせいの一言で切り捨てがたいものを彼女の表情の変化から感じたのも確かだ。
あの女性店員と対面する機会が再び巡ってきたら、疑問をぶつけてみよう。そう心に決め、待ち時間を潰すべく、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。
ニュースサイトで国内外のニュースを読んでいるうちに、半時間あまりが過ぎた。注文した料理はまだ来ない。ハーフサイズのチャーハンも、バナメイエビのチリソースも。
不意に気配を感じ、スマートフォンから顔を上げると、紺碧のチャイナドレスを着た店員がこちらに向かってくるのが見えた。ハーフサイズのチャーハンの皿を手にしている。期待を込めた目で見つめたが、彼女は私のテーブルを素通りし、向かいのテーブルに皿を届けた。その席に着いている中年男性は、私よりも後に来店した客だった。
私が注文した料理はどうなってしまったのだろう。待ち時間が多少長くなるのは構わないが、料理を注文した事実を失念されたのだとすれば、物申さないわけにはいかない。
店員を掴まえて説明を求めようと考えたが、生憎誰も通りがからない。
厨房に目を向けると、出入り口に二人の店員が佇んでいた。一人は、純白のコック服に身を包んだ初老の男性。もう一人は、真紅のチャイナドレスを着た女性店員。前者は朗らかな笑顔、後者は今にも泣き出しそうな顔つきで、言葉をやりとりしている。女性店員が感情的に食ってかかり、コック服が宥めている、そんな構図に見える。二人の声は時折、客の話し声の間を縫って私の耳まで届いたが、どうやら外国語で会話をしているらしく、内容は全く理解できない。
女性店員はハーフサイズのチャーハンの皿を手にしていたが、バナメイエビのチリソースの皿は持っていない。
何らかのやむを得ない事態が発生し、バナメイエビのチリソースを提供できなくなったのだろうか。では、それならばなぜ、バナメイエビのチリソースを注文した私にその旨を報告せずに、店員同士で口論しているのだろう。
店員同士が外国語で口論するという、注目を集めやすい事態が発生しているにもかかわらず、客は誰もそちらを見向きもしない。食事をしたり、スマートフォンを活用して待ち時間を潰したりと、自分がするべきことに専念している。この店にいる客の中で、そのどちらもしていないのは、二人の動向を注視しているのは、私のみだ。
突然、女性店員が唇を動かすのを止めたかと思うと、肩を落として項垂れた。コック服は慰めるように彼女の肩に手を置き、私の方を向いた。女性店員を自らと同じ方向に向かせ、背中を押す。二人は歩き出した。真っ直ぐにこちらに向かってくる。先を行く女性店員は、チャーハンの皿を手に、項垂れたままで。後に続くコック服は、後ろ手を組んで、満面の笑みで。
「お待たせいたしました。チャーハンのハーフサイズになります」
女性店員はテーブルの上に皿を置いた。手も声も震えていた。役目は終えたはずだが、立ち去ろうとしない。唇が小刻みに痙攣している。何か言おうとしているが、何かが邪魔をして言い出せない。そんな様子に見える。
「ワンちゃん。これ以上、お客さんを待たせちゃダメよ」
女性店員――ワンの背後に控えるコック服が言った。笑みを湛えた双眸で私を見据えている。
「郷に入れば郷に従え。運が悪かったと思って、諦めなさい。さあ、覚悟を決めて、潔くやっちゃって」
コック服は後ろ手に隠していた中華包丁をワンに差し出す。それを受け取り、彼女は顔を上げた。思わず息を呑んだ。涙を流しながら笑っていたのだ。
「お客様、大変、大変、大変お待たせいたしました」
中華包丁を逆手に握り締め、切っ先を自らの鳩尾に宛がう。
「こちらが、当店自慢の、バナメイエビのチリソースでございます」
刃を鳩尾に深々と突き刺す。そのまま下方へと切り進み、下腹部に達すると同時に引き抜く。ぱっくりと開いた傷口から鮮血が夥しく溢れ出し、それに半ば押し出されるようにして、体長十五センチほどの青黒い海老が十数匹、無数の細い脚をもぞもぞと動かしながら這い出してきた。
ドアを開けると、真っ先に感じたのは、香ばしい胡麻油の匂い。八割ほどの客の入り、といった客席の状況だ。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、若い女性の店員。目の醒めるような真紅のチャイナドレスを身に纏っている。不自然なまでに膨れ上がった胸部、下着の一端が垣間見えそうなほど深く切れ上がったスリット。学生時代、メイドカフェがブームになったことがあり、私も一度だけ男友達と共に足を運んだことがあるが、その時のことを思い出した。
「一名様ですね? お席にご案内します」
案内されたのは、奥まった二人がけのテーブル席。着席し、メニューを開く。ホイコーロー、チンジャオロース、サンラータン。写真は掲載されていないが、料理名の多くがカタカナで表記されているため、イメージがすんなりと頭に入ってくる。名前を聞いたことがない料理は、一通り見た限りでは一つもない。
経験上、中華料理店のチャーハンには外れが少ないので、一品はそれを選びたい。ハーフサイズも頼めるということなので、そちらにしよう。炭水化物と炭水化物の組み合わせは避けたいので、ラーメン、ギョーザ、小龍包、それらは今回は見送りたい。ユーリンチーのように食べ応えがある料理か、マーボー豆腐のように辛みがある料理か、その二択だろうか。中華料理は脂っこいので、できれば口直しにデザートも欲しい。杏仁豆腐か、胡麻団子か、それともマンゴープリンか。実際に注文するか否かは、二品を食べ終わってから判断した方がいいかもしれない。
不意に「バナメイエビのチリソース」という料理名が目に留まった。バナメイエビ。四年前の冬に起きた食品表示偽装問題で、シバエビとして使用されていた事実が明るみに出た海老だ。四年が経った今では、関係者以外の人間は忘失している類の小事件かもしれないが、父親が交通事故で亡くなった直後に世間を騒がせた事件だったため、私は現在も記憶していた。
バナメイエビのチリソースを注文しよう。そう決めた直後、タイミングよく、店員が水とお手拭きを持ってきた。私をこの席まで案内した、真紅のチャイナドレスを着た女性だ。
「注文をお願いします。チャーハンのハーフサイズを一つ。それから、バナメイエビのチリソースを一つ」
バナメイエビのチリソース。その料理名を告げた瞬間、女性店員は表情を曇らせた。怪訝に思って顔を見返すと、女性店員は咄嗟に営業スマイルを浮かべた。その表情を完璧に維持したままオーダーを復唱し、テーブルを去った。
女性店員はなぜ表情を曇らせたのだろう。バナメイエビのチリソースを注文されると不都合なことでもあるのだろうか。バナメイエビが四年前の食品表示偽装事件で注目を浴びた海老だということと、何か関係があるのだろうか。考えてみたものの、関連性は見出せない。関連性は見出せないが、気のせいの一言で切り捨てがたいものを彼女の表情の変化から感じたのも確かだ。
あの女性店員と対面する機会が再び巡ってきたら、疑問をぶつけてみよう。そう心に決め、待ち時間を潰すべく、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。
ニュースサイトで国内外のニュースを読んでいるうちに、半時間あまりが過ぎた。注文した料理はまだ来ない。ハーフサイズのチャーハンも、バナメイエビのチリソースも。
不意に気配を感じ、スマートフォンから顔を上げると、紺碧のチャイナドレスを着た店員がこちらに向かってくるのが見えた。ハーフサイズのチャーハンの皿を手にしている。期待を込めた目で見つめたが、彼女は私のテーブルを素通りし、向かいのテーブルに皿を届けた。その席に着いている中年男性は、私よりも後に来店した客だった。
私が注文した料理はどうなってしまったのだろう。待ち時間が多少長くなるのは構わないが、料理を注文した事実を失念されたのだとすれば、物申さないわけにはいかない。
店員を掴まえて説明を求めようと考えたが、生憎誰も通りがからない。
厨房に目を向けると、出入り口に二人の店員が佇んでいた。一人は、純白のコック服に身を包んだ初老の男性。もう一人は、真紅のチャイナドレスを着た女性店員。前者は朗らかな笑顔、後者は今にも泣き出しそうな顔つきで、言葉をやりとりしている。女性店員が感情的に食ってかかり、コック服が宥めている、そんな構図に見える。二人の声は時折、客の話し声の間を縫って私の耳まで届いたが、どうやら外国語で会話をしているらしく、内容は全く理解できない。
女性店員はハーフサイズのチャーハンの皿を手にしていたが、バナメイエビのチリソースの皿は持っていない。
何らかのやむを得ない事態が発生し、バナメイエビのチリソースを提供できなくなったのだろうか。では、それならばなぜ、バナメイエビのチリソースを注文した私にその旨を報告せずに、店員同士で口論しているのだろう。
店員同士が外国語で口論するという、注目を集めやすい事態が発生しているにもかかわらず、客は誰もそちらを見向きもしない。食事をしたり、スマートフォンを活用して待ち時間を潰したりと、自分がするべきことに専念している。この店にいる客の中で、そのどちらもしていないのは、二人の動向を注視しているのは、私のみだ。
突然、女性店員が唇を動かすのを止めたかと思うと、肩を落として項垂れた。コック服は慰めるように彼女の肩に手を置き、私の方を向いた。女性店員を自らと同じ方向に向かせ、背中を押す。二人は歩き出した。真っ直ぐにこちらに向かってくる。先を行く女性店員は、チャーハンの皿を手に、項垂れたままで。後に続くコック服は、後ろ手を組んで、満面の笑みで。
「お待たせいたしました。チャーハンのハーフサイズになります」
女性店員はテーブルの上に皿を置いた。手も声も震えていた。役目は終えたはずだが、立ち去ろうとしない。唇が小刻みに痙攣している。何か言おうとしているが、何かが邪魔をして言い出せない。そんな様子に見える。
「ワンちゃん。これ以上、お客さんを待たせちゃダメよ」
女性店員――ワンの背後に控えるコック服が言った。笑みを湛えた双眸で私を見据えている。
「郷に入れば郷に従え。運が悪かったと思って、諦めなさい。さあ、覚悟を決めて、潔くやっちゃって」
コック服は後ろ手に隠していた中華包丁をワンに差し出す。それを受け取り、彼女は顔を上げた。思わず息を呑んだ。涙を流しながら笑っていたのだ。
「お客様、大変、大変、大変お待たせいたしました」
中華包丁を逆手に握り締め、切っ先を自らの鳩尾に宛がう。
「こちらが、当店自慢の、バナメイエビのチリソースでございます」
刃を鳩尾に深々と突き刺す。そのまま下方へと切り進み、下腹部に達すると同時に引き抜く。ぱっくりと開いた傷口から鮮血が夥しく溢れ出し、それに半ば押し出されるようにして、体長十五センチほどの青黒い海老が十数匹、無数の細い脚をもぞもぞと動かしながら這い出してきた。
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