どうせみんな死ぬ

阿波野治

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狂炎

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 パソコンのキーボードを叩く音が響き続けている。不意に気配を感じて振り向くと、部下のミスミくんがいつの間にか、私のデスクの横に佇んでいる。

「お金が、一銭も、ありません」

 両目に涙を溜め、今にも泣き出しそうな声でミスミくんは訴える。

「お金が、一銭も、ありません」

 ぎゅるう、とミスミくんの腹の虫が鳴いた。
 私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ミスミくんの経済的困窮を根本的に解決するには、待遇改善をボスに訴えるしかないのだが、残念ながら私にその権利はない。

「ミスミくん」

 椅子を回してミスミくんに向き直る。

「私はまあ、上司と言っても名ばかりだから、出来ることは限られているが――」

 デスクの引き出しからペティナイフを取り出し、自らの左腕、手首近くの肉を数センチ四方、削ぎ取る。強い痛みが走ったが、この程度の苦痛、ミスミくんが現在強いられている苦労と比べれば、騒ぎ立てるほどのことではない。

「これを金に替えて、来週の給料日まで凌ぎなさい」

 肉片をミスミくんに差し出す。彼は瞳を輝かせた。

「いいんですか……?」
「ああ、勿論だとも。今は休憩時間ではないが、特別に許可する。肉片を加熱し、金に替えたまえ」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 ミスミくんは繰り返し頭を下げ、壁際のデスクでキーボードを叩いているタニタくんのもとへ走った。言うまでもなく、私がプレゼントした肉片を手に。
 タニタくんは私の部下で、ミスミくんとは同期だ。我が社きっての才媛だが、近頃は腹部膨満感に悩まされていて、顔色は冴えない。症状が悪化し、仕事にも支障が出てきたため、タニタくんは私に休暇届を提出した。私は届け出を受理しなかった。なぜならば――。

 ミスミくんがタニタさんのデスクに達した。デスクの横に置いてあるポリタンクの蓋を開け、彼女の頭にガソリンを注ぎかける。
 ガソリンを浴びながらも、タニタくんは黙々とパソコンのキーボードを叩き続ける。優秀な社員の多くがそうであるように、彼女は至って真面目な性格だ。同僚にガソリンをかけられたくらいで動じるような人間では決してない。
 ポリタンクを空にすると、ミスミくんはスーツの内側から百円ライターを取り出し、タニタくんに火を点けた。彼女の全身はあっという間に炎に包まれた。

「熱いよぉ! おかあさん! おかあさぁん!」

 タニタさんの口から絶叫が迸った。しかしながら、キーボードを叩く十指の動きが止まることはない。彼女は至って真面目だから、体を焼かれたくらいでは、私が言いつけた仕事を投げ出したりはしないのだ。

「おかあさん! おかあさん!」

 充分に熱されたと判断したのだろう、ミスミくんは肉片をタニタくんの頭頂に置いた。肉片は一瞬にして炎に包まれた。香ばしい、食欲をそそるニオイがオフィス内に拡散していく。

「おかあさん、熱いよぉ!」

 私は椅子から立ち上がった。二人のもとに歩み寄り、炎の前、ミスミくんの隣で足を止める。ミスミくんは口角から唾液を夥しく垂れ流しながら、加熱される肉片を食い入るように見つめている。肉はいくらか焼けたようだが、金に替わるにはもう少し時間がかかりそうだ。
 その下のタニタくんは、依然としてキーボードを叩き続けながらも、苦悶の表情を隠せない。腹部膨満感による苦しみ。炎に身を焼かれる苦しみ。二つの異なる苦しみに同時に苛まれているのだから、無理もない。
 上司として、部下が苦しむ姿を見るのは忍びなかった。しかしながら、この手で炎を消すわけにはいかない。仮にひとりでに消えたとしても、私かミスミくんの手で再び着火することになるだろう。なぜならば――。

「もう我慢できねぇ!」

 ミスミくんがいきなり、タニタくんの頭頂の肉片をひったくり、貪り食い始めた。空腹の絶頂にあったミスミくんは、肉が焼けるニオイに屈したのだ。金に替わるまで待てば、一週間分の食料だって買えただろうに。

「頼むぞ、タニタくん」

 私は炎に触れる寸前までタニタくんに顔を近づけ、真剣な口調で語りかける。

「私たちが今以上に不幸にならないためには、君が苦しみ続ける必要がある。だから、頼むぞ。頼むぞ、タニタくん」
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