わたしと姫人形

阿波野治

文字の大きさ
上 下
87 / 91

ミクリヤ先生 その3

しおりを挟む
「灰島さんが私との性行為を望むのは、私が魅力的な男性だからですか? それとも、心療内科医だからですか?」
 告白の意味を咀嚼する時間をたっぷりととってから、ミクリヤ先生は問うた。わたしは言下に答えた。
「前者です」
 静寂が再び車内を満たした。

 ミクリヤ先生は黙考する時間を二・三分とって、おもむろに切り出した。
「それでは、このようなプランはいかがでしょうか」

 途中でいくつかの質問や確認を挟みながら、今後の予定について説明する。沈着冷静に必要事項を述べるその姿は、診察中の彼を思わせた。唯一明確に異なるのは、顔から微笑が意識的に排除されていること、くらいのものだろうか。
 異論はなかった。


* * *


 玄妙な薄紫色の明かりが灯った店のドアを、ミクリヤ先生に先導されて潜る。行きつけの飲食店、という説明だった。
 店内は朝の始まりのように薄暗い。
 奥まった個室にわたしたちは入った。座敷席で、広さのわりに天井が高い。先生はわたしに奥に座るようにすすめ、自身は出口に近い側に腰を下ろした。あたかも、わたしが逃亡する事態を未然に防ごうとするかのように。

 メニューを見ると、ラインナップは和食が中心だ。料理名がつづられた筆跡の流麗さを見て、遠い場所に来てしまったと実感した。
 どれを選べばいいか分からなかったので、ミクリヤ先生のおすすめを食べることにする。先生は同じものを二つ注文した。和牛ステーキをメインにした膳だ。 

 すだちの風味が香るしょうゆベースのソースを肉にたっぷりとつけ、口に運ぶ。味は上手く表現できないが、庶民が毎日のように気軽に食べられる料理ではない、ということだけは分かった。
 文句なしに美味しかったが、食欲自体はあまりなかったので、ほんの少ししか箸をつけなかった。ステーキはもちろん、白いごはんにも、汁物にも、野菜がふんだんに使われた副菜にも。一方の先生は、文句をつけようがない上品な箸づかいで、咀嚼音を立てずに、皿の上の料理を着実に減らしていく。

 わたしたちは食事中、提供された料理についてばかり話した。ミクリヤ先生が語る話にわたしが相槌を打った、というのがより正確な表現になるだろう。
 先生はストックしてある知識を、気の向くままにひけらかすのではなく、聞き手にとって興味深いと思われる情報をピックアップし、必要最小限の言葉で淡々と説明した。理知的で好感が持てる語り口だが、あいにく、内容は十分の一も頭に残らない。先生はその事実をまったく意に介していないようでも、わたしの反応が希薄だから、表向きは平静を装いながらも、内心ではむきになってしゃべりつづけているようでもある。 

 先生が提示した計画に首肯してからのわたしは、別人のように落ち着いていた。心拍数はほぼ平常だし、受け答えも非礼なくこなせたと思う。
 わたしはわたしの目的だけを見据えていた。
しおりを挟む

処理中です...