わたしと姫人形

阿波野治

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灰島ナツキ その6

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「あーあ。手元を留守にするから」
 娘を見据えるお母さんの眉根と眉根は接近している。わたしの呼吸は一瞬止まった。しかし、彼女の表情はすぐに和らぎ、
「後始末はお母さんがやっておくから、さっさと焼いちゃって。これ以上お友だちを待たせたら嫌われちゃうよ」

 Aさんは「はーい」と答えて作業を再開した。その顔には苦笑が浮かんでいた。緊張感とは無縁の柔らかな苦笑だった。
 一方のお母さんは、宣言どおり、ただちに後始末を取りかかった。舌打ちをしたり、いらいらしたように手を動かしたり、といった様子はまったく見られなかった。
 わたしは酷く滑稽な間抜け面をしていたに違いない。

 完成したホットケーキを、わたしはAさん親子といっしょに食べたが、親子は実に仲睦まじかった。絶えず笑顔で、盛んに冗談を言い合っていた。先週の日曜日には二人で買い物に行ったらしく、そのときの話をしてくれた。Aさんの初恋についてお母さんが言及したとき、Aさんはお母さんの二の腕をほんの軽く叩いた。叩いたほう、叩かれたほう、どちらも曇りなくほほ笑んでいた。
 二人は親子というよりも、歳が離れた姉妹のようだった。わたしと母親のあいだでは絶対に起こり得ない光景が目の前で展開していた。

「お母さんと仲、凄くいいんだね。びっくりしちゃった」
 帰りぎわ、玄関まで見送りに来てくれたAさんに、わたしはそんな言葉をかけた。Aさんの返答はこうだった。
「そう? たしかにいいほうだとは思うけど、びっくりするほどでもなくない? たぶん、普通くらいじゃないかな」

 標準的な母子関係のサンプルを目にしたのは、なにもAさんが初めてではない。Aさんの場合ほど詳細にではないにせよ、情報は断片的に得ていた。だから、ほんとうは薄々気がついていた。Aさんの家を訪問したのを機に、認めざるを得なくなった。
 わたしの母親は、異常だ。
 わたしと母親の関係は、歪んでいる。

 確固たるものとなったその認識は、母親に対するわたしの態度を、徐々に反抗的にさせた。
 臆病なまでに従順だった娘の態度の変化に、母親は少なからず戸惑っただろう。しかしそれ以上に、腹を立てた。わたしのささいな言動に対して、母親が苦言を呈する頻度は高まり、感情の表出の仕方は激しくなった。
 怯むこともあった。屈することもあった。しかし、母親は異常だ、間違っている、という認識が揺らぐことはなかった。断固とした抵抗であり、反抗ではなかったかもしれないが、わたしは戦いつづけた。

 願わくは、早く終わらせたかった。どのような形になるのかは想像もつかないが、とにもかくにも、こんな気が休まらない日々からは一刻も早くおさらばしたい。とても、とても、疲れていた。戦うわたしは、怒りではなく、泣きたいような気持ちを抱えていた。その感情は着実に育まれ、外界へと飛び出す機会を虎視眈々と窺っていた。
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