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灰島ナツキ その5
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言うことさえ聞いておけば、激怒したのが嘘のように感情を鎮めるので、その意味では救いがあった。しかし、確実な救いを求めるあまり、怒られると盲目的に謝罪し、行動を改めるようになった。母親の言いなりになったわけだ。そして、解決策はあるといってもやはり怒られるのは怖いから、母親の顔色を窺いながら生活せざるを得ない。
ささいなことにも激しく怒る、という傾向は把握していたが、わたしが生きる日常には、母親の怒りのスイッチとなり得る「ささいなこと」はあまりにも多すぎた。母親が怒り出す瞬間を先読みするのは、実質的に不可能。必然に、母親の動向に四六時中気を配る必要があった。常に怯え、顔色を窺っているせいで、気が休まるひとときを作れない。ろくに体を動かさないにもかかわらず、いつも酷く疲れていた。
学校で友だちを作るのは至難の業だった。母親の顔色を気にする日々に慣れてしまった影響で、他人の目を過度に気にしてしまう。積極的になれない。そのせいで誤解を受け、不当な評価を受けることも少なくなかった。激しい暴力を伴うものではなかったが、いじめの標的にされたこともある。
そんなわたしにも、家に遊びに行くくらい仲のいい友だちができた。親しい人間ができれば、世界も広がる。それが母親の異常性に気がつくきっかけとなった。
小学四年生のときだった。秋晴れの日曜日に、Aさん、という同級生の女の子の家にわたしは遊びに行った。Aさんは料理が得意で、その日はおやつにホットケーキを作ってくれる約束になっていた。わたしの訪問に前後して完成する、という話だったのだが、直前になって食材の買い忘れが発覚したらしく、作業に遅れが生じていた。わたしが来宅した時点で、まだ生地を作る工程だった。キッチンには他にAさんの母親もいて、娘をサポートしていた。
キッチンに隣接するダイニングのテーブルに着いたわたしに、Aさんの母親は気さくに話しかけてくる。Aさんとももちろん言葉を交わしていて、仲睦まじそうだった。ただ、Aさんはわたしに話しかけるさいに作業の手が止まるせいで、母親から注意されていた。そのたびにわたしは緊張した。やんわりとたしなめる程度ではあったが、それでも掌の汗を抑えられなかった。
いよいよ生地を焼こうかというときになって、事件は起きた。Aさんの手元が狂い、ボウルからホットケーキの生地がこぼれたのだ。
Aさんが咄嗟に器を押さえたので、中身をすべてぶちまける事態は免れた。それでも、掌サイズのホットケーキが作れるくらいの量がこぼれてしまった。わたしが座っている場所からは見えなかったが、ボウルが置かれた位置と傾いた方向から推測するに、いくらかは床に落ちたに違いない。
わたしの顔は青ざめていたのではないだろうか。
Aさんは母親の言いつけを破った。一度だけではなく、三度も四度も五度も。しかも、甚大ではないとはいえ、被害を出してしまった。Aさんのお母さんが落とす雷は、世にも恐ろしいものになるに違いない。
ささいなことにも激しく怒る、という傾向は把握していたが、わたしが生きる日常には、母親の怒りのスイッチとなり得る「ささいなこと」はあまりにも多すぎた。母親が怒り出す瞬間を先読みするのは、実質的に不可能。必然に、母親の動向に四六時中気を配る必要があった。常に怯え、顔色を窺っているせいで、気が休まるひとときを作れない。ろくに体を動かさないにもかかわらず、いつも酷く疲れていた。
学校で友だちを作るのは至難の業だった。母親の顔色を気にする日々に慣れてしまった影響で、他人の目を過度に気にしてしまう。積極的になれない。そのせいで誤解を受け、不当な評価を受けることも少なくなかった。激しい暴力を伴うものではなかったが、いじめの標的にされたこともある。
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いよいよ生地を焼こうかというときになって、事件は起きた。Aさんの手元が狂い、ボウルからホットケーキの生地がこぼれたのだ。
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