わたしと姫人形

阿波野治

文字の大きさ
上 下
73 / 91

灰島ナツキ その5

しおりを挟む
 言うことさえ聞いておけば、激怒したのが嘘のように感情を鎮めるので、その意味では救いがあった。しかし、確実な救いを求めるあまり、怒られると盲目的に謝罪し、行動を改めるようになった。母親の言いなりになったわけだ。そして、解決策はあるといってもやはり怒られるのは怖いから、母親の顔色を窺いながら生活せざるを得ない。
 ささいなことにも激しく怒る、という傾向は把握していたが、わたしが生きる日常には、母親の怒りのスイッチとなり得る「ささいなこと」はあまりにも多すぎた。母親が怒り出す瞬間を先読みするのは、実質的に不可能。必然に、母親の動向に四六時中気を配る必要があった。常に怯え、顔色を窺っているせいで、気が休まるひとときを作れない。ろくに体を動かさないにもかかわらず、いつも酷く疲れていた。

 学校で友だちを作るのは至難の業だった。母親の顔色を気にする日々に慣れてしまった影響で、他人の目を過度に気にしてしまう。積極的になれない。そのせいで誤解を受け、不当な評価を受けることも少なくなかった。激しい暴力を伴うものではなかったが、いじめの標的にされたこともある。
 そんなわたしにも、家に遊びに行くくらい仲のいい友だちができた。親しい人間ができれば、世界も広がる。それが母親の異常性に気がつくきっかけとなった。

 小学四年生のときだった。秋晴れの日曜日に、Aさん、という同級生の女の子の家にわたしは遊びに行った。Aさんは料理が得意で、その日はおやつにホットケーキを作ってくれる約束になっていた。わたしの訪問に前後して完成する、という話だったのだが、直前になって食材の買い忘れが発覚したらしく、作業に遅れが生じていた。わたしが来宅した時点で、まだ生地を作る工程だった。キッチンには他にAさんの母親もいて、娘をサポートしていた。
 キッチンに隣接するダイニングのテーブルに着いたわたしに、Aさんの母親は気さくに話しかけてくる。Aさんとももちろん言葉を交わしていて、仲睦まじそうだった。ただ、Aさんはわたしに話しかけるさいに作業の手が止まるせいで、母親から注意されていた。そのたびにわたしは緊張した。やんわりとたしなめる程度ではあったが、それでも掌の汗を抑えられなかった。

 いよいよ生地を焼こうかというときになって、事件は起きた。Aさんの手元が狂い、ボウルからホットケーキの生地がこぼれたのだ。
 Aさんが咄嗟に器を押さえたので、中身をすべてぶちまける事態は免れた。それでも、掌サイズのホットケーキが作れるくらいの量がこぼれてしまった。わたしが座っている場所からは見えなかったが、ボウルが置かれた位置と傾いた方向から推測するに、いくらかは床に落ちたに違いない。

 わたしの顔は青ざめていたのではないだろうか。
 Aさんは母親の言いつけを破った。一度だけではなく、三度も四度も五度も。しかも、甚大ではないとはいえ、被害を出してしまった。Aさんのお母さんが落とす雷は、世にも恐ろしいものになるに違いない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

【完結】幼い頃から婚約を誓っていた伯爵に婚約破棄されましたが、数年後に驚くべき事実が発覚したので会いに行こうと思います

菊池 快晴
恋愛
令嬢メアリーは、幼い頃から将来を誓い合ったゼイン伯爵に婚約破棄される。 その隣には見知らぬ女性が立っていた。 二人は傍から見ても仲睦まじいカップルだった。 両家の挨拶を終えて、幸せな結婚前パーティで、その出来事は起こった。 メアリーは彼との出会いを思い返しながら打ちひしがれる。 数年後、心の傷がようやく癒えた頃、メアリーの前に、謎の女性が現れる。 彼女の口から発せられた言葉は、ゼインのとんでもない事実だった――。 ※ハッピーエンド&純愛 他サイトでも掲載しております。

断罪されているのは私の妻なんですが?

すずまる
恋愛
 仕事の都合もあり王家のパーティーに遅れて会場入りすると何やら第一王子殿下が群衆の中の1人を指差し叫んでいた。 「貴様の様に地味なくせに身分とプライドだけは高い女は王太子である俺の婚約者に相応しくない!俺にはこのジャスミンの様に可憐で美しい女性こそが似合うのだ!しかも貴様はジャスミンの美貌に嫉妬して彼女を虐めていたと聞いている!貴様との婚約などこの場で破棄してくれるわ!」  ん?第一王子殿下に婚約者なんていたか?  そう思い指さされていた女性を見ると⋯⋯? *-=-*-=-*-=-*-=-* 本編は1話完結です‪(꒪ㅂ꒪)‬ …が、設定ゆるゆる過ぎたと反省したのでちょっと色付けを鋭意執筆中(; ̄∀ ̄)スミマセン

親友の妊娠によって婚約破棄されました。

五月ふう
恋愛
「ここ開けてよ!レイ!!」 部屋の前から、 リークの声が聞こえる。 「いやだ!!  私と婚約してる間に、エレナと子供 を作ったんでしょ?!」 あぁ、 こんな感傷的になりたくないのに。 「違う!  俺はエレナと何もしてない!」 「嘘つき!!  わたし、  ちゃんと聞いたんだから!!」 知りたくなんて、無かった。 エレナの妊娠にも  自分の気持ちにも。   気づいたら傷つくだけだって、 分かっていたから。

【完結・全7話】妹などおりません。理由はご説明が必要ですか?お分かりいただけますでしょうか?

BBやっこ
恋愛
ナラライア・グスファースには、妹がいた。その存在を全否定したくなり、血の繋がりがある事が残念至極と思うくらいには嫌いになった。あの子が小さい頃は良かった。お腹が空けば泣き、おむつを変えて欲しければむずがる。あれが赤ん坊だ。その時まで可愛い子だった。 成長してからというもの。いつからあんな意味不明な人間、いやもう同じ令嬢というジャンルに入れたくない。男を誘い、お金をぶんどり。貢がせて人に罪を着せる。それがバレてもあの笑顔。もう妹というものじゃない。私の婚約者にも毒牙が…!

大好きな母と縁を切りました。

むう子
ファンタジー
7歳までは家族円満愛情たっぷりの幸せな家庭で育ったナーシャ。 領地争いで父が戦死。 それを聞いたお母様は寝込み支えてくれたカルノス・シャンドラに親子共々心を開き再婚。 けれど妹が生まれて義父からの虐待を受けることに。 毎日母を想い部屋に閉じこもるナーシャに2年後の政略結婚が決定した。 けれどこの婚約はとても酷いものだった。 そんな時、ナーシャの生まれる前に亡くなった父方のおばあさまと契約していた精霊と出会う。 そこで今までずっと近くに居てくれたメイドの裏切りを知り……

【完結】お父様の再婚相手は美人様

すみ 小桜(sumitan)
恋愛
 シャルルの父親が子連れと再婚した!  二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。  でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。

婚約破棄しようがない

白羽鳥(扇つくも)
恋愛
「アンリエット、貴様との婚約を破棄する!私はリジョーヌとの愛を貫く!」 卒業式典のパーティーでばかでかい声を上げ、一人の男爵令嬢を抱き寄せるのは、信じたくはないがこの国の第一王子。 「あっそうですか、どうぞご自由に。と言うかわたくしたち、最初から婚約してませんけど」 そもそも婚約自体成立しないんですけどね… 勘違い系婚約破棄ものです。このパターンはまだなかったはず。 ※「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載。

処理中です...