わたしと姫人形

阿波野治

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灰島ナツキ その3

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 着信履歴を開き、母親の番号をタップする。
 呼び出し音が鳴りはじめたとたん、かけるんじゃなかった、という後悔の念が忽然と芽生えた。
 二回目のコールを聞いたときは、やっぱりやめておこう、切ってしまおう、と思った。しかし、三回目のコールが鳴っても、わたしの指は一ミリも動かない。

「――もしもし?」
 三回目と四回目のあいだで母親が出た。
 娘から電話をかけてくるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。なにかの間違いではないか。誰かに脅されて、無理矢理かけさせられているのではないか。そう勘ぐっている声だ。

「あの……。お願いが、あるんだけど」
「なに?」
 警戒感が漲っている。眉間にしわを寄せた顔が浮かぶようだ。
「お願いというのは、お金のこと。毎月振りこんでもらっているお金の他に、ちょっと必要になって」
 返事がない。さっき水を飲んだばかりなのに、なぜこうも喉が渇くのだろう。ミネラルウォーターとは違い、水道水には喉の渇きを促進する化学物質が含まれているとでもいうのだろうか? そんな馬鹿な。いや、馬鹿なのはわたし? ……なぜ母親が馬鹿だという発想を持てない? 

「あのね、どうして必要かというと――」
 わたしは話しはじめた。
 姫を購入したこと。姫はわたしにとってかけがえのない家族であること。その姫が、トラブルが起きて壊れてしまったこと。記憶の喪失を阻止するためには大金が必要なこと。わたし一人の力では、とてもではないが期限までに用意できないこと。具体的にいくら必要なのか。

 語り終えても、母親は黙っている。
 全力疾走した直後のように動悸が激しい。わたしは判決が下されるのを待ち受ける哀れな被告人だ。
 あちら側の世界で、発声に備えて軽く息を吸いこんだ気配。

「やっぱり、あなたに自立は無理ね」
 胸を殴りつけられたかと思った。その瞬間だけ心臓は完全に機能を停止し、何事もなかったかのように規則的な拍動を再開する。駆け足で鼓動を刻みたいが、なにかに邪魔をされている。そんな脈打ちかただ。
「結論から先に言ったほうがよかった? お金は出しません。理由も言おうか? 無駄づかいだからよ。機械の人間なんかに高いお金を払って、しかも手術まで? 冗談も休み休み言いなさい」

 無駄。
 姫が、わたしの家族が、わたしの娘が、無駄。
 ……無駄。

「無理なものは仕方ないから、諦めましょう。というわけで、ナツキ、あなたの一人暮らしは今日でおしまい。明日迎えに行くから、それまでに引っ越しの準備を完了させておきなさい。どうせろくな私物はないだろうけど、いるものがあるなら明日の夕方までにまとめておくように。姫人形の廃棄の手続き、買ったくらいだからできるわよね? それも明日までに必ずやっておきなさい」

 通話が切られた。
 ……ああ。あああ……。
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