わたしと姫人形

阿波野治

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四日目 その6

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「ナツキ、いまもこわいの」
「うーん、どうだろう。物凄く怖い、わけではないかな。怖いよ、不安だよって姫に打ち明けたことで、少し楽になれたんだと思う。わたしの話を聞いて、姫は怖くなったり不安になったりした?」
「ううん、ぜんぜん。だって、くるま来てないもん」
「……そうだね」

 だけど、いつかは来る。それは、いつか必ずわたしのもとに訪れる。だから、わたしはその瞬間を恐れている。
 避けられないなら、いっそのこと、こちらからぶつかっていくのも手ではあるだろう。
 ただ、現状、その勇気はない。
 その理由を姫に一から説明するとなると、かなり長くなる。設定年齢五・六歳では、単純にその長さに耐えられないだろう。
 姫には共感してもらえない。仕方ないことだ。それは分かっている。
 しかし、その仕方ないことが、今日ほど寂しく感じられる日はない。

 黙々と足を動かしているうちに、ミクリヤ心療内科のクリーム色の外壁が見えた。本日も営業中だ。記憶していたとおり、駐車場の脇に飲料の自動販売機が設置されている。

「一本を半分分けにしようか。好きなものを選んでいいよ」
 姫はピーチ味のジュースを選んだ。水滴をまとった桃のイラストがプリントされた、桃色の缶がわたしに手渡される。代金を負担した見返りに、先に飲む権利を譲ってくれたらしい。

 木陰まで移動してプルタブを開ける。一口飲んだが、甘すぎてかえって喉が渇きそうだ。どうしてわたしは甘いオレンジジュースが好きなのだろうと、数秒のあいだではあるが本気で疑問に思った。
 半分分けの約束が反故にされるのではと懸念しているらしく、姫は気がかりそうにわたしの口元を凝視している。もう一口だけ飲み、返却する。姫は缶を両手で包むように持ち、一口一口大事そうに飲む。
 わたしは心療内科の出入り口に目を移す。わたしたちがこの場所に到着して以来、人の出入りはない。

 理知的で、清潔感を漂わせた、美貌のミクリヤ先生が自動ドアを潜る場面を思い描こうと試みる。思いを馳せる機会が最も多い異性なのに、なぜだろう、鮮明なイメージを描けない。
 現在は午後二時過ぎ。一般的な昼休憩の時間は過ぎているから、ミクリヤ先生が建物の外に出てくる可能性は低いだろう。
 そう理解しながらも、わたしはミクリヤ先生の出現を待望している。姫が飲み終わるまでの時間を利用して待っているのではなく、その目的のためにジュースを与えて姫を待たせているのだ、という気がしてくる。

「ごちそうさま」
 姫の声がわたしを現実へと引き戻した。
 缶を受けとって振ってみると、間違いなく空だ。周囲にごみ箱は見当たらない。仕方なく、缶を手に道を引き返す。

 復路でも、姫は川へと熱心に目を注いだ。ジュースを飲んでいるあいだ、わたしがミクリヤ心療内科の自動ドアばかり見ていたように、わたしには見向きもせずに。
 ごみを川に捨てれば注目してくれるだろうか?
 心の中で思っただけで、空き缶は家まで持ち帰った。
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