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レイが緩やかに遠ざかっていく現実に慣れながらも、総合的には、僕の精神状態は着実に悪化していた。
最高気温の高まりとともに、高卒認定試験の受験日がいよいよ近づいてきて、その先に待ち構えている大問題――すなわち、進学するか就職するかの問題について意識せざるを得なくなったのが大きかった。
日常的にレイと言葉を交わしても、レイという心の支えができても、僕は相変わらず対人コミュニケーション能力に問題を抱えつづけていた。
その問題は、父親が言うところの「がんばる」ことでしか克服する道はない、という認識だった。
一方で、積極的に克服する努力はいっさい行わなかった。克服するための方法として唯一思い浮かぶ行為――すなわち、「レイや家族以外の人間と接し、会話する機会を増やすことで、他人と口頭でコミュニケーションをとることに慣れ、症状の改善に繋げる」という行動をとりたいとは思わなかったからだ。
苦しまなくなるために必要な手続きなのだとしても、手続きを行うことで味わう苦しみが嫌で、耐えがたいから、逃げていた。
僕は、人間同士が一言もしゃべらずに生きていける世の中を究極の理想としている、狂った男だ。問題解決の意欲など、持っているはずがないではないか。
必要最低限しかしゃべらなくても生きていける環境で生きている、という事情も大きかった。
ひきこもっていれば、親相手くらいしか口をきく機会はない。複雑な受け答えが要求されると予想される客が訪問したならば、居留守を使って逃げればいい。スーパーやコンビニの店員相手にしゃべらなければならない状況になって、思うように声が出なかったとしても、うなずいたり頭を振ったりすれば切り抜けられる。そもそも、スーパーやコンビニに行かなかったとしても、ひきこもり生活に支障はない。
今ならばなにもかも分かる。
当時の僕は見て見ぬふりをしていた。問題を放置しても生きていけるが、克服しておいたほうが圧倒的に生きやすくなる、という事実を。あくまでもニートのひきこもりとしてなら生きていけるだけであって、学校に通うか就職するかならば、現状のままでは到底やっていけない、という現実を。
そして、両親は、息子が満年齢十八歳になってもひきこもりのニートとして生きることを、絶対に許さないだろうということを。
年度が変わってからというもの、両親、特に父親からのプレッシャーは日に日に増していた。家族が一堂に会する場において、息子の将来についてみだりに言及しないという暗黙の了解は、もはや有名無実と化していた。
もっとも、規則違反と、父親が発信する言葉それ自体の不愉快さに対して、この時期に限ってはまともに抗議した覚えがない。
中学二年生のときに初めて不登校になって以来、いまだに改善されない口やかましさに、なかば諦念していたのが一つ。レイとの交流する機会が減ったさびしさが、僕から気力を奪っていたのが一つ。父親と言い合ったところで事態は解決しないし進展もしない、争うだけ時間の無駄だと、沈着冷静に判断していたのが一つ。
ようするに、あらゆる意味で、反抗する気力が充分ではなかったわけだ。
* * *
苦しかった。
逃げたかった。
しかし、逃げられるものから逃げ尽くしてしまった当時の僕に、逃げこめる対象はもはや残されていなかった。
したがって、こちらから赴くしかない。僕を救済する能力を持った存在に、自らの足で接近し、救済を乞うのだ。
ずっと狭い世界で生きてきて、親には失望し、学校とは縁を切った僕には、思い浮かぶ人物は一人しかいない。
最高気温の高まりとともに、高卒認定試験の受験日がいよいよ近づいてきて、その先に待ち構えている大問題――すなわち、進学するか就職するかの問題について意識せざるを得なくなったのが大きかった。
日常的にレイと言葉を交わしても、レイという心の支えができても、僕は相変わらず対人コミュニケーション能力に問題を抱えつづけていた。
その問題は、父親が言うところの「がんばる」ことでしか克服する道はない、という認識だった。
一方で、積極的に克服する努力はいっさい行わなかった。克服するための方法として唯一思い浮かぶ行為――すなわち、「レイや家族以外の人間と接し、会話する機会を増やすことで、他人と口頭でコミュニケーションをとることに慣れ、症状の改善に繋げる」という行動をとりたいとは思わなかったからだ。
苦しまなくなるために必要な手続きなのだとしても、手続きを行うことで味わう苦しみが嫌で、耐えがたいから、逃げていた。
僕は、人間同士が一言もしゃべらずに生きていける世の中を究極の理想としている、狂った男だ。問題解決の意欲など、持っているはずがないではないか。
必要最低限しかしゃべらなくても生きていける環境で生きている、という事情も大きかった。
ひきこもっていれば、親相手くらいしか口をきく機会はない。複雑な受け答えが要求されると予想される客が訪問したならば、居留守を使って逃げればいい。スーパーやコンビニの店員相手にしゃべらなければならない状況になって、思うように声が出なかったとしても、うなずいたり頭を振ったりすれば切り抜けられる。そもそも、スーパーやコンビニに行かなかったとしても、ひきこもり生活に支障はない。
今ならばなにもかも分かる。
当時の僕は見て見ぬふりをしていた。問題を放置しても生きていけるが、克服しておいたほうが圧倒的に生きやすくなる、という事実を。あくまでもニートのひきこもりとしてなら生きていけるだけであって、学校に通うか就職するかならば、現状のままでは到底やっていけない、という現実を。
そして、両親は、息子が満年齢十八歳になってもひきこもりのニートとして生きることを、絶対に許さないだろうということを。
年度が変わってからというもの、両親、特に父親からのプレッシャーは日に日に増していた。家族が一堂に会する場において、息子の将来についてみだりに言及しないという暗黙の了解は、もはや有名無実と化していた。
もっとも、規則違反と、父親が発信する言葉それ自体の不愉快さに対して、この時期に限ってはまともに抗議した覚えがない。
中学二年生のときに初めて不登校になって以来、いまだに改善されない口やかましさに、なかば諦念していたのが一つ。レイとの交流する機会が減ったさびしさが、僕から気力を奪っていたのが一つ。父親と言い合ったところで事態は解決しないし進展もしない、争うだけ時間の無駄だと、沈着冷静に判断していたのが一つ。
ようするに、あらゆる意味で、反抗する気力が充分ではなかったわけだ。
* * *
苦しかった。
逃げたかった。
しかし、逃げられるものから逃げ尽くしてしまった当時の僕に、逃げこめる対象はもはや残されていなかった。
したがって、こちらから赴くしかない。僕を救済する能力を持った存在に、自らの足で接近し、救済を乞うのだ。
ずっと狭い世界で生きてきて、親には失望し、学校とは縁を切った僕には、思い浮かぶ人物は一人しかいない。
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