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旧校舎
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仲間とお喋りをするため、毎日朝早くから登校している福永さんが、今日は朝のホームルーム前になっても教室に姿を見せない。
リーダー抜きで無駄話に興じる福永さん派の女子たちは、どことなく不安そうで、そわそわしている。わたしにちょっかいをかけてくることもない。
不愉快な目に遭わずに済む時間を得られたこと自体は喜ばしかったが、素直に喜べなかった。何事もないのが却って不安だったし、リーダー不在に戸惑う彼女たちが気の毒でもあったし、福永さんの身になにかあったのではないかと心配でもあったからだ。彼女たちから言いたい放題に言われ、怒りと悲しみと悔しさを味わわされていた時のことを思うと、敵に同情を寄せるなんてなんてお人よしなのだろうと、我ながら呆れた。それでも、彼女たちの些細な不幸を喜ぶ気分にはなれなかった。
福永さんが登校しないまま、朝のホームルームが始まった。それが終わり、携帯電話を確認すると、メールが来ていた。ホームルームの最中に送られてきたが、マナーモードにしていたために気がつかなかったらしい。送信者は平間さん。
『なるべく早く来て。旧校舎の一階、東の突き当りの教室』
矢も楯もたまらず教室を飛び出した。廊下にいる生徒たちの怪訝そうな視線に、早歩きに減速したが、心は急いたままだ。そのちぐはぐさがもどかしく、校舎を出るとすぐにまた走り出した。
平間さんの身になにがあったのだろう? メールを送ってきたということは、切迫した状況ではないはずだ。そう自分に言い聞かせたが、不安は消えない。消すためには、とにもかくにも、平間さんの現状を自分の目で確かめる必要がある。
旧校舎には一か所だけ、鍵が壊れているドアがある。時々、度胸試しを目的に中に入る生徒がいるようだが、打ち捨てられた場所特有の陰鬱な雰囲気が敬遠され、足を踏み入れる者は滅多にない。
その鍵がかかっていないドアを見つけ出し、中に入る。薄暗い廊下を、木製の床板を軋ませながら、指定された方角に向かって進む。恐怖がないわけではないが、平間さんを案じる気持ちの方が圧倒的に強かったので、足が竦むことはない。
やがて人の声が聞こえてきた。二種類の声が聴き取れる。喋っている内容までは分からないが、穏やかに話し合いをしている、といった雰囲気では明らかにない。
歩き続けると、ドアが開いている教室を見つけた。靴音を殺して歩み寄り、恐る恐る出入口から中を覗き込んだ。
平間さんがいた。福永さんの胸倉を掴み、壁に押しつけている。
「平間さん……?」
二人が同時に振り向く。平間さんは噴水広場で福永さんと相対した時のような、険しい表情をしていた。一方の福永さんの顔には、恐怖と怒りの感情が色濃く滲み出ている。
「増田、こっちに来て」
有無を言わさない口調だった。教室に入り、中央付近まで進んで足を止める。平間さんは福永さんを壁から離し、わたしに向かって突き飛ばした。小さく悲鳴を上げて、埃っぽい床の上、わたしと平間さんのちょうど中間地点に倒れ込む。
「いったいなぁ! なんなんだよ……!」
福永さんは両手をついて上体を起こし、憎悪に満ちた眼差しで平間さんを睨みつける。
「どうしてもって言うからわざわざ来てやったら、いきなり暴力かよ。なんなんだよ、一体。説明しろ!」
肩が竦み上がるほど荒々しい声。しかし平間さんは全く動じていない。
「説明しなくても分かるだろう。謝るんだよ、増田に」
「はあ……?」
「『はあ?』じゃない。虐めていたことを謝るんだ。それから、二度と増田を傷つけないと誓え」
「は? 虐め? そんなことしてないし」
「虐めている側は誰だってそう言うんだよ」
平間さんは福永さんの前にしゃがみ、彼女の胸倉を掴んだ。
「もう一度だけ言う。増田に謝罪しろ。二度と増田に危害を加えないと誓え。言う通りにしないと、本気で殴るから」
福永さんは表情を強張らせたが、しかしすぐに、いくら無理をしている様子ながらも、口角を不敵に歪めてみせた。
「あんた、マジで言ってるの? また暴力事件を起こしたら、今度こそ退学させられると思うよ。それでもいいなら、好きなだけ殴れば」
「謝る気はないってこと?」
「当たり前じゃん。悪いことはなにをしていないのに、なんで謝らなきゃいけないわけ? 馬鹿じゃないの」
「……そっか。仕方ない。福永、今からあんたを殴るから」
「えっ? ちょっと……!」
福永さんの口から裏返った声が飛び出した。
「あんた、人の話聞いてないの? 次に暴力振るったら退学って言ってるの!」
「知るかよ、そんなこと」
据わった目というのは、今の平間さんの目のことを言うのだろう。固く握り締めた右拳は小刻みに震えている。
平間さんは拳を振り上げた。福永さんは思わずといったふうに身を竦め、固く目を瞑った。わたしの脳裏を、わたしが過去に体験したワンシーンが流れた。
「やめてっ……!」
叫ぶとともに平間さんに飛びつき、彼女の右手を強く胸に抱きしめる。
「増田……?」
平間さんは目を丸くしてわたしを見た。呼吸が落ち着くのを待って、わたしは首を横に振る。
「平間さん、それは駄目。どんなに腹が立ったとしても、たとえ相手に非があるのだとしても、相手を傷つけるようなことをしたら絶対に駄目。だって、誰かを傷つけたら、傷ついたその人が誰かを傷つけるから」
平間さんほどの力の持ち主であれば、わたしの束縛など容易に振りほどけたはずだ。しかし彼女はそうしない。唖然とした表情で、わたしの顔をただただ見つめるばかり。
舌打ちが響いた。福永さんは制服を掴む平間さんの左手を苛立たしげに払い除け、立ち上がった。怒りに燃える瞳が平間さんを見下ろす。
二人は睨み合う。今にも感情を爆発させそうな雰囲気を漂わせる福永さんとは対照的に、平間さんは無表情に近く、どこか落ち着きが感じられる。緊迫した沈黙が流れる。
先に動いたのは福永さんだった。再び、今度は小さく舌打ちすると、わたしたちに背を向け、脇目も振らずに教室から出て行った。床板が軋む音が次第に遠ざかり、やがて消えた。
リーダー抜きで無駄話に興じる福永さん派の女子たちは、どことなく不安そうで、そわそわしている。わたしにちょっかいをかけてくることもない。
不愉快な目に遭わずに済む時間を得られたこと自体は喜ばしかったが、素直に喜べなかった。何事もないのが却って不安だったし、リーダー不在に戸惑う彼女たちが気の毒でもあったし、福永さんの身になにかあったのではないかと心配でもあったからだ。彼女たちから言いたい放題に言われ、怒りと悲しみと悔しさを味わわされていた時のことを思うと、敵に同情を寄せるなんてなんてお人よしなのだろうと、我ながら呆れた。それでも、彼女たちの些細な不幸を喜ぶ気分にはなれなかった。
福永さんが登校しないまま、朝のホームルームが始まった。それが終わり、携帯電話を確認すると、メールが来ていた。ホームルームの最中に送られてきたが、マナーモードにしていたために気がつかなかったらしい。送信者は平間さん。
『なるべく早く来て。旧校舎の一階、東の突き当りの教室』
矢も楯もたまらず教室を飛び出した。廊下にいる生徒たちの怪訝そうな視線に、早歩きに減速したが、心は急いたままだ。そのちぐはぐさがもどかしく、校舎を出るとすぐにまた走り出した。
平間さんの身になにがあったのだろう? メールを送ってきたということは、切迫した状況ではないはずだ。そう自分に言い聞かせたが、不安は消えない。消すためには、とにもかくにも、平間さんの現状を自分の目で確かめる必要がある。
旧校舎には一か所だけ、鍵が壊れているドアがある。時々、度胸試しを目的に中に入る生徒がいるようだが、打ち捨てられた場所特有の陰鬱な雰囲気が敬遠され、足を踏み入れる者は滅多にない。
その鍵がかかっていないドアを見つけ出し、中に入る。薄暗い廊下を、木製の床板を軋ませながら、指定された方角に向かって進む。恐怖がないわけではないが、平間さんを案じる気持ちの方が圧倒的に強かったので、足が竦むことはない。
やがて人の声が聞こえてきた。二種類の声が聴き取れる。喋っている内容までは分からないが、穏やかに話し合いをしている、といった雰囲気では明らかにない。
歩き続けると、ドアが開いている教室を見つけた。靴音を殺して歩み寄り、恐る恐る出入口から中を覗き込んだ。
平間さんがいた。福永さんの胸倉を掴み、壁に押しつけている。
「平間さん……?」
二人が同時に振り向く。平間さんは噴水広場で福永さんと相対した時のような、険しい表情をしていた。一方の福永さんの顔には、恐怖と怒りの感情が色濃く滲み出ている。
「増田、こっちに来て」
有無を言わさない口調だった。教室に入り、中央付近まで進んで足を止める。平間さんは福永さんを壁から離し、わたしに向かって突き飛ばした。小さく悲鳴を上げて、埃っぽい床の上、わたしと平間さんのちょうど中間地点に倒れ込む。
「いったいなぁ! なんなんだよ……!」
福永さんは両手をついて上体を起こし、憎悪に満ちた眼差しで平間さんを睨みつける。
「どうしてもって言うからわざわざ来てやったら、いきなり暴力かよ。なんなんだよ、一体。説明しろ!」
肩が竦み上がるほど荒々しい声。しかし平間さんは全く動じていない。
「説明しなくても分かるだろう。謝るんだよ、増田に」
「はあ……?」
「『はあ?』じゃない。虐めていたことを謝るんだ。それから、二度と増田を傷つけないと誓え」
「は? 虐め? そんなことしてないし」
「虐めている側は誰だってそう言うんだよ」
平間さんは福永さんの前にしゃがみ、彼女の胸倉を掴んだ。
「もう一度だけ言う。増田に謝罪しろ。二度と増田に危害を加えないと誓え。言う通りにしないと、本気で殴るから」
福永さんは表情を強張らせたが、しかしすぐに、いくら無理をしている様子ながらも、口角を不敵に歪めてみせた。
「あんた、マジで言ってるの? また暴力事件を起こしたら、今度こそ退学させられると思うよ。それでもいいなら、好きなだけ殴れば」
「謝る気はないってこと?」
「当たり前じゃん。悪いことはなにをしていないのに、なんで謝らなきゃいけないわけ? 馬鹿じゃないの」
「……そっか。仕方ない。福永、今からあんたを殴るから」
「えっ? ちょっと……!」
福永さんの口から裏返った声が飛び出した。
「あんた、人の話聞いてないの? 次に暴力振るったら退学って言ってるの!」
「知るかよ、そんなこと」
据わった目というのは、今の平間さんの目のことを言うのだろう。固く握り締めた右拳は小刻みに震えている。
平間さんは拳を振り上げた。福永さんは思わずといったふうに身を竦め、固く目を瞑った。わたしの脳裏を、わたしが過去に体験したワンシーンが流れた。
「やめてっ……!」
叫ぶとともに平間さんに飛びつき、彼女の右手を強く胸に抱きしめる。
「増田……?」
平間さんは目を丸くしてわたしを見た。呼吸が落ち着くのを待って、わたしは首を横に振る。
「平間さん、それは駄目。どんなに腹が立ったとしても、たとえ相手に非があるのだとしても、相手を傷つけるようなことをしたら絶対に駄目。だって、誰かを傷つけたら、傷ついたその人が誰かを傷つけるから」
平間さんほどの力の持ち主であれば、わたしの束縛など容易に振りほどけたはずだ。しかし彼女はそうしない。唖然とした表情で、わたしの顔をただただ見つめるばかり。
舌打ちが響いた。福永さんは制服を掴む平間さんの左手を苛立たしげに払い除け、立ち上がった。怒りに燃える瞳が平間さんを見下ろす。
二人は睨み合う。今にも感情を爆発させそうな雰囲気を漂わせる福永さんとは対照的に、平間さんは無表情に近く、どこか落ち着きが感じられる。緊迫した沈黙が流れる。
先に動いたのは福永さんだった。再び、今度は小さく舌打ちすると、わたしたちに背を向け、脇目も振らずに教室から出て行った。床板が軋む音が次第に遠ざかり、やがて消えた。
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