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六日目
今後のこと
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困惑のあまり、陽奈子はなんと答えていいか分からない。少女の頬の赤味が濃くなった。
「す、すみません。急に変なことを言って。じゃあ……連絡先。改めてお礼をしたいので、お姉さんの連絡先を教えてくれませんか?」
「お礼はもういいよ。三回もありがとうって言ってもらったんだから、それで充分」
陽奈子は断ったが、少女は執拗に食い下がる。最終的には陽奈子の方が根負けする形で、電話番号と住所を教え、二人は別れた。
三日後、国木田家の郵便受けに水色の封筒が投函された。陽奈子宛てになっていて、差出人は小柳真綾。陽奈子には心当たりのない名前だったが、とにもかくにも開封してみて、ハンカチの少女だと分かった。
中には真綾自筆の手紙が入っていた。
その中で彼女は、まず改めて礼を述べていた。そして、自分は広い家に住んでいるので、住み込みで働くお手伝いさんがたくさん必要だ、陽奈子にぜひその一員に加わってほしいので、その意思があるなら電話をしてきてほしい、と綴ってあった。
あまりにも上手すぎる話のような気がした。ただ、嘘の話を持ちかけて騙そうとしている、とは思わなかった。真綾は心が穢れた人間ではないと、公園での一件で分かっていたからだ。
陽奈子は好きでニートをやっているわけではない。口うるさい母親から逃れる手段として、住み込みで働くというのは実に魅力的だ。
ひとまず、便箋に書いてあった電話番号に電話をしてみた。すると真綾ではなく、大人の女性の声が応対に出た。神崎琴音と名乗ったその女性は、陽奈子が小柳家で働く意思を持っていることを確認すると、事務的な口調で仕事に関する説明を始めた。いきなり始まったので戸惑ってしまったが、要するに、説明を聞いてから仕事を引き受けるか否かの最終判断を下してくれ、ということらしい。
短いながらもニート生活を送ってきた陽奈子には、きついな、と思うことがいくつもあった。しかしそれ以上に、新生活を求める気持ちの方が強かった。
丸一日考えて、再び琴音に電話をかけた。そして、小柳家で働く意思をきっぱりと告げた。
*
「陽奈子」
呼びかける声に陽奈子は我に返った。真綾が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「あ……すみません。ちょっと、真綾と出会ったときのことを思い出して」
「気分が優れないとか、そういうことでは……」
「大丈夫です。全く問題ないので、今から話しますね。真綾に隠していたことも含めて、全て」
陽奈子は静かに話し始めた。
宣言したとおり、一切合切を打ち明けた。琴音にも弥生にも話していなかった二通目の脅迫状のことも含めて、なにもかもを。
聞き終えた真綾は、なにに対してなのか、二度三度小さく頷くと、労るような優しい眼差しを陽奈子に向けた。
「そっか。そんなことがあったんだね。大変だったね」
再び目頭が熱くなるのを陽奈子は自覚したが、堰が決壊する事態は辛うじて免れた。
双方の口から言葉が途絶えた。真綾は俯き、考え込んでいる。考えを正確に表現するための言葉が見つからないからというより、考え自体がまとまらないが故の黙考に見える。
「確かだとは言いきれないけれど」
真綾の顔が持ち上がり、視線が重なる。
「華菜は陽奈子に出て行ってほしかったから、そんなことをしたんじゃないと思う。付き合いが長いから、分かるの。華菜は口数が少なくて、なにを考えているかが分かりにくいけど、陽奈子と一緒で、意味もなく他人を傷つける人じゃないって。きっとなにか理由があるんだよ。人前で言えないような、でも、ちゃんとした理由が」
「あたしも同感です。でも、殴られても黙っていて、琴音にさえ話さなかったくらいですからね。訊き出すのはかなり難しいような……」
「わたしが訊いてみる」
毅然と真綾は答えた。瞳には力強い光が宿っている。
「華菜は話したくないのかもしれないけど、陽奈子は知りたいと思っているんだもん。理由を話すよう、どうにか説得してみる」
「大丈夫、なんですか?」
「うん。難しいかもしれないけど、やってみる。たまには雇い主らしい、頼りになるところを見せないとね」
真綾の顔に、今宵始めてゆとりが感じられる笑みが浮かんだ。夜風に吹きさらされて、涙はすっかり乾いている。
「琴音は強情だから、いくら訴えても、残念だけど謹慎処分は取り消しにはならないと思う。でも、華菜が話した内容によっては考えが変わる可能性もあるだろうから」
「真綾が華菜に話を聞きに行って、それでどういう結果が出るか、ですね」
「そうだね。もう遅いし、寒いから、そろそろ部屋に帰ろう」
笑い顔を見せながら真綾が立ち上がる。陽奈子も腰を上げる。
「ハンカチ、洗って返しますね」
「うん。全然急がなくていいから」
敷物にしていた服をバッグに仕舞い、肩に提げて歩き出そうとすると、真綾が無言で右手を差し出してきた。表情を覗ったが、逃げるように顔を背ける。
右手を握る。真綾の指が指に絡みついてくる。陽奈子は従順にそれを受け入れる。互いの五指がしっかりと結合しいたのを合図に、二人は小道を歩き始めた。
「もう出て行ったりしないでね」
真綾の呟きに、陽奈子は握る手の力を少し強める。
「出て行きませんよ。雇い主からの命令には、流石のあたしも逆らえませんから」
陽奈子の部屋の前で別れるまで、二人は繋いだ手を離さなかった。
「す、すみません。急に変なことを言って。じゃあ……連絡先。改めてお礼をしたいので、お姉さんの連絡先を教えてくれませんか?」
「お礼はもういいよ。三回もありがとうって言ってもらったんだから、それで充分」
陽奈子は断ったが、少女は執拗に食い下がる。最終的には陽奈子の方が根負けする形で、電話番号と住所を教え、二人は別れた。
三日後、国木田家の郵便受けに水色の封筒が投函された。陽奈子宛てになっていて、差出人は小柳真綾。陽奈子には心当たりのない名前だったが、とにもかくにも開封してみて、ハンカチの少女だと分かった。
中には真綾自筆の手紙が入っていた。
その中で彼女は、まず改めて礼を述べていた。そして、自分は広い家に住んでいるので、住み込みで働くお手伝いさんがたくさん必要だ、陽奈子にぜひその一員に加わってほしいので、その意思があるなら電話をしてきてほしい、と綴ってあった。
あまりにも上手すぎる話のような気がした。ただ、嘘の話を持ちかけて騙そうとしている、とは思わなかった。真綾は心が穢れた人間ではないと、公園での一件で分かっていたからだ。
陽奈子は好きでニートをやっているわけではない。口うるさい母親から逃れる手段として、住み込みで働くというのは実に魅力的だ。
ひとまず、便箋に書いてあった電話番号に電話をしてみた。すると真綾ではなく、大人の女性の声が応対に出た。神崎琴音と名乗ったその女性は、陽奈子が小柳家で働く意思を持っていることを確認すると、事務的な口調で仕事に関する説明を始めた。いきなり始まったので戸惑ってしまったが、要するに、説明を聞いてから仕事を引き受けるか否かの最終判断を下してくれ、ということらしい。
短いながらもニート生活を送ってきた陽奈子には、きついな、と思うことがいくつもあった。しかしそれ以上に、新生活を求める気持ちの方が強かった。
丸一日考えて、再び琴音に電話をかけた。そして、小柳家で働く意思をきっぱりと告げた。
*
「陽奈子」
呼びかける声に陽奈子は我に返った。真綾が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「あ……すみません。ちょっと、真綾と出会ったときのことを思い出して」
「気分が優れないとか、そういうことでは……」
「大丈夫です。全く問題ないので、今から話しますね。真綾に隠していたことも含めて、全て」
陽奈子は静かに話し始めた。
宣言したとおり、一切合切を打ち明けた。琴音にも弥生にも話していなかった二通目の脅迫状のことも含めて、なにもかもを。
聞き終えた真綾は、なにに対してなのか、二度三度小さく頷くと、労るような優しい眼差しを陽奈子に向けた。
「そっか。そんなことがあったんだね。大変だったね」
再び目頭が熱くなるのを陽奈子は自覚したが、堰が決壊する事態は辛うじて免れた。
双方の口から言葉が途絶えた。真綾は俯き、考え込んでいる。考えを正確に表現するための言葉が見つからないからというより、考え自体がまとまらないが故の黙考に見える。
「確かだとは言いきれないけれど」
真綾の顔が持ち上がり、視線が重なる。
「華菜は陽奈子に出て行ってほしかったから、そんなことをしたんじゃないと思う。付き合いが長いから、分かるの。華菜は口数が少なくて、なにを考えているかが分かりにくいけど、陽奈子と一緒で、意味もなく他人を傷つける人じゃないって。きっとなにか理由があるんだよ。人前で言えないような、でも、ちゃんとした理由が」
「あたしも同感です。でも、殴られても黙っていて、琴音にさえ話さなかったくらいですからね。訊き出すのはかなり難しいような……」
「わたしが訊いてみる」
毅然と真綾は答えた。瞳には力強い光が宿っている。
「華菜は話したくないのかもしれないけど、陽奈子は知りたいと思っているんだもん。理由を話すよう、どうにか説得してみる」
「大丈夫、なんですか?」
「うん。難しいかもしれないけど、やってみる。たまには雇い主らしい、頼りになるところを見せないとね」
真綾の顔に、今宵始めてゆとりが感じられる笑みが浮かんだ。夜風に吹きさらされて、涙はすっかり乾いている。
「琴音は強情だから、いくら訴えても、残念だけど謹慎処分は取り消しにはならないと思う。でも、華菜が話した内容によっては考えが変わる可能性もあるだろうから」
「真綾が華菜に話を聞きに行って、それでどういう結果が出るか、ですね」
「そうだね。もう遅いし、寒いから、そろそろ部屋に帰ろう」
笑い顔を見せながら真綾が立ち上がる。陽奈子も腰を上げる。
「ハンカチ、洗って返しますね」
「うん。全然急がなくていいから」
敷物にしていた服をバッグに仕舞い、肩に提げて歩き出そうとすると、真綾が無言で右手を差し出してきた。表情を覗ったが、逃げるように顔を背ける。
右手を握る。真綾の指が指に絡みついてくる。陽奈子は従順にそれを受け入れる。互いの五指がしっかりと結合しいたのを合図に、二人は小道を歩き始めた。
「もう出て行ったりしないでね」
真綾の呟きに、陽奈子は握る手の力を少し強める。
「出て行きませんよ。雇い主からの命令には、流石のあたしも逆らえませんから」
陽奈子の部屋の前で別れるまで、二人は繋いだ手を離さなかった。
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