キスで終わる物語

阿波野治

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六日目

出来事を振り返って

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 言葉にできない物悲しさが胸裏を満たしている。今すぐに夢の世界に現実逃避したいほどやりきれないのに、頭の中は冴えわたっていて、とてもではないが眠れそうにない。だからといって、積極的に気の紛れることをしよう、という気分からも掛け離れている。
 たかがぬいぐるみを壊されたくらいで――。
 琴音が口にした言葉が繰り返し脳裏に甦る。それを聞くたびに、陽奈子の胸は締めつけられるように痛んだ。

 三人で話をしているとき、自分に向けられた琴音の眼差しが同情的ではないと、陽奈子は感じていた。いくら加害者とはいえ、なぜそこまで突き放すのかと、当時は腑に落ちない気持ちだったが、考えてみれば簡単なことだ。
 花壇の一件がきっかけで、琴音は陽奈子に対して悪印象を持った。陽奈子にとっての与太郎の価値を知らない琴音からすれば、与太郎は「たかがぬいぐるみ」でしかない。悪印象を持っているメイドが、「たかがぬいぐるみ」を壊されたくらいで同僚を傷つけたのだから、厳しい態度をとるのも当然だ。

 自分にとって与太郎がどれほど大切な存在か、あのときに説明していたならば、琴音の態度も違ったものになっていただろうか?
 多少の変化はあったかもしれないが、大きくは変わらなかっただろう。心を持たない存在に敬意を払わない者は、どこまでも敬意を払わないものだということを、陽奈子は経験から知っている。思い入れを語り、思い出を話したとしても、与太郎に対する琴音の認識が「たかがぬいぐるみ」の範疇を出ることはなかっただろう。

 そういう意味では、華菜は琴音とは正反対だ。与太郎が「たかがぬいぐるみ」ではなく、陽奈子にとって大切な存在だと認識していたからこそ、与太郎を破壊した。
 ミア曰く、「今日は誰がどこの当番かなんて、完璧に記憶している人はいない」にもかかわらず、陽奈子が掃除をする部屋がどこなのかを把握し、汚すことができたのは、新人である陽奈子に教えるために、陽奈子の当番表を持っていたから。
 三通目の脅迫状を送りつけなかったのは、陽奈子が徹夜で張り込みをすることを知っていたから。
 大切な存在を壊すために部屋に入ることができたのは、その部屋のキーを持っていたから。
 こう考えると、床を真っ赤に汚し、脅迫状を送りつけ、与太郎を壊した犯人が華菜というのは、疑いようのない事実に思える。

 華菜が与太郎を壊したと知ったときは、怒りしか湧かなかったが、華菜のしたことを広く眺めると、腹立たしいというよりは信じられない気持ちになる。
 華菜は無口で、無表情で、無愛想で、なにを考えているか分からないところがある。しかし、人や物に危害を加えたり、幼稚な嫌がらせをしたりするような人間には見えなかった。とっつきづらいが、善くも悪くも無害な、大人しい女性。そんなイメージだった。

 その華菜が、どうしてあんな真似をしたのだろう?
 脅迫状に記したように、陽奈子に小柳家から出て行ってほしかったのだろうか。では、どうして出て行ってほしかったのだろう。
 その疑問は、琴音と弥生が華菜本人から訊き出し、報告してくれるはずだ。
 しかし陽奈子は、可能ならば、華菜の口から直接理由を聞きたいと思う。

 華菜の言い分を聞き入れるか否か。
 華菜を許すか否か。
 華菜に謝罪するか否か。
 それらは全て、華菜の口から真実を聞いたあとで決めればいいことだ。

 華菜の口から直接、与太郎を壊した理由を聞く。それが叶うまでは、なにがあっても、小柳家から出て行くわけにはいかない。
 当座の目標が定まると、気持ちが少し軽くなった。
 陽奈子はベッドから出ると、与太郎の右耳を拾い上げた。箪笥からシャツを引っ張り出し、すっぽりと体を包む。

「いつか絶対に直してあげるからね」

 そっと呟き、スポーツバッグの奥に丁寧に仕舞う。無惨な姿が目の届かない場所へと移動したことで、また少し心が楽になった。
 仮葬を済ませてしまうと、途端にやることがなくなった。
 外出禁止令が邪魔だった。一刻も早く華菜のもとへ行き、問い質したいのに。
 琴音の言いつけを破れば、ただでさえ厳しい自分の立場はさらに厳しいものになるだろう。だからそれはできない。やろうと思えばできるが、してはいけない。
 待つ。今の陽奈子にできることは、それしかなかった。
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