キスで終わる物語

阿波野治

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三日目

ため息の夜

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 日没を迎えてから二つ、腹立たしい出来事があった。
 一つめは、夕食時に起こった。
 絵の具の拭き取りに時間を奪われたせいで、とてもではないが、夕食までに仕事を終えられそうになかった。そこで陽奈子は、開き直ってそれを達成するための努力を完全に放棄し、定時よりも早くダイニングに足を運んだ。
 すると、少し遅れて姿を見せたミアとノアが、陽奈子の席に歩み寄るなりこうささやいた。

「掃除を手伝ったお礼の件だけど、今晩のデザートでどう?」
「二時間も手伝ってあげたのに、一日分のデザートで手を打とうっていうんだよ。陽奈子、得したね」

 世間一般の基準ではそうかもしれない。しかし、自他ともに認める健啖家で、三度の食事をなによりの楽しみにしている陽奈子にとって、三食の一部を、しかもデザートを他人の手に渡すというのは、おいそれと受け入れられる提案ではなかった。従って、即座に要求を拒絶したのだが、ミアとノアは一歩も引かない。
 押し問答をしているうちに、ダイニングに続々と人が集まってきた。やがて琴音が真綾とともに姿を見せた。

「じゃあ、琴音が帰ったあとで持ってきてね」
「よろしくね」

 一方的に言い捨てて、双子は自席に帰って行った。琴音の面前で、これ以上口論を繰り広げるわけにもいかず、陽奈子は全てを諦めて食事を始めた。
 今夜のデザートは、真綾が大好きだと言っていたコーヒーゼリーだった。ゼリーの艶やかな漆黒と、生クリームの純白のコントラストに、陽奈子は激しく食欲をそそられた。しかし、ひとたび受け入れると決めた約束を反故にするのは、要求に耳を貸さないよりも罪深い行為に思える。
 宣言どおり、琴音がダイニングをあとにするや否や双子がやって来て、手つかずのコーヒーゼリーを持ち去った。優越感たっぷりの笑顔で、デザートの提供者へとしきりに視線を投げかけながら、勿体ぶってゼリーを食べる。陽奈子はこのときほど、二人が憎らしいと思ったことはない。

 二つめの出来事は、思い出すだけでも腸が煮えくり返る。

「あー、くそ!」

 脳裏に浮かんだ憎らしい顔に叩き込むように、握り拳を強く湯面に叩きつける。水飛沫が弾け、その一部が目の中に飛び込んできた。なにもかもが自分の意のままにならない気がして、頭に血が昇った。
 溢れ出す寸前で感情を抑え込めたのは、していることの無意味さを自覚していたからに他ならない。深呼吸を二回して心を静め、体を顎まで湯に沈める。

 全ての仕事を終えたとき、時計の針は九時を指そうとしていた。片づけを済ませ、疲れた体を引きずるようにして空き部屋を出た陽奈子は、屋内の見回りをしていたらしい琴音と鉢合わせした。服装を見て、陽奈子が仕事を終えたばかりだと瞬時に見抜いたらしい。憐れむような、見下すような目で陽奈子を見つめながら、嫌味たっぷりに言ったのだ。

『あなた、こんなに遅い時間まで仕事をしていたの? なにをやっているのかしら。あなたたちに割り当てた仕事は、普通にやれば夕食までには終わらせられるようになっているんだけど。こんなに遅くまででかかるなんて、理解しがたいわ』

 危うく、もう一発湯面に拳を叩き込むところだった。暴力を自制できたということは、時間の経過とともに、感情の昂ぶりもいくらか沈静してきたということなのだろう。バスタブから出るときと、バスルームから出るときの二度、陽奈子は深々とため息をついた。

 寝間着をまとって部屋に戻ると、華菜は相変わらず読書に耽っている。陽奈子が九時を過ぎて漸く部屋に帰還し、しかも苛立ちを露わにしていたのに、華菜は一切関心を示さなかった。
 せめて「なにかあったの?」くらいの言葉はかけてくれてもいいのに。
 不満に思ったが、同時に、相手は華菜なのだから仕方ない、という諦めの気持ちもあった。
 やるべきこともないので、さっさと眠ってしまいたかったが、早々に寝床に就けば、華菜が消灯時間を早めるのは分かりきっている。気をつかわせるのが嫌だったので、観たくもないテレビを黙って観ていたが、内容のあまりのくだらなさに、強情を張り続けるのが馬鹿らしくなった。

「もう寝る」

 ぶっきらぼうに言い捨ててベッドに潜り込む。案の定、華菜は読んでいた本に栞を挟み、部屋の電気を消した。寝間着と掛け布団が擦れ合う微かな音に紛れさせて、陽奈子はため息をついた。
 明日、掃除するために空き部屋のドアを開けた瞬間、真っ赤に汚れた床が目に飛び込んでくるような気がして、気が滅入った。
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