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三日目
赤い事件
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「いやー、危ないところだった」
三人は三階の廊下を東へと歩きながら、危機を脱した者特有の饒舌さで言葉を交わし合う。
「でも、ミアノアに助けられるとは思わなかったよ。あたしの背中に隠れたりしないで、最初から助けてくれれば言うことなしだったんだけど」
「琴音の剣幕に押されて、思わず隠れちゃっただけ」
「そうだよ。陽奈子を見捨てるなんて、そんな酷いことするわけないじゃない」
「どうだか」
三人はやがて、陽奈子が本日清掃を担当する空き部屋の一つに差しかかった。
「あ、ここ、あたしが掃除するところだ」
「じゃあ、お別れだね」
「お掃除、頑張ってね」
「二人もね」
手を振りながら去っていく双子に軽く片手を挙げる。リボンの色以外は見分けがつかない二人の後ろ姿を、曲がり角に消えるまで見送った。
ドアノブを回して入室し、照明のスイッチを入れる。白光が室内を照らし出す。
「えっ!?」
驚きのあまり、大声を上げてしまった。
部屋の床を、おびただしい赤色の液体が汚している。フローリング張りの床の実に半分近くが、目が眩むほど鮮やかなその色に染まっていた。正円に近い形をしているが、意味がある模様には見えない。赤い液体の入ったバケツを部屋の中央で逆さまにしたら自然にそうなった、といった風情だ。壁の一部にも赤い飛沫が点々と付着している。
見た瞬間、血だと思った。だからこそ叫んでしまったのだが、錆びた鉄の臭いがしないことにすぐに気がつく。代わりに感じるのは、人工的な、どこかで嗅いだことのある臭い。しゃがんで赤色を人差し指で拭い、鼻に近づけてみる。
「……絵の具だ」
でも、なぜこの場所で、こんな大惨事が起きたのだろう?
廊下を走る足音が聞こえた。陽奈子がいる部屋へと近づいてくる。
『陽奈子!』
部屋を覗きこんだのは、ミアとノア。
床の惨状を目の当たりにした瞬間、二人は言葉を失った。陽奈子は彼女たちに向き直り、人差し指の腹に付着したものを見せる。
「これ、絵の具。厳密にいえば、絵の具を水で薄めたものかな。血かと思ったけど、そうじゃない」
微妙な色合いの違いや、臭い、発言者の落ち着きぶりなどから、嘘を言っているわけではないと判断したらしく、二人は頷いた。表情はいくぶんぎこちなく、戸惑いの色を隠せていない。三人はしばし無言で立ち尽くした。
「とりあえず、状況を整理しようか」
惨状を目にしたのが早かった分、立ち直るのも早かった陽奈子が沈黙を破った。
「あたしはこの部屋の前でミアノアと別れたあと、二人の背中が見えなくなってからドアを開けた。部屋の電気をつけると、床が真っ赤に汚れていたから、驚いて声を上げた。二人はその声を聞きつけて、この部屋の前まで戻ってきた。中を覗き込んで、あたしを驚かせたものの正体を目の当たりにした。それで間違いない?」
混乱が抜けきらない、それでもいっときと比べれば落ち着きを取り戻した顔を見合わせ、ミアとノアは頷く。
「あたしがドアを開けてから、二人が部屋に到着するまでの時間は、一分少々ってところかな。たった一分の間に、綺麗に掃除されている部屋の床をこんなふうに汚すのは、あたしには不可能。つまり、あたしがドアを開ける前から床は汚れていた。……信じてくれる?」
今度は陽奈子に向かって、先程と同じく二人同時に頷く。
「じゃあ、いつから汚されていたんだ、っていう話になる。最も遅くてもあたしがドアを開ける前、最も早くても昨日誰かが掃除したあと。そうなると、昨日この部屋の当番だった子に確認してみるのが手っ取り早いね。ミアノア、それが誰だか分かる?」
『昨日この部屋の掃除をしたの、私たちだけど』
ミアとノアは同時に挙手し、声を揃えた。陽奈子は呆気にとられた顔で二人を見返す。
「できすぎた偶然かもしれないけど、ほんとにほんとなんだよ。ねえ、ノア」
「うん、ミア。私たちは昨日、三階の東端の部屋から順に、合計八部屋掃除して、この部屋は最後にしたの」
「……そうだったんだ。一応確認だけど、昨日の時点で床はこんなふうに汚れていたけど、綺麗にするのが面倒だから放置した、ということじゃないよね?」
「そんなこと、するわけないよ」
「琴音がチェックするかもしれないのに、汚れたままにしておくわけないでしょ」
「そっか。それじゃあ、絵の具で床が汚されたのは、昨日二人が掃除を終えて部屋を出てから、今日あたしが部屋に入るまでの間、っていうことになるのかな。ミアノア、昨日この部屋の掃除を終えたのはいつくらい?」
「夕ご飯の直前だから――」
「だいたい六時半くらい、かな」
「今は八時半だから、十四時間の間に誰かがやった、ということになるのか。でも、こんなこと、誰がなんのために……」
十四時間。それだけの時間的な余裕があれば、小柳家に暮らす者であれば、誰にでも犯行は可能だろう。
一方で、動機という観点から考えれば、これほどの悪質な行為を働かなければならない事情を抱えた者が、小柳家の中にいるとは思えない。思いたくない。
差し当たっては、みんなからアリバイを訊いて回るしかなさそうだけど、それも面倒だし、どうしよう?
三人は三階の廊下を東へと歩きながら、危機を脱した者特有の饒舌さで言葉を交わし合う。
「でも、ミアノアに助けられるとは思わなかったよ。あたしの背中に隠れたりしないで、最初から助けてくれれば言うことなしだったんだけど」
「琴音の剣幕に押されて、思わず隠れちゃっただけ」
「そうだよ。陽奈子を見捨てるなんて、そんな酷いことするわけないじゃない」
「どうだか」
三人はやがて、陽奈子が本日清掃を担当する空き部屋の一つに差しかかった。
「あ、ここ、あたしが掃除するところだ」
「じゃあ、お別れだね」
「お掃除、頑張ってね」
「二人もね」
手を振りながら去っていく双子に軽く片手を挙げる。リボンの色以外は見分けがつかない二人の後ろ姿を、曲がり角に消えるまで見送った。
ドアノブを回して入室し、照明のスイッチを入れる。白光が室内を照らし出す。
「えっ!?」
驚きのあまり、大声を上げてしまった。
部屋の床を、おびただしい赤色の液体が汚している。フローリング張りの床の実に半分近くが、目が眩むほど鮮やかなその色に染まっていた。正円に近い形をしているが、意味がある模様には見えない。赤い液体の入ったバケツを部屋の中央で逆さまにしたら自然にそうなった、といった風情だ。壁の一部にも赤い飛沫が点々と付着している。
見た瞬間、血だと思った。だからこそ叫んでしまったのだが、錆びた鉄の臭いがしないことにすぐに気がつく。代わりに感じるのは、人工的な、どこかで嗅いだことのある臭い。しゃがんで赤色を人差し指で拭い、鼻に近づけてみる。
「……絵の具だ」
でも、なぜこの場所で、こんな大惨事が起きたのだろう?
廊下を走る足音が聞こえた。陽奈子がいる部屋へと近づいてくる。
『陽奈子!』
部屋を覗きこんだのは、ミアとノア。
床の惨状を目の当たりにした瞬間、二人は言葉を失った。陽奈子は彼女たちに向き直り、人差し指の腹に付着したものを見せる。
「これ、絵の具。厳密にいえば、絵の具を水で薄めたものかな。血かと思ったけど、そうじゃない」
微妙な色合いの違いや、臭い、発言者の落ち着きぶりなどから、嘘を言っているわけではないと判断したらしく、二人は頷いた。表情はいくぶんぎこちなく、戸惑いの色を隠せていない。三人はしばし無言で立ち尽くした。
「とりあえず、状況を整理しようか」
惨状を目にしたのが早かった分、立ち直るのも早かった陽奈子が沈黙を破った。
「あたしはこの部屋の前でミアノアと別れたあと、二人の背中が見えなくなってからドアを開けた。部屋の電気をつけると、床が真っ赤に汚れていたから、驚いて声を上げた。二人はその声を聞きつけて、この部屋の前まで戻ってきた。中を覗き込んで、あたしを驚かせたものの正体を目の当たりにした。それで間違いない?」
混乱が抜けきらない、それでもいっときと比べれば落ち着きを取り戻した顔を見合わせ、ミアとノアは頷く。
「あたしがドアを開けてから、二人が部屋に到着するまでの時間は、一分少々ってところかな。たった一分の間に、綺麗に掃除されている部屋の床をこんなふうに汚すのは、あたしには不可能。つまり、あたしがドアを開ける前から床は汚れていた。……信じてくれる?」
今度は陽奈子に向かって、先程と同じく二人同時に頷く。
「じゃあ、いつから汚されていたんだ、っていう話になる。最も遅くてもあたしがドアを開ける前、最も早くても昨日誰かが掃除したあと。そうなると、昨日この部屋の当番だった子に確認してみるのが手っ取り早いね。ミアノア、それが誰だか分かる?」
『昨日この部屋の掃除をしたの、私たちだけど』
ミアとノアは同時に挙手し、声を揃えた。陽奈子は呆気にとられた顔で二人を見返す。
「できすぎた偶然かもしれないけど、ほんとにほんとなんだよ。ねえ、ノア」
「うん、ミア。私たちは昨日、三階の東端の部屋から順に、合計八部屋掃除して、この部屋は最後にしたの」
「……そうだったんだ。一応確認だけど、昨日の時点で床はこんなふうに汚れていたけど、綺麗にするのが面倒だから放置した、ということじゃないよね?」
「そんなこと、するわけないよ」
「琴音がチェックするかもしれないのに、汚れたままにしておくわけないでしょ」
「そっか。それじゃあ、絵の具で床が汚されたのは、昨日二人が掃除を終えて部屋を出てから、今日あたしが部屋に入るまでの間、っていうことになるのかな。ミアノア、昨日この部屋の掃除を終えたのはいつくらい?」
「夕ご飯の直前だから――」
「だいたい六時半くらい、かな」
「今は八時半だから、十四時間の間に誰かがやった、ということになるのか。でも、こんなこと、誰がなんのために……」
十四時間。それだけの時間的な余裕があれば、小柳家に暮らす者であれば、誰にでも犯行は可能だろう。
一方で、動機という観点から考えれば、これほどの悪質な行為を働かなければならない事情を抱えた者が、小柳家の中にいるとは思えない。思いたくない。
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