キスで終わる物語

阿波野治

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一日目

華菜との会話

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「挨拶も終わったところで、これからどうする?」

 両者の上体の角度が元に戻ったタイミングを見計らって、弥生が口を出した。

「とりあえず、お嬢さまに顔見せかな」
「荷物を部屋に置いてからね。それに、着替えてからでないと、そんな恰好では……」

 言葉を返したのは琴音だ。視線の先にあるのは、陽奈子が胸に抱いたウサギのぬいぐるみ。華菜も同じものを見ている。

「それもそうか。じゃあ、まずは自室に陽奈子を案内しなきゃ、だね。琴音、陽奈子の部屋はどこになるんだっけ?」
「華菜が案内するから、弥生は自分の仕事に戻りなさい」

 えー、という、あからさまに不服そうな弥生の声。

「案内役が一人でも二人でも、別にいいのに」
「いいえ、一人で充分。あなたができることで、真綾さまのためになることは他にあるはずよ」
「私も見たいんだけどな、お嬢さまと陽奈子の感動の再会を。……駄目?」
「見なくて結構」

 微かに苛立ちが混じった声でぴしゃりと遮る。弥生は苦笑するとともに肩を竦め、陽奈子のほうを向く。

「というわけで、私はこのへんでお暇させてもらうね。日中は大抵、カーポートで車を弄っているから、休憩時間に気軽に遊びに来て。琴音に虐められたときに避難先として利用してくれてもいいし」

 弥生は意味ありげに琴音に微笑みかけたが、微笑みかけられたほうはそれには取り合わない。

「仕事はきついかもしれないけど、頑張ってね。まったねー」

 にこやかに手を振りながら来た道を引き返す。後ろ姿がドアの向こうに消えると、琴音はため息をついて華菜に向き直った。

「陽奈子に自室を案内してあげて。荷物を置いて、着替えが済んだら、すぐに真綾さまの部屋まで連れてくること。私は先に真綾さまのところへ行って、陽奈子が来たことを報告しておきます。待たせられないから、なるべく早くね」
「分かりました」

 琴音は頷き、陽奈子を一瞥したが、なにも言わずに階段を上り始めた。二人は遠ざかる背中を見送る。部屋の前をことごとく素通りし、フロアの奥へと姿を消した。

「なんていうか、おっかなさそうな人だね」

 視野から琴音が消えてすぐ、陽奈子は華菜に話しかけた。

「一回電話で話をしたことがあるんだけど、そのときとちょっと雰囲気が違う気がする。下の名前で呼べって言ったけど、そうしたら多分怒るんじゃないかなぁ、あの人」
「では、部屋に案内します。はぐれるとお互いに困るので、ちゃんとついてきてください」

 華菜は事務的な口調で述べ、螺旋階段を上り始めた。
 あまりにも綺麗に発言を看過されたので、困惑してしまった。しかし、迷子になるのは避けたい。ほんの小さく首を傾げ、黙って後ろに従った。
 二階に着くと、華菜は琴音が消えた方角へとフロアを進んだ。すぐにまた階段を上り、三階の廊下を歩く。

「華菜は琴音と仲がいいの?」

 話しかけると、華菜は足を止めて質問者を見返した。なぜそんな質問をしたのかと、表情のない瞳が問うている。

「だってほら、同じ部屋から一緒に出てきたでしょ。華菜って、なんの肩書きも持っていない一介のメイドなんだよね。それなのに一番偉いメイドと一緒にいたから、そういうことなのかなと思って」

 返事を待ったが、華菜は黙ったままだ。仲がいいか否かを訊いているだけなのに、返答に迷うのはなぜなのだろう。
 十秒ほどが経って、華菜は進行方向に顔を戻して歩き出した。一言も発しなかったどころか、閉じた唇に隙間が生じることさえなかった。
 この華菜って子は、あたしの記憶が定かなら、さっき自分の口で自己紹介をしたはずだ。あれは空耳で、本当は喋れないのだろうか?
 陽奈子は小柳家での生活が急に不安になってきた。

 突き当たりから二番目の部屋のドアの前で華菜は足を止めた。ポケットに入れていたキーで開錠し、無言で陽奈子を見つめる。先に入れ、という意味らしい。
 二十畳ほどの広さの一室だ。日当たりが良好で、清掃も行き届いている。一介の使用人の自室にするには贅沢すぎる部屋だ、という感想を陽奈子は持った。
 同時に、違和感も覚えた。
 部屋の奥に置かれている本棚に、既に何冊もの書籍が収納されているのだ。事前に家具が用意されているのは別に不自然ではないが、なぜ中身まで入っているのか。それに、置かれているベッドが一台ではなく、二台なのも解せない。
 ――まさか。

 華菜に眼差しを投げかける。心の中を見透かしたかのように、即座に言葉が返ってきた。

「ここは私の自室で、今日からは陽奈子と共同で使う形になるわ。新人の子は誰でも、先輩と相部屋という決まりになっているから、悪く思わないで」

 陽奈子はどうリアクションすればいいか分からない。
 あたしはこの子と上手くやっていけるのだろうか?

「荷物を置いたら、着替えて、お嬢さまの部屋まで行きましょう」

 華菜はクローゼットに歩み寄り、戸を開いた。琴音や華菜が着用しているのと同じメイド服が数着、ハンガーに吊るされている。
 車に長時間乗って、着いたと思ったら直ちに雇い主に顔見せ。それが終わればすぐに仕事に取りかからなければならない。
 ちょっとしんどいな。
 率直に言えば、それが本音だ。
 しかし、それは昨日までニートだった人間の主観。自分の方が世間一般の感覚からずれているのだと、陽奈子はちゃんと理解している。
 今日から働く人間になるのだ。真綾や、他の人たちに迷惑をかけないためにも、しんどいなんて言っていられない。もう、甘えることは許されないのだ。

 華菜は奥のベッドを使っているとのことだったので、手前のベッドの上にスポーツバッグを置き、ヘッドボードに与太郎を置く。華菜がクローゼットから取り出した服を持ってきた。視線は与太郎に注がれている。

「あ、気になる? この子、与太郎っていう名前なんだけど――」
「お嬢さまを待たせるといけないから、着替えは早くお願いね」

 華菜はさっさと部屋から出て行き、ドアが閉まった。
 陽奈子はため息をつき、着替えにとりかかった。
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