幻影の終焉

阿波野治

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「私は、全てが嫌だったな」

 声を気持ち大きくして、遠藤寺は僕の発言に応じた。

「他の学年はともかく、中二の時の体育の授業は。どうしてか分かる?」

 分かるはずがない。しかし、僕にとって重要な答えが口にされるのだと、口にされる前から僕には分かる。
 首を横に振ると、遠藤寺は顔に苦笑を復活させた。
 そして、僕の人生の転換点となる言葉を吐いた。

「保健体育の教科担任、私の父親だったから」

 遠藤寺の顔が瞬時に切り替わり、中年と呼ぶには少々早い男性の顔に変わった。男性の顔が既視感を催させる歪み方をして、唇が動く。

『そんな態度では社会に通用しないぞ』

 僕はおもむろに腰を上げると、遠藤寺の右サイドへと移動した。遠藤寺は頭上に無数のクエスチョンマークを浮かべて僕を見上げる。その時には、元の顔に戻っている。

「遠藤寺、目を瞑れ」

 きょとんとした表情。

「いいから瞑れっ!」

 遠藤寺は理解を置き去りにして命令に従う。
 壁際まで後退し、助走をつけて横面に飛び蹴りを見舞った。クリーンヒット。蹴られた体は大きく左に傾き、頭からキャビネットに激突する。その際の衝撃で、置かれていたもののいくつかが床に落下した。
 そのうちの一つ、ユニコーンのフィギュアを鷲掴みする。俯せに倒れている遠藤寺を蹴って仰向けにさせ、馬乗りになる。そして、ユニコーンの尻を顔目がけて振り下ろした。直撃し、濁ったような呻き声。

「お前の親父に言っておけ!」

 自分のものとは思えない声を聞きながら、手にした塊を連続して顔面に叩きつける。遠藤寺は両手で防ごうとするが、根気強く掻い潜りながら命中させていくに従って、動きが鈍っていく。クリーンヒットするペースが上がったことで、哀れなる被害者の抵抗が弱まる速度は加速度する。

「『世間』の定義を決めるのは僕だ! お前じゃない!」

 何かが折れた音。手元を見ると、僕の右手は先が尖った三十センチほどの棒を握っていた。ユニコーンの角だ。角を除く部分は遠藤寺の傍らに転がっている。首を掴んでいたはずが、どういうわけか、無意識に脆い部分を握っていたらしい。
 ユニコーンの本体も、遠藤寺の顔面も、血まみれだ。顔を押さえた両手の隙間から、溢れ出した涙が肌を伝って床に落ちる。水と油のように、透明と赤、二つの液体は断固として混じり合わない。
 泣いている姿を見て、可哀想だな、という思いが過ぎったのは事実だ。それに伴い、興奮がいくらか静まったのも事実。
 しかし僕は、幸か不幸か、気がついてしまった。現在手にしているものの形状が、剣に酷似していることに。

「遠藤寺」

 呼びかけられた肩が大きく跳ねる。

「ユニコーンのフィギュア、ほら、角が取れた。だから、お前、この角を自分の肛門に挿せ」

 魔法でもかけたかのように涙が止まる。立ち上がり、ローテーブルの脚を蹴飛ばすと、ティーカップが揺れて音を立てた。ひぃ、という悲鳴。

「いいか、五秒だ。五秒以内に、ユニコーンの角を自分の肛門に挿せ。分かったなら態度で示せ。さあ、早く」

 遠藤寺は血と涙を左右の手で交互に拭いながら、酷く緩慢に上体を起こした。癪に障る緩慢さだったが、互いにとって幸福なことに、僕の心はいっときよりも落ち着いている。
 遠藤寺は座ったまま漆黒のドレスを脱いだ。姿勢が姿勢だけに脱ぎにくそうだったが、躊躇いは感じられない。ドレスの下はすぐに下着で、すぐさまショーツを脱ぐ。
 下半身裸になった遠藤寺は、怯え切った瞳で、上目遣いに僕を見つめる。

 この期に及んで何を躊躇っているんだ? 睨み返した直後、角を握り締めたままだと気がつき、投げて渡してやる。右手に触れたが、掴み損ねて床に落ちた。舌打ちをすると、遠藤寺は動作を速めて角を掴んだ。四つん這いになる。剥き出しの肛門が眼前に晒され、糞便臭が幻臭じみた微かさで香った。
 顔を後方に向け、目で確認しながら角を自らの尻に近づけ、尖端を排泄口に宛がう。僕の顔色を窺う。顎をしゃくると、血と涙でぐしゃぐしゃの顔が一層歪んだ。握り締める五指に力がこもり、二・三ミリほど埋没する。

「うう……」

 微かな呻き声。さらに沈む。

「うう、うう、ううう……」

 二センチほど体内に隠れたところで動きが止まる。

「ゆるして、ゆるしてぇ……」

 言葉の一つ一つに濁点がついたような懇願の声。厳しい表情を変えず、言葉を無視することで僕は意思を示す。遠藤寺は幼児がいやいやをするように頭を振り、また何か言おうとした。
 僕は角の先端を思い切り蹴り飛ばした。突き出た領域が一気に五センチ以上短くなり、遠藤寺は悲鳴と共に床に倒れ込んだ。右手で尻を押さえ、左手でカーペットを掴んだが、剥き出しの下半身が小刻みに波打つのを押さえ込めない。

「おい、遠藤寺」

 しゃがんで髪の毛を鷲掴みし、顔をこちらに向かせる。醜悪な泣き顔に向かって、固形化した言葉を吐きつけるように言う。

「昨日話題に出した、後藤家から聞こえてきた怒鳴り声、あれの被害者のことを僕は知っている。でも、加害者のことは全く知らない。お前は知っているか?」
「し、知らない……。全然知らない……」
「ああ、そう。じゃあ、誰だと思う? 被害者から見て、どんな関係の人間だとお前は予想する?」

 沈黙で応じようものならば、さらなる暴力が降りかかるとでも思ったのか、遠藤寺は間髪を入れずに答えた。

「多分だけど、父親……」

 顔面を床に叩きつけ、僕は立ち上がる。
 遠藤寺は用済みだ。『戦争の足音』に一刻も早く会わなければ。

「あんたの昔の教え子にやられたって、親父に報告しておけよ。じゃあな」

 捨て台詞を吐き、部屋から走り出た。
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