塵埃抄

母子家庭

　藤井道子はキッチンでニンジンの皮をピーラーで剥いていた。藤井家の本日の夕食は、カレーライス。道子は皮を剥きながら、一人息子の峰男が好きなアニメである『ワンピース』のオリジナルの主題歌を暗唱していた。
　薄っぺらな絆、まるで木村拓哉。義賊を名乗りさえすれば、暴力が許されるなら――。
　突然、道子は右手の人差し指に痛みを覚えた。視線を落とすと、問題の指の側面の薄皮が、爪の真横から指の付け根にかけて、幅五ミリほどの太さで剥がれ、血が滲んでいた。誤ってピーラーで剥いてしまったのだ。
　道子は応急処置として、適当な大きさのニンジンの皮を一枚、ゴミ箱から選び出し、傷口に宛がった。皮はしっかりと患部に貼りつき、激しく揺すっても剥がれない。道子は安堵の笑みをこぼし、皮剥き作業を再開した。
　やがてカレーが完成し、息子の峰男が小学校から帰宅し、夕食が始まった。
　峰男は一心不乱にカレーを掻き込んだ。苦手なはずのニンジンも、普段のように皿の端に選り分けたりせずに、ルウやライスと一緒に食べている。道子は訝しく思ったが、息子の顔を見て合点がいった。峰男はハムスターになっていたのだ。
「母さん、右手の人差し指、どうしたの」
　スプーンを動かす手を止め、ハムスターの峰男が尋ねた。道子は手短に事情を説明した。すると峰男は、いきなり道子の右手の人差し指に噛みつき、食いちぎった。ぐちゃぐちゃ、という咀嚼音がダイニングに響く。
　道子は悲しかった。いくら畜生に成り下がったとはいえ、実の母親の、たった一人の肉親の指を、断りもなく噛みちぎるなんて。
「峰男は、ハムスターになった今でも『ワンピース』は好き？」
　峰男は頭を振った。
「いや、ニンジンの方が好きですね」