塵埃抄

阿波野治

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煩悩

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 窓のない、薄暗い一室。天井の中央から白熱電球とLED電球が一個ずつ突き出ていて、前者のみが灯っている。弱々しい光に照らし出されているのは、床に正座をした、紫色の法衣を着た老僧。胸の前で両手で数珠をこすり合わせながら、蚊の鳴くような声で経を唱えている。
 老僧の後方で扉が開く音がした。足音が老僧に接近し、背後で止まる。新たに光に照らし出されたのは、全裸の、筋肉質の若い男。男は己の男性器の付け根を右手で握り締め、その先端を老僧の頭上に移動させた。そして読経の調子に合わせて、性器の先端部で禿頭を叩きながら、野菜の名称を口頭で羅列し始めた。
「トマト、大根、キャベツ、白菜、ゴボウ、水菜、キュウリ、ブロッコリー、ニンジン、ネギ……」
 男性器で頭頂を叩かれながらも、老僧は何食わぬ顔で経を唱え続けている。
「ミニトマト、レタス、ナス、プチトマト。フルーツトマトに、えーっと、ほら、あれ。ミニトマトと普通のトマトの中間のサイズの――そう、ミディトマト!」
 男の首筋を一粒の汗が滑り落ちた。禿頭を叩くリズムは早くも乱れ始めている。
「ドライトマト、トマトピューレ、虫が食ったトマト。東北南部の太平洋側で栽培された放射性物質二割増しのお買い得トマト。それから、えーっと、それから、それから……」
 男の言葉が途絶えた。裸体が小刻みに震え始める。
 男は男性器から右手を離すと、両手で頭髪を掻きむしり、取り乱したように「うわぁー!」と叫んだ。老僧に背を向け、猛然と部屋を飛び出す。
 扉が閉まると同時に、老僧の読経が終わり、天井のLED電球が明々と灯った。老僧は静かに腰を上げ、部屋の隅に置かれている小机に歩み寄り、一番上の抽斗を開ける。
 抽斗の中には、色も形も大きさも様々なトマトがぎっしりと詰まっている。
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