ベアトリーチェ以外、いらない。

阿波野治

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西洋人形

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 愛車にいよいよ近づいたからだろう、母親の足が少し速まった。数秒後には、細かな水飛沫が肌に感じられるまでになった。
 母親は、白い軽自動車を真っ直ぐに見据えながら歩を進める。しかし、水に濡れたくない無意識の欲求が作用を及ぼしているらしく、噴水を避けるように緩やかに弧を描く軌道だ。それでも私の体や母親の体には、断続的に水飛沫がかかる。移動距離をなるたけ短く抑えたい下心が影響し、避け方が中途半端になっているらしい。
 肌に水気が感じられなくなった時、白亜の軽自動車は私の目の前にあった。フロントガラスを除いた車窓全面にスモークフィルムが貼られていて、中の様子は窺えない。
 母親はまた少し足を速めて愛車に到達し、運転席のドアの前へと回り込む。運転席のドアの鍵が開かれ、ドアが開かれる、運転席に座り、ドアが閉ざされる。ドアの鍵が開けられ、ドアが開け閉めされた事実は音で、座席に腰を下ろした事実は、人体の重みの分だけ車体が沈んだことで、それぞれ把握できた。
 後部座席左側のドアノブに右手をかけた瞬間、エンジンがかかる音が聞こえた。慌ててドアを開いて座席に滑り込み、ドアを閉ざす。
 車内には嗅ぎ慣れない匂いが充満している。新車特有の匂いではなく、特定の個人の体臭だ。特定の空間に固着した匂い特有の他人行儀さを帯びていて、母親のものと断言するのには躊躇いを覚える。
 母親がシートベルトを締め、私もそれに倣う。かちり、という装着音を合図に、軽自動車は走り出した。
 走行中の安全確保のための処置を完了次第、車窓越しに外の景色を確認する方針だったのだが、変更を余儀なくされた。後部座席の右側、即ち私の右隣に、三歳児ほどの大きさの人形が座っているのを認めたからだ。
 私や母親と同様にシートベルトを締めているが、むしろ締められていると言うべきか。頭髪はくすんだ金色。ドレスはショッキングピンク。肘から先と膝から先が剥き出しになっていて、四肢はか細く青白い。瞳は青く、顔立ちは西洋人のそれだ。薄く紅を引いた唇は微笑みを形作っているが、目は笑っていない。傷や汚れの類は認められず、新品もしくはそれに近い状態と見受けられる。
 母親に人形やぬいぐるみを愛でる趣味はない。四十代を迎えるまで、他人から二十代前半に見られるほど若々しい顔の持ち主ではあったが、少女趣味は持っていなかった。少女時代には、その年頃の少女相応に人形やぬいぐるいを愛していたのかもしれないが、彼女はもう五十代だ。人形やぬいぐるみを現在進行形で過度に愛している事実を秘匿したいと本人が望み、実践している可能性もあるが、同居していた二十二年間で、趣味嗜好に関して隠し事の気配を感じたことは一度もなかった。私が実家を出てからの五年間のうちに、人形やぬいぐるみに対する愛情が突如として芽生えた、あるいは再燃した可能性も考えられる。しかし、大人になってからの突然の趣味嗜好の変化は、特に中年以降、生活のルーチンがある程度固定された中においては現実的ではない。少なくとも、二十七歳という、大人ではあるが中年とは言い難い年齢の私にはそう思える。
 仮に中年になってから人形趣味を獲得したのだとすれば、そのきっかけは何だったのだろうと考えて、真っ先に浮かんだのが私の独り立ちだ。
 私は大学には実家から通っていて、一人暮らしを始めたのが社会人一年目、満年齢二十三歳の四月のこと。赤ん坊の頃より二十二年あまり、共に暮らしてきた我が子と離れ離れになったことで、母親の心には深い穴が開いた。それを補填するために、一体の西洋人形を我が子の代替とした。
 まるでB級ホラー映画だ。母親が私に愛情を抱いているのは確かだが、溺愛しているわけではない。我を忘れて特定の人物や事物にのめり込むタイプではない、ということを考え合わせれば、私を含む何者かの代わりとして西洋人形が抜擢された、ということではないはずだ。
 ただ、シートベルトを締め、あたかも一人の人間のように座席に座っている姿を見る限り、単なる人形を超えた存在として扱われているとしか思えない。
 人形の良し悪しを判別する目を持たない私は、隣に座る西洋人形の価値を見極められない。顔の造作の精巧さなどは、素人目にも感心させられるが、アンティーク品として高い価値がある代物なのか否か。高い価値があるのだとしても、人形に興味を持たず、物事に熱狂することが少ない母親が、あたかも一人の人間のように扱っているのは合点がいかない。
 母親は、後部座席右側に座る西洋人形の存在には気がついていないのかもしれない。西洋人形は見知らぬ誰かの手によって密かに用意され、後部座席左側に座らされ、シートベルトを締めさせられた、というわけだ。母親の事物に対する執着心の希薄さを考慮すれば、第三者の犯行説は有力に思われる。
 しかし、よくよく考えれば、西洋人形の存在に全く気がついていないという解釈は不自然だ。運転席に乗り込む際に、ドレスのどぎついピンク色が視界の端に映らなかったはずがないではないか。
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