ベアトリーチェ以外、いらない。

阿波野治

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ビキニ

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 階段まで二メートルを切ったところで、不意に何者かと接触した。ぶつかった際の感触が人体とは異なっているようで、確認のために振り向く。双眸に飛び込んできたのは、ピンク地に真っ赤な苺が散った浮き輪。輪の中に収まっているのは、ビキニタイプの、浮き輪にプリントされた苺と同じ、鮮やかな赤色の水着を着た十二・三歳の少女。自らの浮き輪に私がぶつかったことを気に留める様子もなく、私を一瞥することさえなく、水流に乗って先へ進んでいく。顔は見えなかったが、檸檬色のゴムで、少し茶色がかった黒髪を後頭部で結んでいる、という情報を掴むことができた。
 柑橘系の淡い芳香が鼻先を掠めた。檸檬色の鮮やかさが連想させたのではなく、少女の髪の毛から漂ってきたものらしい。水に浸かるというのに、わざわざ香料をつけたのだろうか。それとも、昨夜のシャンプーの名残か。本人に問うてみれば、瞬時に解決に至る可能性が高い謎ではあるが、彼女は最早、私の目が届かない場所にまで行ってしまった。
 少女にまつわる謎はもう一つある。私は彼女を十二・三歳だと判断したが、その年齢の少女が、ビキニなどという露出度が高い水着を着るものだろうか。
 苺柄の浮き輪からは子供っぽい印象を受けたが、案に相違して派手好きなのか。恋人、もしくは片想いの相手と一緒に市民プールを訪れていて、自らを魅力的に見せるために、あるいは露出度を高めることで手っ取り早く心を掴むために、羞恥の念を抑えつけて着ているとも考えられる。
 それとも、彼女のような年齢の少女がビキニタイプの水着を着てプールに出かけるのは普通ではない、という私の認識が誤っているのだろうか。十年一昔と言われているが、少女が中学生だと仮定すれば、私とは確実に十歳以上離れている。私の年代の人間には、中学生になるかならないかの年齢の少女がビキニを着るのは早計というのが常識でも、彼女の世代の人間にとっては非常識なのかもしれない。私は先程まで、四十歳前後に若返った父親の背中を追っていたが、少女からすれば私は、現在の私から見た四十歳前後の父親に相当する年齢差がある。
 私も歳を取ったものだ。つい五年前までは、実家で両親と同居しながら大学に通っていたというのに。
 心中で嘆息したのと、流れるプールから上がるための階段の一段目に右足をかけたのは、ほぼ同時だった。
 清掃は毎日行っているはずだから、藻の類が付着しているはずはないのに、足の裏がどことなくぬめるようだ。鉄製のスロープにしっかりと掴まりながら、慎重すぎるほどに慎重な足取りで階段を上がる。
 その最中、先程の少女は一見少女に見えるが、実際には女性と呼ぶのが相応しい年齢に達していて、だからビキニを着ていたのかもしれない、という考えが忽然と浮かんだ。
 しかし、それ以上の考察は実施しない。階段を上り始めた時点で、プールの中で起きた出来事は全て忘れてしまおう、という気分になっていたからだ。赤いビキニの少女だけではなく、四十歳前後に若返った父親のことも。
 理解不能な出来事に立て続けに襲われ、混乱しているのは理解できるし、同情もするが、冷静になって考えてみろ。お前の目的はベアトリーチェに到達することだ。それを失念してはならない。軽視してはならない。常に胸の中央に固定しておかなければならない。
 ベアトリーチェに命を助けられたのだから、絶対に無駄にしてはいけない。到達されることを望んでいるからこそ、彼女は私を助けたのだから。
 自惚れだとしても、勘違いだとしても、それで構わない。そう思い込み、信じ込み、原動力にしよう。
 若い女性という共通点を持つにもかかわらず、ビキニの少女はベアトリーチェの変形かもしれないと考えなかったのは、なぜなのか? そのような疑念が脳裏を過ぎったが、黙殺した。
 階段を上り切ると共に足を止め、周囲の状況を確認する。三十メートルほど進むと、左手にコンクリート造りの平屋の建物が建っていて、多くの人々が出入りしている。そちらへ向かって歩き出す。
 空は文字通り雲一つない快晴だ。私が現在歩いている場所は日向に該当している。コンクリートの地面は、絶え間なく降り注ぐ太陽光に熱せられているはずなのに、裸足の足の裏に耐えがたい熱さは感じない。想定していたよりも、目的としている建物との距離が縮まる速度が速いように感じられるのは、水中ではなく陸上を歩いているからか。
 流れるプールとは別のプールが右手に見えた。一見、学校に普通に設置されているようなプールだが、小学生では足がつかないほど深い。さらには水の青色が不自然なまでに濃く、殆ど藍色だ。透明な水に器の色が反映されているのではなく、水自体がその色に染まっているらしい。
 藍色は見れば見るほど毒々しく、泳いでも大丈夫なのだろうかと、他人事ながら心配になる。注意書きが記された看板は周囲にはなく、侵入を防ぐためのロープは張り巡らされていない。何人かの人が泳いでいて、プールサイドにいる水着姿の人々は悠然と構えているが、色彩という観点からは、生物にとって有毒な物質が溶け込んでいるとしか思えない。
 水質に問題はないのだとしても、水深の深さに対して注意喚起しなくても大丈夫なのだろうか――と心配は絶えないが、所詮は他人事だ。視線を進行方向に戻し、緩んでいた足取りを復調させる。
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